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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[5646] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第158回
信徒連合 - 2016年11月05日 (土) 10時06分



谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――


@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』

A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』

★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。

******************




藤原敏之先生「あなたは必ず救われる」より(11)





本当の自分はどれですか?

やがて司会者の方が現れて、「皆様ありがとうございます」といって合掌し、「よくいらっしゃいました」と挨拶してから、「今晩お話して下さいます先生は、生長の家関西総轄教化部長、栗原保介先生であります。最後までごゆっくりお聞き下さい」といって引き下されると、今まで皆の方を見ながら、嬉しくて叶わぬというような顔でキョロキョロしていた先生がスッと立って演壇に進み、立つなり、合掌して皆の方を拝みながら、「ありがとうございます」と言って、頭を下げられたのであります。生長の家の皆様なら、こんなことは普通のことかも知れませんが、初めて生長の家の集りに出た私にとっては、一つ一つが、奇異に感じられることばかりで、驚きの連続でありました。

その時の栗原講師の顔が誠に明るく喜びに輝いていたことであります。このようなことはお芝居や役者ならいざ知らず、宗教のお話をする講師がつくり笑いや表情をする訳もなく、また作為的なものが全然なく、極めて自然であったことであります。私は今でも思いますことは、心に心配なことや困ったことがあると、どんなに旨くつくって普通に見せようとしてもどうしても暗いものを感じさせます。

また反対に心に心配がなくて、安心と悦びがあれば、自然に表情に現れるものであると思います。どんなに信仰心があっても、心の底だけに秘められ、潜んでいる間は本当の力とならないのであります。栗原先生は、開口一番「皆様本当の自分をどれだと思っておりますか」と問いかけられたのであります。

私は生来の理屈屋で理屈で固まっているような人間でありまして、そのため随分と苦しんだのでありますが、私はその一言にすぐ引っ掛ったのであります。「何だと、本当の自分をどれだと思いますとは何だ。そんなに人間に幾通りもあってたまるか」と反発を感じていたのであります。

栗原講師は御自分の鼻を指して「これが自分だと思っている人はいないかね」と申され、私は今思えば恥ずかしい次第ですが、当時は幼稚なものの考えで、心の中で「それそれ」と思っておりましたところ、先生は「それはあなたではありませんよ、あなたの鼻ですよ」と申され、さすがの理屈こきの私もギャフンと参りました。全くその通りでありますもの、一言もありません。「なるほどな」と感心しました。

その次に御自分の胸をおさえて、「これが自分だと思っている人はいないかね」と言われて、またしても私は腹の中で「それそれ」と思っておりますと、また「それは違いますよ。それはあなたの胸ですよ」と言われるではありませんか。「ああ、そうか」とまた参った。その次「今度は鼻じゃ、胸じゃと言わずにこの身体全部をひっくるめて自分じゃと思っている人はいないかね」と尋ねられた時、私は「今度こそ間違いない」と我と我が心で思っておりますと、「それも違いますよ」と言われたのには全く驚きました。

「何とことを言う。その他にどこに私がいるのだ」と腹が立つ位に反発を感じたのであります。ところがまた驚いたことには「それはあなたの身体ではありますが、あなたではありませんよ」と言われるではありませんか。

栗原講師は「僕の頭が道端に転がっていた場合、ここに栗原が寝ているという人はいないでしょう。『栗原の頭が……』と言うでしょう。僕の腕が一本道に落ちていても『栗原がいる』と言う人はいない。『栗原の腕が……』と言うでしょう。僕の足が一本落ちていても『栗原の足』と言うでしょう。このように僕のどの部分があっても『栗原が』とは言わず、みんな栗原の頭、栗原の手とか足とか言うでありましょう。必ず『の』が付くのです。

『の』が付くということは、そのものの他に持ち主がまだ別にいるという証拠であります」と話され、私も精一杯考えながら何処かに間違った理論はないかと、かぶりつくところ(疑問点)ばかり考えておりましたが、どうしても見つかるどころか一々ごもっともで、「なるほど、なるほど」と納得のいくことばかりであります。

さらに「その証拠に皆様この身体のことを何と呼んでおりますか? 毎日『からだ』『からだ』と呼んでいるではありませんか。『からだ』ということは、すなわちからであるということですよ。『からだ』と言わない人は何と言いますか。『みがら』『みがら』と言ってるでしょう。『みがらが痛い』とか『みがらが痒い』とか言っているでしょう。やはりからということでしょう。死んでごらんなさい。『なきがら』と呼ぶでしょう。何にしてもこの身体はからなのですよ。入れ物ですよ。

罐詰をでもみてごらんなさい。中身のある間は罐詰といいますが、中身を食べてしまったら、空罐のことを罐詰のからというでしょう。つまり中身と入れる物は別であります。肉体を人間だと思っているのは、罐詰の罐を罐詰と言っているようなものですよ。電球を電気だと言っているようなものですよ。電球と電気は別でありましょう。その目には見えない電気が線を流れて来て、電球という道具に来たとき、電燈として灯るのでしょう。だから灯っているのは電気であって電球ではないのです。肉体を人間だと考えているのはちょうど電球を電気だと思い違いしているようなもので、まるで電球を見て電気だと思い違いをしている子供のようなものですよ。それはまだ真理を知らない点がちょうど子供の常識しかないことになりますよ」と諄々とお話になるのでした。

さすがに理屈で固まった私の心も端から崩れて行くように「そうであったのか、そうであったのか」と驚くばかりであります。一つ一つの電燈に灯っている電気がみんな元は発電所の電気ある如く、私達一人一人別々の身体を持ち、別々に生きていると思えるままで、中身の生命はみんな元なる神様のお生命であり、大生命から発した一つの生命であったと覚らせてもらったのであります。

何と言う驚きでありましょう。初めて聞くことばかり、しかも一々もっともなことばかりで驚きと感動の連続でありました。
身体中を耳にして身体で聴聞し、生命で受けていた私の魂に響かないわけはありません。理屈の多い人間ほど、正論には弱いのでありまして、私には“でも”も“けれども”もありません。あるものはただ「そうだ、そうだ」という以外にはなかったのであります。

いつの間にか私の魂は感動に打ち震えておりました。理屈ではない理屈とでもいいますか、真理の前にひれ伏す以外には何ものもありません。腹の底から参ったというところであります。只只参ったと慟哭するのみでありました。それもそのはずです。今の今まで人間は肉体であり、病むのが当り前、どうすることも出来ないのが人間であると信じ込んでいたのが、肉体ならざる生命、本当の自分とは生命であり、その生命が宇宙に充ち満ちておられる神様の生命と一つのものであると分り、理屈ではなくて神を観ずることが出来たのでありますから、驚かないのがどうかしています。全く天と地が引っ繰り返ってしまったのでありますから、驚くのも無理はありません。

それからの私は、何を見ても今までと違った世界に見えるのであります。このことを観の転換というのでありましょうか。人間革命とでも言うのでありましょうか。世界がかわってしまったのであります。その喜びがどんなものであったが御想像にお任せ致します。世界中みんな貰ったよりも、もっともっと大きな喜びであります。それもそのはずです。宇宙全体を創造し、大宇宙を動かしておられる大神のお生命と一つの生命を頂いているのが自分であったと知らされたのでありますから、大変であります。いつ死んでもよいという大安心となったのであります。死のない自分に新生したのでありますから大驚きであります。

何という広大な真理でありましょう。現象の世界に居るままで、実相の世界を観ずることが出来るのでありますから大変なことであります。信仰とは即ちこの魂の驚きなのであります。

栗原講師は更に続けます。その生命が本当の人間なのでありますから、人間は紛れもなく神の子であり、神なのでありますよ。皆様、神様が病気をしたり困ったりすると思いますか。そんなもののあるわけがないのです。ですから病気不幸は一切ないのです。あるのはそんな不完全なものがあると思っている思い違いであり、無明だけなのですよ。その無明の心が影を写しているのが現象の悪ですよ。皆ありもしないものを有る有ると思い違いしている無明であり、ちょうど夢のようなものですよ。目が覚めているものには夢は有りませんが、眠っている人には本来無い夢も有るかの如く現れて苦しめられることも有るでしょう。どんなに苦しくても恐ろしくても夢はもともと無いから覚めたら無くなるように、人間が肉体であったり、見えるものが本当にあると思い違いをしている間は、病気も有るように見えたり、現れたりもしますが、それは心の眼が眠っていて、本当のもの(真理)を観ることが出来ないからである。全く病気も不幸もことごとく無明であり、本当にないのであると教えられました。私も初めて病気なるものの正体がわかり、迷いの夢であったと知らされました。

私はひたむきな性格でありまして、そうだと分っても、なおもとの通りに続けるということは出来ない質(たち)でありますので「無い」と分ったので、「やめた」と決めました。「やめた」と決めましたら不思議なことに、それっきり病気しなくなり、28年間病気で医者にかかったり、薬を飲むことが一度もなくなったのであります。

まだ不思議なことは私が変っただけでなく、家族全部が変ったことであります。家内の生涯治らないと医者から刻印を押された心臓弁膜症が跡形もなく消え、一遍も発作が起きなくなりました。長女もそれ以来、心臓弁膜症が消え、中学2年の頃、呉市に野呂山という険しい高山がありますが、そこへ遠足で登山した時も皆と一緒に登山して、帰ってから話しますのに、お友達の一人と娘が一番先に頂上に登ったと言って報告しました。普段元気なお友達が途中で歩けなくなり、その人達のリユックサックを持ってあげたと言って話した程であります。心臓弁膜症の子供なら野呂山の頂上どころか、麓までも行くことは出来ないはずであります。

こうして家族全部が健康になり、病気の道具も薬も不用になり、みんな人様に貰って頂き、今、家には病気の道具も薬も置いてありません。全然いることがなくなったのであります。このことをみても御教えが絶対に間違いなく、認めたものが現れ、否定したらみんな消えるということであります。

このようにして私は、たった一回の講話を聞かせて頂くことによって、生長の家の根本であるところの人間神の子の真理を体得させて頂き、困るということが一切なくなり、有難いことばかりとなったのであります。

このように生長の家の御教えの一つ一つの証(あか)しが現れ、証明がなされるのでありますから、これくらい確かなことはないのであります。昔から確実なことを「論より証拠」といい、「百聞は一見に如(し)かず」と言います。それから私はこの御教えは間違いないという確信を得まして、ますます自信が湧いて来て、他人様から御相談を受けても、確信を持って御教えをお伝えしますと、目の前でどんな難病奇病でもコロコロ治られ、病気以外の問題でも意外にスラスラと解決するのであります。




あなたはどうして生まれたの?

入信当時から余りに奇抜な体験が続発するので、昭和22年6月山口県で地方講師試験を受けるよう勧められて受験し、間もなく地方講師にならせて頂き、天下晴れて講話や個人指導をさせて頂き、随分沢山の尊い生きた体験を頂いたのであります。

昭和40年に、32年間勤めた会社を定年退職し、余生を御教えの普及に捧げようと決意しましたところ、はからずも本部講師を命ぜられ、北陸の富山と石川の両県の教化部長を拝命致しました。浄土真宗の王国とせられている北陸での活動は大変な困難が伴い、教勢は上がらず、活動するには資金がなく、金がないからといって活動しなければなお教勢は振わず、“貧すりゃ鈍する”で手も足も出ない有様でした。

これは本物の信者造りに力を入れて、金がなくても何がなくても、どんな困難があっても、火の中でも厭わないという生命知らずの信者を造ること以外にないと決意し、七尾で地方練成を始めたのであります。

背に腹は代えられず、やむにやまれず始めた練成ではありましたが、御教えが素晴しく真理が尊いので次から次へと奇蹟的な体験が続出して、パッと七尾練成が評判になり、全国各地から練成を受ける方が押しかけられるようになったのであります。その後、富士河口湖道場に転勤を命ぜられ、同時に長野県教化部長兼務となり、教勢を高めるために、ここでも練成を始めましたが、これまた次次と奇蹟的な体験が続出して一躍有名となり、全国から参加者が増加し、四百名以上の方々が参加せられたことも有ります。

それも盲人の眼が開いたり、いざりが立って歩いたり、癌が消えたり、てんかんやノイローゼが次々と治り、難病や奇病が跡形もなく消えていくのを眼の前で見て、驚いて宣伝して下さるのでそのようになったのであります。

いずれ数々の体験は順を追って書きますが、このように本当の人間は、肉体ではなく、生命であり、神様のお生命(いのち)であると自覚すれば今までどんなに不完全な状態が現れていても、それは本当の姿ではありませんから、目を閉じて暗い暗いと言っていたのが、目を開けて一遍に明るくなるのと同じように、また夢を見ていて恐ろしかったり、苦しんでいたのが、目が覚めたとたんに消えて無くなるのと同じように、極めて当り前のことなのであります。

さて、その次に大切なことは人生観を正しくすることであり、世間には相当もの知りで何でもよく分っておられるような人でも、“人生とは何か”ということ、“人間は何のためにこの世に生まれ、何のために生きているのか”ということについては案外無関心で考えてみようともしない人が多いのであります。が、これでは折角人間として生まれながら、希望も喜びもないのが当然であります。事業や商売に失敗したり、仕事が手につかなくなったり、ノイローゼや病気になっている方達の多くは、人生に希望を失い、喜びのない人達であります。

 例えば、朝まだ暗いうちに叩き起されて、「これから4`程の所に走って行って来い」と命令されてごらんなさい。「何しに走って行くのですか」と聞いたら、「何でもいい、わしは君を給料を払って雇っているのだ。雇い主の命令だから、とにかく走れ」と言われたとしたら、どうでありましょう。大儀なばかりで腹の中は煮えくり返ります。「社長のバカヤロー!何が面白くてこんな詰まらないことをやらせるのか」と不平不満で一杯でありましょう。

ところが一方、将来一流のマラソン選手を目指している青年があったとしたらどうでありましょう。昼間は皆と同じように仕事をしなくてはならず、夕方でも練習しようとすると。親に「バカなことをするな、腹が減るばかりだ。止めておけ」と叱られてご覧なさい。その青年は朝早く誰も起きない時に飛び出して、秘かに練習することになるのであります。寒さも同じ、朝早くても眠いのも同じ、外部的な条件は同じであっても、一方は何の目的もなくて、ただ命令で走らされるから仕方なしに走ることになるので、不平不満となり、大儀なばかりであります。一方は将来に夢があり、希望があり、ハッキリした目的があるのですから、寒いのも、眠むたいのも苦にならず、苦しい筈のマラソンが楽しくなるのであります。この様に同じ条件でも、目的のある者と、何の目的もない者とでは、大きな開きが出来、一方は苦しいばかり、一方は楽しみに変るのであります。

 この様に人生も目的がハッキリするかどうかで同じ人生が面白くない、詰まらないものとなり、苦しいものとなります。ところが人生の目的と意義が分って参りますと、今まで面白くなかったのが急に希望が湧き、喜びが出て来るのであります。そして生き甲斐を感ずる様になり、人生の価値がわかるから、自然大切にすることになりますが、値打のわからないと知らず知らず粗末にするようになります。

 例えば親戚のおば様からお土産のネックレスを貰った場合等でも、平常ケチなおば様で大した物など呉れたことのないおば様でありますと、つい貰ったネックレスもどうせ大した物ではなかろうと思い、そこらに放っておいたりしますが、貴金属屋に行ったついでに鑑定してもらって、「これは本物ですよ、鎖も純金ですよ。飾りも本物の宝石ですよ。今買っても10万円はしますよ」等と言われてごらんなさい。「へえー」ということになり、本当の値打ちが分ると、今度は大変であります。そこらに放っておくどころか、うっかり落としたら大変と、首からはずして金庫に入れて、鍵を掛けておかなければならなくなるのであります。つまり値打ちを知らないと、そのように粗末にしますが、一度値打が分って来ると、今度は丁重に扱い、大切にするようになるのであります。

 信仰とはこの様に、今まで本当の人生というものが分らず、その為、ちょっとも面白くなく、折角の人生を粗末にしていたのだ、人生の価値というものがハッキリ分るから、急に尊いものとなり、大切にするようになるのであります。

 ところが多くの人達が、人生とは何かということを殆どと言っていい位知らないのであります。「あなたはどうして生まれたのですか。何のために生れたのですか」と聞かれて直ぐに答えられる人などは、めったにいません。大抵に人は「さあー」と言われます。「さあー」じゃありませんよ。「さあー」で生れたのではないのですから、生れたからには深い意義とハッキリした目的がなくてはなりません。

 例えばたった一個の湯呑でも、何がなしに生れたのではないでしょう。れっきとした目的があり、存在するにはちゃんとした理由があるのであります。湯呑の生れたのには、熱いお茶を飲みたい時、「お茶を一杯下さい」と手を出すわけにはいきません。手は火傷します。ですからどうしても湯呑が必要になるから、湯呑が生まれるのです。またそれだけの理由があるから存在するのでありましょう。講演等するとき出される“おしぼりタオル”等も、黒板に字を書くと手が汚れますので、手を拭くのにどうしても、おしぼりが入用でありますから、“おしぼりタオル”が生まれます。濡れたタオルを直に置けないからタオルの台が必要になるので、ちゃんと台が生まれるという具合に、おおよそこの世に存在するもので何の目的も理由もなしに存在するというものは、一つとして無いのであります。

もしどうしても理由がわからないというものがあったとすれば、それは理由が無いのではなく、判らないだけであります。そのように考えますと、人間がこの世に生まれ、現に今生きているという事実に対し、何の理由も目的もないということは断じてないのであります。今生れ、今生きているということ程、確かなことはないでありましょう。この事実の前に私達は襟を正し、厳粛に対処することが最も大切なことなのであります。そのことの尊厳性を感じないわけには行かないのであります。

 前の続きでありますが、「あなたはどうして生れたの?」という問に対し、「別にわけなんかないよ。生れたから生れたのよ」と澄ましている人もいます。生れたことは判かっているのです。「どうして生れたか」と聞いているのに全然判らない。「どうして生きているの?」と問われてもやはり「死なないからだよ」と答えられる。それではあまりにも単純過ぎます。何の思想も哲学もない人生観であります。こんな所にも、自棄(やけ)になったり、失望のあまり自殺したりする原因があるのであります。

 ですから、働くにしても「何のために働かれるのですかね?」と聞かれて「決まっていらー、儲けんならんからよ」と言います。「儲けてどうするのですか」と聞けば「食わんならんから、生きんならんからよ」と返ってきます。働くのも生きるためであり、食うためである。それが目的だとすれば誠に下らないということになるでしょう。食うためだとすれば食べなければ腹が減る。「腹が減っては戦が出来ぬ」ではなく、「腹が減っては生きられぬ」であります。そうなりますと、人生の目的も働く目的も食うためであり、生きるためであるとすれば、人生の目的は胃袋への奉仕であるということになり、結局同じことの繰り返しであり、最後に残るものは“うんこ”だけということになり、人生の目的は人糞の製造ということになりかねないのであります。そんな目的のために働くとなれば、面白いわけもなく、働き甲斐も喜びもないのは当然であります。

 余程判ったつもりでおられる人でも、人生の始まりは両親のセックスによるものであり、性欲を満足させた結果生れた欲望の残りかす位に考えている人も有るのであります。これもまた浅薄なものの考え方であり、表面だけ見た愚かな考え方であります。この様な考え方から若い純粋な娘さん達も、性に目覚め始める頃から、ぼつぼつと人間が生れることが判って来て、その元が両親の動物本能的な性欲を満足した結果となれば、「ああ、けがらわしい」ということになり、自分が生れたのはそんないやらしいことが原因かとなれば、自然自己嫌悪に陥り、果ては「ええ、どうせそんなことで生れた私だもの、どうなってもよい」等とそこからヤケになり、堕落しはじめる子供も沢山あるのです。

 このように人生とは両親のセックスによって始まり、生れてからは、生きるために下らない競争ばかりして疲れ果て、苦しみ続けて、やがて死んで行く。死んだらみんな焼かれて灰になり、少しばかりの骨になり、最後は石の下に入って第一巻の終り。これが人生であると考えると誠につまらない何の興味もない人生となります。どうせ灰なら、どうせ骨なら、石の下なら、せいぜい生きている内に楽をして、面白いことでもして楽しまなければ損だということになるのは当然であります。この考え方が犯罪の原因ともなり、いろいろな社会悪となっているのであります。



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