【広告】楽天市場の超ポイントバック祭合計購入額に応じて、ポイント還元12月15日まで開催中

生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

ホームページへ戻る

名前
メールアドレス
タイトル
本文
写真

URL
編集・削除キー 項目の保存


RSS
こちらの関連記事へ返信する場合は上のフォームに書いてください。

[1000] インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)第2回
信徒連合 - 2015年11月03日 (火) 08時22分




インターネット道場―― 


「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)第2回


(「生長の家 今昔物語」の比較篇を転載)




(注)この比較篇が作られたのは、6年前の平成21年でした。当初の頃は「谷口雅宣先生」と敬称で書かれていました。しかし、平成27年の現在に於いては、“敬称”で呼ぶ値打ちのない人物と成り果てました。しかし、この転載文に於いては、原文どおりの「谷口雅宣先生」として転載いたします。



 「神想観」


・生長の家信徒にとって「神想観」は、実相真理の把握への三聖行(聖典読誦・神想観・愛行)の一つとして最大限の重要性を持つものなのです。
 
・生長の家独特のこの座禅観法は,生長の家真理の奥義中の奥義でありまして、開祖・谷口雅春先生が天啓直受されたものを、そのまま私たち信徒に開示されたのであります。



「今の教え」の神想観

第三代目・谷口雅宣先生は、平成20年12月27日の谷口清超先生追善供養祭で「如意宝珠観のなかには、家族一人一人の名前を呼んで感謝する言葉があります。・・・・けれどもこのお祈りの言葉をよく考えてみますと、<身健やかに>ということは肉体のことですし、<相形うるわしく>というのも肉体のことです。だから、この言葉はふさわしくないことに気がつきました。それで如意宝珠観では(清超)先生のお名前を呼ぶのは止めようと思った。・・・・このお祭りを区切りとして唱える言葉を工夫したいと思います。」と述べられています。



「本当の生長の家の御教え」の神想観

開祖・谷口雅春先生は、「詳説・神想観」の中で次の如く教えていただいています。

・神想観においては、最初の句「吾れ、今、五官の世界を去って」という言葉が重大なる役目をなしているのである。五官の世界にある一切を抹殺して、それに死に切って後、初めて「実相の自分」が実現し・・・・真我が現れるのである。一度自己否定を通過した後における大肯定でなければ、真の自覚に到達したものではない。

・神想観は、心の視力を集めて実相を静観すること。神想観によって吾らの心の方向を一転して存在の実相を静観しますと、あらゆる存在の奥の奥に横たわる円満具足の本質を悟ることができるのです。

・神想観は現象観ではない。ひたすら唯観実相、実相覚によって真の自己を把握するのが神想観であります。

・神想観は実相観なり。

・「われ・今・此処」ということが大切なのです。

・「われ」と「今」と「此処」が一つなのです。

                         

開祖・谷口雅春先生は、「如意宝珠観」の説明で、より詳しく具体的に教えていただいております。

・「吾れ今、五官の世界を去って実相の世界にいる。というのは五官の世界・肉眼の世界を去って今ここが竜宮城であると斯く観ずるのであります。・・・肉眼では見えないけれども実際はすがた形がある世界であります。・・・実際はもっと素晴らしいけれども、肉眼で見る世界はその実物の素晴らしさを大分抜きにして影だけを見ている。丁度、白黒の厚みのない写真をみているような世界が現象世界で、本当の世界・実相の世界はもっと素晴らしいものが充満している、その有様をじっと観ずるのが如意宝珠観であります。」

・「実相世界は、素晴らしい世界が今・此処に既にあるのですから、そこに座っていると観ずるのです。そして、住む人悉く竜宮の乙姫さまのように立派な相形うるわしく和顔愛語・賛嘆に満たされているその有様をじっと観じます。・・・じっと心に描くのです。描くということは、丁度、物体を握っていたのを放したようなもので、それは一つの行動で、心に描くことも一つの行動でその後は法則が働く・・・描いたものが必ずそれが実現する。」

・今・此処・竜宮城と自分の<いのち>が一つであって塩椎の大神より如意宝珠を得たりという。その如意宝珠というのは、実は自分の<いのちのみたま>の事であります。

  いのちのみたま即ち自分の魂というのは、自分の心によって如意に心のままに何でも現わすところの御魂(みたま)でありますから、これを如意宝珠と称へたのであります。しかし、その如意宝珠は何処にあるかといっても、この物質の肉体が如意宝珠ではないのであって、肉体の外にあらず、内にあらず、中間にあらず、ですけれども今・此処にある・・・・」



<注釈コメント>


以上のように「今の教え」と「本当の生長の家の御教え」を比較してみますと、次のように間違った方向へ神想観が説きすすめられているのがわかるのであります。

(1)「身健やかに」という「身」は、「実相身」のことであるがこれが「肉体身」、「相形うるわしく」というのも「実相身」のことであるが、これも「肉体身」と説かれています。これは完全な誤りであります。なぜならば「吾れ、今五官の世界を去って実相の世界にいる」従って実相身が、至美至妙なる実相身と実相世界を観ずるのであるからであります。肉体の吾れが肉体身を観ずるのではないのであります。

(2)従って、「今の教え」による神想観は、実相観ではなく現象観であります。

(3)「この言葉はふさわしくないので、これからの唱える言葉は工夫したい」この必要性は全くないのであります。

(4)第三代目・谷口雅宣先生は「法灯継承とは、谷口雅春先生・谷口清超先生がお説きになった一言一句をまた繰り返して説くということではない。一言一句を繰り返して説くということは、原理主義と言ってこれは誤りである。」と平成21年3月1日の法灯継承祭の挨拶の中で述べられています。

(5)従って、開祖・谷口雅春先生が神啓直受せられた神想観をそのまま実修するということは「原理主義」の典型であります。従って、「唱える言葉の工夫・修正が必要である」と第三代目・谷口雅宣先生は説かれるのであります。

(6)このような雅宣先生のお考えを反映して

  イ)全国の教化部の中でも、永年続けてきた早朝神想観を取りやめる所が現れてきた。

  ロ)谷口雅春先生・谷口清超先生の時代の大講習会では、午後の最初の時間帯は神想観の実修時間であったが、雅宣先生になってからはこの神想観の時間が軽視されて講習会の終了間際に申し訳程度に行なわれている所もあるのです。

(7)かくのごとく「今の教え」による現在の生長の家教団は、開祖・谷口雅春先生当時のものとは比較にならぬほどの方向転換が雅宣先生の指導のもとになされていることが、生長の家の根幹をなす「神想観」の変化からも伺われるのであります。




(7)
Pass



Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】楽天市場の超ポイントバック祭合計購入額に応じて、ポイント還元12月15日まで開催中
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板