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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[5161] 《笑止なり!》背教総裁=Aそんなに頭にきたのであれば『新潮45』10月号の出版停止の訴訟を起こすべきです!
サーチャー - 2016年09月20日 (火) 13時07分


<谷口雅春先生に帰りましょう・第二>
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《笑止なり!》背教総裁=Aそんなに頭にきたのであれば『新潮45』10月号の出版停止の訴訟を起こすべきです! (3534)
日時:2016年09月20日 (火) 11時04分
名前:破邪顕正


表題は、背教総裁≠フブログ『小閑雑感』2016年9月18日 (日)付けの“『新潮45』のメチャクチャな記事”を読んでの感想です。

今回の記事は、背教総裁≠ェ如何に理性を失っているかを、はからずも露呈してしまいました。

なぜ、背教総裁≠ヘこんなにも理性を失ってしまったのでしょうか。

それは、『新潮45』10月号に書かれていたことが、図星だったからです!

背教総裁≠ェ、一番、触れられたくないところを、第三者である『新潮45』が抉り出したことに、思わず条件反射してしまった!

そういうことではないかと思います。

背教総裁≠ェここまで感情を剥き出しにして理性を失った文章を書いたということで、これは歴史に残るものだと私は思っております。

後で、削除されないよう、心ある皆さまは、これを“歴史的文書”として保存しておかれたがいいとすら思っております。

前置きが長くなりました。

今回の背教総裁≠フ記事のどこが問題なのか?

4点にわたって整理しておきます。


〈その(1)〉

背教総裁≠ヘこう書きます。

《私も短期間だがジャーナリストとして生活していた経験があるから言わせてもらうが、こんな記事は、私の時代にはデスクの段階でボツになるに決まっている。

「掲載に耐えない」と判断されるのだ。

理由は「客観性」「中立性」がないからだ。》

だったら、同様の理由で『日本会議の研究』もまた“ボツになるに決まっている”ものだったのではありませか。

だって、安東巖先生を黒幕と断じた箇所は、すべて伝聞でしかなかったのですからね。

そのどこに「客観性」「中立性」があるのですか。

『日本会議の研究』は「聖典」扱いにまでしておきながら、『新潮45』10月号はボツにすべきだと宣う。

何と言うダブルスタンダードであることか。

まさしく笑止千万なり!


〈その(2)〉

背教総裁≠ヘこうも書いています。

《私と父の第2代総裁、谷口清超先生との間に「親子対決」があったという事実無根の話だ。

それを言っているのは「犬塚博英」という生長の家の職員だったことのない人物である。》

背教総裁≠ヘ、ここでもまた自ら墓穴を掘ってしまいましたね。

「犬塚博英」氏が生長の家の職員であったかどうかなんて、何でそれが問題になるのですか?

そんなことを言うならば、菅野完氏だって、生長の家の職員ではないわけです。

そんなことを問題にすること自体、実は、背教総裁≠ノとっては、痛いところを突かれたからなのです。

よし、「犬塚博英」氏の指摘したのが「事実無根の話」として、だったら、以下のこと

@自らの退職金問題

A谷口清超先生のお通夜問題

B谷口恵美子先生の幽閉問題

これについてもまた「事実無根」として、はっきりと反論を書かなければ論旨が一貫しません。

果たして、それができますか?!

出来得ないからこそ、職員でもない人が…ということで逃げを打ったのではありませんか。

背教総裁≠ヘ明らかに、この『新潮45』10月号にイラだっています。

そのイラ立ちこそが、背教総裁≠フ弱点の証明になっていると思うものであります。


〈その(3)〉

背教総裁≠ェ如何に自分勝手な解釈をする人かというのが如実に示されているのが、この箇所です。

《冒頭で「日本のジャーナリズムは廃れた」という意味のことを書いたが、もっと正確に言えば、「大手ジャーナリズムは廃れた」と書くべきかもしれない。

なぜなら、『週刊 金曜日』という週刊誌は、日本会議と生長の家との関係について私にきちんと取材し、今年8月5日−12日合併号と同月19日号で公平な記事を書いてくれている。》

背教総裁≠ノとって「公平な記事」というのは、まるで、自分のいいたいことを全部、掲載してくれることを指しているようです。

そういうのは、一般的には、「ヨイショ記事」というのであって、決して「公平」とは申しません。

背教総裁≠ヘ、以前、こういうことを言っていましたよね。

ジャーナリズムというのは、ときとして、取材相手を怒らせるんだ。

怒ったときに、相手のホンネがでるからね。

その点、『週刊 金曜日』はどうですか。

背教総裁≠怒らしていますか。

ただ、背教総裁≠ニ意気投合して、ヨイショ、ヨイショに徹しているだけではありませんか。

そんなヨイショ記事をさして、背教総裁≠ヘ「公平」という判定を下すのかと、それにも正直、ビックリした次第です。

自分をヨイショしないものは「公平」と見なさないなんて、それこそ、背教総裁≠ェ嫌いな“カルト”精神構造そのものではありませんか。

他人のことはよく見えても、こと自分のことになると全く見えなくなるのかと、背教総裁≠見ていてそう思ったのは決して私一人ではないのではないでしょうか。


〈その(4)〉

背教総裁≠ェ悔し紛れにこう言っているのも、実に興味深いものがあります。

《このように、藤倉氏のトンデモ記事について私の言いたいことはいくらでもあるが、時間のムダ遣いはしたくない。

読者にはとにかく「読む価値のない記事」であることを知っていただき、間違っても「880円」をムダにしないでいただきたい。》

ということは、『日本会議の研究』や『週刊金曜日』を読むのは、どうも「時間のムダ遣い」ということではないということのようです。

それはともかくとして、そんなに「トンデモ記事」というのであれば、背教総裁≠ェ大好きな訴訟に持ち込むべきではありませんか。

だって、「トンデモ記事」で生長の家総裁並びに“SNI教団”は、その名誉を甚だしく“毀損”せられているわけですからね。

現に『日本会議の研究』は名誉毀損で訴えられ、裁判沙汰にもなっているわけです。

本当に「トンデモ記事」「メチャクチャな記事」というのであれば、背教総裁=Aぜひ、ここは裁判に訴えるべきです。

そして、何が真実であるのか、それを裁判という場で明らかにしていただきたいと思うものであります。

ともあれ、この『新潮45』10月号が投じた一石は、今後、大きな波紋を呼ぶと思われます。

否、波紋を呼ぶよう、その波紋が更に広がるよう、私たち自身の力で大きなうねりになるようしていきたいと思っております。

微力ながら、私もその一翼を担いたいと決意しているところです。
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