| [5447] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第142回 |
- 信徒連合 - 2016年10月20日 (木) 08時53分
谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――
@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』
A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』
★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。
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藤原敏之先生「全てを癒やす道」より(18)
息子と嫁の不和をなげく母上へ
《往信》息子と嫁が不調和で、とうとういたたまれず息子は家を飛び出した。そしてやっと息子が戻って来たと思ったら、こんどは嫁の方が出て行ってしまった。どうすべきか途方にくれている、ご指導を乞う。
《復信》合掌 「一難去って、又一難」とか申しますが、まさに、そのように次々と問題が与えられているようでございますね。御同情申し上げます。
しかし、これは一面からすれば、貴女の魂が高い証拠であります。人生は魂が向上するための修業の場であり、学校のようなものでありますから、その人の魂の向上の程度に応じて、問題が与えられるのです。小学生には小学生にふさわしい教科書と問題が与えられ、中学生には中学生にあった教科書と問題が与えられるように、人生でもその人の魂の程度、即ち、力に応じて問題が与えられるのであります。中学生の教科書や問題は、小学生には絶対に与えられません。高校生の教科書や問題も、中学生には絶対に与えられません。
あなたが次から次と問題が与えられて、一見苦労なように思われますけれども、苦労なのは真理を知らない者から見た場合であります。人間神の子無限力の真理を頂いた者には困難も苦労もないのです。
生長の家のみ教え通り、実相一元、善一元の世界に生れ変り、全てを神様に返し切った者には、悪いものも、不完全なものも一切無いのであります。何が起ってもただ有難い、生きてもよし、死んでもよし、有ってもよし、無くてもよし、すべてよし、これが生長の家であります。
貴女の文面ではどうも、“善いこと”と“悪いこと”があるようでありますが、それは本当の生長の家になりません。現象の世界の出来事は、何が善くても所詮失うのであります。商売がどんなに繁昌して儲かってもやがて置いて行かねばなりません。息子様が貴女の思う通りになって、善くてもやっぱり置いて行くのです。お嫁さんが貴女の願う通りのお嫁さんになっても、どうせ置いて行くでしょう。何も彼も現象はすべてが現象であって実在ではありませんから、永遠性はありません。
貴女が“帰ってくれて有難い”といって喜んでいる息子様でもいつ死ぬかも知れません。もしもお嫁さんが貴女の願われる通り、戻って来て落着いて平和な家庭になり、喜ばれたとしても、その平和、その喜びもやがては失うようになります。現象には永遠性が無く、常に移り変わる影としてある夢のようなものでありますから、そのような安心や喜びは本物ではありません。
生長の家でみ教え頂く幸福とは、現象の条件次第で変るような幸福でも喜びでもないのであります。現象に振り廻されたり、条件(都合)次第で喜んだり、苦になったりするのは、本当の幸福(真理)が自分のものになっていないからです。
まだ貴女は自分を自分だと思い違いしておられるのではありませんか。“人間神の子”ということは話ではありません。ただの文章でもないのです。まごうことなき事実なのであります。貴方なら、そのことがお解りになれるはずです。
信仰とはすべてを神様に返し切る生活であると教えて頂きます。すべてを神様にお返しするとなると、商売も財産も夫も妻も息子も嫁も神様にお返しし、神様にお返しし切ったら神様でありますから、息子でも嫁でも無くなるはずであります。神様として無条件に拝めるのであります。
信仰とは一切を神に置き変え、拝み切り、拝んで仕える生活であります。合掌を通して見たとき、みんなが神様からの賜わりものとなりますから、善いも悪いもなくなります。善いと悪いがあり、心配したり、苦しむのは一切が神様からの賜わりものと知らず、自分の都合に合わせて見たり、考えるから、都合が良ければ有難くなり、都合が悪ければ困るということになります。それでは信仰でも神の子でもありません。そのままで感謝し、そのままで喜ぶのが本物の信仰者であります。
悪いことだと思ったり、悪くなるのではと思い煩っていて善くなることは絶対にありません。唯善のみ──善くなるしかないと堅く信じて感謝し、喜んでいればどんな悪い状態も本来無いから、善くなるのみであります。
息子さんもお嫁さんもみんな観世音菩薩様です。貴女を救うための仏の善巧方便であります。貴女を真理に導くための観音様のお芝居であります。今こそあなたが本当に救われる時であります。善いも悪いもない、無条件の感謝が出来るときです。雨が降るのはお天気になるためであり、日が暮れるのは明日が来るためであります。善くなるしかないのが神のお造りになった世界です。
一つ一つの出来事に一喜一憂するようでは神を信じたとは言えません。それは現象を信じている証拠であります。昨日死んだと思って感謝しましょう。死んでしまえば何もないのです。何もないと思ってみたら、あまりにも恵まれ過ぎていることに気付きます。 再拝
▼思いがけない夫の浮気を悲しむ妻へ
《往信》長年真面目一点張りで、私と子供の為に懸命に働いてくれ、間違い一つなかった主人が、定年退職後近所の未亡人と知り合い、その女性と深い関係が出来、どんなに別れてくれるよう頼んでも別れようとしない。どうしたら、元のように夫の心をとり戻せるか。
《復信》合掌 お手紙を拝読し、事情をつぶさに拝承致しました。ご心痛のほど拝察申し上げ、大変お気の毒に存じます。
あなたの今直面しておられる事態は女としては堪え難いことであり、最も悲しいことと思います。その苦痛を解決し、処理する方法は正しい信仰による以外にはないと確信致します。人間的努力や力だけでは、とうてい乗り越えることは難しいと思います。
あなたがこれを機縁に生長の家のみ教えに御縁を戴かれたということは大変素晴らしいことでありました。今にきっとご主人様に心から感謝出来るようになり、相手の女性にも感謝し、礼拝出来るようになられることと思います。私はそれが良く判るのです。お天気の時に、水蒸気となって天空に上った雲は雨となって降って来なければお天気になりません。雨降りの状態だけを見ておって天候が悪い悪いと思っていることは大変愚かなことです。空の雲が無くなり、カラッとしたお天気になるには雲が雨となって降って来なければ解消できません。今度のことによって、貴女のお家は必ず明るい幸せな家庭となります。
本当にお天気になるために雨降りがある様に、明るい平和な天国のような家庭になるために今度の事件が起っているのであります。決して悪くなったのでも、又悪くなるためでもないのです。
今苦しんでおられる問題は過去長い期間、しかも平穏無事に見え、貴女が得意の絶頂にあった時に用意され、作られていたのです。平常に知らず知らずのうちに蒔いておかれた種が、今生え実ったのです。
人間は誰でも自分の顔が自分で見えないから、どんなに汚れていても、綺麗な積りでいるように、自分の心も自分で判る人はないのです。だから自分では間違っていない積りでいますが、間違っておれば必ず間違った結果が出て驚かなければならないのです。
顔の汚れは鏡を見て気が付く如く、心の間違いは相対する人や環境に現われて来るのです。みんな自分の心の影なのであります。責任を他に転嫁しては成りません。ご主人は30年もの間、貴女を幸せに喜んでもらうことを楽しみに、一所懸命働き続け、耐え忍んで来られたのであります。貴女に喜んでもらうことだけを願って努力せられたのであります。でもあなたはご主人に対して形の上では仕えてこられ妻として尽して来られたと思いますが、ご主人の最も強く求め願っておられる、喜びの表現が足りなかったと思います。心の底から喜んでおられなかったのではないですか。
ご主人はそれがたまらなく淋しかったのであります。その淋しさと、物足りなさが溜り溜っているところに、ご主人に喜びをもって接する女性が現れたので、日頃求めていたものが満たされたので、そのようなことになってしまったのです。
ご主人が本当に求めておられたものは、身体を提供することでも、行き届いたお世話をすることだけでもなく、貴女の誠と愛情と喜びであったのです。このことに満足している男性は絶対に浮気などしないのです。家で腹一杯食べられて満腹している者は、どんなに美味しいものがあっても、誰が見ていなくても、決してつまみ食いしないのであります。平常から腹が空いて何か食べたいと思っているところへ、丁度美味しいものが置いてあり、幸い誰も見ていないとなると食べてはいけないと腹の底では思っていながら、ついに手が出てしまって、つまみ食いしてしまうのであります。男性の浮気や三角関係はみんな、そんなところから起るのであります。
貴女はご主人に心からお詫びしなければなりません。そんなことになるまでに、どれくらい、辛い淋しい思いをじっと我慢してこられたかということであります。被害者は貴女ではなく、ご主人であったことにお気付きになり、心の底から懺悔し、お詫びしなさい。元々ご主人は貴女を愛しておられるのでありますから、必ず元に戻ります。
生長の家のみ教えは、人間はみんな神の子であると教えて頂いています。「悪い人間は一人もいない」このことを信じて下さい。“形が何がどうあっても絶対に不完全な夫はない”と信じましょう。どんなに悪いことがあるように見えても絶対に悪いことはない。結局は善くなるしかない。信ずるのは実相であります。
現象の不完全や困ったものを認めてどんなに神想観をしても、所詮はどうにもなりません。素晴しいご主人を拝み切りましょう。曇って見えない時も、三日月の時も、満月を見るのが神想観であります。相手の女性も拝みましょう。貴女を救うため、真理に導くための観世音菩薩様であります。 再拝
▼姑・息子・嫁の不調和を解決したい人へ
《往信》52歳になる未亡人。夫と死別して15年、ただ一人の息子を頼りに生き抜いて来たが、息子が嫁を貰ってから、どうしても家庭が円満にいかず、悉に嫁といがみ合い、今では息子までが冷たくあたるようになり、頼みの綱の息子と別居しなければならなくなった。嫁をもらって、親子楽しい幸福な家庭を築くはずであったのが、どうしてこんなことになってしまったのか?先祖供養もちゃんとしている。どこがいけないのか、どうかお助け下さい。
《復信》合掌 ご文章正しく拝承。どんなにかお辛いこととお察しいたします。このような問題は、誰が善いとか、悪いとかの問題ではなく、また、どのようにすれば良いというような問題ではありません。
人間に背負わされた宿命とでも申しますか、理解や納得ずくで解決するものでもありません。貴女のお手紙にも書いてある通り、嫁と姑とがどのようにあるべきものかについては貴女にはよく解っておられ、またそのようにするために努力もしておられながら、そのような結果になって悲しんでおられるということは、もっともっと根本的問題があるのであります。
その根本的な問題を解明し、根本的に解決しない限り、どうにもならないことなのです。それは貴女個人の問題というより、人間的といいますか、人間に課せられた業であり、共通した命題であります。
世の中をごらんなさい。夫に取り残され、世にいう後家(未亡人)となり、親一人子一人となり、その子が成人して嫁を迎えて円満に仲良くいっているという家庭は、殆ど無いといってよい位であります。これを見ていても如何に難しい問題であるかということが出来ます。
肉体をもつ人間である限り、みんなが持つ共通の悩みであります。その人間の中でも、特に女性の人特有の業であり、生まれながらにして、持って生れた業です。この宿業とも言うべき難題を解決する道は唯一つ、正しい信仰による以外には絶対に方法も解決の道もありません。
女は生まれながらにして異性、即ち男性に愛情を注がなければ生きられないように造られ、生れついているのであります。それは訳も理由もありません。天性であり、天分であります。だから若くして後家になり、愛情の対象を失った女性の多くが、ヒステリーになり、いらいらしたり、やたらとムカムカと腹を立てたりするのもそのためです。
又長い間、後家暮らしをしていると、だんだん女らしさがなくなり、男性化し、中性化するのもそのためであります。そのように不自然な状態に置かれるから、段々とそのように変化するのです。
ところでその半身であり、愛情の対象であった夫を失いますと、どうしてもその代わりになるものが必要になりますが、家庭の事情その他で直ぐに再婚出来る人ばかりではありません。後家暮らしを通さなければならない場合もあります。その時、ただ一人の男の子がありますと、その男の子(異性)が愛情の対象に変ってしまうのであります。夫がある間は親子としての愛情でありますが、夫亡き後は、表面の心ではそのような馬鹿なことはないと思っておりますが、奥底の心(魂)の方はそんな判断や区別はありません。勿論肉体的ではありませんが、心の世界では結婚していることもあると谷口雅春先生はお説き下さいます。
このように人間には目が醒めている時に働く意志と、無意識の内に自分も気がつかないで働いている心とがあるのです。
息子の結婚によってその愛情の対象となっている子供が他の女性と一緒になるので、表面の心は納得していても、奥底の心(観念))の方は承知出来ないのであります。奥底の方で強い力で働いている心は、猛烈な嫉妬心となって表面の心を突き上げて来るのでこの心と心が争っていることになるのであります。
表面の心では「息子の嫁は可愛い、息子の半身だから可愛がってやらなければならない。」と思いながら、どうしても調和出来ないのであります。ですから、どんなに思いを変えようと努力しても、芯から愛することが出来ないので、訳もなく憎しみの心がもたげて来るのです。
これを解決する道は、肉体人間の自覚から、生命的自覚へ、人間としての自分から神へと自覚を転換する以外に方法はありません。人間対人間の生活からは絶対に解決の方法はありません。
何よりも先ず一番先に解決しなければならない問題点は、あなたご自身が何ものであるかを解明することであります。あなたが単なる人間として自分として生きているとか、神を離れて自分があると認めておられる限り、人間界の法則に縛られ、因縁因果の法則から一歩も脱け出すことは出来ません。それではどうにもなりません。あなたがどんなに努力せられても根本的な解決にはならないのです。夢の中の苦しみを夢の中で楽にしようともがいているようなものであります。
夢の中の苦しみは夢から覚める以外に消す方法はありません。貴女ご自身が神の生命に生かされている神の子以外の何ものでもなかったと心の底から目覚め、拝まずにはおれないご自分になられた時が、あなたの実相が顕現する時であります。
本当のあなた(神の子)に自覚が変ったとき、因縁の法則を超越できるのです。それは色眼鏡を外したら、ものがまともに見えるのと同様であります。あなたご自身が拝める自分になられたら、息子さんも、ただの息子でなくなり、お嫁さんもよそ様の娘さんを貰った嫁ではなくなります。みんな神と神との出会いとなり、神様のお造りになったままの世界には不仲も不調和もありません。
『甘露の法雨』の中に、「神があらわるれば乃(すなわ)ち善となり、慈悲となり、調和自ずから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし」とあります。
今のあなたは神様を知ってはおられますが、未だ神の外におられるようです。神以外の自分や、神の外におられたのでは信になりません。神様とあなたが対立になり、神我一体ではなく、神と我とは別の存在となります。本当の信仰とは、神が我であり、我が神であったとの自覚に目覚めることであります。
又同様に『甘露の法雨』に「神こそ渾(すべ)ての渾て、神は渾てにましまして絶対なるが故に、神の外にあるものなし」とあります。これこそ絶対の真理であります。このことを信じないで何を信じるのですか。あなたは今神の外に立っておられるのです。ですから心細いのです。
薄情な嫁や、恩知らずの息子があるように感じられて悔んだり、悲しんだりしておられますが、すべては神であったと心の眼を開いたとき、そこにはただ有難いという喜びしかなくあります。求めることよりも与えることの喜びの方が先行します。求める心がある限り、思う通りに与えられなければ、耐えられない苦痛となり、かりに願う通りに与えられたとしても、やがて失う苦痛を伴うのであります。
いずれにしても現象の条件は真実(実在)ではありませんから、悪ければ悪いで苦痛を呼び、与えられれば与えられたで不安を生むのです。人間の本当に求めているものは、変わることのない常住のものでなければなりません。永遠に失うことのない喜び、条件を超えた喜びを把(つか)んで下さい。
「どうなっても有難い」になりましょう。それが本物の幸福です。神の世界(実相)には悪いものや困るものは一切存在無いのです。ただ善のみの世界であります。これから先、どうなっても神様にお任せなさいませ。任せないと頑張ってみても、所詮どうにもなりません。生命さえも自分の力ではちょっとでも伸ばすことも、変えることも出来ないのです。元々神によって始まり、神によってのみある人生ではありませんか。親の都合や、自分の都合で始ったものはないでしょう。
そうだと解れば。善いも悪いもない、ただ有難うと、すべてそのままに喜んでお受け致しましょう。
そのとき、元々悪い嫁はないのですから、貴女を放っておくようなことは絶対にありません。貴女が「有難う、有難う」とどれだけお礼を言われるかで、これからの運命が決まるのです。
現象を見て苦しんだり悲しんだりしていては、運命は絶対に好転致しません。それはこの世界は波長によって、何でも造り出せるのでありますから、悲しみや憎しみの波長から好運はめぐっては来ません。喜びと感謝の波長からのみ幸せな運命が吸い寄せられるのであります。先ず貴女から神様にお返しして、次に息子さんもお嫁さんも、神様にお返ししましょう。
神様にお返し出来たら、あとは神様だけです文句なしに礼拝出来るのです。相手の神性は合掌を通してのみ現われるのです。一日も早くお嫁さんの実相を拝み出して下さい。ご多幸を祈っております。 再拝
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