| [650] H.27.9.23「唐松(枯れ松)模様」挨拶文は、またまたマサノブ君の「言行不一致」の自らの紹介文だった! |
- 板東太郎 - 2015年09月25日 (金) 11時26分
9月23日“森の中のオフィス”のイベントホールで、「布教功労物故者追悼慰霊祭」が行われ、マサノブ君が話した挨拶の要点は下記の如きものであった。
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平成27年(2015年)9月23日 「唐松(枯れ松)模様」=宗教の本領は“ムスビの働き”=(要点)
<< 今日は、午前10時半から、山梨県北杜市の生長の家“森の中のオフィス”のイベントホールで、「布教功労物故者追悼慰霊祭」がしめやかに執り行われた。私はこの御祭で「奏上の詞」を読み、玉串拝礼を行ったほか、最後に概略以下のような挨拶を述べた: ------------------------------ ・・・人間と自然が密接な関係にありながら、しかも調和し共存しているということは、とても大切なことであります。これは、双方が「結び合う」関係にあるということです。それが、自然と人間との本来の関係であるということを、私は皆さんに申し上げたい。都会には、残念ながら、この素晴らしい関係がもはや存在しません。・・・私たちの日常生活にも“結び合う”心をもっともっと反映させる運動を進めていこうとしています。これは、現在の世界全般の状況が、テロリズムや資源獲得競争に見られるように、相互に“結び合う”よりも、お互いに“はじき合ったり”“退け合ったり”“対立する”方向に進んでいることに危機感をもつからです。・・・宗教は一見、離れてバラバラに見えるものを結び合わせ、融合させるところに、本来の存在意義があるのです。・・・一見分離し、対立するように見える自然と人間の関係を、「融合する」方向に導かれようとしているのです。これこそ、宗教本来の役割です。 ・・・ 慰霊祭は「先祖の霊に感謝する」のが目的ですが、この「先祖の霊に感謝する」際には、私たちはどんな心境にならねばならないでしょうか? その際は、祖父母や親の生前の私たちへの想いや愛情、信念、信仰、社会的業績などを振り返ります。それは、ひと言でいえば、親やご先祖の心を、自分の中に取り込むことです。別の言い方をすれば、個人としての“心の壁”を取り払って、親やご先祖の心にまで自分の意識を拡大させるのです。親やご先祖の心を我が心としようという試みです。一見、別物のように感じられていた親やご先祖と自分の心の共通点を見出し、確認し、喜ぶことです。これが、宗教の得意とする“ムスビの働き”です。 人間は、この“ムスビの働き”によって救いを得るのです。人間は、最終的には個人として生きるだけでは幸せになることはできません。なぜなら、私たちは、誰でも必ず肉体を棄てる時が来るからです。そのときには、どんなに多くの富、どんなに高い地位、どんな名誉を得た人も、それらを肉体と一緒にすべて捨てていかねばなりません。もし努力して得たものすべてを棄ててなお、幸せを感じる人がいたならば、その人は、それらのものを他の人や、団体、あるいは国家に与えること−−つまり、遺していくことに喜びを感じるからです。もうその時には、その人は「個人」として生きているのではなく、より大きなものの一部として生きている。つまり、「個」を棄てているか、あるいは「個」を超えているのです。より高次のものと結び合っているから幸せを感じるのです。 谷口雅宣
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<講評>
@ 今回も、マサノブ君は自分自身の「言行不一致」振りを暴露してしまったのである。彼は、冒頭で「自然と人間は“結び合う”関係にあるのだから調和し共存しているということは、とても大切なことであります。」と云って説教を始めた。注意すべきは、「自然と人間」のムスビ(調和共存)は言っているが、人間同士のムスビ(調和共存)には全然触れていない。
A 人間同士のムスビ(調和共存)にはマサノブ君は“脛に傷を持っている”からで、今日では、ほとんどの信徒がインターネット状報によって知っていて、「人間同士」のムスビ(調和共存)の説教をすると薮蛇になって行くことをマサノブ君は十分承知の助であるからである。このことは「マサノブ教」最大のアキレス腱である。
B マサノブ君は、義兄の宮澤先生と実弟の貴康先生を「谷口雅春先生原理主義者」としてのレッテルを貼って教団から追放し、実母の恵美子先生までを軟禁同然の生活を送らせていた。最大の親不孝者である。「開祖反逆罪」である。このことは多くの信徒に知れ渡り、このことに対してはマサノブ君は絶対的にいい訳は出来ない状況である。だから、信徒脱落の大きな原因となったのだ。マサノブ君が幾ら「ムスビ」という言葉で調和共存を説教すれども、「言行不一致」振りを知っている信徒は、お腹の中では「親不孝者、開祖反逆者が何を言っているのだ。顔を洗って出直して来い!」と冷笑しているのである。信徒のみならず、イソベ若頭、ユキシマ金庫番、オオツカお飾り雛や理事参議の茶坊主たちも同じ思いである。マサノブ君は、ここでも四面楚歌、裸の王様である。
C 続いてマサノブ君は自分のことは棚に上げてシャーシャーと説教を言ってのける。「先祖の霊に感謝する」際には、私たちはどんな心境にならねばならないでしょうか? 」と。「親やご先祖の心を我が心としよう。一見、別物のように感じられていた親やご先祖と自分の心の共通点を見出し、確認し、喜ぶことです。これが、宗教の得意とする“ムスビの働き”です。」 よくもこんなことをシャーシャーと言えたものだ。
普通の神経の者であれば、開祖・谷口雅春先生の御命の結晶である「生長の家」を破壊する事など思いも及ばないことなのだ。開祖・谷口雅春先生の宇宙最高の『御教え』の抹殺等は思いも及ばぬことなのだ。それを堂々と緻密な戦略を立てて着々と信徒を上手に騙しながら実行して行っている。だから筆者の考えるところでは、マサノブ君は正常な神経を持ち合わせておれば、親・祖父母・先祖に、己が「言行不一致」振りが恥かしくて、仏壇や先祖の墓地の前に座って合掌し読経など出来ない。だから、現在のマサノブ君は心を込めた先祖供養はしていないと思うのである。併し、彼は「オレはキチント毎日仏壇の前で読経をして墓参りもしている」というであろう。そうであるならば、彼の神経は完全に正常判断が出来ない状態となっている。精神分裂状態であり、統合失調症がとみに進行しているといえるのである。心霊学的には悪霊憑依状態であるのだ。
D 更に続いてマサノブ君のエラそうな説教は続く。『私たちは、誰でも必ず肉体を棄てる時が来る。そのときには、どんなに多くの富、どんなに高い地位、どんな名誉を得た人も、それらを肉体と一緒にすべて捨てていかねばなりません。もし努力して得たものすべてを棄ててなお、幸せを感じる人がいたならば、その人は、それらのものを他の人や、団体、あるいは国家に与えること−−つまり、遺していくことに喜びを感じるからです。もうその時には、その人は「個人」として生きているのではなく、より大きなものの一部として生きている。つまり、「個」を棄てているか、あるいは「個」を超えているのです。より高次のものと結び合っているから幸せを感じるのです。』 実のところ、この言葉はマサノブ君自らが言っているのではなく、憑依して来ている悪霊のコトバである。「悪魔はときどき神様のようなことをいう」その典型例である。
E やがては、地位財産名誉など全てを捨てて霊界へ移住しなければならないのに、マサノブ君ほど教団の中で自己資産形成や金銭欲の強い人間は居ない。「生長の家」解体、『御教え』抹殺という「開祖反逆罪」を犯しながら、「与えることに悦びを感じる生き方をしなさい!」とは腹にもないことをよくも此処まで悪びれもなく言えたもんだと思うのである。
F 最後にマサノブ君に憑依している悪霊が正体を表した表現がある。『より大きなものの一部として生きている。「個」を超えているのです。より高次のものと結び合っている』―――此の『より大きなもの・「個」を超えているもの・より高次のもの』とは、開祖・谷口雅春先生御創始の「生長の家」を地上から取り除こうとしている霊界の巨大悪霊集団であり、マサノブ君はそれらと『結び合っている』という事をほのめかしていることが解るのである。
G マサノブ君は、「ジキルとハイド」の二面性を使いわけている人間である事を忘れてはならない。「総裁」という表の顔が「ジキル」であり、「実際に行なっていること」は「ハイド」という表の顔とは反対のことばかり、つまり「言行不一致」の行動だ。われわれ信徒はマサノブ君の「言行不一致」の実行面の観察を怠ってはならず、決して宗教家気取りで話す表の顔の「ジキル」の説教にウッカリと騙されてはならないのであります。
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