| [5361] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第136回 |
- 信徒連合 - 2016年10月14日 (金) 13時01分
谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――
@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』
A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』
★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。
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藤原敏之先生「全てを癒やす道」より(12)
地上天国建設の基礎
空理空論に権威はない
生長の家の御教えが地上天国建設という大理想と目標を掲げて運動しているのは、暴力革命や犠牲者を出さないで、病気で苦しむ者や、貧乏で苦しむ者、家庭や子供の問題で悩むような人のない楽園を実現することであり、最高理想の世界を建設することにあるのであります。それが単に理想として掲げているだけでなく、着実に一歩一歩実現しつつあるのであります。立派なことや感心するようなことを書いたり言うだけなら幾らでも出来ます。が、それでは何らの権威もありません。空理空論に終わり、ホラ吹きとしてのそしりを受けるだけであります。
何でも言うからには、それだけの事証が現れ、正しいことの証しがなければ何の意味もありません。死んでから行ってみなければ判らないような、天国や極楽がどんなに立派であっても、今、生活している人間にとっては無縁のものとなります。私達は今生きていて今現実に生活しているのであります。その生活が苦しくて悩んでいるのに、それは仕方がないから諦めろ、その内に楽にしてやるから今は辛抱しろでは、有難いと思いません。
あくまでも正しい宗教は実生活と一致していなければなりません。今を救えないものが、先の方だけ救うということは出来ない相談であります。今救われるからこそ、今々の続きである未来も救われることになります。
人生の目的(生活)と宗教が別々のものであっては真の宗教とは申されません。単なる物語に過ぎません。それは丁度料理の説明や栄養の分析や作り方や食べ方を上手に教えて貰っても、ちょっとも美味しくもならず、また空腹が満たされないのと同様であります。今お腹が痛くて狂いまわっている病人に薬を与えるのに、それを吞んだら4、5年もすればお腹の痛いのが治るからと言ったら、誰が高いお金を出してその薬を買う気になりますか。
ここに宗教界の大きな問題があります。今地球上は唯物論に基く文化や経済の発展だけが果てしなく続き自由主義だ、共産主義だ、保守だ、革新だと血を流してまで闘わなければならない現実を見るとき、本当のこと(真理)をお知らせすることの出来なかった宗教家に一大責任があると痛感する次第であります。
すべて、大は国と国との間の紛争や個人同士の争いやあらゆる悩みや苦しみの根源は価値観の間違いから起るのであります。物を基準にして値打ちを決める価値観、形に現れた条件を比べてみて値打ちを決める相対価値だけをもとに繁栄や幸福を求めて努力するのが、今の世の中であります。
ところがその考え方が根本的な間違いでありますから、努力すればするほど逆の結果が生まれているのであります。このことに気付かれたのが釈迦であり、キリストであり、生長の家の総裁谷口雅春先生であります。
病気になったり、事故や災難に遭ったり、失敗したり、人と喧嘩したり、戦争したり、困ることや心配な出来事がどうして起るか、幸福を願って努力しながらどうして不幸になるのかが全然解らないからであります。不幸な運命が訳も理由もなく偶然やって来るとか、悪い相手の仕業であるとか神様の機嫌の取りようがまずくて神罰を蒙ったとか、神様の求めている条件にそわなかった罰でこうなったとか考えるのは全くの間違いであります。本当のことを知らず、真理(法則)を知らないために現れたものであると覚らなければなりません。この根本問題が解決せられない限り真の平和も幸福も断じて来ないのであります。
時と場合によってまた条件によって変わるような値打ちや、価値も本物ではありません。まるで夢のようなものであります。夢はたとえ善くても夢であり、悪かったところで夢であります。物や条件を追い回している限り、物や条件は常に移り変わるものでありますから、一定しません。常に不安定であり、何時も心配が絶えないのは当然であり、絶対に安心は得られません。この心配がなくなるのが、極楽であり、天国であります。それには移る変る現象を相手にせず、変ることのない本物(実相)に目をつける以外に方法はありません。このことを解り易く説かれているのが『生命の實相』であります。
共産主義か 生長の家か
終戦後間もない頃、私は山口県で地方講師をしておりましたが、山口県は炭田地帯であり、当時炭鉱ブームで、あちらこちらと大小沢山の炭鉱で賑わっておりました。マッカーサーの占領政策として戦時中、圧(おさ)えつけられていた革新的な思想の人達、共産党員を刑務所から解放しましたのでその人達が、炭鉱で無理な労働を強いられている人達に、共産党こそ労働者を解放して、資本家の持っている富を平等に分配して楽に暮らせるようにしてやる救いの神様のように宣伝しましたので、労働者の人達がわっと飛びついてゆかれ、あっちでもこっちでも赤旗の波が押し寄せたのであります。
反面、勝つと信じていた戦争に負け、何を信じ何を頼りに生きてゆけば良いか判らなくなった大衆は、共産党にも着いてゆけず、他に信じるものも生きる方針も失った人達が、生長の家という新しい教えを求めて、ドッと集まって来られたのであります。生長の家ブームとでも申しましょうか、生長の家の講演会と言えば、どこでも満員の盛況でありました。
共産党の人達はそれが面白くなく、また邪魔になったらしいのであります。到る所に何百軒とういう炭鉱の社宅があり、そこの会館で講演会を開きましたが、そこに必ず何人か共産党の方々が来ておられるのであります。何の目的で来られるかといいますと、妨害することだったのです。
前に立って講演しておりますと、一目で“ああ、この人達は共産党の人達だな”とすぐ分るのであります。一番後ろの方で、足を前に出し、後ろに両手をついて、身体をそらして、半分寝たような格好で聴いておられます。これは明らかに、求めて来ておられないことが直ぐに判るのであります。私はそれと判りましても、我関せずで喋っておりますと、途中で必ず「質問、質問」と言って手を挙げられます。これは、議論を挑んで話の腰を折り、講演が出来ないようにしてやろうという魂胆であります。それに乗ぜられたらお終いであります。
私は「ちょっと待って下さい。今お話の最中です。この多勢の方々は生長の家の話を聴こうと思って来ておられるのです。あなたと私の議論を聴きに来ておられるのではありません。逃げも隠れも致しません。後でゆっくり納得のゆくまでお相手致しますから、最後まで残っていて下さい」と制しますと、喧嘩にならぬと思って途中で帰っていく人もあります。後まで残っている人は、私が「さあ質問して下さい。何が聞きたいのですか?」と水を向けますと待ってたとばかり、「生長の家は共産党をどう思いますか」と聞かれますから「どうって、素晴しいと思いますよ。生長の家も同じですよ」と言いますと、「そんなことはないでしょう」と言われます。
「いや同じですよ。共産党の皆様は貧乏で苦しんでいる人達を、みんな幸福にしてあげようという目的で運動しておられるでしょう。生長の家もそれと同じ目的ですよ。生長の家も同じように、苦しんでいる人達を幸福にしてあげようという目的で運動しているのです。共産党の人も、共産主義の社会にして金持ちや貧乏人という差別をなくし、平等にするために革命をしようとしておられるのでしょう。生長の家も、本当の共産主義の世界にする目的でやっているのですよ」と話しますと、拍子ぬけしたような顔をしておられます。
真に平等を決めるもの
「目的は同じでありますが、ちょっとだけ違うところがありますよ。それは神を認めるか認めないかの違いであります。共産主義者は神を認めず物質の存在だけを認め、一切の富を国有にして、私有財産を一切認めず共有にして、みんなを平等にしようというのでしょう。個人の所有を認めず共有にするという点は全く生長の家と同じであります。生長の家は国有を今一歩高いところにの神様におくのであります。一切のもの、悉く神のものとして、神様にお返しして、神様からのお預かりものとして、大切にし、自分のものといっては何一つ認めない教えでありますよ。この肉体までも神様からのお預かりしたものとして拝んで使わせて頂く教えであります。共産党でいう共産主義では神を認めませんから物の方が基準となり、どうしても個人というものがあり、個人がある限り何処までいっても相対であり対立であります。真の平等ということはありません。
生長の家は神だけの存在を認めてそれ以外はすべて否定してしまいますから、私有も国有もない、神一元論でありますから、真の平等となるのです。要は神を認めない相対的な共産主義化、神を認めたところの本物の共産主義であるかの問題ですよ。神を認める認めないのは各人の自由意思でありますから、どちらが善い悪いとは言えません。ただ、いわゆる共産主義では本当の平等や平和は絶対に来ないことだけははっきり言えますよ」
と申しますと、何も解らずに新しい風潮に同調して騒いでいるだけの連中でありますから、どちらも同じだ、神を認めるか認めないかだけの違いだと聴かされて何も言うことはなく、黙って帰って行くような場面に何度も出会いました。
このように生長の家こそ真の共有であり、共産であります。神を認めない共産主義など供まで行っても悪平等であり、不足の原理であり、本当の満足も喜びも生れる道理がないのであります。唯物論は相対論であり、相対論には比較がつきものであり、比較のある限り、本当の満足は生れません。満足のない所に幸福はありません。相対世界には革命はつきものであります。どんなに制度を変えてみても常に権力者があり、権力がある限り闘争の繰返しであります。闘争から天国は断じて生れません。真の平和からのみ天国も平和も生れるのであります。このように考えるとき、生長の家の唯神実相哲学による以外に人類の平和も解放もないことが解るのであります。
すべてが神であり、神以外の物や人間が有る限り絶対ではなく相対でありますから、永遠性はなく必ず変化があります。変化するものは実在の存在ではなく本当のものではありませんから、不安が去らないのであります。今の楽しみはやがて苦しみに繋がり、今の喜びは必ず悲しみに繋がるのであります。そのようなものを追い求めていたのでは本当の救いとはなりません。
繰返しますが、生長の家は神以外の何ものをも悉く否定し切る教えであります。全く神一元論であります。問題解決の鍵は神一元に徹することであり、“神のみ実在“を信ずることであります。
神を肯定し、神の実在を信ずるにはどうすればよろしいかと申しますと、方法は唯一つ、神以外のものをことごとく否定することであります。その第一が自己を否定することから出発するのであります。谷口雅春先生は自己否定の極致が神であるとお教え下さっています。すなわち、自分が無いのが神であり、神でありながら神が現れていないのは、神であることに気付かないからであります。わからないから神でないということはありません。親から何億の銀行預金を遺産として譲り受けていても、遺言書も見ず、誰かが管理していて、当人に知らせてあげなければ、本人は何億円の大金持ちであることを知らず、貧乏だと思って暮さなければなりません。
このように神の子であり、神そのものでありながら、神の子だと気付かなければ、ただの人間として、病気もある、貧乏もあると思い違いし、どうにもならない不幸な自分や、手のつけられない悪い人間も居ると思い込んで勝手に苦しみ続けることになるのであります。
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