| [3241] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第16回 |
- 信徒連合 - 2016年05月16日 (月) 08時59分
開祖・谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――
@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』
A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』
★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。
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<再掲載>
インターネット道場
「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々
第16回
小林春恵先生
「導かれて八十余年」
<その三>
「わが信仰の旅路」より
としを越えて―奇縁
ここで、夫・小林昭三と結婚した頃のことや、小林の母――私の姑(しゅうとめ)のことについて、お話し致します。
お母さんと言えば、昭三さんと私を結婚させて下さった姑(はは)のことが、一番に思い出されてまいります。その時分、私は新潟県の加茂で、鍼灸、マッサージの電気療術などをしながら、自宅で生長の家の集まりをしておりました。
当時は、男女の別なく一緒に集まる誌友相愛会でございましたので、旧制高等専門学校の生徒だった昭三さんも集まりに来ておられたのでした。
それから、どのくらい経ってからか進駐軍からの衛生法がやかましくなりまして、年に一、二回の医学講座を聴かねばならないことになりました。
ところが、同業組合の人達は眼の見えない人が多い。その人達を置き去りにして、眼の見える私だけがトントンと汽車で長岡に行くことはできないような気がして迷っていましたので、昭三さんに話したのです。
「小林さん、こういうわけで、私一人行くのも気が咎めるし、さればといって、あんな多勢の人を私一人では、よう世話してあげようもないし……」
「先生、それじゃ僕が、お手伝いしてあげますよ」 「でも、あんたは学校があるでしょう」 「僕が原書をとって調べていますからどこで勉強しても同じですから、差し支えありません。お手伝いしますよ」 ということで、当日は眼の見えない人達を珠数(じゅず)つなぎに手をつながせて道の端を歩いて駅まで行きました。
駅では線路の向こう側が長岡行きのホームなのですが、小林さんは早速、駅員さんにお願いして、自分の背中におんぶした一人一人を線路を渡って連れて行ったのです。体格のいいひとですから、ヨタヨタすることはありませんでしたが最後のおんぶしたおばさんは、いま思い出しても気持の悪いような、ブクブクと肥りすぎていて、眼の縁は赤く爛(ただ)れて、その閉じた眼から膿が出ているようだし、着物の襟は汚れ放題だし、頭にはまるで白髪のようにシラミの虫の子が着いていたんです。
“汚い人やなあ”と私は思いましたが、昭三さんは何の問題もなさそうにしてその人をおんぶして行ったのです。 それをじっと見ていた私は、学生は生意気のように思っておりましたのに“この学生さんは、なかなかたいしたもんだなあ”と思うたのでした。
やがて会場の赤十字病院へ行った時、盲人さんたちが便所へ行こうとすると昭三さんが素早く見つけて、寄り添うように連れて行って、また元の位置へ連れ帰る。その間は、後の席で勉強していられるわけなんです。
私は、その姿を見ました時から、“こんなに素晴らしい深切な優しい男の人があるものだろうか”と思って、自分は昭三さんより歳が二十も多いものですから、初めから恋愛だのとは考えてもみませんでしたけども、“この世で良いことだと思うことなら、どんなことでもして、次の世代には、小林昭三さんのような人と夫婦になりたい”と思うようになりましたのです。
来世に托して―みそぎ
そう思いましたせいか、その後の私には色々のことがございました。 或る家に養子をもらわれた良一という子がいましたが、“先天性の結核だから、後五、六年も生きるのが精いっぱい。もしも脳膜炎になったら大変だから、今のうちに帰した方が好い”と医師に言われたらしいのです。ところが、生家にも帰れない事情がありまして、宙ぶらりの惨めな状態だったのです。
私は“五、六年で死ぬのなら、大したことはない”と思って、さっさと自分の籍へ入れてしまいました。そして身体の弱い良一を育てることに夢中でした。咳で苦しんで泣くたびに、また“この子が罪障消滅して、愛と保護を必要とするときに、軒端もないようなことの再びないように。そして、私も次の世では良い親になれるように罪障消滅させていただこう”と思って『甘露の法雨』を誦(あ)げつづけました。
お蔭で、育てたというよりも育ってくれたと思うのですが、見違えるほど元気になって、日いっぱい遊んでくれる逞しい子に育ってきました。 ところが、あるお祭りの日でした。 「おっかちゃん!おっかちゃん!」 人混みの中で、私を見つけた良一が叫んだのです。その瞬間に、思わず私は慌てて周囲を見回しました。“誰かが、私を結婚ずみの女だと思うてしもうたら、もう私をもらいにくる人はなかろう”と、思ったわけです。
それから、私は考えました。“これは一大事だ。良一が成長してから、この子のお蔭で、私は結婚もしなかったなどと、恩を着せるようなことにでもなったら、取り返しがつかない”と思ったのでございます。
こんな思いをしながらも、また一人行き場のない子供を、引き取りました。 「子供の始末がつけば、三角関係の生活が解消できるというのなら、連れて来なさい。一人育てるのも二人育てるのも大したことはあるまいから、私がお世話させていただきましょう」
こう言って、育て始めたのでしたが、幸いに、その子は丈夫で、品の良い器量よしでしたから、すぐに養子にほしい人があって、私の家には何カ月もおりませんでした。
ある日とつぜん―本心
昭三さんが、いよいよ学校を卒業されて、家業を継がれる日も近くなったときでした。急に寂しくなった私は、 「小林さん、あんたが結婚する時は決して邪魔しないから、私のとこへ時々は来てくれませんかねえ」 思わず、こう申したのでございます。
「先生、先生は僕と結婚しようと思うのですか。僕は先生に、そんなことを思ったことは、一遍もありませんよ」 私も、結婚なんてこと考えたわけでもないのに、咄嗟に言ってしまったことが恥ずかしいやら、申し訳ないやらで“ とんだことを言うてしもうた。もうこの人は私のとこへは来ないだろう。来なくたって仕方がない。今後は、そういう感情や言葉は、おくびにも出さないように注意しなければならない”と意識して暮らしていました。
それから、一年か一年半位経ってからだったと思います。昭三さんが突然こんなことを言われました。 「先生、先生は今も僕と結婚の御意志がおありですか」 「私なんか、初めからあんたと結婚しようなんて、思ったこともない……」 「僕は、先生があのようなことを仰(おっ)言(しゃ)ったもんだから、それからは、若い燕型の恋愛、若い燕型の結婚と言うのはどういうところから不幸が生まれるのか思って、暇があると図書館へ行っていろいろな小説や物語を一所懸命に読んでみて“僕なら大丈夫だ”という結論に達しました。先生が今もなお、僕と結婚する御意志がおありならば、母に相談しますから……
私はもう“母に相談する”という言葉を聞いたら、身体中に水をぶっかけられたよりもゾッとして、必死になって申しました。 「昭三さん、お願いだから、あなたのお母さんに何も言わないで。私は何も考えていない。私が悪かったことは、お詫びするから、どうか、お母さんに言うことだけは勘弁して、どうか言わないでもらいたい……」
「いえね、僕は長男だから、僕の意志だけで結婚してはならない。長男だから、先祖の喜ばない結婚は決してしてはならないと思うのです。先祖を代表するのは、母だと思うから、僕は母に話して、先祖の御意志をお聞きしようというわけなんですよ。だから、何ともないでしょう」 こう言われては、もう私はどうすることもできないで、それからの私というものは、寝ても眠っていないのです。
「神様、神様、どうか私をお助けください。私は恥ずかしいことになりそうです。私が悪うございました。 神様、私が小林家の嫁になることが神様の御心であったら、みんなから喜ばれて事が運びますように。もし間違いであったら、この問題の解消ができますように、お護り下さいませ……」
必死になって、お願いしました。仕事をしている時も、食事の時も寝ている時も、お願いしながら“二十も歳の若い男と結婚するなどということは、何と恥ずかしいことか。きまりの悪いことである。もうどうしようもない”という気持ちでございました。
そこへ、三条(小林家の在所)の白鳩会の幹部の方が来られましたので、一寸その話をしましたら、その方は直ぐに小林の家へ飛んで行かれたそうです。
「お母さん、大変だ、大変だ。もう絶対に、生長の家にやりなさんなよ。あんたの生長の家の先生は、息子みたいに若い男と、親が承知すれば結婚するなんて言うてたから……」 「そうかの、そうかの。昭三がその気であれば、先生も幸せになりなさる。そうかの。ありがとうのう」 母が、それだけしか言われないのでその人も黙って、帰られたそうです。
それから、母は昭三さんを呼んで、言われたそうです。 「今、○○さんが来て、こういう風に言うんだが、おかか(母)は、お前が世間が騒がしいから結婚するだの、世間がこうだから別れるだのと世間体を気にしてのことなら、絶対に賛成はできないが、先生と一緒になることで、先生も幸せになり、お前も幸せだというのであれば、親類や工場の人達には全部、好いように言うから、何も心配しないでな。今は時節が時節だから、本当はモンペでも穿いて結婚式をしても好いようなもんだけど、先生が歳をとっていられるから、みんなから“ひっ付いてたの、くっ付いてた”なんて言われてもかわいそうだから、ちっとぐらいは家にとって晴れ晴れしい結婚式をすることになるけれどもな。 とにかく、すぐに、先生が旅(講演)から帰って来られる日を聞いて、式の日を定(き)めて “その日は、何の支度もせんでええから、すぐ家にくるように”そう言うて来なさい」
私には、びっくり仰天の忘れられない日でございました。
似合いの夫婦―順縁
当日(それは、昭和二十四年五月九日でございました)、小林の家の玄関を入った私は出て来た昭三さんの姿に、すっかり気おくれしてしまいました。
学生服姿しか見たことがなかった昭三さんが、磨き大島の着流しで、髪もきれいに刈って、天晴(あっぱれ)な花婿ぶりなのを見ましたら、咄嗟に母の後にピタッと隠れてしまいました。
チンチクリンに背が低くって、お粗末な身なりをしている私が、とても恥ずかしゅうて、きまりが悪くて…… 「お母さん、ダメだ、ダメだ。似合わない。似合わない。ダメでございます」 「何ともない、何ともない。心を観る者が見れば、最も似合いなんだからのう。神主さんも待っていて下さるんだから……」
母に励まされて、案内された部屋で花嫁支度をしてもらいました。化粧などしたことのない私が、頭に花を飾って白粉つけて、口紅さしてもろうたら、お人形さんのようにかわいかったので、私の方がびっくりしてしまいまして…… 「あれ!かわいだこと、かわいだこと。お母さん、お母さん、見てみて、こんなにかわいいだから……」 「ああ、かわいらしい、かわいらしい」 母につづいて、手伝いに来ていた人達も、こう言ってくれました。 「ほんにかわいげなもんだ。女子(おなご)は、支度ひとつで、別になるもんだね」
結婚式のお盃をすみました後で、私と一緒に良一も小林家に入籍ずみの書類まで見せて頂きました。歳が違っているから心配すると思われてか。何から何までの心遣いに、私は感謝で胸がいっぱいでございました。
滞りなく終わって、みなさんも帰られてからですが、それまでは私のことを“先生”と呼んでいた昭三さんが、 「春恵、早く花嫁支度をとって、母の手伝いをしなさい」 こう言われました。
「ハイッ」 思わず私が答えましたら、それまで小林さんと呼んでいた良一が突然、 「おとうちゃーん!」 と叫んで、昭三さんの首っ玉へかじりついたのでございます。 「おお、良一か!」 一瞬にして、私は「春恵」になり、一瞬にして、主人は「お父ちゃん」になりまして、一時でも子供が父と呼ばないなどというような思いは、全くいたしませんでした。話すたびごとに、有難涙が止まらない思い出でございます。
ですから、私にとりまして母は(私より歳が一つ下でいられるのですけれども)いついかなる時でも、母の座にキチンといられました。そして私はおのずから嫁の位置でございました。
寿命はかりがたし―桜花
私達の結婚話に、初めから賛成した人はいなかったそうです。四十過ぎた女は黄昏どき。これから男盛りになる昭三さんが哀れだというわけです。
母の見事な答えを聞いて“昭三さんが偉いかと思ったら、お母さんが偉い。誰が十五年、二十年先を言い当てることができよう。そんなことは用のないことだった”と、あとになって周囲の人たちは納得したそうです。
お蔭で、私は親類との間も、工場の人達との間も、肩身の狭い思いをしないで、そのまま似合いの夫婦ということになって行ったのでございます。
やがて、神様は早くも主人をお引き取りになりました(昭和二十七年九月二十八日でございました)期せずして、先のことはわからないと言った母の言葉は当たったわけでございます。
谷口雅春先生が『眞理』第三巻の「新たに生れる自覚」という章で「人間は物質に非ず、生き通しであるあと云う確かな証拠」と題されて、主人の昇天のことをお書き下さっていますので、併せてお読み頂ければ、結構でございます。
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