| [2054] インターネット道場―――体験実話特集 大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(2) |
- 信徒連合 - 2016年02月05日 (金) 10時21分
インターネット道場―――
体験実話特集
大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(2)
恐怖心を去って下痢の治った話
大阪で講習会がありました時に、もう毎日下痢をして痩せて痩せて弱っとった人が体験談を言われました。それは毎日数回下痢して下痢して衰弱して、どんなに医者から下痢止めを貰っても、もう止らん様になって筒抜けになってしまった。そこへ生長の家の誌友の友達が、訪ねて行ったと言うんです。それで彼はその友達に下痢の苦しさを訴えると、
「君、そんなもん病気やあらへん!」 と大阪弁でその友達は言いまして、 「病気なんかあらへんやないか。そら、君がいらん薬服(の)んどるから、いらん薬を出さんならんかと出しとんのが下痢や。下痢は治す働きや、そんないらん薬止めてしまえ、止めてしまえ。そして水をしっかり飲むんだ。水をしっかり飲んで、今迄入れた薬を洗い流してしもたら、そしたらそんな下痢は治ってしまうやないか。下痢は病気やあらへんがな。要(い)らんもん入れとるから出しとるのや」
と、こういう様に教えたんですね。それで、その患者は下痢しとるのにもう薬を止めて、水をガブガブ飲んだっていうんです。それからその後数回またシャーと便が出たけれども。それは腸をきれいに洗ってそのまま治ったんですね。
医術は自然良能を助けるため
下痢は、生命の法則で、腸内にある要らんものを流し出しとる時に起るのです。そんな時には余計に水を飲んで流し出したらいいんです。そしたらそれは自然良能が不良物質を流し出す働きを助けることになるんです。本当の医術というのもそういうものなんです。自然良能を助けるのが医術なんです。だから名医は薬を用いるにしても、下痢する場合にはむしろヒマシ油みたいな下剤を用いるとか、色々あんまり害にならぬような下剤を工夫して使うというような事をやる訳でありまして、生命の自然の働きが本当に治す働きであるという訳です。
咳や痰は自然の良能である
それから痰(たん)とか咳(せき)と言うのも、結局此の自然良能による不良物質の排泄(はいせつ)作用であります。肺臓の内部には色々複雑な皺(しわ)がつくられて、狭い容積に出来るだけ空気との接触面積を多くとって迷路のような道になっておって、一ぺんにシャーと肺臓内の不良物質を洗い流すことの出来ないようになっている。その様な所に黴菌の死骸や、黴菌から排泄された毒素がついているのを、どうしたらうまく出せるかという事を自然良能は工夫して、片栗粉を溶かしたような痰という粘液を拵えて、それにすっかり黴菌の死骸やら毒素をくっつけ、それを咳と言うポンプ作用によって引上げて出すようにしたのです。だから肺臓や気管や気管支が病菌に冒された場合、病菌を排泄して治すために、咳は出る程いいという事になっているのであって、患者自身には少し位辛いかも知れないけれども。
それですから、咳止めとか袪痰剤(きょたんざい)とか言ってこんな場合用いる薬は、名称は、袪痰剤というけれども、あれは本当は痰をふやす薬なんだそうです。痰があんまりでないでカサカサッとしておると、うまく排泄できないで辛いので、痰が切れ易くなるように豊かに痰がでるようにするのであって、あれは矢張り自然の良能を助ける薬をお医者さんがくれるんです。そうすると痰が余計出て病菌の死骸や毒素がみな痰にくっついて出てしまうので、健康恢復のもとになるという訳なんであります。もっとも出るべきところの病菌や毒素が少しも無かったら痰を出す必要もないから、自然の良能も痰を拵えないけれども、兎も角痰のある間は出す方がいいんですから、咳が出ることは自然の癒すはたらきなのであります。
病状を敵と思ってはならない、病状は味方である
そのようにして、下痢でも咳でも痰でもすべて今迄敵だと思っておったものは敵でない。病気だと思っておったのは病気じゃなくて、「治す働き」であるという事がわかると、患者には恐怖心がなくなり、安心するですね。熱が出たら、「アッ、神様が今滅菌消毒してくれるんだ、ありがとうございます」と、こういう気持ちになればいいんです。下痢したら「アッ、神様が腹の中を掃除して下さるんだ」と神様に感謝すればいいんです。月に一ぺん位本当は下痢する方がいいんですね。宿便というやつが、大腸の粘膜のふちにこびり附いて、それでどうも栄養もうまく吸収しない。そして始終そこが変調を起して下痢を続けており、軟便なんていうのが出ておって本当に健康になりきれないという様な人は、月に一ぺん位シャーと掃除をすると、宿便なんて言う様なものが無くなってきれいになり、新しい組織が出来るという様になるんです。ですからこれらの病状があらわれて来たときには恐怖することなく、病状は健康の味方だと信じて感謝するとよいのです。
ですから、聖経には次の如く示されているのであります。
心を鎮(しず)めて平和ならしむるの秘訣は 唯「有難う」と一切のものに感謝するにあり。 一切の人に、事に、物に、症状に感謝するとき、 其処に本来の平和は汝の心を訪れん。
心の平和は 神の癒しの波動と同波長なり。 心の平和あるところに 神の癒しの波動は宿り来りて 健康の姿となって顕(あらわ)るべし。 汝よ、心安らかなれ 健康は既に汝を訪れたりと知れ。
既にある実相の健康を認めること
「健康は既に汝を訪れたりとしれ」ここが大切ですね。これから病気を治そうと思うと、病気を心で摑(つか)むでしょう。「既に健康は訪れた」とこう思ったら、心はもう病気を摑まんですよ。「病気を治したい」というのは、「病気がある」という観念が働いているから、心に念ずるものがあらわれるのですから、それはまずいですね。「既に健康である」と健康を念ずるがよい。だから神想観をしても「神の生命(いのち)流れ入って私の病気を今治し給いつつある」と念ずる。まあこれでも効かんことはないけれども、そう念ずるよりも、「神の生命流れ入りて光明燦然と輝いて、病気はどこにも無い既に健康である」と、その既に健康である相(すがた)とじーっと観ずる方がいいんです。
“病気を治し給う”じゃ「病気がある」という観念が矢張り働くからまずいですね。それで、『心を鎮めて平和ならしむるの秘訣は、唯「有難う」と一切のものに感謝するにあり』と示されている通りに、“ありがとうございます。ありがとうございます”と感謝するんです。本当に感謝の念を起すということが必要であります。しかし、まだ実際に感謝の念が起らないでも、“ありがとうございます。ありがとうございます”とこう言葉に出して繰返し言っておりますと、“言葉の力”で感謝の念が湧いてくるのであります。
感謝でそこひの治った話
或る金光(こんこう)教の先生の所へ一年前から内障眼(そこひ)になった一人の盲人が訪ねて行ったんですね。そして、「どうしたらこれは治りますか」と言ったら、 「貴方(あんた)は中々癇癪(かんしゃく)持ちだから、その腹を立てる心を神様にあずけてしまいなさい。そしたらこの眼は治るですよ」とその金光教の先生は言ったのです。
すると、その盲目の人は「私の腹立つ心を神様にあげたいと思うけれども、今“あげる”と約束しても又腹立ったら、その腹立つ心を神様から取返したことになる。神様に嘘をついた事になるから、また余計に罰が当るとこわいから、この私の怒る心を腹立つ心を、神様にあげてしまうと約束することはできません。何ぞ他に良い方法はありませんか」と言う。
「そんならあんたは、こんな体操をしたら眼が治ると教えたらその通り体操しますか?」 「そら、そんなら体操をいたします」 「では、あんたが今後腹が立ってきた時に手を合せて“有難うございます。ありがとうございます”と言いなさい、これ位なら出来るでしょう」 そこでこの盲人はそれ位のことなら言葉の体操のつもりで言えんこともないからというので、まあその通り実行するように約束をしたんです。
それから翌日、その人は朝御飯を食べようと思って食卓の前に坐った。そして、盲人ですから、ここにお茶碗があるな、あっここにおみおつけが……とさわっているとおみおつけのお碗が引っ繰り返った。そしたら奥さんが怒鳴りつけた。 「あんたもっと静かにするんですよ、落着いてするんですよ。盲人のくせにそそっかしい」 そう言って奥さんが叱ったものだから、盲人はカーッと腹立ったんです。 “眼あきだったら、こんなもん引っ繰り返すか、盲人だからこそ過(あやま)って引っ繰り返すのだ。盲人のくせにそそっかしいとは何をぬかしやがる” と思って、カーッと腹立ったんです。それで妻に怒鳴りつけてやろうかと思った瞬間に、金光教の先生が腹立った時には合掌して“有難うございます。ありがとうございます”と言いなさいと言われたことを思い出したんです。それで彼は「ここだ!」と思って、手を合せて腹立つ心を引っ込めて“有難うございます。ありがとうございます”とやった訳ですね。そしたら、その“有難うございます”という言葉が自分の耳に聞えて来たのです。彼はハッと思った。 「あっ、私はこんな時にも、“有難うございます”と言えた!」と思うと、それが今度は本当に有難くなったのです。それで今度は本当に有難い気持になって“有難うございます”と言えるようになって“有難うございます”と合掌して言えるコツを覚えたという訳ですね。それから一年ばかりこの盲人は何事が起っても、ただ“有難うございます”と続けていると、段々視力が恢復して一年後にはすっかり見えるようになったという体験談が金光教の高橋正雄さんの「生」という雑誌に書いてありましたが、そういう事もあり得る事です。
一万遍の感謝で関節の硬直が治る
奈良の生駒郡の平群(へぐり)という所に湯川春生さんという人がありました。この人は第一次欧州戦争のときに日本も参加して日独戦争をやった。この青島(チンタオ)攻略戦に参加して青島に上陸して戦った人で、敵の砲弾の破片が一方の手にぶつかって、五本の指の肉が飛び散って骨だけがバラバラとぶら垂(さが)っておったんですね。まあ魚の刺身をつくって肉をそいだ後みたいに、骨にこう少しくらい肉がついたような恰好で、その手の指がブラブラッとしておったんです。
それを医者が身体の何処からかいくらか皮膚や肉を寄集めて来て、修繕して縫いつけたんです。これは矢張り医者でないと出来ないです、自然良能で勝手にせいとと言ってもそれはいかんです。自然良能を起し易いように手伝いをするのが、医者の役目ですからね。ところが負傷した指には皮膚がないもんですから、どっちが手の甲の方か、内側の方か判らんのです。それで指がブラブラしとるから、多分あべこべに縫い附けたらしいと言うので、それ以来全然指が曲がらなくなったんです。それで傷の治ったあとも普通の皮膚ではないのです。禿(はげ)の引きつりの皮膚が再生して、それが指を伸ばしたまま硬直したままになっておったのです。
その青島後略戦から三十何年経った年、私の講習会が奈良であると言うので、奈良の生長の家の幹部の平野初造先生が奈良県下を宣伝講演──僕の前触れの講演に──お歩きになって、そして講演が終わると個人指導をしてあげるというので、病気を治して欲しい人や家庭問題の指導をしてほしい人などが、平野先生のところへ相談に出かけて来るんです。その平野先生の講演を聴いて、湯川春生さんはあまり良い講演だったというので、その後平野先生の行く先行く先ずーっとついて廻っておったのでした。
すると、個人指導の時に、誰かが何かの病気で、それを治すためにどうしたらよいかと質問したら、平野先生が、 「君は感謝が足らん。感謝したらそんなもん治ってしまう。一日一万遍“有難うございます”と称(とな)えるんだよ」と、こう言われたと言うんですね。そういう指導をせられたことが三度あったって言うんです。それで側で聞いておった湯川春生さんは、「ああ、私も感謝が足らんだなあ」と思いまして「私も一日に一万遍有難うございますと言いましょう」と決心して願を立てた。
湯川さんは何遍言ったかと云う事を数える為に“正”と云う字を手帳に書いた。“正”という字を一字書きながら一画ごとに「ありがとうございます」と唱えると、一字で五回感謝の言葉をとなえたことになると言うので、「有難うございます。有難うございます。有難うございます。有難うございます」とやっておったのでした。そしてら午前中に、まあ五千遍程称えた。それから昼食後又「有難うございます」と繰返し称えていると、夜になるまで、九千回位称えることが出来たのでした。それで残りの千回位は寝床に入ってでも称えられると云う訳で、寝床に入ると、伸びた儘(まま)の指先のある手を合掌して。「あとは数えないでも一万遍になる」と寝床の中でただ「有難うございます。ありがとうございます。……」と唱えておりましたら、三十何年間曲らなかった其のあべこべに縫付けたかも知れないと思っておった指がムズムズッとして来て、曲ってき自然に握ってしまったと言うのです。
「オヤオヤ」と思って、こう伸ばしてみると、伸びる。また曲げてみる、と云うので、うれしくて伸ばしたり握ったりして、そのまま治ってしまったと言って、「感謝の言葉」の功徳がどんなに素晴しいかということを、奈良の講習会で湯川春生さんは体験談をせられたのであります。
こんなに三十何年間も関節を曲げなかったら、仮令(たとい)怪我をしていない、あべこべに縫付けていない健全な指であっても、筋肉の収縮力と云うものが退行し、萎縮してしまって、もう関節を動かす筋肉がしびれたようになってしまって、絶対曲らんのが普通なんです。それが動き出したんですよ。
腹を立てたら再び指が攣縮(れんしゅく)した話
その話を、僕は長野県の上田と云う所で講習会があったときに、感謝の言葉の功徳の実例として話したんです。そしたら上田に鐘淵紡績会社の系統の会社で、ラジオ・セットなんか拵えている鐘淵なんとか株式会社というのがあるんです。そこの寄宿舎の舎監をしている女の人が、変形性リウマチスと言いますか、手の指の第一関節が蝮(まむし)の鎌首のような恰好に曲りまして、それは一本の指だけじゃない全部の指がそうなってしまって伸びなくなっていたのです。その人が僕の講習会を受けて、湯川春生さんの曲らない指が曲ったと云う実話を聞いたとき、あんまり有難くなって、「有難うございます!」と、感極まって、思わず合掌したんです。その時、ハッと自分の指を見ると、今迄十本の指が皆蝮の頭のようになって曲った儘で伸びなかったのが全部真直ぐに伸びていたというのです。
それを見たとき、この婦人は本当にいよいよ有難くなって、「ありがとうございます。ありがとうございます」と言いながら書籍売場の幹部のいる所に行って「先生、この指が十本こう曲っとたのが、みなこんなに伸びるようになりました。ありがとうございます、ありがとうございます」と感謝したんです。講習会に来ていたすべての人もその奇蹟に驚いて大騒ぎをしていました。
そこまではよかったんですがね、それから講習が終って一週間程したんです。その夫人が舎監をしている寄宿舎で何か問題が起って、彼女はカーッと腹が立った。そしてその相手の人を“あいつ掻きむしってやろうか”と思ったんです。それでハッと見ると、掻きむしるのに都合のいいように両手の指の第一関節が元の変形リウマチスの時のように曲ってしまっていたんです。それで、彼女は、「アッ、こりゃ大変だ」と思いまして、もう一ぺん指を直すために“有難うございます”と言い直しをせんならんと思って、今度は一所懸命に治そうと思って、“有難うございます。ありがとうございます”と毎日繰返し言っていたけれどもまだ中々に完全には治らないで半分ばかり伸びたかと思うんだけれども、まだ本当に治っていないんだと云う話を聞いたことがありましたんです。
「肉体は心の影」というのは、そう云うものなんです。本当に感極まって有難くなったら、パッと即座に伸びたんだけれども、癇癪(かんしゃく)にさわって、腹が立って、相手を掻きむしってやろうと思ったら、また曲ってしまった。そして今度は、これを治そうと思って、心の中にその病気を摑んで、そして“有難うございます”と言っていると治らんですね。
「治そう」と思う心の中には「病気」がある。病気のことは何も思わず、ただ本当に有難うなった時に、神様の癒す力が天降(あまくだ)って来るのです。自分の心の波長が神様の波長に合うんですね、そうすると神様の世界には病気が無いから、病気の無い波長が、この人体にそのまま映って現われてくる。「肉体は心の影」と云う訳で、実相世界にある神の子の健全な姿がそのまま映って来る訳であります。
|
|