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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[2419] インターネット道場―――体験実話特集 大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(18)
信徒連合 - 2016年03月09日 (水) 09時23分




インターネット道場―――


体験実話特集 


大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(18)




  すべて病気は念(こころ)の影なるが故に、
病気を癒やさんと思いて
常に病床に横たわり、
「この病気」「この病気」と常に心を労すれば
病気は却って増悪せん。

まったく病気は“念(こころ)の影”なのであります。“念の影”というのは、念(こころ)は物質ではありませんから肉眼には見えないのであります。肉眼に見える物質だったら、光があたらないでその影になるところは黒くあらわれるのでありますけれども、眼に見えない“念”は、そんな黒い“陰影“という意味での影を映すのではありません。“念の影“という場合の“影”というのは念の“象徴”という意味であります。象徴という漢字よりも、近頃ではシンボルという英語の方がよくわかると言われる人もあるのであります。吾々の“心“は無形でありますが、それが何かを想いますと、その“心”の中にある形があらわれます。

“薔薇の花”と想うと、その念にしたがって、薔薇の花の形が、“心”の中に浮びます。この“心”の中に浮んだ“形”が“想念”でありまして“観念“といったり、単に“念”と言ったりすることもあります。この“想念”又は“観念”又は“念”は“心”の中に浮んだ、“形なき象(かたち)”であります。この“形なき象(かたち)”を“形ある象”にあらわしたのが象徴であります。つまり「心の影」というのは“想念の象徴”という意味であります。実例をもって説明しますと、ある婦人が良人に対して不平不満足の念を起すとします。不平の念というのは、ふくれる気持でありますから、その象徴として、頬面(ほっぺた)が膨れます。即ち何となく“膨れっ面”になるのであります。しかし毎日毎日、心が不平で膨れておりますと、単に頬をふくらすだけでは、その念の表現としては足りません。どこかもっとハッキリとその心の膨れた念があらわれねばなりません。その脹れる念の象徴が、胃にあらわれれば胃癌となったり、子宮にあらわれれば子宮癌になったりいたします。

大分以前の話でありますが、昭和33年6月14日、東舞鶴の市の公会堂で生長の家の講習が催されました時に、当時35歳の土屋美佐枝さんという方が次のような体験談を発表せられました。この体験談で注目しなければならない点は、夫婦関係が迚(とて)も、良人を許せないギリギリの処まで往(い)ってたのが良人を許す気になり、更に妻自身「自分が悪かった」と良人に謝り切る心境になった時に癌が消えていることであります。次に掲げるのは、その土屋美佐枝さんの発表された体験談であります。


  有難うございます。私は10年前に気の進まぬ結婚をしたためか主人が不足で不足で毎日毎日嫌な思いでこの10年間を過して参りました。そのうちには色々な病気に罹ったり経済的に
困ったりの状態でした。ところが今年の3月に物凄く胃が痛みまして辛抱出来ませんので近所のお医者さんに診て貰いましたら矢張り胃癌の様だから国立病院の方へ行けと言われますので、 早速東摩出の国立病院で診察して貰いましたら矢張り胃癌だからこれは手術せねばならんと言われまして、4月5日に入院して私は死の宣告を受けた様に泣き悲しんで居ります時に、生長の家を信仰させて頂こうと思って、決心しまして毎日ベッドの上で『甘露の法雨』をあげさせていただき神想観をさしていただいたりしておりました。家の方では塩尻先生はじめ相愛会の人達が晩に、お忙しいのに集って神想観をしたりして御愛念を送って頂きましたお陰か4月5日に入院しまして12日夜半に物凄くお腹がゴロゴロ鳴りまして、何にも変な物を食べていないのにどうしてこんなに下痢をするんだろうと心配しておりました。3回程お便所に行ってそして翌日になってみたら、体が軽くて気分が良いものですから不思議だなあと思って居りました。そして13日にお医者さんに診察して貰いましたら、「不思議だなあー。何にも塊がない。 不思議やなあー」と言って頂きまして、私もそんな変なことがと思いまして「先生、こっちではないのですか、ここではないのですか」と私も撫でてみたのですが何処にも塊は無いのです。

「不思議やねー、不思議やねー」と皆から言われまして、それから途端にご飯も美味しくなりまして、段々と食事が進みもうこれなら退院出来ると言われ、喜んで5月17日に退院させて頂いたのです。退院させて頂き帰って来ましたら、以前から余り素行の良くなかった夫が、本当に妻として耐えられないような行いをしてくれておりまして、私もそれを見て本当に腹も立ちましたし、親達も親類の者達も今度こそ縁を切らなくては、又こんな病気が起るのにと腹を立てておりますし、私も今度は主人がこんな病気を起したのだと思っておりましたし、思案に余って塩尻先生の所に相談に行きました。そしたら「そうか。それも一つの癌だから治るに決まっとるし」とやさしい言葉を頂いたのです。そして長村先生の道場に行ったら良いだろうと言われて、そんなら行って来ますというわけで道場に行きましたら、長村先生から懇々と女の道を説いて頂きまして、2日間道場に置いて頂きますうちに、もう一つも私が妻としての道を歩いていなかったのだということに気が付きまして、家に帰って実践しなくてはと、この2日間の間に本当に私が悪かったんだと泣けて泣けて、輪読会の時間に長村先生におことわりしましたら、先生が「私にことわり言わんでもよいから家に帰って、主人にことわりなさい」と言われました。

それで家に帰りまして主人に「本当に私が悪かったのです。私が悪いばっかしに貴方にまでこんなに苦労させたのだ」と謝り、その日は丁度親類も来て離婚話をして頂くことになっていたのですけれども、そんな都合で、私があんまり変ったものですから、びっくりしてしまって──。私もこれから皆様にもう心配をかけん様にしますからと言ってお詫びしました。

主人も私が入院してから仕事を辞めて遊んで居る状態だったのですが、私がその様にして帰った翌日に履歴書を書いておられるものですから私が「何処に行かれるんですか」と言いましたら、「一寸仕事が見つかったから行ってくるぜ」と言ってくれまして、晩にはホクホク顔で帰宅して来まして、「明日から使って貰うことになったぜ」と言ってくれまして、本当によかったなあと喜んでそれから毎日、この尊い御教えによって私も一所懸命に毎日を励ましていただいておりますし、本当に有難うございます。
谷口先生有難うございます。皆様有難うございます。


 これは、良人に対する不平の心の想いが胃癌に象徴としてあらわれていたのが、生長の家の教えに触れて心が平らかになった結果、不平の心の象徴としての胃癌が消えた実例であります。次に聖経『続々甘露の法雨』には、このように示されております。

   病気を心に描けば病気来(きた)る。
   病床に横たわりて病気を常に心に描きながら
   病気の癒ゆることを希(こいねが)うは
   火を握りつつ冷たきを希(こいねが)うが如し。

 この一節に関連して引用します次の体験談には、病人のよくある心理状態の描写があるのであります。病気はその漢字が示す通り、気が病んでおり、心が病にひっかかって自由を失っている状態でありますから、大抵の病人は、病床に横たわっていて、何もする仕事がないものだから、病気のことを想うよりほかに仕方がない。それで病気の症状にひっかかるのです。「病気を想っては、病気が却って増悪するから、病気を心で思うな」と教えられるけれども、病気を思わずにはいられない。そのために,「こんなことでは、却って病気は増悪するのではないか」と恐怖心が起って来る。恐怖心を起してはならない。「恐怖滅せれば一切の不幸も病気も滅せん」と聖経に教えられているので、その恐怖心を去ろうとその人は努力するが、恐怖を去ろうとすればするほど恐怖心が起って来る。恐怖が起って来れば来るほど益々恐怖する──こうして恐怖は連鎖反応を起して、益々つのるばかりである。その様な時に如何にして恐怖心を克服すべきかということが問題なのであります。


 昭和32年11月15日、本部で白鳩会のあった時であります。高知県高岡郡窪川町から上京せられた山崎栄さんが“恐怖の克服”について実に良い体験を談(はな)して下さったので次にそれを録音から再生いたします。

   山崎栄と申します。長い間生長の家のお世話になっている者でございます。島村先生(島村巨兄師のこと、高知県の生長の家の最初の伝道者である)に子飼いして頂きました白鳩でございます。沢山お蔭を頂きました中に、終戦後のいろいろの変化があり生活が乱れまして、それでいろいろ子供が病気致しましたり、最後自分が、お友達がお産婆さんでございまして、その方と一緒にやっておりましたが、その方が腎臓といろいろと沢山の御病気になって、とっても弱り果てて亡くなったのでございます。それを毎日日中私がお見舞いに参りまして、近間でございますからお見舞いに参っておりまうすうちに、その方が亡くなりますと、私が同じような病気になったのでございます。それで自分がまあ生齧(なまかじ)り知って拝むもんですから、私があの方の現象を見詰めたので、恐怖が自分の中にきちんと入ってしまったから、此の恐怖が自分の中にきちんと入ってしまったから、此の恐怖をのぞかねばならん、のけねばならんと云う心があったもんですから、それで『甘露の法雨』を読まして頂いたりしましたけれども、中々ありもしない恐怖をのけようと頑張っとるもんだから、のく筈がないのでございます。

それで絶対安静になりまして、随分心臓も騒ぎまして何でございます、言置(いいおき)(遺言)までした様なことでございますけれども、お友達が『続々甘露の法雨』を一度読んでごらんなさい、丁度田舎へ疎開しておりまして、その『続々甘露の法雨』を手に入れることが出来ませんでした。『天使の言葉』や『甘露の法雨』は持っておりましたけれども、それがなかったものでございます。それで主人が高知へ参りました時にそれを買って来て頂きまして、それをもう待ちくたびれて見せて頂きました時に、もう、「先生済みませんでございます。谷口先生申し訳ございません」もう泪(なみだ)で泪で、もう物も言えない程泣けたのでございます。それで私が神の子を忘れてしまって、先生にこんなに聞かして頂ながら、どうしてこんなに迷ったのか思いまして、先生、お父さん本当に申し訳ございません、もうその日2回読まして頂きましたが、もうお顔を洗いにゆける位に治っておったのでございます。それで下腹のしこりが、どうしても取れなかったしこりが……

よしっ、と思いまして、先生が『続々甘露の法雨』の中に、もう“これでもか、これでもか、これでもか”と書いて頂いておりますのが、もう有難くて有難くて、申し訳なさで一杯でございまして、もう泣けて泣けてしょうがなかったんです。そうして、明日から神の子愈々発揮しなくちゃならんと思いまして、勇気を出しまして、絶対安静の者が翌る日から、もう起きて、さっさと蒲団(ふとん)を自分であげまして、御飯炊きに起きたのでございます。それまでは主人にいろいろと世話かけまして、もう食事の方もいろいろとお医者さんの言う通りやっとりましたけれども、そんな事も一切かなぐり捨てまして、それで立上ったのでございます。そしたら隣におります姪が「叔母さん、そんなにしたら大変だ」と言って気遣いましたけれども、「いや、もう私、神の子だ、神の子に病気はない」

この恐怖と言うものは、私は気が付きませんでしたが、恐怖を追い出さんならんと思うのが間違いでございまして、ない恐怖を追い出そうと焦ったのが大変悪かったのでございます。それでそれをかなぐり捨てたんでございます。それからお腹のしこりが一晩でどこへ行ったか判らなくなったんでございます。

それから3日目に髪洗いまして、窪川という処がございます。一里(約4キロ)位ある処へ汽車に乗って行きまして、其処でパーマかけて、映画見て来るって言いましたところが、(笑声)主人がそんなに急にしないでも、ぼつぼつやれと言いますから、まあそれもそうじゃ思いまして、パーマだけかけて帰って参りました。そうしましたら隣の小母さん達が、田舎でございますから、私がそろりそろり歩いていた姿を見ておりますものですから、あの方は今日はえらい元気な足取りで行っているが、もうあの踏切位まで行ったらやがてへばるんじゃろう言うて見おったそうです。それがツカツカツカツカ駅まで行ってパーマかけて帰って来たもんですから、「まあ小母さん、電気でよ」と斯う言いますので、「むろん電気でかけてきた」と言いますと、もうびっくりしまして、何(いず)れ又寝込むんじゃろう。寝込むんじゃろうと言われておりましたけれども、それでも立上りまして、それから心臓の方も3日位しますと、すっかり頑丈になってしまいまして、それであんまり嬉しくて、今日私、はじめて此処へ参らして頂きましたんでございます。奥様有難うございます。先生、有難うございます。まだ私沢山体験持っておりますけれど、又この次にさせて頂きます。有難うございます。


 この体験談に就いて、注目しなければならない事は、“恐怖は自分の心の中にある”のであって、それは単なる主観存在であって、客観的存在ではないということであります。恐怖というものが具体的に客観的に存在するものであったならば、それを捉えてつまみ出したらよいようなものでありますけれども、それは外に存在するものではなく、自分の心の中に存在するのですから、その恐怖をなくすには、心の外にそれを追放しなければなりません。それなのに、その“恐怖”を自分の心で捉えて、心の中につかんで放さないでいながら、“この恐怖をどうしたら追い出すことができるか“と苦心しても恐怖を追い出すことはできないのです。山崎栄さんは、その事に初めて気が付いたのです。榮さんは前述の体験談にありように、次のように言っておられる。──

 「この恐怖と言うものは、私は気が付きませんでしたが、恐怖を追い出さんならんと思うのが間違いでございまして、無い恐怖を追い出そうと焦ったのが大変悪かったのでございます。一切ないのに、それを“ある、ある”と思いつめたのが悪かったのでございまして、それで、それをかなぐり捨てたんでございます。それからお腹のしこりが一晩で何処へ行ったか判らなくなったんでございます……」

 この山崎栄さんは腎臓も心臓も悪く、更にお腹にしこりがあったのが、心につかんでいた恐怖を「本来、無い」と気がついて、心でつかまなくなった時、「心でつくっていた恐怖」だから、「心に思わなくなった時」消えてしまったわけであります。病気には無論“絶対安静“にしている方が恢復の早い一時期があるのであります。それは、全身の体力を、病患部に集中して、体力を他の筋肉労働の方に分散せしめないためでありますが、普通慢性病患者は体は安静にしているが、心はクヨクヨと病気の事ばかり思い煩っているので、それは絶対安静になりませんし、更に病気の増悪を恐怖して、その恐怖のために異常ホルモンの分泌を促してそれが毒素となって血液に混入し、血液を酸性にし、それが細
菌やヴィールス性の病気である場合には、細菌やヴィールスの繁殖しやすい環境をつくってやることになり、益々病気が増悪するのであります。

だから、山崎栄さんは、この『続々甘露の法雨』に、

   「この病気」「この病気」と常に心を労すれば
   病気は却って増悪せん。
   病気を心に描けば病気来る。
   病床に横たわりて病気を常に心に描きながら
   病気を癒ゆることを希(こいねが)うは
   火を握りつつ冷た気を希うが如し。

 というところを読み来たって、感動して、“自分の今迄の心の態度が間違っていた”と、泪で泪で、もう物も言えない程泣けたのである。そして“心の中から恐怖を棄てて、「絶対安静の者が翌る日から、もう起きて、さっさと蒲団を自分であげて」御飯炊きを始められたのであります。恐怖は、病床に横たわって、その恐怖をどうしたら棄てられようかと考えているのでは去らない。「病気は本来なし、我れ神の子なり」の自覚をもって起ち上って、誰かの為になる仕事にその全心を打ち込むことによって消えるのであります。

それを山崎栄さんは実践したのです。何でも実践が大切です。実践しないで、心の中で反芻(はんすう)しているだけでは駄目であります。

すると隣に住んでいる姪が「叔母さん、そんなにしたら大変だ」と心配してくれたけれども「いや、もう私、神の子だ、神の子に病気はない」と、栄さんは、心の中から、病気の存在も、恐怖の存在も追い出してしまわれたのであります。ここに病気を消滅さすコツがあるのであります。




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