【広告】楽天市場から大感謝祭を開催中エントリーお忘れ無く

生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

ホームページへ戻る

名前
メールアドレス
タイトル
本文
写真

URL
編集・削除キー 項目の保存


RSS
こちらの関連記事へ返信する場合は上のフォームに書いてください。

[183] インターネット道場ーーー<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ  「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!安らかに鎮まりませ・・・」 <その八>
信徒連合 - 2015年08月08日 (土) 07時50分



<終戦の月・特集>


            *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*


          「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!
              安らかに鎮まりませ・・・」



 八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!



                <その八>




[ Y ] 天皇とその責任 (昭和天皇侍従次長・木下道夫氏著)


 
<<憲法の有無に拘わらず、或いは又、憲法が天皇の御地位について、たとえ、いかような表現文字を使用するかに拘わらず、天皇は日本国民の運命に関しては、皇祖皇宗に対し絶対の責任を自覚せらるるおん方であると私は考える。これが私一個の孤独な考えであるか、多くの人々の共鳴を得る考えであるか、私は知らないが、若干の年月、陛下の側近に奉仕した自分としては、かく思わざるを得ないのである。この御自覚は、遠い昔から永く皇統の上に存するものであって、憲法によって生ずるものでもなく、又、憲法によって消滅するものでもない。


 これは今から二、三十年前のことであるが、当時私が侍従として陛下のお側にお勤めしておった或る日の夕刻、内閣書記官があわただしく一つの上奏箱を持って侍従職に馳せつけてきて、これは総理大臣の急ぎの上奏であるから至急御裁可を仰ぐように取り計らって貰いたい、との口上であったから、私はそれを受け取って直ちに御座所に赴いた。折から陛下は何か御読書中であったが、私はお机の上にある鍵箱から鍵を拝借して、この上奏箱を開いた。これは常例のことで、内閣の上奏箱は、この鍵でなければ開けることができないようになっているのである。箱の中に入っていた書類はただの一件であったが、それは政界の某巨頭を犯罪の嫌疑で逮捕起訴しようという案件であった。この事件については、既に新聞が大騒ぎで大々的に報道していたことで、その汚職事件の火中の大人物を司法大臣が果たして断固起訴するかどうかということが一般の注目の的であった。私は書類の表題を一見して、さては総理もいよいよ決心がついたのかと思いながら、それをお机の上に差し出した。

 汚職といえば陛下の最も忌み嫌われることであるから、私は陛下がすぐに裁可の印をお捺しになることとばかり思っていたところ、意外にも、陛下は、この書類を御覧になるや否や一瞬非常に苦悩の御様子をお示しになった。はてなぜそんなにおん悩みになるのであろうかという、かすかな疑問が私の脳裏をかすめたが、陛下は上奏書に添付してある司法大臣の数枚に亘る起訴理由書を、ジーッと悲しいおんまなざしで、繰り返しくりかえし、御覧になっておいでになる。

 当初私は内心いささか痛快な気持になっていたのだが、この陛下の悲痛な御様子を拝見しているうちに、私もだんだんと考え直し始めた。恐らく陛下は、新聞紙上に騒がれている問題が単なる噂や中傷であれかしと、おん心ひそかに祈っておいでになったのではあるまいか。それが今、公正な司直の手にかかって愈々これが事実に近いということになったのだから、はた目にも御落胆の御様子が、しみじみと伺われる。

 陛下が、この上奏に対していかなる御決裁をなさるであろうかと、最後の決着をお側でおまちしている私の胸のうちには、このとき色々な思いが浮かんできた。われわれの仲間には多かれ少なかれお互いの間に彼我の対立感というものがあって、正と不正、義と不義、美と醜、貧と富、強と弱、智と愚等あらゆる名目にこだわって、われと彼とを比較計量することはやたらにするが、ほんとのところ実は、彼と我とは相去ること余り遠くないということにはとんと気がつかずにいる。ところが陛下はこの対立感というものを少しもお持ちにならないのだから、汚職そのものを嫌われることは明らかだけれども、汚職をした人を憎しと思われる御様子は少しもない。ただ汚職の横行する世の中をいとも悲しと嘆かれておられるのであろう。十年以上も年上の私がつい今まで、心のうちに、いささかなりとも痛快味を観じていたということは、何んという浅ましいことだったかと限りなく恥ずかしくなってきた。

 理由書の御熟読はなかなか終らなかったが、とうとう最後に、陛下は裁可の印をお取り上げになって上奏書にお捺しになった。これでいよいよ起訴は決定した訳である。私はその書類をいただいて上奏箱に入れ、鍵をかけ、私を待っている内閣書記官に急いで渡そうと思って、御前を退いて一歩御座所を踏み出そうとしたところ、陛下は私をお呼び止めになった。

 何か別の御用かと思ってお側に参ったところ、陛下は沈んだお声で唯一言、結局私が悪いのだと仰せになって考え込んでおいでになる。私はお側に立ちながら、ああ、かほどまでにおん身を責められるのか、真に申し訳ないことだと思っていると、つと椅子からお立ちになって、縁側においでになったから、私も無言のままお後について縁側に出た。丁度秋の非常によく晴れた日で、夕日がお庭の松に照りそっていたが、澄み切った蒼天を仰いで静かに、わたしが悪いのだよ、どうすれば政治家の堕落が防げるであろうか、結局わたしの徳が足りないからだ。どうしたらよいと思うか、とおん嘆きになる。

 つい先刻まで、浅はかな持ち前の対立感から、いささか痛快味を味わっていた私ごときものに、どうしてこのお答えができよう。万感胸に迫り、私はただ無言、低く頭を垂れ泣かんばかりで御前をさがってきたことがあった。今でも秋の澄んだ夕空を眺めていると、ときどき、この折のことを想い出す。>>



<<戦後十年、昭和三十年九月十四日の朝、私は何気なく読売新聞を手にとって第二面を開いたところ大見出しで「天皇陛下を賛えるマ元帥」という題で、重光外務大臣の寄稿が載っていた。これを読んでいるうちに、私の胸の中は歓喜感激の情が怒涛のように高鳴ってきた。それは敗戦以来私の心のうちに、ひそかに求めに求めていたあるものを遂に発見したからである。先ずその寄稿の要点を次に掲げる。


             **********


(昭和三十年九月十四日 読売新聞第二面)


             天皇陛下賛えるマ元帥    

                重光 葵


 私の渡米中最も印象深かったマッカーサー元帥との会見の模様を少しばかり御披露申し上げます。

 九月二日ニューヨークにおいて御前十時半、十年前のこの日を思い出でつつ加瀬国連大使と共にマッカーサー元帥の住んでいるホテル、ワードルフ・アストリアの玄関先に着きました。元帥の副官であったホイトニー将軍やスクリップ・ハワード通信の主、ロイ・ハワード氏らに迎えられた。間もなくエレベーターで元帥のアパートに昇る。

 有名なワードルフ・アストリア・ホテルのタワーの一角である。アパートの入り口まで出迎えられ堅く私の手を握った元帥の全身は興奮のあまりふるえている。腕組みしながら私を自室に導いてソファーの上に座をすすめ自分はその側のイスについた。

  (中略)

重光 「東京出発前、那須御用邸で天皇陛下に拝謁した際、陛下は“もしマッカーサー元帥と会合の機もあらば、自分は米国人の友情を忘れたことはない。米国との友好関係は終始重んずるところである。特に元帥の友情を常に感謝してその健康を祈っている”と伝えてもらいたいとのことであった。」


マッカーサー 「自分は日本天皇の御伝言を他のなにものよりも喜ぶものである。私は陛下に御出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚(はばか)らないのである。それにもかかわらず陛下のなされたことは未だかつて十分に世に知らされて居らぬ。十年前平和再来以来、欧州のことが常に書き立てられて陛下の平和貢献の仕事が十分了解されていないうらみがある。その時代の歴史が正当に書かれる場合には、天皇陛下こそ新日本の産みの親であるといって崇められることになると信じます。

 私は戦前には天皇陛下にはお目にかかったことはありません。
始めてお出会いしたのは東京の米国大使館内であった。どんな態度で陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました。しかるに実に驚きました。陛下はまず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました。即ち“私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされた総ての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総べての事を進めていただきたい。私は全責任を負います”これが陛下のお言葉でした。私はこれを聞いて興奮の余り陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがなうことが出来れば進んで絞首台に上がることを申し出るというこの日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念はその後益々高まるばかりでした。

 陛下は御自身に対して、いまだかつて恩恵を私に要請したことはありませんでした。とともに決してその尊厳を傷つけた行為に出たこともありませんでした。どうか日本にお帰りの上は自分の暖かい御あいさつと親しみの情を陛下にお伝え下さい。その際自分の心からなる尊敬の念をも同時にささげてください。」


重光 「それは必ずお受け合いもうしあげます」


 以上が私がニューヨークでマッカーサー元帥と再会した時に、元帥が天皇陛下の思い出を興奮した態度で私に話したものを、当時同席したロイ・ハワード氏が速記していた記録に照らし合わせたものである私はこれを聞いた時はほんとうに感激した。

 終戦の当時、戦犯の問題はもちろん追放の問題まで大騒ぎであった。その空気の中で天皇陛下は少なくとも自らをかばおうとはせず、戦争に対する国家国民の行動については如何なることも全責任を取ることを敵将に明言されたのである。

 その大御心(おおみごころ)は真に天日の如く世界を照らしておるというべきである。私の言葉は旧式の感傷の言葉ではなく、歴史上の事実に対する感激の言葉である。この歴史的事実は陛下御自身はもちろん、宮中からも今日まで少しももらされたことはなかった。

 それがちょうど十年経った今日、当時の敵将、占領軍司令官自身の口から語られたのである。私は何というすばらしいことであるかと思った。われわれはなお日本民族の伝統を保っている。今日も君民一体、一君万民という古い言葉があるが、日本民族のうるわしい姿をマッカーサー元帥の口から聞き得たという感激をもって、ワードルフ・アストリア・ホテルを正午近くじきょしたのであった。


 陛下はマ元帥に前後三回お会いになっているがこの記事は第一回の御会見に関するもので、敗戦直後の昭和二十年九月二十七日のことである。この御会見はわれわれとしては甚(はなは)だ恐縮のことながら陛下の方からマ元帥を米国大使館内に御訪問されたのであって、しかも元帥はお出迎えもしないで自室に待ちかまえて陛下を引見したのであるが、

 お帰りの際には打って変わって、いとも丁寧に玄関までお見送りをしている。恐らく“見ると聞くとは大違い”の感があったのであろう。元帥が天皇を裁判に付することに絶対反対し、もし左様なことをすれば占領軍はなお百万の増援軍を必要とすると本国政府に抗議したことは、その何よりの証拠である。

 
 マ元帥の室に陛下は通訳ただ一人を伴ってお入りになり、マ元帥もただ一人、一対一の御会見で会談の内容は極秘の御約束のもとに行なわれたものである。その内容に付いて当時、巷間(こうかん)色々な憶測は流布されたが、陛下は一切を黙して一言たりともお口にお出しになったことはない。然るに十年後とはいえ、マ元帥が敢えて重光さんに事の真相を物語ったのは、元帥自身の世界情勢判断と且つ陛下に対する深い思慕の情と非常な好意とが然(しか)あらしめたのであろう。このことの当否は別として、とにかくこの記事によって初めて御会見の内容を知り得たときの私の喜びは譬(たと)えようのないものであった。


 戦前十余年間、陛下のお側をはなれていた私は戦後侍従次長として再びお側にお仕えすることになったが、当時の国内情況は万事一刻も油断のならない場合であったので、私は自分の事務所にベッドを持ち込んで夜を過ごすことが多かった。

 したがって夜毎に陛下のお話をゆるゆる承る機会があったが、陛下は戦争に関する御自身の責任に付いては一言も触れられるところがなかった。私の胸の中には十数年前のあの秋の夕の深刻な記憶があるので、今の陛下のお心持は充分に御推察申し上げてはいたが、一言もこれにお触れにならないのには何か訳があるに相違ないと思っていた。

 それが十年後の今日、当のマ元帥自身の口から事の真相が語られた次第であるから、私としては、雲はれて再び万古に変わらぬ天日を仰ぐ喜びで胸も張り裂けんばかりであったのである。陛下は約束を絶対にお守りになるお方である。元帥との堅い御約束があったればこそ、この問題に関しては絶対に沈黙を守りつづけておいでになる。当時は民間に天皇責任論が盛んに話題となって論議されていた際のことでもあるから、お心中さぞおつらかったことと思われてならない。

 戦後、陛下は全国荒廃の各地を御旅行になり、私も初期お供したことがあるが、国民の狂気歓呼の奉迎振りは目をみはるものがあった。国民は陛下がおん自ら戦争の全責任を一身にお負いになって敵将の前に厳然と立たれたその尊いお覚悟は知るよしもないにしても、何かしら心自ら通づるものがあったのではなかろうか。>>





(4)
Pass



Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】楽天市場から大感謝祭を開催中エントリーお忘れ無く
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板