| [903] インターネット道場―――体験実話特集・平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より(27) |
- 信徒連合 - 2015年10月22日 (木) 11時10分
インターネット道場―――
体験実話特集
平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より(27)
< ないものとあるものーーー 罪はないということ >
「人間神の子、本来罪なく、病なく老なく死なし。一切完全、一切清浄」これが、生長の家の教えの根本である。この人間無罪の宣言は、人類始まって以来のもので、これによって救われざるもの、清められざるものは無いのである。
最近のことであるが、新潟県から道を求めてこられた未亡人があった。まだ50歳には間のある、きれいな方であった。23歳になる一人息子が、中学を卒業して、いろいろの仕事についても、どうしても落ち着かない。当人は、落ち着きたがっているのに、常にいらいらして悩んでいるという話であった。
「あなたは、貞操の問題で、子供から疑惑の目で見られているようなことはありませんか?」 とっさに、私の口から出た問いであったが、彼女は素直に、その通りだと認めた。 しかし、もう10年も前のことで、子供がまだ10歳ばかりの頃に、妻も子もある人と通じ、一度は妊娠し、堕胎の罪も犯した、とありのままに語られた。その後、生長の家の教えにふれて、深く懺悔して、おわびの『甘露の法雨』も誦げている。講師のご指導もいただいてきたということであった。それで、私は次の二点を強調したのである。
「過去において、あなたは間違った。罪を犯し、神の子らしくない行為をされた。しかし、その後に導かれて罪を悔い、深く懺悔し『甘露の法雨』を読誦して、浄められだのです。
谷口雅春先生の『懺悔の神示』の中に『罪は懺悔と共に消ゆるなり』と、はっきりと示されてあるのです。懺悔せざるものの罪は消えないが、懺悔した時、罪は消えるのです。そして、同じ神示に『罪を一度懺悔した以上は、その罪の念にとらえられて神の分身たる自己を再び苦しめるな』と書いてあるのです。それなのに、あなたは、未だに、その罪にとらわれて自己を苦しめているのです。その罪の意識が、あなたの神の子としての運命をさえぎる雲となって、神の光の入口を邪魔しているのです。
神が、あなたの幸運をはばんでいるのではなく、あなた自身の罪の意識が、神の光をさえぎっているのです。谷口先生は、この人間の陥りやすい過去を救うために、本来人間に罪のないことを説いて、罪は懺悔とともに消えることを強調していられるのです。
ここで、あなたはもう一度浄まるために、懺悔の行事を二週間ほど真剣にやって下さい。あなたの亡くなったご主人と息子さんに、心から謝るのです。特に、堕胎した子供の霊には、位牌を作って、お祀りして、相手の家庭をみだしたことも深くおわびして、懺悔の意を表わすのです。できれば、その気持を文書にして、神前に供え、聖経『甘露の法雨』と『天使の言葉』を誦げなさい。そして、心の隅からすみまで浄めるのです。二週間ほど続けなさい。その間に、浄まったという意識に導かれますから、それをしっかり掴むのです。『浄められた。ありがとうございます。ああ、嬉しい。二度と再び、こんな過ちは犯しません』と、深い懺悔の心がおこります。この『浄められた、ああ嬉しい』という心を、あなた自身のものとすることがまず大切なのです。
もう一つの大切なことは、あなたの息子さんは神の子だ、ということです。神の子というのは、神の使命をもって地上に生を受けて生まれてきたということです。神さまが神御自身の計画を達成されるために、人にはそれぞれの使命が授けられてあるのです。
『人生の目的は神の自己実現である』と教えられているのは、このことです。この使命を果たすために、人間は働くのです。趣味とか、好みとかいうものが自然に内から生まれてきたり、あるいは外から導かれて、職業的位置というものが与えられるのです。
現在、生長の家の本部講師をしていられる田中イサノさんは『神さま、あなたは、この地上で私に何をさせたいと思し召しなのでございますか。神さま、早くその仕事につかせて下さいませ。私は働きたくてたまらないのです』という意味の言葉を一週間ほど、合掌しながら念じられたということです。
つまり、神想観をなさったのです。そして間もなく、生長の家誌友相愛会のお世話という最も好きな仕事が与えられた話をなさったことがあります。だから、あなたも以上のことを深く信じて、神想観をするのです。
『神様、ありがとうございます。息子の使命を達成するために、最もあの子に適した仕事をお与え下さいまして、ありがとうございます』と、神想観をするのです。神想観の祈りについては、あなたも大体わかっているようですね。
キリストも『汝ら祈るとき、曰に与えられたりと信じて感謝せよ』と訓えていられます。神さまは、何度も何度もしがみついて、揺すぶらなければきいて下さらない方でもなければ、人を仲立ちにして、金品を献げなければ聴き入れて下さらない方でもないのです。ただ『信じた通りにあらわれる』という法則によって祈りは実現するのです。
『汝ら祈るとき、すでに与えられたりと信じて感謝せよ』とは、ここのことで、まことに素晴らしい真理であります。
結局、あなたの罪の意識が消えて、神の光をさえぎるものがなくなったところで、神想観をして、神の意中の仕事が与えられるようにお願いする、これで善いのです。
それでも、なかなか実現しないときは、人や物に対して、好き嫌いの心が多すぎはしないかを考えるべきでしょう。天地一切と和解しているか、どうかを反省すべきでしょう」
こんなことを話して、ともかくも心を明るくして、帰ってもらったのであった。 それから二ヵ月半ほどだってから、彼女は再び訪ねてみえて、こう言われたのであった。
「二週間の懺悔の浄めによって、私は本当に心の隅々まで浄められただけでなく、何となく子供の職業も必ず与えられるという確信のようなものを得ることができて、朗らかになりました。もちろん、神想観も毎晩おこたりませんでした。時たま息子と仕事のことを話して暗い気持になる時でも、『心配しなさるな。間もなく、あんたに最もふさわしい仕事が与えられるのだから』と言っていました。
ちょうど二週間の懺悔の『甘露の法雨』の読誦を終えた、その日でした。子供は、みずから求めた職業に就くことができて、先月の一日から、その会社に通っています。ここまできて、今更ながら罪の意識に覆われていた暗い心の過去を思い出し、感無量でございます。ありがとうございます」 涙さえ浮かべて、感謝されたのであった。
そこで私達は、生長の家の出現によって善悪の標準が変わったことなど話し合って、明るい心こそ神の大愛をうけ入れる最高の窓であることを再認識したのであった。
<物質なしとは?>
生長の家では「物質はない」と教えられている。ところが、高岡市の池の端に住んでいられる池田夫人は「物質はない」ということが解らない、といって悩んでいられた。
「ここにこうして、お膳に向かって食事している。ここにこうして机に向かって、ペンをとっている。この机も、お膳も箸もペンも、みな物質ではないか。暑さ寒さを凌ぐ着物、これも物質ではないか。厳然と存在する物質ではないか。それなのに生長の家の書物には『物質はない』と書いてある。 何故なのであろうか?」
こんなことを考えて、ご主人に毎日のように、「お父さん、物質はないという本当の意味を教えて下さい」と、せがまれたらしい。ご主人は、愛する妻の願いであるから、一所懸命に説明されたのだが、奥さんにははっきりつかめなかった。そして、一昨年の夏の頃だったとおもう。やさしいご主人は「そんなに物質なしがわかりたかったら、飛田給の練成道場へ行って、十日間の練成を受けて、教わって来なさい」とおっしゃったのである。奥さんは大喜びで 飛田給へ十日間の修行に出かけられたのである。
だが、練成会では、三日目になっても「物質なし」の話は出なかった。奥さんは三日目から毎日、ご主人へハガキを書かれた。「今日こそ〃物質なし”が分りました」と便りを書きたくて、一所懸命になっていられたが、書きようがない。七日目頃からは「お父さんがせっかく私を出して下さったのに、私はやっぱり“物質なし”がわからないままで帰らねばならないのでしょうか」と、三日もつづけて書いたというのである。
こうして、最後の十日目が来た。昼食の席につくと、隣りに相当年配の男性がおられた。その胸に講師のバッジを見つけた池田夫人は、思い切って話しかけたのである。 「ちょっと、お尋ねざせていただきたいのですが……」 「私で役に立つことでしたら……」
「私は、物質がないということが、どうしてもわからないのです……が」 「ああ『物質がない』ね。それは、難しい学問的な理論はぬきにして、一般的には『物質じゃない』と考えたらよいのではありませんか。ここにある机も、茶碗も、箸も、これみな神の愛、仏の慈悲のあらわれであって、ただの物質ではない。このことを簡明に『物質なし』と説かれているのです……」
池田夫人は、バツと目の前が明るくなったように、本当にわかったというのである。うれしくて嬉しくて、それこそ手の舞い、足のふみどころを知らずという心境に導かれた。飛田給まで練成に来た甲斐があったわけである。そして、物質なしが解ったら、肉体なしも解って来た。「そうだ、ここにある肉体は、ただの肉体ではない。喜びという心の波をたたえている肉体、悲しみという心の波、腹立ちという心の波、そうしたいろいろの心の波をただよわせている心の影という意味だった」と、はっきり解って来たのである。
さて、池田夫人は、ご主人から「十日間の練成が終わったら、あくる日はハトバスで東京見物などしていらっしゃい」と、お許しをいただいていたので、そのつもりで飛田給の宿泊も、一晩余計に申し込んで、その晩も泊るつもりでいられたのである。ところが「物質はない、肉体もない」が解ったら、嬉しさにじっとしていられなくなったというのである。
「早く帰って、この喜びを主人に話したい」と思ったら、宿泊費の払い捨て位、ハトバスでの東京見物位は、なんでもなくなって、早々に荷物をまとめて、上野駅にかけつけたというのである。
曰に二回か三回しかない北陸行の列車が、何時に出るかも何にも確かめずに、乗れる時に乗りましょうと思って、やって来たというのである。ところが駅に着いたのが午後の7時過ぎ、あと1時間で汽車が出るというところであった。同じ練成を受けた方達が、4時間も前から来て待っていられるのに出会った。腰掛ける席があるとも考えていなかったのに、ちゃんと掛けさせてもらったというのである。
ともかく「物質なしとは、物質じゃないということだ」と教えられた嬉しきに、持っているトランクも、のせてもらったバスも電車も、みんな、神の愛、仏の慈悲のあらわれと、一切が光り輝いて見え、一切を合掌せずにいられない気持になって光一元の世界に立っていられたのである。
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