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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[185] マサノブ(自称)総裁(パソコンHN曳馬野)の「『御教え』へのオカシナ質問――こんなレベルでは教えの継承者とは到底言い得ない。信徒の皆様に開祖・谷口雅春先生の『御教え』を引用した回答を提示します。
上泉信綱 - 2015年08月08日 (土) 10時49分


マサノブ君は、かつて講習会で信徒の質問に関して常識でもわかる大きなマチガッタ回答を為し、信徒達からそのマチガイの指摘を受けながら未だに訂正をしていないのであります。――それは、「甦り」と「転生」とは違うのにそれを正しく説明できなかったことです。人間の輪廻転生のことを「甦り」と説明したのです。これは大間違い!「甦り」と「転生」とは違う! 「甦り」(よみがえり)は、“黄泉(よみ)から帰る”ということで、 死んだ人,死にかけた人が,息を吹き返すことであり、生き返ると云うことであります。一方、「転生」(てんせい, てんしょう)とは、死後に別の存在として生まれ変わることであり、両者は全く別の事柄であります。かくてマサノブ君は宗教音痴・霊的音痴である事を講習会の場で図らずも暴露してしまったのであります。しかもその大間違いを指摘されても一向に訂正しようとしない剛情な人間性までも証明されたのであります。

これと同じことが、「トキ掲示板・本流対策室」の投稿文で信徒に質問しているのです。自分がわからないので、信徒から答を得ようとしているのです。総裁としての自分が答えられないので、その自分自身の自信のなさを隠して信徒に次のような質問をして回答を得ようといるのです。この卑怯さ傲慢さは、教えの継承者として汗顔の極みでありまして“不適格総裁”で辞職ものであります。



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<「トキ掲示板」本流対策室>


信徒への間違った質問@
未だ生まれたことのないのが神の子人間である、という生長の家に於いて輪廻転生する当体は一体なんでしょうか? (695 :曳馬野=マサノブ君)


信徒への間違った質問A
人間は高級霊になるまで輪廻転生を繰り返し、何時か高級天体に転生すると云われてはいます。でもそうすると『地上天国実現』と云うのは掛け声だけで実現不可能なお題目で信徒を釣ったということになりませんか? (695 :曳馬野=マサノブ君)


信徒への間違った質問B
因果応報と輪廻転生とどう関係するのでしょうか?
(注・マサノブ君は、『現象界の人類の運命の遷(うつ)り易(かわ)りや死後の霊の進化』を因果応報という言葉で表現?) (698 :曳馬野=マサノブ君)


信徒への間違った質問C
『何が輪廻転生するのか』(輪廻転生する主人公)がわからないと、輪廻転生の存在価値(『輪廻転生なんて用はないです』)もなくなって、また「輪廻転生」による「因果応報」(善因善果・悪因悪果)など存在しないのではないのか?( 711 :曳馬野 =マサノブ君)


信徒への間違った質問D
霊の進化有としますと、何時個別霊なるものが誕生したのでしょうか? その個別霊が進化して高級霊になると高級天体に移行するとするとすると、『地上天国実現』なんていうのは実現不可能であって『地上天国実現』という言葉で信徒を釣ったのですか? (733 :曳馬野=マサノブ君)



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僭越ではございますが、『御教え』に基づいた私なりの回答を述べさせていただきます。



信徒への間違った質問@

未だ生まれたことのないのが神の子人間である、という生長の家に於いて輪廻転生する当体は一体なんでしょうか? (695 :曳馬野=マサノブ君)



<私の回答>

輪廻転生する主体は、實相人間としての個生命であります。『御教え』によって詳しく述べれば、――

@ 「輪廻転生する主体」でありますが、これは、「本来生、不滅の神示」に於いて『真の人間は「神の子」であって物質ではなく、肉体ではない。肉体ではないから物質の世界に出入する事もない。衰耄なきを「人間」と言い、老朽せざるを「人間」と言う。病なきを「人間」と言い、「死」なきを「人間」と言う。真の人間は無常の中にあらず、肉体の中にあらず、人間は永遠不死、金剛身、如来身、実相身、清浄身である。人間は不生不滅ではなく、本来生にして不滅がその実相である。また人間は不垢不浄ではなく真清浄真無垢がその実相である。本来生、不滅、本来清浄真無垢なのが人間の実相』とあります。

A 次に開祖・谷口雅春先生は「實相研鑽」第一集に於いて、實相とは具体的なものであって夢想的空想的なものではないと述べられています。『實相の中に“個性命”があるんだ、だからあんたの考えは前提がちがうんだ。實相といったらズンベラ棒で、目も鼻も何もなしに、空気みたいなエーテルみたいなものだというんじゃないんですよ。實相の中には“実の相(すがた)”があるから實相と言うんで“空”じゃないんだ。現象よりももっと具体的なものがあるんです。それが實相です。その具体的なもの――實相が、縦、横、厚みの現象世界へ映って出ているので、それはちょうど、テレビ・スタジオの(実物の)テレビのスターがテレビ・セットに映って出ているように、生まれ変っているわけであって、テレビ・スターがいつもテレビ・スタジオに中におるのと同じように、いつも個生命が實相の世界におるのです。』

B 『生きている生命として、個々の生き生きとした“いのち”として實相の世界にちゃんと個生命がおる。テレビのスターが、テレビ・スタジオに居るように居る。それがテレビセットにいろいろ映って出て来ておるように出て来るんだよ。波長が違うと日本教育テレビに出て来たり、日本テレビ、NHKテレビに出て来たりするように、各所に転現しながら同一スタジオにおる。各所に生まれ変りながら實相は生まれ変っていないという状態――だから『維摩経』における文殊菩薩と維摩居士との問答のように“来たらずして来たる”というように、現象(ここ)へ実際は出て来ないで、しかも出て来たように現われている。』

C 『原型があるんだ、完全な原型が。それがいくらか捨象されて――その姿の一部分というか、立派なところがぬけて――不完全に縦横厚みの世界に現われている。ちょうど実物は立体的存在であるけれども、写真に写したら“厚み”が捨象されて、平面的存在に現われるようなものですね。現象世界は實相世界より劣ったように現われているんだ。それをだんだん上手に写すようになれば、それがいわゆる“進化”とか“無限生長”とかいうことになるわけだ。』

D 『現象界からみれば無限の可能性だが、實相界からみたら“すでに”あるんだ。可能性どころじゃない。實相は実の相(すがた)で完全な形が既にあるのです。實相は實相の立場に立ってみないと本当の解釈・把握ができない。しかし現象の立場から、逆からのぞいてみることもできるんです。(水の入ったコップの中のハシのように)科学的立場から説明していくのと、宗教的立場から説明していくのとは、全然別の立場になるわけなんだ。それで科学的立場から理屈でおいつめていっても、“實相はすでに完全である”ということは、實相的立場から箸そのものを抜いてみないとわからんのと同じ』

E それは自分はどの角度に立って、そのものを説明しようとしているかという立場によって、表現の仕方が変わって来るわけなんです。それを、すべて一つに表現しなかったら、矛盾があるように思うのは間違いなんです。矛盾はない。“その”立場から見たら“その”解釈が正しいのであって、そこで生長の家で説くのは、實相的立場から、根本的に説いているということになっているのですよ。』(實相研鑽・第一集174〜187頁より抜粋)

F 『生命の實相』の中には、ある名俳優と観相家の話が書いてあります。その観相家が、ある日その名俳優にあっとき“死相”が鮮やかに顔に出ていたが言いそびれた。それから数日して同じ名俳優に出会ったときには、“死相”は完全に消えて完全すぎるほどの温厚な人格者の顔相に変化していた。その理由を思い切って尋ねると、その名俳優曰く、「あの時は『吉良上野介』の役を真剣に成り切って演じた時でした。今日は“大石内蔵助”の役を演じてきたからでしょう」と。これと同じく、「實相の個生命」は楽屋にいて、必要に応じて舞台へ出て来て色々な役者として演技をして技を磨いていくのです。これが現象世界での真理探究の道(求道)であり、實相顕現過程であり、個生命の進化であります。これが輪廻転生であります。

輪廻転生の目的は、実相人間の持つ想念の完全な自由の自覚によって、無限の個性と無限の可能性を無限生長を現象世界に実現して、實相の神の子を再自覚して大歓喜を得るためであり此の過程は、画家が既存の心中の完全な画像を現象世界のカンバス(画布)上に描いていくことと同じであります。

アナウンサーは、常に放送局のスタジオにいるが、その化現としてのアナウンサーは各家庭のテレビ画面に出て来ており、ラジオから声を流します。これが『維摩経』の「来らずして来る」であり、實相世界の個生命としての實相人間は、現象世界へ「来らずして来たって」いる。これが輪廻転生の相の本質であります。私はこのように『御教え』に基づいて理解いたしております。




信徒への間違った質問A

人間は高級霊になるまで輪廻転生を繰り返し、何時か高級天体に転生すると云われてはいます。でもそうすると『地上天国実現』と云うのは掛け声だけで実現不可能なお題目で信徒を釣ったということになりませんか? (695 :曳馬野=マサノブ君)



<私の回答>

@ 此の質問は、高級霊になれば地球の三次元現象世界から他の高級天体へ転生するわけだから、地上に残った低級霊だけでは何時まで経っても地上は『天国浄土』とならないのではあるまいか?という趣旨だと思われます。

A マサノブ君=曳馬野君の此の質問内容の考察は底が浅いのであります。

霊魂進化の神示(『神ひとに語り給ふ』神示講義・教の巻(P.167−168)および『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.102−103)

『「神の子」なる人間の實相を現象世界に実現するのが人生の目的である。現象世界とは現界、幽界、霊界を通じて呼ぶ言葉である。人間の運命とは『神の子』なる人間の實相(因子=たね)が現象世界に投影する時、時間空間的に展開するのに、おのづから一定の順序を追うて展開して行くように大体定められている。人間は心の自由を有(も)ち、自由に實相の悟りによって念波を浄(きよ)め得もすれば、迷いによって念波を一層汚(けが)すことも出来るのであるから、現象世界に實相人間を顕現する過程(進化の過程)を心次第で縮めることも長くすることもできるのである。霊魂進化の過程を短縮するのは、念の浄化による。念の浄化には、實相を悟ることが第一であり、物質欲に捉(とら)われざることが第二である。物質欲に捉われざるためには、『物質本来無し』の真理を悟るのが第一である。『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざる者には、物質の快に捉われざるための修行として、自ら進んで苦を求めて喜ぶか、物質に快を求めて却って苦を得る体験を通じて、ついに物質欲に捉われざるに到るかの二途しかない。前者は自ら進んで嘗(な)める苦行であり、後者は幸福を求むれども求むれども運命的に他動的にやってくる苦難である。その他に過去の悪業の自壊する過程として自己の霊的流動体に起こる擾乱(じょうらん)現象の苦痛もある。苦難がみだりに取り去られず、多くの霊魂の霊界通信が苦行の価値を力説しているのも此の色々の理由によるのである。(昭和八年九月十五日神示)>>

B 實相の個生命がタテ・ヨコ・アツミの地上現象世界へ「来たらずして来る」理由は

イ、實相真理の再自覚と再認識つまり真理の求道のため

ロ、その真理求道の過程に於いて、想念の自由の濫用による神性隠蔽に遭って、その因果応報の原則による悪業を自壊消滅させるため、一回の転生で自壊できない時には多数回の転生を必要とする

ハ、正しい姿勢での真剣な求道に因り、高級霊の心境に達して、地球現象世界を卒業して、更に高い高級天体へ個生命として進化向上して行くため

ニ、物質慾にとらわれている絶対多数の地上現象人間に正しい真理を伝え導き、彼らの霊魂進化の援助をなすためであります。

ホ、潜在意識からの止むに止まれぬ人類光明化への「七生報国」的な高い使命感を持った高級霊魂が転生してくる


C 『霊魂進化の過程を短縮するのは、念の浄化による。念の浄化には、實相を悟ることが第一であり、物質欲に捉(とら)われざることが第二である。物質欲に捉われざるためには、『物質本来無し』の真理を悟るのが第一である。『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざる者には、物質の快に捉われざるための修行として、自ら進んで苦を求めて喜ぶか、物質に快を求めて却って苦を得る体験を通じて、ついに物質欲に捉われざるに到るかの二途しかない。』したがって、このような人類全員の念の浄化は、100年経とうが200年経とうが無理である。また、地球世界での修行を終えた高級霊は、より一層の次元の高い天体へ転生し、その代わりに地球世界より霊的レベルの低い天体からの転生霊魂もある。この意味ではこの地球世界での「天国浄土」の建設は無理という事になる。

しかし、宇宙の霊的真理を十分に理解・自覚・悟徳したる人達は、その常なる想念の反映の結果、自己の周囲や行くところに於いて、周囲に「天国浄土」の状況が出現して来るのであります。また、愛と慈悲に生きる人類光明化を目指し己が与えられたる地上における霊的使命を持つ人達は、地球世界全体に「天国浄土」が行きわたる状態にならなくても、その目的達成への過程(道程)そのものに霊的生き甲斐を感じて使命ある活動を為す。これが「菩薩道」であります。この様な「菩薩道」を行じている人たち(人類光明化運動の霊的選士)は此のプロセスそのものがそのまま自己の霊的進化に結びついているのであります。

D したがって、上記の如き「菩薩道」のこと等全く考慮に入れないで、マサノブ=曳馬野君は「『地上天国実現』と云うのは掛け声だけで実現不可能なお題目で信徒を釣った」と余りにも低い発言を平気で為すことは、教えの継承者としての資格がないことになるのです。即、引退を奨めるものであります。




信徒への間違った質問B

因果応報と輪廻転生とどう関係するのでしょうか?
(注・マサノブ君は、『現象界の人類の運命の遷(うつ)り易(かわ)りや死後の霊の進化』を因果応報という言葉で表現?)( 698 :曳馬野=マサノブ君)



<私の回答>

@ 輪廻転生(『別冊・真理<正死を越える道>P56−59』
『「生まれ更り」即ち「輪廻転生」と云うことは、人間の個生命が肉体の死後も存在して、再び新しい肉体に生まれるという意味であります。輪廻転生を以って、魂または「固体精神」の進化の方法だと考えるのは東洋の宗教思想であって、何億という多数の人間同士の間に存在する現世の不平等の生活を解釈する最も合理的なそして最も理論的な説明の仕方だと云うことができるのであります。この原理は、貧富の懸隔、文化の差異、能力の相異、肉体的に不利なものと完全なものとを生ずるその根元に遡って、精神的天賦(てんぶ)、徳性、及び霊的心境の相異の説明に適用されるのであります。 一個人、一身体の生命期間では生得の可能性及び精神的可能性を充分に発揮する機会が与えられるためには不十分であるから、各人の魂に自己の現世及び前世で学んでいないことがらを他の生命から学ぶ機会を与えるために、また別の環境にその魂を生まれ更って出て来させ給うのであります。人間の魂は、如何なる人でも、一生涯だけでは完全な発達の機会を与えられないから生まれ更って出ることによって、その不足せる発達を補うのであります。』

A 心の法則は公正の秤(はかり)である(『別冊・真理<正死を越える道>P.39−43』)
『心の法則も自然の法則も生命のすべての分野に於いて「公正の原理」又は「償いの原理」が働いている。「心の法則」によって起こる原因に対する結果は、道徳上の問題に於いて、人間が法理論的に行う人工的審判よりも完全であります。心の法則はこれらを自動的に審判して適当な応報をあたえるのであります。心の法則はあらゆる場合に於いて完全に公正の応報を与え、自然に各人の道徳的進化を導いて行くようにするのであって、これを因果応報というのであって神が罰を与えるのではないのであります。』

B 『業の流転と云うことから考えるならば法則に背いた為の業の刑罰は、法則に背くに至らしめた潜在意識内の欲望の惰力(業因)が根こそぎ引き抜かれて意識外に除かれた時に支払い済みとなるのであります。誤れる感情が起こるのは、欲望の背後から駆り立てる業の力――すなわち潜在意識内の念の惰力――であって、この悪に駆り立てる感情のエネルギーが精神科学的な認識即ち「悟り」によって中和されるか、苦痛によって帳消しされるまではその欲望は執拗に続くのであります。欲望とはその目的に駆り立てる潜在意識的な業の惰力の事であります。』

C 償いの法則(『別冊・真理<正死を越える道>P.70−74』)

『「償いの法則」は全宇宙に行なわれているけれども、本能水準のものよりは人間の場合の方が、高度に顕われています。人間の場合には精神的道徳的法則に背く場合には、「償いの法則」が要求する代償を支払わなければならないようになっています。容赦することのない法則によって償いが要求されるのであります。 高い世界の「償いの法則」は負債の支払いを要求する。負債は魂の内にあるのであって、自分の魂がそれを支払わなければならないのであります。それは体験によって魂がその前非を悟ると云う形式で支払わなければならない。「生まれ更り」の世代中には到底完全には負債を支払う事はできないなら、不足の分は未来の「生まれ更り」の生涯において支払わなければならないのであります。この不足分の「支払い」はその結果己の欲せざる所を他に施さざる底の心境に達する如き経験によって支払われるのであります。』

D 因果応報と魂の教育(『別冊・真理<正死を越える道>P.75−77)

『因果応報と云っても、ある意味から云えば、魂の教育と名付けてもよい。古い宗教では、此の教育中の状態を煉獄と称し、未来の如何なる時にも避けることが出来ないと説いたのであります。
 霊の進化のための動かすべからざる法則は、面倒だと言って廃棄し去るわけには行かないのであります。仮にこれを棄てるために努力するとしても、苦しみを通して心が一転して過去の考え方を棄て、人間の魂が向上しない限り、人間や動物の感情や本能の、成育し遅れた低級な諸性質を後に遺すことになるのであります。これが一代の「生まれ更り」中に起こるにしても、或いは百代の「生まれ更り」中に起こるにしても、永遠と云う無限の高き目的に比すれば、小さい事であります。』

E 生長のための無限の機会(『別冊・真理<正死を越える道>P.79−82)

『遠の生命と云うことが、唯(ただ)「継続する」と云うだけのことであるならば、何の善き意味もないのであります。永遠の存続が生長を意味するものでなかったならば、キリスト教の地獄と同じく恐ろしいものとなる。魂が「生まれ更り」することなく一身体あるいは一場所に幽閉されることは、最悪の悲劇であります。無限智(神)は「死」と「生」と「再生」の制度によりそれを不可能にしているのであります。・・・地球上に何人人間が居ましても、その精神的な能力は一人ひとり各々皆違うのであります。この精神的な能力は体験の所産であります。それは肉体的に遺伝するとは限らず、また肉体的遺伝でないことがしばしばであるのであります。精神的霊的素質が如何なる因子で生ずるかは、物質的な遺伝因子を研究する生物学の法則だけでは決定的に解明することは出来ないのであります。そこに霊の進化の法則が見られるのであります。「変化」こそ進化にとって必要欠くべからざるものであります。人間の「生まれ更り」は魂の進化の場と条件との変化を意味します。度々生まれ更ることは、度々異なる体験を積むことを意味するのであります。』

F このように、霊魂としての個生命は、常に進化し無限生長していくために、輪廻転生があり、その霊魂の輪廻転生の全体を通じて、悪因悪果・善因善果の公平が保たれるようになっているわけであります。これが宇宙の摂理と言う法則でありますから、喩えマサノブ=曳馬野君でもこの法則から逃れることは出来ないのであります。だから、開祖反逆罪その他の宗教家ならざる普通人よりも格段に重い法罪を重ねて生きるマサノブ=曳馬野君はこれからの老後の人生と来世以降の転生人生において普通人よりも格段に重いツケを払わねばならぬようになっているのであります。このツケを今のうちに出来るだけ払うことが必要で、それは総裁職を辞職して「生長の家」を開祖・谷口雅春先生の目指された方向へと復元する道を開くことであるとわれわれは言っているのであります。




信徒への間違った質問C

『何が輪廻転生するのか』(輪廻転生する主人公)がわからないと、輪廻転生の存在価値(『輪廻転生なんて用はないです』)もなくなって、また「輪廻転生」による「因果応報」(善因善果・悪因悪果)など存在しないのではないのか? (711 :曳馬野=マサノブ君)



<私の回答>

マサノブ=曳馬野君は執拗に『何が輪廻転生するのか』(輪廻転生する主人公)を繰り返している。逆説的ではありますが、マサノブ=曳馬野君は、輪廻転生とか因果応報について聞かれることをどうしても避けたい心理を持っているからであります。それは何故か? マサノブ=曳馬野君自体の神性が余りにも厚く隠蔽されてしまっているからだと考えられるからであります。この神性隠蔽を指摘され認めてしまうと次に輪廻転生による因果応報(主としてマサノブ君の宗教家ならざる数々の法罪――悪因の追求)へと話が展開していくからで、ここがマサノブ君のアキレス腱であるからであります。そして、霊魂進化の落第生で無限生長の過程を歩んでいないこと、端的に言えば、マサノブ
=曳馬野君は霊魂退歩の道を歩んでいることを暴露する事になるからであります。下記の如き『御教え』の内容をマサノブ=曳馬野君は学んで個性生命の進化の本道へ戻らねばならないのであります。

@ 実相と輪廻転生(『生命の實相』第21巻・教典篇P.179−184および『人生を支配する先祖供養P.80−84)

『 第一義実相では人間は迷うことはないが仮現としての人間は迷うて、仮存在として輪廻転生するのです。』
『生まれ変わるのは、仮の相(すがた)の我、業の蓄積のレンズによって諸方に転現してあらわれる我であります。だからわれわれは本体は生まれ変わらないでいながら、現象生命は生まれ更わるのであります。仏教ではこれを広略相入(こうりゃくそうにゅう)といっている。広相すなわち現象生命は諸方に転現すれども略相すなわち実相生命は本来去来なしと言うのです。生長の家ではこの略相の我を本当の我と言い広相の我、現象の我を「ニセ者の我」と言っています。「ニセ物の我」というのは本来無であるからそんなものにひっかかるな、そんなものは<ある>と思うなと説くのが生長の家であります』

A 『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻(P.101−102)

自己の責任を知ることができる意識の発達した霊魂は幽界へ移行するやいなや彼の生前のあらゆる行為をまともに見る。そして自己の行為を精査して生じた悲歎と悔恨の情とは、彼が次にこの世に生を受けたとき一段高き進歩を遂げるための努力を喚起するのである。しかしながら自責の意識の発達していない霊魂も、時として霊界の審判廷の前に伴(つ)れて行かれるというのは、彼はその時は何もハッキリ自覚しなくとも、漠然とある執拗な印象を受け、やがて時が来るとこの印象が彼に反省と省察との機会を与えるからである。』

B 物質主義者の霊魂(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.188−190)

 『大多数の物質主義者は、自己の過去世の生活について微かな記憶をすら留めていないので、単純に自己の唯物的意見に固執(こしゅう)するのである。彼らはこの世に生まれ出る以前に幽界に昏睡状態にいた。彼らは生まれかわって出てきたが、自己の過去の状態について何一つ直覚的な認識をも留めないのである。それで彼らは物質的に議論を進めて行けば、最もロジカルだと思われる信仰に驀進することができるのである。低い階級の物質主義者はこの部類に属する。』

C 魂の進化の程度の測定標準(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.120)

『ともかくわれらの地上において霊魂の進化の程度を測定する標準はあるのであろうか?この世に出生した霊魂の高さを示す徴候というものはあるのであろうか――と自分はいった。 ヴェッテリニは答える――「直覚的認識」――霊魂の認識のほかに、外より見える徴証(しるし)もたくさんある。そのうちの一、二をここに言ってみよう――<第一>、“雅量(がりょう)”である。しかしここにいうところの雅量は人間霊魂の深き認識より出発したる他に対する赦(ゆる)しである。それは聡明なる雅量であって寛大と峻厳(しゅんげん)との必要を知るところの雅量である。Bonte-severite(寛大なる峻厳)こそ向上せる霊魂の特徴として記憶すべき一つである。<第二>、卑しき者、世に出でざる者、弱きものに対する愛――社会的成功、名誉、地位等に対する無関心によってともなわるる愛である。<第三>、哲学的思索の傾向、霊界の神秘を知らんとする熱望、その神秘に貫き入ろうとする努力――これらは霊魂の進化そのものである。』

D 『別冊・真理』<生死を超える道>よりの抜粋

『人間は一層高き世界に向かって進化の螺旋階段を登って行きつつあるのであります。イエス、マホメット、釈迦、ソクラテス等の聖者は、その生活と教えとによって、如何なる精神的生活の原理を実行すれば、各個人が、そして遂には人類が、一層高き世界に到達することができるかということの目標を示しているのだと吾々の精神科学は観るのであります』(P.12)

『人間の知的発達の程度は、最下級の痴呆者から、大思想家、大科学者の創造的天才の頂点に至るまで実に千差万別であります。この事実が人間の生命は単に「種族」の生命として動物、昆虫、鳥類、魚類の場合のように、一斉に揃って進化するのではなく、「個」としての生命が、個々別々に進化することが判るのであります。人間の心、道徳、精神の発達程度に右のような大差があり、従って、条件に不公平を生ずるという事実は、人間の個性生命の不滅と云う問題に関連して深い意義があるに相違ないのであります』(P.31)

E 展開する舞台――

『人生が発展し行く舞台面を見るためには色々の場面があって、それが統一されて最高の目標すなわち理想に向かって進んでいるのだと云うことを先ず知らなければなりません。鉱物界に岩石が生まれてやがてその岩石が砕けて土となったのは破壊であるかと云うと、そうではなくて、植物と云う地上生命出現のための準備をしたのであって、常により高きものへと前進しているのだと云うことであります。やがて植物は壊(くだ)けたる岩石の集合体なる土壌から発生し、それには種子(たね)を生じ種子は植物となり、植物は次代の種子を造ります。そしてこれが無限に繰り返されます。それは無限に増殖する生産能力を有する生きた有機体であります。それは霊の表現であるからです。またこの故に、植物は生産機械以上のものであります。機械は終いには摩滅して、役に立たぬ部品となってしまうけれども、植物は自己を修理し、自己の傷を癒し、自己と同じ美しさの植物を又別に創(つく)ることが出来るのであります。然し個々の植物はその存在の周期を終る時その活動を停止し、これを再び活動せしむることは出来ません。その復活は新しい体の中に行なわれます。すなわち、成熟した種子の中に再生するのであります。
 ここに注意を要する点は、生命が一段高い標準の生命に高昇する時、低い階級の生命的存在を常に支配すると云うことであります。この点は植物王国が感覚のない鉱物界より優位にあることは見れば明瞭であります。植物界に於いて生命は、自動力のない物質を捉え、持ち上げ、活動のための体として使用し、それによって霊と智慧とを発揮するからであります。私はこの興味深い植物の内にすでに潜在的に存在する動物的性格に興味を深く感ずるのであります。』(『別冊・真理』<生死を超える道>P.101−103)

F 人間は大海の一波一波ではない、個性生命は肉体死後も滅しない(『人生を支配する先祖供養』P.97−98)

『人間の生命は宇宙大生命の大海に浮かぶ単なる波ではないのである。“波は消えるけれども大海は永遠の存在である”というような説明の仕方では、人間は何らの慰めも受けることはできないのである。そんな考え方は、「大自然は永遠であるけれども人間は須臾(しゅゆ)的存在で消えてしまう儚(はかな)き存在だ」というのとおなじである。吾々が進歩を願い、向上を志すのは、個生命として独自の人格的存在として刻苦精励努力精進しつつあるのである。人間があらわれては消える波のような存在であるならば、何の為に刻苦精励努力精進するのか――このような人間の“個生命的存在”を“大海の波”にたとえる考え方は唯物論の一種に過ぎないのである。人間は決して波のような無機物をもって譬(たと)えてその存在意識が解るような簡単な存在ではないのである。波に比較して考えたことが間違いであったのである。』(P.98)

『生命は、同一条件に対しても個性ある別々の反応を示すのである。・・・生命の反応は個性的であって機械的でないからである。こうして生ける人間の生命は個性に従って、同様の環境条件に於いても異なる反応を示し、異なる人生経験をし、その人でなければあり得ない独特の感応を起こして、その魂が個性ある独特の進歩を遂げるのである。もし人間がこの人生に於いて幾多の困難を克服し、苦痛を忍び悲しみに耐え、複雑なる人生の事件に処して独特の反応を示しつつ、独特の進歩を遂げて来た個性的な人生経験の賜物(たまもの)が、肉体の死と共に何の甲斐もなく消えてしまって、Aの霊魂もBの霊魂も、一様に大生命の一海の中に個性もなく溶け込んでしまうとしたならば、地上の人生経験は全然無意義になってしまうのである。そんなことがあるはずもないし、あって好いはずもないのである。霊魂は進化すればするほど一層個性が発揮される。>>(P.97−98)

G 『人間死んでも死なぬ』<序・闘争なき世界への翹望(ぎょうぼう)>
『本書で私が申し上げようとすることは近代のスピリチュアリズムの研究から得られた「他界よりの消息」に根拠を置くのであります。霊界通信に真実性をみとめない方にとっては無意義のたわごとのようにも思われるかも知れませんが、いづれは何人もこの肉体を捨てて何処かへ行かねばならないのであります。或いは肉体の死と共に、「人間」そのものもなくなると信じている人もありましょうが、そう性急に速断しないで下さい。肉体死後に霊魂が存続するか、存続しないかで、この世の生活を生きる態度がかわって来なければならないのです。現世だけで、この「人間」が終るのでしたら、利己的快楽ばかりを追求しても好いかもしれませんが、現世の生活は、やがて来る未来世への準備であるとしたら、滅多な軽はずみな生活は出来ないと思います。』(P.1−2)

『現世にて苦しんだ人々からくる霊界通信は、苦痛の渦中にいるとき呪わしく思ったところの大苦痛も、現在享受し得ている向上の状態にくらぶれば、実にそれは小さなものに過ぎないと云う事を述べているのであります。私が『生命の實相』第九・十巻に書いている霊界通信の研究はお読み下さっていることだと思いますが、各種降霊会にあらわれて出て来た霊魂(スピリット)は、いづれも現世の苦痛が、今ある如き自己の向上をもたらしたと告白しているのであります。「実に辛(つら)苦しみでした。しかしそれは苦しむだけの値打ちはあったのです。それは私の向上でした。--------そのために得たものは、私の苦しんだ苦しみなどのとても比べものにならないものです。」と一人の偉大なる霊魂(スピリット)は通信してきているのです。
 苦痛の意義を否定し、苦痛が加わることを加害と認め、苦痛が存在することを被害と認める限りに於いて「苦痛は世界のいづこにも現存の事実なるが故に」この世界は加害者と被害者との調和なき集団としか認めることは出来ないでありましょう。しかし苦痛の意義をみとめ、苦痛を機縁として一切万物の霊魂が進化し得ることを知るものはこの苦痛の世界を霊魂の向上のための鍛錬の世界として喜んで受けることができましょう。この自覚に立つことによって苦痛は私にとって自分を脅(おびや)かすものではなくなって来たのであります。激しき苦痛は肉体的には実に苦しい。しかしこれによって霊魂が進化するのだと云うことを顧みれば苦痛は私にとっては一種の勉強だと思われるようになって来ました。苦痛が来る毎に私は内なる自己に向かって「苦しめ、苦しめ、大いに苦しめ、そうして大いに進化し向上せよ」と言います。人は歯を治療するためや、健康をよくするためにでも可なりな苦痛を忍びます。それだのにわれわれは霊魂の向上のために苦しむことを呪うべき少しの理由もないと思うようになって来ました。

 いやしくも此の世界が存在し得ている以上、どこかで調和しているに違いないのです。これは私が先見的に得た自覚でした。しかし苦痛は不調和のあらわれのように、今まで思われていたのでした。しかしわたしに霊界よりの通信が「苦痛は霊魂の進化のために、なくてはならぬものだ」と教えてくれたとき、この世界は苦痛があっても究極的には調和しているのだと云うことが判って来ました。もう私にとっては苦痛の境涯を閲(けみ)しつつある人も被害者でなければ、苦痛を与える人も加害者でなくなりました。それは互いの無限向上のための切磋琢磨(せっさたくま)であると信ずるようになって来ました。私はこう信ずることによって、今まで敵として見えていた者が、自分を生かす味方に変貌することを体験しました。そこには宇宙の最高理念を実現せんがために、互いに切磋琢磨しながら進み行くための相互の心境を映す「鏡」があるばかりだと解って来たのです。』(P.7−10)




信徒への間違った質問D

霊の進化有としますと、何時個別霊なるものが誕生したのでしょうか? その個別霊が進化して高級霊になると高級天体に移行するとするとすると、『地上天国実現』なんていうのは実現不可能であって『地上天国実現』という言葉で信徒を釣ったのですか? (733 :曳馬野=マサノブ君)



<私の回答>

@ 「霊の進化有としますと、何時個別霊なるものが誕生したの?」――こんな質問をするのは、マサノブ=曳馬野君が現象的観点に立っているからであります。實相世界は無限創造、完全円満に完成されつつ無限の完成に向かって生長を続けている世界でありますから、無限の個性ある個別生命が無限に創造され実在している世界であります。

A 霊魂の創造について(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.163)

『自分(注・コルニエル氏)は他の問題を提出した。―― 時間の全経過を通じて、霊魂は無制限に創造されつつあるものであるか。それとも永遠を通じて一定数の霊魂が存在するのであって、ただその進化状態の相異から霊魂の種別というものが生じるのであるか?

これに対する(ヴェッテリニの)、答え――  否、霊媒を通じての答えの移牒(いちょう)はきわめて複雑したものであった。実際レイヌ(注・霊媒)の現在の状態では、これに対する答えを明瞭にもとめるのは無理であった。すべてのうちただ一つだけ確答を得た。そしてそれは確実と認めてよいであろう――それは霊魂の萠芽(めばえ)は全期間を通じて間断なく創造されつつあるということである。 (谷口注)各自の霊魂の発達の等差や、地上生活への生まれかわり度数の相異や、肉体の年齢にかかわらず、霊界通信で「あの霊魂はまだ若い」などといわれる事実から見ても、常に新しく現象界へ霊魂の萠芽(めばえ)が現顕されていることがわかる。』

B 現象世界(霊界及び地上世界)へ個生命の進化を目指して出現した人間が、すべて高級霊となって他の天体へ移行して行くのではなく、その求道の達成度合いによって何回ともなく霊界と地上現象世界との間を転生する霊魂も実に多く、又、低級霊界で霊的覚醒の目覚めるまでとどまり続けている霊魂もあり、高級霊の段階まで進化しても高級天体へ移行することなく、光明化の使命を自覚して七生報国の思いを持ってその使命に挺身し続けている霊魂もあります。これ等の高級霊の指導を受け生活に真理を実践して自己の地上生活に「天国浄土」の状況を招来している人たち(真理に救われた人たち)もじつに沢山存在しているわけであります。「地上天国実現」は、個性生命の段階では実現されており、ただ人類全体にまで広く実現できるにはまだまだというわけであります。しかし「信徒を釣ったコトバ」とマサノブ=曳馬野君が言うのは暴言過ぎるといえるのであります。決して宗教家の言葉とは言えないのであります。やはり、マサノブ君は「宗教家」なんて言う資格も適性もなかったのであります。このまま、マサノブ君が総裁の座に居続けることは、信徒にとっても人類全体にとってもまことに大きな不幸であり損失であります。マサノブ君は別途の生命進化の道へ、「生長の家」は開祖・谷口雅春先生のご指示された本来の無限生長の道へ戻ることが大調和の相、そのものであります。潔く身を引きたまえ!マサノブ君!!










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