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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[2192] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第9回
信徒連合 - 2016年02月15日 (月) 07時33分




インターネット道場――「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 


第9回




マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想ーーーサヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のものーーーが「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。

「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。

また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。

インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。

そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。



******************


(「生長の家 今昔物語」の比較篇を転載)


(注)この比較篇が作られたのは、6年前の平成21年でした。当初の頃は「谷口雅宣先生」と敬称で書かれていました。しかし、平成28年の現在に於いては、“敬称”で呼ぶ値打ちのない人物と成り果てました。しかし、この転載文に於いては、原文どおりの「谷口雅宣先生」として転載いたします。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 「不立文字」について



「今の教え」における「不立文字」の意味と内容


 「信仰による平和の道」の中で第三代目・谷口雅宣先生は、次のように<不立文字>という事について説かれています。

(1)生長の家では、仏教で説く「不立文字」の考え方を採っていて、真理の真髄の部分は文字では表現することが出来ない。従って、文字で表したものは、みな不完全なもので真理ではない。と考えますから、聖典に書かれた一言一句を永遠に墨守して実行するという考え方は採らないのであります。

(2)真理というものは本来、大道無門なのであります。形にはまったものが真理ではない。真理は表現されねばなりませんが、表現されたものは、ある時には真理に即していても、それはまた真理から離れてくるものもある。

(3)真理の表現は、人・時・処で変化するのですから、真理を学ぶ我々は聖典等の表面の言葉に捉われないようにしようと言うことです。古い時代の文章は現代の我々には分からない事情の下で書かれた可能性がある。背後にある色々な考えなければならない事情があった。それを全部捨象してしまって「ここにこう書いてあるから、これが絶対の真理だ。」というのでは独善に陥る危険性があると言うことです。

(4)では、何をなすべきかというと、今日に於いては、生長の家では「今の教え」が総裁先生(当時は、第二代目・谷口清超先生)によって説かれているわけですから、しかも御本人が生きていて説かれている訳ですから、他の人がそこに何かを付け加えたり、またそこから抜き取ったりする事はない訳ですから、そう言う「生きた教え」を学ぶことが重要になって来るわけであります。



              
「本来の生長の家の御教え」


 「生命の実相」第25巻・教育実践篇上巻において、開祖・谷口雅春先生は

・ 「生長の家」で説くところの宗教的真理は、多くの善き宗教の真髄をなしている宗教的真理と同じであり、むしろ多くの宗教の説く真理に開眼を与える底のものでありますが、何処が違うかと言うと文章によって一喝を与える点であります。本を読めば病気が治るということも、文章による一喝によって、読者の生命の実相が開かれて心の病気が治る。肉体の病気の治るのも、この随伴的結果なのであります。

・ <この生命の実相>というものは、今までは文字・言語のよく説くところではない。言詮不及・不立文字であると言われていた。それを文字を立て・文章を立て・言葉の力によって生命の実相を悟らせるようにさせた所が、生長の家の独特なところであります。

・ 今までは、真理と言葉とが二つに分かれていて、言葉や文章は真理を完全に表わすものではない、と思われていた。ところが、生長の家では、言葉と真理・文章と実相とをピッタリ一致させた。

・ 古来、直接説法・以心伝心でないと悟ることも出来ない真理を、ただ文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命あり・生命の中に文字あり・文字と生命と一体と言うような域にまで達せしめ得たのだろうと思います。

・ さればこそ、本を読むだけで直接参禅しても得られないような悟りに到達する人が多勢現われて来て、その影響の及ぼすところ肉体の病気も治り、境遇・環境まで変化してくるというようになって来たのであります。

・ 生長の家は、宗教としては今までの多数の宗教に対して敢えて別異を説くのではない。根本に於いて・真理に於いて同じことでありますけれども、その表現が今迄に見ないような強い迫力ある芸術になっている。

・生長の家では、活字が道場である。文章が教化の師である。活字の印刷した新聞紙の行くところ、活字の印刷した小冊子の行くところ、其処が道場化して人を救うということになるのであります。



                
<注釈コメント>


・宗教・信仰の世界というものは、学者や評論家の世界ではないのであります。学者や評論家は、人の病・悩・苦を救う事は出来ませんが、宗教・信仰の世界においては、人を救うこと、即ち病・悩・苦の現実的解決が大切であります。

・「生命の実相」は、コトバの力で真理そのものに可能な限り接近して、神様の叡智に導かれた谷口雅春先生の人間的努力の極限の文章芸術なのであります。かくして完成された、<言葉と真理>・<文章と実相>とが完全にピッタリ一致した最高級の霊的文章芸術は、それを読む人の心の中に霊的感動を走らせ、迷いの自壊作用を起こさせ、かくしてその人の<生命の実相>が顕れ出、<奇蹟>となって顕れるのであります。

・一方、「今の教え」として説かれ・書かれている文章・講話・講演には、霊的感動が全くといって良いほど起こって来ないとの感想を持つ人々が実に多い。従って「今の教え」では、迷いの心に自壊作用を起こさせて<奇蹟>を起こさせる事は出来ない。その理由は、学者・評論家の視点で書かれ・話されており、評論文を読んでいるようであり、学者の研究発表を聞いているようで何ら悩める人々を救う力はないからであります。つまり、「今の教え」においては、言葉と真理・文章と実相とがピッタリ一致していない為、霊的文章芸術の域にまでそのレベルが達していないからなのであります。

・この差は一体、何処から来るのでしょうか?真理というものを外から眺めている人であるか、真理と霊的に一体となっている人であるかの差なのであります。宗教用語つまり悟り・大悟徹底という言葉を使えば、一つに「無の関門」を透過した人であるか、していない人であるかの差なのであります。

・開祖・谷口雅春先生は、「無の関門」を超えられ、絶対実在を絶対認識された霊的悟境から御文章を書かれお話をされたのであります。

・一方、第三代目・谷口雅宣先生は、まことに失礼ではありますが、ご自分では<御教えの真髄の不立文字>を受け継いだと言われておられますが、「今の教え」の内容を静かに観ずれば、未だ「無の関門」を超えられたお人とはとうてい思われず、大悟徹底の霊的体験のお話もありません。従って単なる御自身の肉体頭脳知による思索であり、真理を外から眺めて話され書いておられる故、<言葉と真理>・<文章と実相>とがピッタリ一致せず乖離しており、従って霊的感動のほとばしりが感じられないのであります。




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