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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[2333] インターネット道場―――体験実話特集 大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(13)
信徒連合 - 2016年03月04日 (金) 08時27分




インターネット道場―――



体験実話特集 



大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(13)





  或る医学博士の長男の話

 こういう話があります。ある地方で大病院を経営し大いに繁昌している医学博士の方がありました。繁昌する大病院ですから、その病院の経営を、自分が死んでも他人には譲りたくない、自分の息子に譲りたい。ところが、その息子さんが未だ大学生で、若くて病院の跡継ぎをする様なので、兎も角、医者の跡継ぎになるその息子さんが大学を出て博士号でも貰ってその跡後継ぎになれるまで、ある生長の家の誌友である医師に副院長として手伝いをして貰っていました。

その副院長から聞いたのですけれども、その跡継ぎの息子が医者は嫌いだ、医者になりたくないというんです。本人が医者が嫌いなのに、親が「医者になれ」という。父が医学博士で……折角大病院を経営して繁昌しているのに、それに、跡継ぎがなくて病院を潰(つぶ)してしまうのは勿体ないから、どうしても「お前、医者になれ」というので、息子は止むを得ず“なろう”と努力して、受験勉強も一所懸命やってみるが、医大に這入るるのを、潜在意識が医者を嫌うもんだから入学試験にスべる。たびたびスべったりしておったのですが、愈々(いよいよ)今度医大の入学試験にパスしたというんです。親は大変喜んでおったら、最近、その医大へ入学した息子が突如として、若いのに心臓麻痺で死んじゃったのです。

 これは現象的には自殺じゃないんですけれども、その息子の霊魂にいわせると「もう医者みたいなことは私の使命じゃないから、もうこの家の跡継ぎとして生きて居ったら使命じゃないことを一生涯しなければならんから、もう“左様なら”して、又異(ちが)う所へ生まれ変わって来よう」と思って霊魂が肉体から脱出したんじゃないかと私は思うんです。




  死を予知して知人に暇乞(いとまごい)して昇天

それと同じような話があるんです。今は故人ですが某県の連合会長をしておられたMさんという方、この人は立派な人格者で、戦前、日本で有数の化繊大会社の重役をしておられたのですが、戦争が終わると、日本弱体化の米国政策で、戦争中の大会社の重役だから追放されるというので、率先して先ず退職なさいまして、個人経営のメリヤス会社を創立して大いに成功し、益々企業は繁昌いたしますので、“この商売は必ず私の跡継ぎ息子の長男に譲りたい”と思って「お前、このメリヤス会社の跡を継いでやってくれ」と言ったんです。

ところがその跡継ぎの息子がメリヤス会社を継ぐことが嫌いで、画家になって絵を描きたいとか言うんですけれども、親のMさんは、どうしたって、この繁昌する此の会社の跡継ぎを自分の息子にせねばならぬと思いまして息子を説得して、息子にその方面の仕事の勉強をさせていました。そこで息子も仕事を表面は真面目にやってくれておったけれども、息子の魂そのものは、肉体の方は一所懸命仕事に励んでいてくれるのに反して“そんな商売をすることが私の使命ではない”と信じておられたらしいのです。そしたら、或る日、その息子が発送の荷物をちゃんと荷造りをして発送をして、仕事を全部きちんと片附けて、それが終って風呂へ入って、風呂へ入って、風呂の中で自分の体をきれいに洗って、そこで心臓麻痺で突如として昇天したんです。

老人が心筋梗塞や心臓麻痺で死んだって不思議はないけれども、若いのにこの息子は、今まで滅多に会う機会がなく疎遠にしておった知りあいの人を、その前日、ずーっと、暇乞(いとまご)いであるかの如く訪問して行って挨拶をしておられるし、自分の持物を入れた押入れとか本箱とかいうものが大掃除の跡みたいにキレイに掃除して整頓してあったので、彼の魂は、既に自分が霊界に去る時が来たことを自覚して、知人に別離を告げ、あとを綺麗に掃除し整頓するように魂が肉体に命じておいた。だから肉体は別に自殺するつもりでも、死にたいと思ったのでも何でもないんだけれども、魂自身が、もう自分の使命を果たすことのできない此の世の中に居たくないという決心をして、ちゃ―んと体を風呂で洗い浄め、後の始末までして、霊魂は肉体から脱し去った。それを医者は心臓麻痺と名付けたに過ぎない。若い人のことですから、老人の心筋梗塞とは異なり、心臓の機械的構造はちゃんと元の儘(まま)に整備されておるのだけど、心臓を動かす魂が居らなくなったら、心臓の動きが停まるだけのことで、それは電車みたいなものです。電車の機構が破損しておらないでも、電車を運転する運転手が電車を停めて“左様なら”したら、もう電車は動かなくなるようなものなんです。

このように、肉体というものは「人間」じゃないんです。人間の魂の乗物であり、痴情に於ける或る使命を果たすための道具であるわけです。だから、人間が本当に健康であろうと思ったならば、地上に自分が生れた使命というものを自覚して、兎も角此の世の中に生れたからには、「自分に与えられたところの使命を果たしましょう」という決心をして使命に向って精進している間は元気で健康であるし、その人が、地上に遣わされた使命を終ったら、魂はもう此の肉体から“左様なら”するから、肉体は動かなくなるわけであります。




  無我奉仕による大生命との融合

 更にもう一つの潜在意識の中に埋没されている心の憎しみその他の葛藤を消し去る方法に「無我奉仕」の方法があります。これは念仏や坐禅や神想観と云うような静的修行によって大生命に融け込むのではなく、“行為”という動的方法によって、宇宙大生命のいとなみの中に融合して行く方法であります。『生命の實相』の中には「共通的生命のために働け」と云うことが書いてあります。自分だけの希望や目的や欲望を満足せしめるために働くのではなくて、宇宙又は人類共通のために働くことによって、自分の生命を本来無病・本来“業因”なき大生命の中に溶け込むのであります。

天理教では、因縁を超越する方法として「わが身わすれて日の寄進(きしん)」をすすめております。これはわが身のことを考えず日々、公のために自分の生命力を寄進する──即ち献労するのであります。霊友会その他『法華経』を中心にしている新興宗教の多くが布教しなければ救われないと説くのも原理は同じことで、坐していては布教出来ないから、これも一種の「わが身わすれて日の寄進」であり、それが「人を救う」という愛他意識に貫かれて行動される場合、その宗教の教えの高い低いは別として、本人自身の愛他意識による行動が、大生命の流れに一致して、大生命と個生命とが融合し、大生命の癒す力が流れ入って病気が消えるということにもなるのであります。

 それについて斯ういう実話があります。それは昭和43年11月17日愛知県の岡崎市民会館で生長の家の講習会がありました時に、同市の戸崎町榎ヶ坪4の3に住んでいられる山下延江(当時50歳)さんという主婦の方が次のような体験発表をなさったのであります。


  有難うございます。山下延江でございます。(拍手)私はこの御教えのお蔭によりまして、数々の体験を頂き、病気の中から脱けきる事が出来ない、と思っておりましたが、病気からも脱け出す事が出来まして、幸せな生活をさして頂いておる者でございます。

ところが、二年前から、のどの中央に、小指大位の大きさの物が出来まして、それが段々ふくらんで来まして、息苦しいやら、もう何とも言えないいらいらした気持で、どうする事も出来ない中に段々大きくなり、丁度何て言いますか、あの、ウズラの卵を大きくした様な物が出来て、クリクリして、つばを飲み込む為にその玉が動く様になってしまって、とっても心配して、始めは癌ではないかと思って、子供達も心配してくれまして、医者に行く様に勧めてくれましたけど、どうしても医者にかかる気持がせず、じっとして『生命の實相』を読んだり、色々しておりますと、“病気はない、病気はない”と思いながらも、現象に出て来る瘤が段々大きくなりますもんですから、(注。前癌症状と思われる)三浦先生等にお願いして、色々お話を聞かさして頂きましても、「病気はないですよ」と言われるのみでありました。

  で、これは困った事だな、切るのは嫌だし、こんな中央を切ったとて、いくら切って下さると言っても切るのは嫌だしと思っておりましたところが、5月から、吉田武利先生の提唱で「愛七運動*」が始まりました。

  そして、この運動こそ素晴しい運動だから、参加さして頂きましょうと思いまして、家にも菩薩様(観音像の形をした献金箱)を2体頂きまして、で、一所懸命先生の御指導のもとに、皆さんの幸せをお祈りさして頂く、皆さんが神様と御縁を結ばれて頂く為に、一所懸命にお祈りをさして頂きました。

  ところが、去年の8月頃等には、私ののどの腫れものは、もう息苦しいと言う事と、大きくなる事で心配が絶えませんでしたけど、もう祈りという練習を積んで参りましたら、もう病気のことを忘れて、(「わが身忘れて」に当る)もうどうでもいいわ、病気の事等考えなくてもいい、とも角皆さんのお幸せを祈られて頂きましょうと思って真剣に祈っておりました。

  その中に、写経を始めまして、5月から「愛七運動」を始め、写経を9月に始めまして、10月の終わりにはもう殆んど病気の事等全然思わなくなっておりましたら、大きくなるのが止まりました。

  そして11月の「愛七菩薩」には7日には皆さんと寄ってお祈りするんですけど、11月の時に、もう既に11月の7日に菩薩会に参りまして、そして『甘露の法雨』を誦げ終って、のどに手をやったらもうその瘤がなかったんです。(拍手)

  それで、ちょいと後を振り向いたら、三浦先生が「あ、瘤はね?」といわれる。「瘤? 先生、瘤は有りません」と言って斯うやって撫でで、先生と共に喜んで頂きましたのですけれど、この「愛七菩薩」が如何に大切な運動であるかという事を、一層解らさして頂きまして、この「愛七運動」を通して、皆さんお祈りしている中に、「こんな素晴しい本があるのですか、私もとらして頂きます」と言って、私が祈っている10名の方から7名までが、誌友会員になって頂きました。この「愛七菩薩」を通して、真剣に皆さんに生長の家を知って頂きたいと思いまして勧誘いたしましたら、この講習会にも何名かの方が来て下さいました。

「愛七菩薩」で誌友になった方が来て下さいました。この講習会を機会に、この運動の尊さを皆さんにも知って頂いて、参加して頂きたいと思います。素晴しい生長の家にふれた事を谷口先生有難うございます。感謝致します。 皆様もどうかこの「愛七運動」に参加して、「人類光明化運動」に一所懸命参加して頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。有難うございます(拍手)。




  愛七運動と観世音報恩会

 山下延江さんはこのような体験をお談(はな)しになりまして、行動によって愛を実行、宇宙の“共通生命”の行動によって融会(ゆうえ)合一するとき前癌症状も消えるという実話をあげられた訳であります。

この愛七運動に共鳴してアメリカ駐在の奥田講師がアメリカ
でこの方法を実践普及せられて信徒に喜ばれておりますし、東京都では、生長の家の本尊が観世音菩薩であると言う事に因んで、「観世音報恩会」と名付けてこの運動を進めて色々の奇蹟的功徳を生じつつあります。

 しかし肉体の症状は心の状態の具象化でありますからそれが症状としてあらわれるのは、生命が、その本来の相(すがた)ではない“心の間違い”を指摘し警告するためであるのと、物質的には、どこかに生理的な故障があるのを自浄作用によって治しつつある働きであります。

 大抵の人は、生命力による“治す働き”を過って病気だと考えている場合が随分あるのであります。例えばクシャミが出たり或いは咳が出ると、これは鼻の中に異物が入るとクシャミが出て、それを排泄しようとするのであって、病気じゃありません。それを「ああクシャミが出たから風邪を引いた」なんて、そう云う考えをもつと間違いであります。「クシャミが出たから風邪を引くと」いう風に考えますと、その「観念」即ち「心の思い」が具象化し始めるのであります。即ち「風邪を引く」と云う心の念(おもい)によって、肉体全身に或る反応を起す。即ちアレルギー的反応を起すわけであります。普通、アレルギーと申しますと、何か蛋白質の異常分解生産物みたいなものや、特殊のピリン剤とかいうようなものが人体に入りますと、蕁麻疹みたいなものになって出てくる。その反応の癖がついて、或る化学的化合物質に対しては非常に反応が激しくあらわれてくるのを言うのであります。例えば普通の人なら、卵をたべても蕁麻疹は起らないんだけれども、ある子供は卵をたべると蕁麻疹が出る。或いは背の青い魚を喰うと蕁麻疹が起ると云う風にそれに対して過敏性になって
いる。このようにある物質に対して過敏性になって症状があらわれる状態を、普通、医者の方ではアレルギーと言っているようでありますけれども、吾々の研究によりますと、アレルーは物質に対してだけではない。吾々の生理作用と云うものは精神状態に非常に鋭敏に反応して猫を見るだけで喘息(ぜんそく)を起す婦人がある。

このように“心の念(おもい)に対して或る人は非常に敏感である。しかしその反対に、ある人は刺激に対する反応が鈍重で
あって大したこともない。そこで、念に対して過敏である人は「あっ、こりゃ風邪を引く」と思いますと、全身がその思いに従ってアレルギー的反応を起して、風邪引きの症状を実際に起すと云うことになる訳であります。 そう云う場合にクシャミが出たり咳が出たりしてら、「あっ、これは風を邪引いたんじゃ
ない、風邪がクシャンと出たんだ」「もうこれで風邪が出たんだから治った」と云う風に思い直すように努めますと、“風邪を引く”と思うその“観念”の刺激でアレルギー的反応をしておった人も、「こりゃ、風邪が出たんだ!」と思いますと。もうそのアレルギーの刺激になる元が無くなりますから、その風邪を引いたと云う観念に対して反応を起しておったアレルギー症状が消えると云うことになるのは当然の事なんです。




  何故、ある人には病気が繁殖し易いか

 そのような精神的反応によるアレルギー症状で、ある期間抵抗力が弱ったり粘膜が爛れたり、カタルを起したりしているところへ黴菌が附着する。そうすると、そこは病菌に対するく耕されたる良田となっていて、繁殖し易いと云う事になりまして、今度は本当に結核にかかる人や、インフルエンザにかかる人や、肺炎にかかる人が出て来ます。そうなると、“これは肺炎の黴菌がおるから肺炎だ”これは黴菌によって起ったんだと言うのだけれども、黴菌の繁殖し易いように、その人の肉体に良田をつくった原因は、精神反応によるアレルギーと云う訳なんです。それによって黴菌の繁殖し易いところの素地をつくると云う事になってい
る訳であります。癌のビールス病源説もありますけれども、癌の病源がビールスであろうが、なかろうが、その奥には、病気を起す「心の状態」がひそんでいるのであります。

 だからある心の状態の人は黴菌に対しても抵抗力が強く、ある心の状態の人は黴菌に対して抵抗力が弱いと云うような事が起って来るのであります。自分の精神に“恐怖”を起してそう云う皮膚・粘膜等に黴菌に抵抗し難い様なカタル状の状態を起しておくから、そこに黴菌が繁殖し易くなると云う訳であります。だから黴菌は第二次的な原因であって、根本的原因は心にあると云う事が出来るのであります。




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