| [5565] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第207回 |
- 信徒連合 - 2016年10月30日 (日) 08時05分
<再掲示>
インターネット道場――
「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)
第207回
マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。
「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。
また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。
インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。
そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。
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もっと霊界の知識を持ち伝えよう。現象界の出来事は霊界でその雛形が刻々と出来上がりつつあり!
霊界とは、どのようなところか?
普通の霊界以上の特徴について(開祖・谷口雅春先生の霊界に関する御著書より)
*高級霊マグナッセンの父の霊魂からの霊界通信(『生命の實相』第十巻・霊界篇・下巻より)
<<霊界通信には全然真実性のない低級霊からの通信もあれば、崇高な真理を説く非常な高級霊からの通信もある。併し高級霊からの通信は非常に少ないのである。なぜなら高級霊は地上の生活にあまり興味をもたないからである。>>(P.1)
「・・・わしは霊だ。有力な霊だ。わしはお前の父の霊だ。しかしこの世にいたときにお前が懐かしがっていたお前の父という肉体に宿っていた頃の繊弱(かよわ)い霊魂だったときとは、千倍も偉大な、千倍も強力な霊魂になっている。・・・わしを、救いを求めて地上の親戚知己の周囲を、悲しげに飛びまわるべく来た弱い霊魂だと思うのは滑稽だ。それは見当違いだ。お前が想像したり空想したところとはすっかり異うぞ。わしがお前へ来たのはこの事実についての奥義を語らんがためなのだ。・・・わしは少しも霊界の秘密についてはお前に洩らすことは出来ない。またどんな霊でも人間には霊界の秘密をもらすものではないのだ。また人間に話してやっても霊界の秘密を理解するものではないのだ。人間の頭脳ではその神秘はわかるものではないのだ。・・・わしがお前と別れていても嘆かないのは、わしはいつでもお前のたましいのうちに、おまえの思想のうちに自由に入り込むことができるからだ。わしはお前の心のどんな奥底の秘密でも知っている。お前の生涯中一度でもお前の心をかすめた考えならわしの知らないものは一つもないのだ。斯くの如き霊妙な性能をもっているのが霊の本姓である。それをわしはおまえに教えずにはいられないのだ。まだまだ教える事がたくさんある。おまえは普通の人々よりも多くの真理を知るようになるだろう。わしはお前がわしの思想で考え、わしの思想で書くことができるように教えるつもりだ。」(P.37−39)
「このまえ、お前のところへ来たときに、わしは稲妻のように空中を飛来して、お前の思想の中に坐し、お前の手をもって書かしめていると言ったね。あれは本当だ。それは人間の霊魂の一種の特性であって、数百万マイルを一秒のうちに飛来し、その同じ秒のうちにもとの座に帰ることができるのだ。・・・人間の霊は永遠である。霊は時間と空間とを超越している。霊はこの世の肉体を捨てて永遠の世界に移され、そこにて神をまのあたりに見るのである。お前はまだ理解し得ないにしても、今このことを知らなければならぬ。なぜならわれらは皆逝かねばならぬからだ。これは始めであり、終わりである。わが子よ、神は実在する。そして人間の霊は永遠で神聖であるのだ。」(P.39−40)
「わが愛する子よ、わしがお前に語ろうとするところのものを聞け。わしは死んではいないのだ。わしは霊界に生きている。そして神をまのあたり見たんだよ。いま、お前の父は人の霊魂と神とについての真理を語るために来たのだ。・・・われわれ霊魂たちが肉体の死後生きており、幸福である事を知らされるようになるだろう。・・・人間は人間であって、生きられる限り地上で生きねばならない。なぜなら、人間の生活は地上のそれであって、そのほかのものであり得ぬのだ。生には法則があり、世界にも法則があり、それは変えることのできないものだ。・・・ただ知らないのは『死』とは何か?『生』の前に何があるか?『死』の後に何があるかということだけだ。これは本来人間のかかわり知る部分ではなく神の領域である。これらのことは人間には了解を絶した事柄であるから、人間から観れば神秘に見えるのだ、・・・お前の理解しうることはこの地上の法則にかなうことだけであって、この法則以外の法則に支配されている事柄を決して知ることはできないのだ。」(P.41−48)
「神が活在し給うこと、および、人間の霊魂が永遠に生き通しであるということをお前は知ることを許されている。・・・<人間とは神から放射された『理念(イデア)』である。だから人間は神に属し『生命の世界』に住するものであって、彼の信ずるがごとくには地上の住者でないのである。>・・・神秘を知ったと信ずるところの人間、それは、必ずしも偉大なる人間ではない。なぜなら、彼必ずしも真にその神秘を本当に理解したとはいえぬからである。知恵貧しき人々は奇蹟を見て、神の存在を知るのである。しかしながら、彼とて真に神秘を理解したのではない。神秘は、人間の知恵では把むことができぬからである。かえって知恵なき弱き人間はそのために神を容易に信ずることができるのである。」((P.48−53)
「・・・かくして人間は愈々高く向上するのだ。・・・使命を果たし・・・あらゆる人類は永遠のタイムを通じて等しき高さに向上する。・・・われわれの生命それ自身は至聖なものだよ。・・・生命の本源は至聖なものだよ。なぜ――いずこへ――いずこより――この偉大なる不可知的本源は、至聖なもの、そして人間の霊もこれと等しく至聖な、無窮のものであるのだ。われわれが、人を指して偉人だの賢者だのと呼ぶのは、その人の神性を指していうのではなく、その人が地上に生きている間の彼を指していうのだ。すべての人々には神性がやどっている。しかしこれを感ずる者はすべての人間というわけにはゆかない。大知恵者といえども、自己に宿っている神性を自覚しないでその地上の生涯を終ることがある、・・・肉体人間の頭脳には神は理解し難きものであるからだ。が、ひとたび神が彼の上に微笑(ほほえ)みを投げかけ給うたならば・・・魂の法悦こそ幾層倍もの深遠な奇蹟であるのだ。」(P.53−54)
霊界の法則について
(開祖・谷口雅春先生の霊界に関する御著書より)
開祖・谷口雅春先生の霊界に関する法則については、いろいろな所で触れられています。それらを纏めると以下のようになるとおもいます。
(イ)想念自由の法則
霊界に於いては、霊魂は自由と自由意志が尊重せられ、自分自身の努力で進化向上する、霊魂自身のしたい事を禁ずる何者もいないし、地上世界に於けるような法律もないのであります。
*<<霊界に於いては、その住民のしたいことを禁ずる何者もないのである。>>(『人間死んでも死なぬ』P.117)
*<<霊界の法則は、自然にそれが不可であると曉(さと)るまで自分の自由に試みることであったからである。>>(『人間死んでも死なぬ』P.123)
*<<自己を制裁するものは鬼ではなく、ただ自己の不徳のみであった。>>(『人間死んでも死なぬ』P.125)
*<<こんな虚栄な生活が何になるか。かようにして、霊界では誰も自分のしたい事を妨げはしないが、自然に自分の生活の空虚を感じて、次第に向上し得るようになっているのである。>>(『人間死んでも死なぬ』P.126)
*<<霊魂が肉体の枷鎖(つながり)から解放せられるとき、君の情緒の可能範囲(キャパシティー)は無限に拡大する。・・・霊魂から出ずるもののすべて、霊魂に属するもののすべては、幽界に行けばいちじるしく強烈になるのだ。>>(『生命の實相』第9巻霊界篇・上巻P.122)
(ロ)完全な同類親和の法則
霊界に於いては、心の傾向と進化のレベルが似ている霊魂が寄り集まって一つの霊圏・霊層をつくり生活をするのであります。
*<<ここには自分のみが褒められたい一方の、同じ罪の重さのものばかりが、重力の物理学的法則に従って集まっているのであった。>>(『人間死んでも死なぬ』P.125)
*<<国境というような区画はないが、霊は類をもって集まるので、>>(『人間死んでも死なぬ』P.122)
*<<霊魂は各々自分の徳行、もしくは罪の目方に相応する霊魂の或る圏内に落ち着くのである。霊界の第一圏の生活・・・第七圏の生活>>(『人間死んでも死なぬ』P.116−136)
*<<救いの慈手は他からは降(くだ)ってこない、じぶんの向上のみが自分を救うのである。向上を欲しない者は向上を欲するまで同一圏にとどまらなくてはならない。>>(『人間死んでも死なぬ』P.137)
*<<霊界にて形づくらるる友の集まり――これは同一傾向のものが互いに集まる『類は類を招ぶ』法則によりつくられるものだが――あるスピリットはいっそう愉快に感ずる会心のともというものがあるもので、彼らは相寄って互いに進歩してゆく。>>(『生命の實相』第9巻霊界篇・上巻P.122)
*<<霊界に於いては、肉親の結ばれから来る執着は存在しないのである。そして霊魂自身の傾向の類似と進化の類似とによってのみ、彼らは集合しているのだということでる。>>(『生命の實相』第9巻霊界篇・上巻P.144)
*<<霊界には、親族関係とか血族関係とかいうふうなものは存在しないのです。スピリットを繋ぎあわす唯一の紐はその霊波の類似ということです。(『生命の實相』第9巻霊界篇・上巻P.154)
(ハ)因果の法則
霊界に於いては、地上世界と同じく、因果応報の心の法則が働いています。
*<<生前を支配する法則も死後を支配する法則も、同じ「心の法則」である>>(『別冊・真理(生死を越える道)』はしがきP.1)
*自殺者、情死者が死後に於いて棲む霊層については、『人間死んでも死なぬ』(P.197−207) に詳細に書かれています。自殺予防の観点からも社会常識化すべきと思います。
*<<吾々は、一生命周期(現世)中に蓄積した価値を、潜在意識で次の生命周期(来世)に持って行く。特殊の「才能」や「天禀(てんびん)」は幾つかの前世から持って来た蓄積した価値である。>>(『別冊・真理(生死を越える道)』P.87)
霊界の高さ・深さ・広がりは無限
(開祖・谷口雅春先生の霊界に関する御著書より)
*<<生命の行方の心霊学的の第二の方法は、研究者自身が霊的能力を有して、自己の霊視または霊魂遊離の方法によって「霊界」を探検する方法である。古くはスウェーデンボルグがこの方法によって「霊界」を見ている。近くは、千九百三十年ごろ、英国ロンドン心霊大学の名誉学長たりしJ・H・マッケンジー氏の『幽明の交通と、オックスフォード大学出身のワード氏とである。・・・ともに霊界は七層にわかれているという点において一致している・・・元来この研究者自身の「霊魂遊離」による霊界探検なるものは、客観的には価値乏しきものなのである・・・さればかかる霊界探見記を紹介することも本書に於いては差し控えることにする。>>(『生命の實相』第9巻霊界篇・上巻P.4−5)
*<<第七圏以上の高き世界はあるかないかはわからない。心霊学の探り得た世界はここをもって最後とする>>(『人間死んでも死なぬ』P.136)
*<<霊魂の世界はかくのごとく次第に精妙の世界へと趣く無限向上の世界である>>(『人間死んでも死なぬ』P.136)
*<<各人の守護霊は、なお彼らよりも一層進化せるスピリット(われわれ人間の運命を修正するある程度の力をもつものらしい)の指揮の下にある。しかもこの高級のスピリットはなおそれ以上のスピリットに支配されているのである。(すると幽界には厳重な階級的教職政治が存在するらしい-----?)・・・極めて高級なスピリットの上にもまだ――白色スピリットの上にもまだ――その上にもまだ――そしてまだその高いスピリットさえもその上のスピリットに支配されていますの、まあ!>>(『生命の實相』第9巻霊界篇・上巻P.108)
*<<各人の守護霊は更に、なお一層進化せる霊に支配され、その霊は更になお進化せる高級霊に支配されて吾々の運命に影響をあたえるのですが、直接的には守護霊(守護神ともいう)が吾々に影響をあたえる。だから各人の守護霊に感謝すべきは当然であり・・・恩に対して感謝する心は道徳心でもあるが宗教心でもあります。>>(『人生を支配する先祖供養P.147』)
*<<霊魂は同一遊星に生まれ替わってくる場合は、幾度生まれ変って来ても同一の霊体を備えている。そして進化するにつれてその同一の霊体が浄化されるのである。しかしながら、地球(他の遊星における場合も同様である)に属する最後の更生(うまれかわり)を経た上は、その霊魂はもはや物質的世界に生まれかわり出るべき必要のない進化の段階に到達する。その霊魂は最早どの遊星にも、どの恒星にも属しない。この瞬間より、霊体なるものはもはやその霊魂にとって不必要なものになってしまう。本来霊魂なるものは、精霊とその有機的器官とを結び合わす媒質だったのである。ここにおいて彼は永遠にこの媒質を放棄する――棄てられた媒質はその属する遊星において新しい結合体をつくるための材料となる。霊魂はこの時あらゆる繋縛(けいばく“しばり”)から解放されて、ただ精霊そのものとなる――この状態は人間の知性では理会しがたきものである。>>(『生命の實相』第9巻霊界篇・上巻P.172−173)
*<<レイヌ(註・少女の霊媒)は、「これら(輝く黄金色を帯びた白色の霊魂)は生まれると同時に死んだ――この世で全く生きたことのない嬰児(えいじ)の霊魂なんです。何の罪を犯したこともない、もう苦しむ必要のない、何の贖(あがな)いをする必要もない霊魂なんです。・・・この白い光輝のあるスピリットは生まれる瞬間に死んだという理由で白く輝いているのではありません。彼等は地上に於ける進化の周期を完了したから出産の刹那(せつな)に死んだのです。彼等は地上に化身してくる生活が与える限りの最大の恩恵を受けてしまったから出産の刹那に死んだのです。もう再び彼等は地上に生まれては来ないでしょう。彼等の霊体の色澤は進化の真の度合いにちょうど相応するものなのです。」私はこの高級な霊魂がこの世に生まれて来ないで、唯<胎児の生活を送った>と云う事が何の利益になるかと尋ねた。ヴェテリニは答えて、この問題について現在自分に了解できるように答えるのは頗(すこぶ)る困難である。この問題には色々の他の問題が連関している――順序としてその問題から知って置かねばこの問題が了解しにくいのである。併し簡単に云えば、彼の子宮内の生活は地上の苦しみの最後の峠、最後の関所であったので、これを終ると共にその霊魂は地上における進化の周期を終ったのだと云うのである。で、私が、この状態の行く末はどうなるのか、この高級な霊魂の未来の生活はどうなるのか、とたずねると、ヴェテリニは、「もう少しその答えを聞くのは速すぎます。それを知るまでになお多くの事をあなたは知らなければなりません。・・・が、人間が霊界の生活を知り得るのは、ある範囲内に限られています」と答えた。>>(『人間死んでも死なぬ』P.176−177)
*<<人間は地上の帝王となり・・・地上に群がる一切の事物を了解することができたのである。ただ知らないのは『死』とは何か?『生』の前に何があるか?『死』の後に何があるかということだけだ。これは本来人間のかかわり知る部分ではなく神の領域である。これらのことは人間には了解を絶した事柄であるから、人間から観れば神秘に見えるのだ、わたしが内々にお前に話そうとするこれらの問題を、お前は“真には”決して理解することはできないであろう。お前は私の言葉を説明するために、お前の人間的な知恵を使うだろう。そして疑問が起こるだろう。なぜならお前は人間であって、地上世界の法則によって生きているからだ。お前は地上に生を受けた所の『生命』であって『地上』の法則に支配されている。お前の理解し得ることはこの地上の法則にかなうことだけであって、この法則以外の法則に支配されている事柄を決して知ることは出来ないのだ。・・・実在の世界においては毎日幾百千の奇蹟が起こっているけれども人間はそれを理解することができないのだ。>>(『生命の實相』第10巻霊界篇・下巻P.47−49)
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