| [4538] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第89回 |
- 信徒連合 - 2016年08月11日 (木) 08時46分
谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――
@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』
A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』
★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。
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平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より(36)
<ツポにはまった唯一言>
寺田先生が高岡市の伏木で話して下さった時は、玉川町の松吉さん宅でお宿を願った。夏のあつい晩であった。松吉さんは、かねて寺田先生がお酒をお好きなことを知っていられた。
「先生、お酒にしましょうか、ビールにしましょうか?」 松吉さんの問いに、寺田先生は、澄まして答えられたそうである。 「両方とも……」
これには、松吉さんは困ったというのである。寺田先生は、酒はたしなまれるが、強くはない。精精コップに一杯で 話に油がのって、調子よくなられる。ちょっとすぎると、話がまとまり難くなる。
松吉さんは、困ったと思ったが、仕方がない。両方もって来いと言われて、ビールを半分というわけにも行かない。両方もって行ったというのである。すると、案の定、夜の講話がまとまりが悪くなってきて、松吉さんは内心ハラハラしていたというのである。それでも、ともかくも2時間の講演が終わった。松吉さんが、やれやれと思った時、質問を願い出た婦人があったのである。
「寺田先生、私の夫はお酒が好きなのです。毎晩外でお酒を飲んで帰っても、家に帰ると、また酒がほしいのです。どうしたらよいでしょう?」
酒好きで、今晩はちょっと飯みすぎたお酒のせいで、話がいささか、ぐるぐる廻りをしている寺田先生には、ちょっと皮肉な質問なのである。おかしくもあり、興味をもって寺田先生のお返事をまっていると……
「フーン、酒か、のませ、のませ!」 これで、終わりだったそうである。松吉さんは、驚いて「これでは苦情が出るだろう」と、気が気でなかったという。ところが、もう一人、中年の男の人が立ち上がった。
「寺田先生、私は、生長の家の教えに導かれて5年になりますが、なかなか悟れません。どうしたらよいでしょうか?」 「もっと『生命の實相』を読みなさい!」
こんども、これで終わりだった。松吉さんは、いよいよ困った。これでは、必ず苦情が出るに違いない。家でお宿をさせてもらった時に、こんなことが起こったのは、何という災難なことだ、と限りなく悔まれた、と言われたのであった。
ところが、その翌朝である。松吉さんは4時頃に目をさまして、寺田先生のお寝みになっている部屋の廊下を通ると、いつ頃目を覚まされたのか、もう机の前で読書していられた。寺田先生は、なかなかの読書家ときいていたが、「やっぱり偉い方なのだなあ!」と思った、と言われた。
それから、朝の食事のお給仕をしていたところへ、前の晩に酒の問題を質問された奥さんが、やって来られだ。そして、何とも言えない丁寧な態度で、言われたそうである。
「寺田先生、昨夜は、本当にありがとうございました。私は主人のお酒が苦になり、これまで何人かの先生にお尋ねしましたが、昨夜ほど身に応えたことはありません。先生は『のませ、のませ』とおっしやいました。本当に、そうだった。これまでも『だった一人の主人に、好きなお酒ぐらいは気持よく飲ませてあげましょうという気持になれ』と、何度きかせてもらったことであろう。それなのに、私の業つくばりが……と、何ともいえぬ気持で懺悔させていただきました。主人は、私が帰った時はまだ帰ってはいませんでしたが、今日こそ気持よく飲ませてあげましょうと、待っていました。
それで、主人の足音がした時は、身も心も軽がると迎えることができました。そして『お父さん、一本つけましょうか』と言うと、けげんそうな顔をした主人は『ウン、酒か。今夜は、やめておく』と申しました。私の、いげつなぐ夫の飲酒を審く心が、夫の深酒の原因だったのだと解りました。先生、ありがとうございました。ありがとうございました……」
そばで見ていた松吉さんは、恥ずかしいやら申しわけないやら、穴があったら入りたい気持だったと言われたのである。
ところが、寺田先生のお食事が終わり、食後のお茶になった頃に、昨夜の第二の質問者がお礼に来られだというのである。
「寺田先生、昨夜は本当にありがとうございました。先生は、もっと『生命の實相』を読みなさいと導いて下さいました。私は帰ると『生命の實相』全40巻の前に、静坐し合掌いたしました。
『そうだ。生長の家では、この“生命の實相”40巻が神殿なのだ。この40巻の中に、一切の悩みも解かれてあるし、一切の幸福の道も説かれているのだ。私はこの神殿にぬかずくことを怠っていた。どうも済みませんでした。どうぞ、お導き下さいませ』と、20分ほど神想観をしてから、ヒョイと手にふれた一巻を取り出して、4、5ページ読みますと、そこに、私が日頃悩んでいた問題に対する解決が与えられていたのであります。ありがとうございました」
正直な松吉さんは、前夜の自分の取り越し苦労が恥ずかしくて、それこそ居たたまれない思いだったそうである。
ところで、「フーム酒か。飲ませ、のませ」という寺田先生のお答えは、すべての質問者には通用しないであろう。悪くしたら、「生長の家は、無茶をいう」と言われても、仕方がない。しかし、あの時質問した夫人には、全く的を得た答えだったというわけであろう。あとの質問者の場合も、同じことである。「もっと『生命の實相』を読みなさい」という答えが、あの時の質問者の心境には、1分のすきもなくピタリとはまるものであったに違いない。
寺田先生の指導は、たとえば陰電気のあるところ、陽電気の発生を見るが如く、全くツボにはまっているのだ……と、深く感動させられたことであった。
<極 楽 大 往 生>
寺田先生の昇天は、昭和39年12月22日であった。大阪阿倍野道場の主管をしていられる大崎小松先生が、電話で知らせて下さった。私はとるものも取りあえず、大阪へ馳せつけ、お宅の葬儀ならびに道場葬に参列して、告別させていただいた。
「寺田先生! 平岡初枝でございます……」 弔辞を読みあげるのに、涙がとめどもなく流れて声にならなかった。愛深く、限りなく導いていただいた偉大なる魂の先達に、今生の告別を余儀なくされた名残りは、尽きなかった。
きき及んだ寺田先生の臨終は、全くの大往生であった。22日の午前10時頃、先生は魚屋へ行かれて、新しい魚を見つくろわせられたという。正午になったら、最後の昼食に、お好きだったお酒の一杯を楽しくお飲みになって、一時近くに御不浄に立たれたが、そこでドスンと倒れられた。ちょうどその時、寺田先生が日頃から「要るものはあるもの」と言っておられた通り、親戚に当たるお医者さんが来ていられて、飛んでいかれたそうである。
「寺田先生、どうしました」 「ここが、ちょうどいいのや……」 これが、寺田先生の最後の言葉だったという。何とも寺田先生らしい大往生、79歳であった。
寺田先生の御指導は、いつも真剣。大きな声で、「駄目だ! 亭主を拝め! 女房を拝め!」と、力がはいるので、「寺田先生は、こわい」とか、「先生に叱られた」と言う人が少なくなかったものであるが、亡くなられてみろと、「叱ってくれる人がなくなって、淋しい」とか、「おこって下さる人が、なくなって頼りない」と、口々に別れを惜しんだことである。
寺田先生は、一つでも良い体験が出ると、限りなく喜んで下さった。目を真赤にして、喜んで下さった。忘れられない姿である。私が「病気なし」をわからせてもらった時、あそこにも、ここにも、と連れまわって、体験談をさせられるのであった。
「これは、平岡初枝さんって女子はんだっせ!」 当時は、私のような断髪の洋服姿は少なかったので、いつもこうした紹介ぶりであった。そんなことから、私はとうとう生長の家の本部につとめる日をもつようになったのである。地上に寺田先生はなくなられても、私の心の中には永遠の太陽として輝き、導いて下さっているのである。
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