| [2193] インターネット道場―――体験実話特集 大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(12) |
- 信徒連合 - 2016年02月15日 (月) 07時48分
インターネット道場―――
体験実話特集
大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(12)
世界を動かしているのは“不足の原理”?
かって高知県の教化部長をしらっしゃた百々(どど)静雄さん、この方は薬剤師の方で、子供がなかったのであります。科学者でありまして哲学が好きで、ヘッケルというドイツの大哲学者の「生命の謎」という本を読んで、“人間というものは物質の分子が集ってモネラというような単細胞動物となり、これが複雑に結合して進化して人間となったのであって、結局、物質が複雑に結合して進化したものが人間である”というような人生観をもっておられたのであります。
そして自分に子供がない。その子供がないのは何か物質が足らんからであろうと、自分は薬剤師ですから“何かこれは栄養が足らんとか、成分が足らんとか、薬剤が足らんとかいうことが原因”だと考えられまして、そして何か栄養分とか薬剤とかを頻(しき)りにやってみるけれども、子共が生れなかった。そしてそういうて哲学の本を読んで、自分で独特の世界観、人生観をお持ちになりまして、この世界の全てのものは「不足の原理」によって動いているのである。男の人が女を求めるのは女が足らんからである。女が不足しているからである。そして女の人が男を欲しいのは男が足りんからである。貧乏人が金欲しいのは金が足らんからである。戦争が起るのは領土がたらんからであったり、資源が足らんからである。という風に、兎も角すべての運動というものは足らんから起るのである。風が吹くのはそこに空気の真空のところがあるとか、低気圧の所があって、そこに空気が足らん所へ空気が動くのである。すべて“足らん”という原理によって此の世界のものは動いているというので“不足の原理”というもので世界は動き、人生は動いているのであるという素晴しい人生哲学をお建てになったのであります。
人生はその人の人生観の如く出て来る
しかし百々静雄さんが“この世界を支配しているのは不足の原理だ”と思っております間は、百々さんには、凡ゆるものが不足になりまして、そうして子供も出来なかった。そして、子供さんが足らんのは肉体にある成分が足らんのである……そして金が足らん……とか、もう足らん、足らん、足らんとこう考えて“不足の原理”だと思って何もかも足らなかったんですよ。
生長の家の実相哲学
ところが、生長の家をお知りになりますと、生長の家は今までの百々さんの考え方とはアベコベで、この世界は“満足の原理”で動いていると解ったのです。不足じゃなくて全て満足なる実相が顕われようとして動いている。実相に於いては、既に全てのものは与えられているのであるというんですね。これが生長の家の世界観である。つまり、実相──実の相(すがた)に於いては全てのものは既に与えられているのである。神はこの世界を完全に創造ったのである。現象に足りないところが顕われるのは、それは完全に創造(つく)られているのを自覚しないからである。神の創造り給うた実相世界の完全を自覚すればその完全な実相が顕(で)て来るけれども、完全に与えられておっても未だ半分眠っているような調子で、立派な実相を見ないでいると、夢見ているような状態で、「不足」を夢見ているのであると教えられた。
何故人間は無限を追求するか
吾々には、兎も角無限を追求するという願いがあるですね。出来るだけ長生きをしたいのである。60歳まで生きると70歳、80歳まで生きたいと思う。80歳まで生きると90歳まで生きたいと思う。90歳まで生きると100歳まで生きたいと思う。──斯(こ)ういう風に吾々は兎も角「無限」にこう追求し、また無限を追求する。或いは財産でも百万円拵えたい、いや一千万円拵えたい、一億円拵えたいと、そしてそれでいいかというと未だまだ欲しい、更にもっと欲しい。吾々がこうして「無限」を追求するのは何故かというと、既に無限が自分の内にあるからそれを外に顕現したいからであると説く──これが生長の家の世界観であるわけなんです。
卑近な例をもって言いますと、ここに居らっしゃる皆さんの中にタバコを喫(す)いたいという人がある。それはタバコが足らんから喫いたいと思うのであって、タバコ充分喫(の)み過ぎたら喫いたいことはなかろうと思う人があるかも知れないけれども、“タバコ喫いたい”という願いが起るのは、その人は既にタバコ喫い済みであるからである。タバコを一遍も喫ッたことの無い人がタバコを喫いたいなんて思うことはない。タバコを喫った経験があるから“タバコを喫いたい”と思う。既に喫い済みなんです。吾々が“無限の富”が欲しいというのは、既に“無限の富”を自分の中に有(も)ち済みであるからそれを現象にあらわしたいと斯う感ずるというわけであります。──これが生長の家の世界観であるわけです。
何故、人は救われたいと思うか
衆生(しゅじょう)が仏になりたいとか、成仏したいとか、宗教的に救われたいとかいう願いが起るのは、「既に救われている実相が」あるからこそ救われたいと思うのである。既に仏の実相があるから仏になりたいと思うのである。全然仏というものの体験がなかったら仏になりたいとも思わないし、“完全な自由”というものの体験がなかったら、“自由になりたい”とも思わない。“完全に健康”であるところの生命が本来の相(すがた)であるから健康になりたいと思う。本来の相(すがた)が健康でなければ健康になりたいなどと思う筈はない。
譬(たと)えば、便所を泳いでいる雪隠(せっちん)虫がですね、あれは汚い糞便の中を泳ぐのが本来の相であるから、あれは、あれで当り前だとこう思っている。本来は私はウンコの中を泳がないのが本当の相だという自覚がでて来たら、便所から逃れて上へ上って往く、そして蛹(さなぎ)になって其の蛹が割れて今度は蠅(はえ)になって飛ぶかも知れないけれども、兎も角ですね、自分が其処が汚いと感ずるのは、本来の清潔な相(すがた)があることを自覚するからであります。
自分の現状が不十分だと分かって来るのは、もっと実相にある“充分なもの”の自覚が湧いて来て初めて、その不十分なものから逃れたいという気持が起って来る。其の時には既に、自分の内に「完全な相(すがた)」があるということを自覚したからそういう願いが起って来るのであるというわけなんです。
人間は本来健康である
こんな訳で全ての人が健康になりたいというのは本来不健康なのが当り前だったら健康になりたいなんて思いやしないんです。ところが、本来健康であるのに未だそれが完全に現われていないから健康になりたいという考えが起って来るというわけでありまして、本来健康な相(すがた)とか本来完全な相とかいうのを、これを実相という。それから現在(いま)現われている象(かたち)を現象というのであります。
実相と現象との区別を説く
神想観の時に、「吾れ今五官の世界を去って……」と言いますが、この現象界を五官の世界といいます。すなわち五官によって感じられる世界、眼耳鼻口皮膚の感触によって感じられる世界、これが現象世界である。この世界は自分の心の現わすところである。神様のそのままの心の現わすところは実相なんですが、けれども実相の上に、吾々は神の子ですから、何でも亦(また)仮創造(かりそうぞう)することが出来る。仮創造しまして、その仮の相(すがた)の世界というものを拵える。それは、実際の人生があるのに、舞台の上で芝居を演(や)るでしょう。あれが仮創造の世界である。実際見えるし、芝居しとるところを写真に撮ったら写真も撮れるし、悲劇は悲劇として現れとるけれども、そんなものは本来有りやしないんですよ。あれは芝居なんです。あれは作者の表すところ、或いは映画なら映画監督とかプロデューサーの表すところとかいうようなものであって、いくら現われていても、あんなものは本来ありゃしないんです。ありゃしないけど見えておって、現象としてはあるんですよ。
本来ありゃしないんけれども有る。そういうものが仮創造の世界であって、本当にある世界ではない。それと同じように、神様の拵えた実相世界即ち実にある世界、実在の世界、というものは完全円満であるが、その上に吾々の心の波をもってレンズを拵えて、心の世界でロケーションをして、それが時間・空間──縦横厚みの世界のフィルムに映されて来るんです。今ロケーションをしたからと言っても一遍に映画館にフィルムはかからんですね。1年も前にロケーションしたものがやっと日本に輸入されて来ることもあり、それをシネマスコープだなんて言って観(み)とる人がありますね。そして恰(あたか)もその光景が今あるように見て、中には涙を流しとる人もあるし、笑っとる人もあるが、兎も角そういうように、今見えとるのは、今あったかと思うと、そうじゃないのであって、それ以前に既に心の波で、プロデューサーの心の世界に拵えたものがそこへ映っているわけなんです。
そういうように、実在の世界即ち実相の世界に仮創造した世界が肉眼で見ているところの世界であって、そこには心のプロジューサーの創作によって病気も現われとるし、貧乏も現われとるし、戦争も現われていますが、それは本当にあるんじゃなくって仮創造の世界──即ち創作物語である。それを「五官の世界」という。だから、そういう悪い世界があると思って、そしていろいろと心の波に悲しみや歎きや怒りを起すと、又次の波が起る。そして心の世界に千波万波の交錯した画面が出来て、それが又次に何時間か何日か何ヶ月か経つとそれがまた時間・空間の現象界のスクリーンに映って出て来て、そして如何にもそれが実在であるかの如く見えると言うわけなんですから、どんなに実在するが如く現象悪が見えてもそんなものは本来存在しないのであります。これが生長の家の教えであるわけであります。
生長の家は、こういう実在論と認識論の哲学をもって人生に臨むのでありますから、実相と現象との区別をハッキリさしておかなかったならば、その説くところが本当に解らないのであります。だから「生長の家の教えは難しい」という人があるのであります。
「不足の原理」から脱却した百々静雄さん
そこで話は百々静雄さんに返りますが、百々静雄さんは、此の世界を観察されて、そういう「不足の原理」によって此の世界は動いていると解釈し、人生は不足によって動くという一つの人生観をもって自分がプロデューサーになって、百々静雄さん自身の人生を造ることにせられたのですね。その人の人生はその人の人生観が創り出した作品ですから、何でも不足になって現われて来とったのです。
ところが生長の家に触れて人生観が変わって来た。そして、この世界は「満足の原理」によって動かされていると解かったのです。実相は既に満足で完全なのであって、その実相を蔽(おお)い隠さなければ其の影が人生に映った何でも豊かになるのであるということが解ってまいりますと、何でも豊かになって、お医者さんが診ても「あなたは子供が生まれる筈がない」なんて言われておった奥さんからでも、可愛い子共が生れるようになり、更に経済的にも豊かになって来たのであります。
「治そう」と思って病気を心で摑むと治らない
その体験を話されたとき、百々静雄さんは誰か他の腹膜炎の御夫人の話をなさいましたが、それが治ったのは、「有難うございます」と五百遍とか千遍とか言えと言われて、その通り感謝の言葉を唱えてみてから、「もう治っとるか」と思って見たが、治っておらなかった。それは何故かというと、五感の世界に現れてるものを摑んでいる。この腹膜炎で腫れている病気は、「ある」と思って心で摑んでいるから、心で摑んでいる間はその病気は放れなかったのである。病気を消滅させようと思うならばそれを心から放さなくちゃいかんのであります。病気をあるという考えで、それを心に摑んで、治そうと思うと却って治らんのです。
で多くの人達が病気を治そうと思うけれども治らん場合があるのはですね、それは病気を摑んでいるからなんです。それで、「有難うございます」という感謝の言葉も、それを治す手段に使ったら駄目です。本当に心から「有難うございます」という心境になることが必要なんです。
そうすると、有難うございますという心境はどういうものであるかというと、何ももう求めない心境であります。既に満足して有難いんですから、「これを欲しい」「あれを欲しい」と思う事はない。「これを欲しい」「あれを欲しい」という間は満足の思いではない。「不足の思い」です。「治りたい」という思いもこれは不足の思いです。「有難うございます」というのは、既に満足していて“そのままの心”になっている心境ですね。
こうして、“そのまま”の心になれば、神の創り給うた実相のそのままが現象界に映って来るから、ハッと気が附いたらもうお腹の脹れとったのが治っとったというように、腹膜炎が消えてしまっておったということになるんですね。
さてそのままの心を呼び出すために、“ありがとうございます、ありがとうございます”と感謝するのであって「病気を治そう」と思って病気を摑んで、治す手段として“ありがとうございます”と言って三遍唱えては「もう、お腹はちょっと位は、ひっこんどるか知ら」なんて思って眺めて「やっぱり脹れとるなあ」と思って、そして不足の思いで心が膨れとったら益々お腹の病気も脹れるわけだ。吾々は不足の念(おも)いを起すと体は脹れるものなんです。
不平の心を起している人を「あいつ脹れっ面しとる」と言うでしょう。「不足の念(おも)い」を起しとったら顔でもお腹でも脹れるんですね。しかし吾々の顔の頬辺(ほっぺた)は或る限度以上はもう脹れないですけれども、“心”の方は、不平不満を持っておれば幾らでも、頬辺の面積以上に脹れるけども、それが形に現れるのには、頬辺をただ不平面(づら)して脹らしているだけじゃ面積が足らぬから、身体の何処かに癌みたいなものになって脹れるか、子宮筋腫になって脹れるか、腫物(おでき)になって脹れるかというようなことになるわけなんです。
心というものは動力ですからね、動力だから物を脹らす力もあれば持ち上げる力もあるわけですよね、そうでしょう。(机上のマイクを持上げながら)こういうものでも心で持ち上げようと思えば上るんですがね、下そうと思ったら下りるし、これは心で動かすんです。こんな、自分の体の外にあるものでさえも、心で動くんですから、体の中にある内臓が心で動くのは何も不思議なことはないわけですよね。だから心によって病気を起し、心によって病気を治すことが出来るということは合理的なことであります。
その「心」がですね、病気をあると思って摑んだら、病気が「ある」ということを心に描きつづけることになるから、心に描くものが形にあらわれるという原理によって病気は消えない訳であります。
心に描くことによって物事は現われてくるということは、例を挙げて言えば、建物なら建物は、建築設計者が、こういう形の建物だということを心に思い浮かべると、ちゃんとその絵図面が心に出来て、やがて設計図の青写真が出来て、心に描いた通りの建物が建つと同じように、吾々の肉体にもこういう病気というものをあるとして心に描くと、それがあらわれ、あらわれた病気を見て「その重い病気がある」と心で摑むと、それは中々消えないということになるわけであります。
だから「病気」、というものでも「不幸」というものでも、それが何かの原因であらわれたとき、それを「ある」として心で摑んではならんのであって、放してしまわねばならない。放してしまって、心を一転して「実相」の円満完全な相(すがた)をじーっと観ずるんですね。実相の円満完全な相(すがた)は観ずればそれが顕われる、観じなければ顕われないのであります。
観ずるとは心の眼をもってみることであります。心で観なかったら、肉眼で視れども視えずであります。「心そこに在らざれば見れども見えず」という諺があるように、実相を観じなければあれども視えずであります。
心がそこになかったら、聞けどもきけずであります。側で誰かがしゃべっておっても他のことを考えておったら、「君、先刻(さっき)なにを言っとったんか、一寸も聞かなんだ」ということになるのですね。「フン、フン」といってカラ返事をしとったけれども、何言うとるかちっとも解らず返事しとったということになります。
心そこに在らざれば見れども見えず聞けども聞けずというように、そこに実相の世界の完全な相(すがた)があっても、心がその完全なものを観なかったならば、その完全な相というものは顕われないということになりますから、吾々は実相の完全な相を出来るだけ観るようにしなければならんのであります。その行法が神想観であります。じーっと、心を鎮め精神を統一して神想観を実修して、実相の完全な相を心で見詰めればその相が顕われて来るのですから、神想観は毎日一回乃至(ないし)二回は必ずお行(や)りになる方がいいのであります。神想観をすれば心が整う。心が整えば実相の完全な相が自のずからそこに顕われて健康が実現してくるわけであります。
ですから、聖経『続々甘露の法雨』の次を読みますと、こう書いてあります。
無生物なる物質に起る科学的法則と 生きている生命体に起る生命的法則とは異なるなり。 無生物なる物質をいかに試験管内にて組合すとも 決して生ける生命体は生ぜざるなり。 無生物なる栄養成分が 人体の一部を構成し、 「生ける肉体」に変ずるには、 物質的補給が兎も角も「生命」の支配下に置かれざるべからず。 生命の支配下に物質が置かれるとき 単なる科学的法則にて離合せし物質が、 又別の法則にて離合するなり。
それで、試験管の中に吾々が食べるところのすべての養分を──蛋白(たんぱく)質を脂肪を澱粉(でんぷん)を、或いはビタミンをミネラルを──ずーっと凡ゆる成分を入れてそして36度何分の人体に一番適する温度にして何時間置いておいても人間にはならんのですよ。ところが吾々の胃袋へ入れるとですね、それが人間の形になる。不思議ですねえ。吾々が牛肉を食べる。牛肉を食べてそして体が肥満して来ても、それでも人間は牛にはならない。牛の物質を食べても牛にはならんし、そうかと思って“鶏肉(かしわ)”を食べても、それでも人間は鶏にはならん。鶏を食べても牛を食べても野菜を食べても人間の肉体になるんです。何が斯(か)くならせるかと……それは唯単に化学作用でなるんじゃないですね。化学作用で牛の筋肉が人間の筋肉に変化した、なんてそんな馬鹿なことはないですね、化学作用以上の生命(いのち)の力というものが加わって初めて、牛が人間になる。かしわが人間になる。野菜が人間になる。穀物が人間になる。──ということになる。で物質の炭水化物であるとか窒素化合物であるとかいうようなものがですね、
どうして人体というものになるかというと、それは人間なるところの理念ですね、理念というと、神様の心の中に思い浮かべられたところの相(すがた)であります。“人間は斯くの如き相(すがた)であるべし”と心の中で神様が念(おも)われた相(すがた)、それが人間の理念であります。
朝顔の花は斯くの如くあるべしというように神様が心の中で念(おも)われたら、それは朝顔の花の理念ということになるのです。その理念が即ち朝顔を朝顔の形たらしめているところの朝顔の“生命”であって、その朝顔の“生命”即ち理念を宿している種があれば、それを植えれば同じ黒い土からでも朝顔の花が咲くし、同じ土のすぐ隣に、ダリヤの理念を宿しているダリヤの芋を植えておくと其処からはダリヤの花が咲く。同じ物質の土で、同じバクダモンの肥料で、同じ堆肥を入れて、同じように栽培しても、その養分が化合して、一方からはダリヤの花が咲き、一方からは朝顔の花が咲くというのは何(ど)ういう訳であるかというと、これは唯の化学的変化ではないのであって、化学的変化以上に生命の働きというものが起っている。
生命の中に、朝顔には朝顔の理念があり、人間には「人間の理念」があって、それが物質の配列を支配して、そして朝顔の花を朝顔の花たらしめ、人間を人間たらしめるというのであって、人間の本質はですね、この理念こそ人間の本物である。人体というものはその「理念の相(すがた)」に置き列べられたところの唯の空中の酸素や食べ物の成分の混合に過ぎないのであって、これは人間じゃないんです。「肉体は人間に非(あら)ざるなり」と聖経『甘露の法雨』に示されているのは、そういう意味であります。
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