| [205] インターネット道場 ――― <終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ 「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!安らかに鎮まりませ・・・」 <その十> |
- 信徒連合 - 2015年08月10日 (月) 07時33分
<終戦の月・特集>
*大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*
「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ! 安らかに鎮まりませ・・・」
八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!
<その十>
日本近代史の第一級資料「東條英機・宣誓供述書」<その二>
時局が緊迫する中、米国の最後通牒ともいうべきハルノートを突き付けられ日本は、自存自衛のため決然起って戦う以外に道なしと昭和十六年十二月八日、ハワイ真珠湾攻撃を敢行、大東亜戦争へと突入したのであった。この間の事は当時の首相であった東條英機が、戦後東京裁判にかけられた時、その所信を堂々と述べた供述書が、高原大学滝沢宗太編著として出版された「正義を貫いた東条英機東京裁判供述書」に詳しく述べられている。これは首相として、また、陸軍大臣として日本の立場を一身を賭して供述したもので、非常に価値の高いものであると思われるので、私はこれを日本国と天皇陛下の名誉の為、及び東条英機元首相はじめ戦犯と言われ裁判にかけられた多くの人々の名誉の為、及び全日本国民の名誉のために、これを転載記述(要点のみ)して、これを読まれる諸賢に供したいと思うのであります。なお紙数の都合上、NO.55、より掲載させて頂きます。
<天皇に責任なし、敗戦の責・我にあり>
東条英機宣誓供述書(全文)(ここでは要点のみ) 昭和二十二年十二月二十六日提出
極東軍事裁判所 亜米利加合衆国 其他 対 荒木貞夫 其他
宣誓供述書 供述者 東條英機
自分儀我国ニ行ハルル方式ニ従ヒ宣誓ヲ為シタル上次ノ如ク供述致シマス 右ハ当時立会人ノ面前ニテ宣誓シ且署名捺印シタルコトヲ証明シマス 同日 同所 立会人 清瀬一郎
宣誓書
良心ニ従ヒ真実を述ベ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓 署名捺印 東條英機
昭和二十二年(一九四七年)十二月十九日 於 東京 市ヶ谷 供述者東條英機
< 第三次近衛内閣に於ける日米交渉(其一、九月六日 御前会議前)>
五五、
第二次近衛内閣の日米交渉は停頓し遂に該内閣の倒壊となったのであります。・・・私の観察に依ればこの政変は、日米交渉を急速に且つ良好に解決するために松岡外相の退場を求めたということに在ります。同氏に辞表を迫るときは勢い混乱を生ずるが故に、総辞職という途を撰んだのであります。・・・この経過によっても、次に出来た第三次近衛内閣の性格と使命が明らかとなります。
五六、
然るに「アメリカ」側では南部仏印進駐を以て、日本の米英蘭を対象とする南進政策の第一歩であると誤解しました。之に依って太平洋の平和維持の基礎を見出すことを得ずといって日米交渉の打ち切りを口にし、又資産凍結を実行するに至りました。・・・日本は進出の限度及び撤兵時期も明示して居ります。此の場合出来得るだけの譲歩はしたのであります。然るに米国側は一歩もその主張を譲らぬ。日本の仏印進出の原因の除去については少しも触れて来ない。ここに更に日米交渉の難関に遭遇したのであります。
五七、
近衛首相は此の危機を打破するの途は唯一つ。此際日米の首脳者が直接会見し、互いに誠意を披露して、世界の情勢に関する広き政治的観点より国交の回復を図るの外はないと考えました。・・・米国は主旨に於いては依存はないけれども、主なる事項、殊に三国同盟条約上の義務の解釈並びにその履行の問題、日本軍の駐留問題、国際通商の無差別問題につき、先ず合意が成立することが第一であって、この同意が成立するにあらざれば、首脳会見に応ずることを得ずという態度でありました。そこで此の会談は更に暗礁に乗り上げたのであります。
< 九月六日の御前会議 >
五八、
米英蘭の一九四一年(昭和十六年)七月二十六日(この後は一九四一年等の西暦を省略して単に昭和十六年の如く昭和の年号で記することとします)の対日資産凍結を繞(めぐ)り日本は国防上死活の重大事態に当面しました。此の新情勢に鑑み我国の今後採るべき方途を定める必要に迫られました。ここに於て昭和十六年九月六日の御前会議に於て「帝国国策遂行要領」と題する方策(法定証第五八八号の中段)が決定されたのであります。・・・私は陸軍大臣として之に関与致しました。
五九、
その要旨は
一、 十月上旬頃迄を目指して日米交渉の最後の妥結に努める。之がため我国の最小限の要求事項並に我国の約諾し得る限度を定め極力外交に依ってその貫徹を図ること。
二、 他面十月下旬を目途として自存自衛を全ふするため対米英戦を辞せざる決意を以て戦争準備を完成する。
三、 外交交渉に依り予定期日に至るも、要求貫徹の目途なき場合は直ちに対米英蘭開戦を決意する。
四、 その他の施設は従前の決定に依る。 というのであります。
六○、
此の要領を決定するに当たって存在したりと認めた急迫せる情勢及之を必要とした事情は概ね次の七項目であります。(弁護側証第二九二三号)
a、 米英蘭の合従連衡に依る対日経済圧迫の実施――米英蘭政府は日本の仏印進駐に先立ち、緊密なる連携の下に各種の対日圧迫を加えて来ました。・・・ 右の如く同じ日「アメリカ」「イギリス」「オランダ」が対日資産凍結を為した事実より見て、此等の政府の間に緊密なる連絡がとられて居ったことは明白なりと観察せられました。その結果は日本に対する全面的経済断交となり、爾来日本は満州、支那、仏印、泰(タイ)以外の地域との貿易は全く途絶し、日本の経済生活は破壊せられんとしたのであります。(中略)
b、 (中略)
c、 日本の国防上に与えられたる致命的打撃――米英蘭の資産凍結により日本の必要物資の入手難は極度に加わり日本の国力及び満州、支那、仏印、泰(タイ)に依存する物資による外なく、其の他は閉鎖せられ或種の特に重要な物資は貯蔵したものの、消耗によるの外はなく、殊に石油は総て貯蔵によらなければならぬ有様でありました。この現状で推移すれば、我国力の弾発性は日一日と弱化し、その結果日本の海軍は二年後にその機能を失ふ。液体燃料を基礎とする日本の重要産業は、極度の戦時規制を施すも一年を出でずして、麻痺状態となることが明らかにされました。ここに国防上の致命的打撃を受くるの状態となったのであります。 (中略)
g、 外交と戦略との関係――外交に依り局面が何しても打開出来ぬとなれば日本は武力を以て軍事的、経済的包囲陣を脱出して国家の生存を図らねばならないのであります。(中略)
六一、
万一太平洋戦争となる場合の見通しは、世界最大の米英相手の戦争であるから、容易に勝算の有り得ないことは当然でありました。そこで日本としては、太平洋及び印度洋の重要戦略拠点と、日本の生存に必要なる資源の存在する地域に進出して、敵の攻撃を破砕しつつ頑張り抜く以外に方法はないと考えたのであります。
第三次近衛内閣に於ける日米交渉(其二、九月六日の午前会議以後)
六九、
九月六日の御前会議の決定以後の対米外交は専ら豊田外相の手に依りて行はれたのであります。・・・而して対米外交の経路は従前と異なり二つの筋によって行なはれました。その一つは豊田外相より米国駐日大使を通じて進行する方法でありました。此の交渉と近衛首脳者会談とは我方では、大きな期待をかけて居たのであります。之に対する回答は十月二日米国の「口上書」(証一二四五号G)として現われました。
之を野村大使に交付するときの「ハル」長官の言によれば、米国政府は予め了解が成立せざれば両首脳の直接会見は危険であるというのであります。(中略)要するに以上によって首脳者会談の成立せざることは明白となりました。・・・日本は生存上の急を要する問題を解決しようとするに対し、米国は当初より原則論を固執するのみであります。
当時の米国の考えは野村大使よりの十月三日の米国の一般状況具申の電報(註二九〇六号)に依り明らかであると認めました。之によれば米国はいよいよ大西洋戦に深入りすることになり、これがため対日態度に小康を保ちつつあるが、さりとて対日経済圧迫の手を緩めず、その既定の政策に向かって進みつつあることは、最も注意すべきことであるといって居ります。なお、此の電報には此のまゝ対日経済戦を行いつつ武力戦を差し控えるに於ては米国は戦はずして対日戦の目的を達するものであると云って居ります。
七三、
昭和十六年十月十二日、午後二時より首相の招致により荻外荘(近衛首相の荻窪の邸宅)にて、五相会議が行われました。出席者は近衛首相、及川海相、豊田外相、鈴木企画院総裁、及び陸相の私でありました。・・・この会合の目的は日米交渉の成否の見通し並に、和戦の決定についての懇談でありました。長時間に亘って議論されましたが、詳細は今記憶して居りませぬが、各自の主張の要点は次の如くでありました。
近衛首相並に豊田外相の主張――日本の今日までの主張を一歩も譲らぬというのであったならば日米交渉成立の見込みはない。しかし交渉の難点は撤兵問題である。それであるから、撤兵問題に於て日本が譲歩するならば交渉の見込みはある。日本としては撤兵問題に際し、名を捨て実をとるということが出来る。即ち一応は「アメリカ」の要求に従って全面撤兵をすることにし、そして中国との交渉により新たなる問題として駐兵することも可能であるというのであります。之は実際に於ては明かに九月六日の御前会議の決定の変更でありますが、両大臣は特に決定変更とまでは言われなかったのでした。
私の主張――今日までの日米交渉の経過より見て、殊に九月六日の御前会議の決定に基づく対米交渉に対し米国の十月二日の回答並びに、首脳会談の拒否の態度を見ても、日米交渉の成功の目途はないのではないか。これ以上の継続は徒に米側の遷延策に乗ぜられるのみである。・・・米国の狙いは・・・交渉の進むに従いその目的が無条件撤兵であるという事が明らかとなって来た。換言すれば名実共に即時且つ完全撤兵を要求してきて居るのである。
従って両大臣の言わるる如き名を捨てて実を採ると云う案によって、妥協が出来るとは考えられぬ。然らば仮に米国の要求を鵜呑みにし、駐兵を放棄し、完全撤兵すれば如何なることになるか。日本は四年有余に亘りて為したる支那事変を通しての努力と犠牲とは空となるのみならず、日本が米国の強圧に依り中国より無条件退却するとすれば、中国人の侮日思想は益々増長するであろう。共産党の徹底抗日と相待ちて、日華関係は益々悪化するであろう。その結果、第二、第三の支那事変を繰り返すや必至である。
日本の此の威信の失墜は、満州にも、朝鮮にも及ぼう。尚、日米交渉の難点は駐兵、撤兵に限らず、彼の米国四原則の承認、三国条約の解釈、通商無差別問題等幾多そこに難関がある。此等の点より言うも、日米妥協はもはや困難なりと思ふ。しかし、外相に於て成功の見込みありとの確信あらば更に一考しよう。又、和戦の決定は統帥に重大関係がある。従って総理だけの決定に一任する訳には行かぬ。(後略)
七五、
十月十四日は閣議の日であります。・・・午前十時閣議が開かれました。豊田外相は外交妥結の見込みについては、荻窪荘会談と同様の意見を述べました。此の閣議では近衛首相も、及川海相も他の全閣僚も何等発言しませんでした。ここに於て外相と陸相との衝突となり、之にて万事は休したのであります。
< 東条内閣の組閣 >
七八、
昭和十六年十月十七日には前日来、辞職願を出したため此の日私は官邸にてその引払いの準備を致して居りました。午後三時三十分頃侍従長より、天皇陛下の思召に依り直ちに参内すべしとの通知を受けました。突然の御召のことではありますから、私は何か総辞職に関し、私の所信を質されるものであろうと直感し、奉答の準備のために書類を懐(ふところ)にして参内しました。
七九、
参内したのは午後四時過と思いますが、参内すると直ぐに拝謁を仰付かり組閣の大命を拝したのであります。その際賜はりました御言葉は、昭和十六年十月十七日の木戸日記にある通りであります。(法定証第一一五四号英文記録一〇二九一頁)・・・即ち「只今陛下より陸海軍協力云々の御言葉がありましたことと拝察しますが、なほ国策の大本を決定せらるゝについては、九月六日の御前会議決定に捉わるゝことなく、内外の情勢を更に深く検討して慎重なる考究を加ふるを要するとの思召であります。命(めい)に依り其の旨申し上げて置きます」というのであります。之が後にいう白紙還言の御諚であります。
八〇 、 私としては組閣の大命を拝すると云う如きことは思いも及ばぬことでありました。(中略)私が皇族内閣を適当なりと考えたには次の理由に拠るのであります。・・・新内閣が前内閣の決定を覆えすことは出来ますが、御前会議は問題と異なり、内閣でなく政府と統帥部との協定を最高の形式に於て為したものであります。従って統帥部が九月六日の御前会議決定の変更に同意しない場合には、非常に厄介な問題を惹起する惧れがあったのであります。皇族内閣ならば、皇族の特殊の御立場により斯る厄介な問題をも克服して円滑に九月六日の御前会議の決定を変更し得ると考えたからであります。従って私自身私が後続内閣の総理大臣たるの大命を受けること乃至は、陸軍大臣として留任することは、不適当なりと考えたのであります。又、斯の如き事の起ろうとは無想もしませんでした。殊に私は近衛内閣総辞職の主唱者であるのみならず、九月六日の御前会議決定に参与したる責任の分担者であるからであります。特に九月六日の御前会議決定の変更のためには、私が総理大臣としては勿論陸軍大臣として留任することが却って、大いなる困難を伴ない易いのであります。以上は当時私および私を繞(めぐ)る陸軍内部の空気でありました。故に若し「白紙還元」の御諚を拝さなければ、私は組閣の大命を受け容れなかったかも知れないのであります。此の「白紙還元」と云うことは、私もその必要ありと想って居たことであり、必ず左様せねばならぬと決心しました。なお此の際、和か戦か測られず、いづれにも応ぜられる内閣体制が必要であると考えました。之に依り私自身陸軍大臣と内務大臣と兼摂する必要ありと考へ、その旨を陛下に予め上奏することを内務大臣にお願いしました。当時の情勢では、もし和と決する場合には相当の国内的混乱を生ずるおそれがありますから、自ら内務大臣としての責任をとる必要があると思ったのであります。陸軍大臣兼摂には現役に列する必要があり、それで現役に列せられ陸軍大臣に任ぜられましたが、このことは、後日閑院宮殿下の御内奏に依ることであります。
八一、
組閣についてはなかなか考えが纏まりません。此の場合神慮に依るの他なしと考へ、先ず明治神宮に参拝し、次に東郷神社に賽(さい)し、靖国神社の神霊に謁しました。その間に自ら組閣の構想も浮びました。(後略)
八二、
(前略)十八日朝は靖国神社例祭で午前中は天皇陛下は御親拝あり自分も参列しました。午後一時閣員名簿を捧呈、四時親任式を終り、茲に東條内閣は成立致しました。
< 十一月五日の御前会議の前後 >
八三、
前に述べた通り私が組閣の大命を拝受したとき、天皇陛下より平和御愛好の大御心より前に申した通りの「白紙還元」の御諚を拝しました。依て組閣後、政府も大本営も協力して、直ちに白紙にて重要国策に対する検討に入りました。十月二十三日より十一月二日に亘り縷々連絡会議を開催し、内外の新情報に基き純粋に作戦に関する事項を除き、外交、国力及び軍事に亘り各般の方面より慎重審議を重ねました。その検討の結果米側の十二月二日の要求を参酌して、先ず対米交渉に関する要領案を決定したのであります。之は後に十一月五日の御前会議決定となったもので、その内容は法廷証第七七九号末段と略ぼ同様と記憶します。
八四、
次で此の対米交渉要領に依り、日本の今後に於ける国策を如何に指導するかに付、更に審議を尽し最後に三つの案に到達したのであります。
第一案は、新たに検討を加えて得たる対米交渉要領に基き、更に日米交渉を続行する。而して其の決裂に終りたる場合に於ても、政府は隠忍自重するというのであります。
第二案は、交渉をここで打ち切り、直ちに開戦を決しようというのであります。
第三案は、対米交渉要領に基きて交渉を続行す。他面交渉不成立の場合は戦争決意を為し、作戦の準備をなす。
そして外交による打開を十二月初頭に求めよう。交渉成立を見たるときは作戦準備を中止する。交渉が決裂したるときは直ちに開戦を決意す。開戦の決意は更めて之を決定するものであります。
八五、
(前略)然し、たとい決裂に陥りたる場合に於ても直ちに米英蘭と戦争状態に入ることは慎重なる考慮を要する。それは我国としては支那事変は既に開始以来四年有余となるが、而も未だ解決を見ぬ。支那事変を控えて対米英戦に入ることは、日本の国力より言うも、国民の払う犠牲より言うも、之を極力避けなければならぬ、今は国力の全部を支那事変の解決に向けて行きたい。故に日本は外交交渉の場合に於ても、直ぐに戦争に入らず、臥薪嘗胆再起を他日に期すべきである。次の理由は、国民生活の上よりするも、亦支那事変遂行の途上にある今日、軍需生産維持の点よりいうも、今日は至大なる困難にある。而して最も重要なる問題は液体燃料の取得である。これさへ何とか片付けばどうにか耐えて行けるものではあるまいか。それ故、人造石油を取り上げ、必要の最小限の製造に努力しようではないかといふにあります。この案に対する反対意見は、国家の生存に要する物質は、米英蘭の封鎖以来致命的打撃を受けて居る、殊に液体燃料に於て然りである。もし此のまま推移すれば、就中(なかんずく)、海軍と空軍は二年を出でずして活動は停止せられる。之は国防上重大なる危機である。支那事変の遂行もそのために挫折する。人造石油の問題をその設備の急速なる増設により解決し得るならば之は最も幸である。依て此の点に対し真剣なる研究を為したその結論は、日本はその1ヶ年の最小限の所要量を四百万屯とし、之を得るためには、陸海軍の軍需生産の重要なる部分を停止するも、四年乃至(ないし)七年の歳月を要するとの結論に到達した。此の期間の間は貯蔵量を以て継がなければならぬのであるが、斯の如き長期の間、貯蔵量を以ってつないで行くことは出来ぬ。そうすれば国防上重大なる危険時期を生ずる。且つ軍需生産の重要部分の停止ということは、支那事変遂行中の陸海軍としては、之を忍ぶことは出来ぬ。故に此の際、隠忍自重、臥薪嘗胆するということは帝国の死滅を意味する。ここに坐して死滅を待つよりも死を決して包囲網を突破し、生きる道を発見する必要がある。支那事変四年有余、更に米英戦に入ることは、国民の負担の上に於ても、政府としては耐え難き苦悩である。然し悠久なるべき帝国の生命と権威のためには国民は之を甘受してくれるであろうというのでありました。
八七、
第三案、即ち交渉を継続し、他面交渉不成立の場合は戦争決意を為し作戦の準備を為すという案の理由は、前記第一号第二案を不可とする理由として記述したものと同一であります。
八九、
この案に付いては、更に連絡会議に於いては、第三案の主旨に基き、今後の国策遂行の要領を決意し必要なる手続きを経て後に、昭和十六年十一月五日の御前会議で更に之を決定しました。これには私は総理大臣及び陸軍大臣として関与したことは勿論であります。これが十一月五日の「帝国国策遂行要領」というのであります。此の本文は存在せず提出は不能でありますが、この要旨は私の記憶によれば次の通りであります。(弁護士側証二九四五号)
第一に、帝国は現下の危機を打開し、自存自衛を全うするための対米英戦を決意し、別紙要領甲乙両案に基き日米外交交渉により打開を図ると共にその不成立の場合の武力発動の時期を十二月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を為す。――尤も開戦の決意は更にあらためてする。及ち十二月初頭に自動的に開戦となるわけではない。
第二、独、伊との提携強化を図り、且つ武力発動の直前に泰(タイ)との間に軍事的緊密関係を樹立する。
第三、対米交渉が十二月初頭迄に成功せば作戦準備を停止する。
というものであります。 右の中第一項に別紙として記載してあるものが前記証七七九号末段である甲案、乙案であります。之を要するに、我が国の自衛と権威とを確保する限度に於て甲乙の二つの案をつくり、之を以て日米交渉を進めようとしたのであります。 その中の甲案というのは九月二十五日の日本の提案を基礎とし、既往の交渉経過より判断したる米国側の希望を出来るだけ取入れたる最後的譲歩案であって慎重なる三点につき譲歩して居ります。その要旨は法廷証第二九二五条(記録二五九六六)にある通りであります。 乙案というのは、甲案が不成立の場合に於ては、従来の行きがかりから離れて、日本は南部仏印進駐以前の状態にかえり、米国も亦、凍結令の廃止その他、日本の生存上最も枢要とし、緊急を要する物資取得の最小限度の要求を認め、一応緊迫した日米関係を平静にして、更めて全般的日米交渉を続けんとするものであります。其の要旨は法廷証一二四五号にある通りであります。
九〇、
右の深刻なる結論を、昭和十六年十一月二日午後五時頃より参謀総長軍令部総長と共に、内奏しました。其の際天皇陛下には吾々の上奏を聞し召されて居られましたが、その間陛下の平和御愛好の御信念より来る御心痛が切々たるものある如く、其の御顔色の上に拝察しました。陛下は総てを聴き終られ、暫く沈痛な面持ちでお考えでありましたが、最後に陛下は「日米交渉に依る局面打開の途を極力盡(つく)すも而も達し得ずとなれば、日本は止むを得ず米英との開戦を決意しなければならぬのかね」と深き御憂慮の御言葉を漏らされまして、更に「事態謂(い)ふ如くであれば、作戦準備を更に進むるは止むを得なかろうが、何とか極力日米交渉の打開を計って貰いたい」との御言葉でありました。(我々は右の御言葉を拝し恐懼した事実を今日も鮮やかに記憶して居ります)。斯して十一月五日の御前会議開催の上更に審議を盡すべき御許しを得たのでありましたが、私は陛下の御憂慮を拝し、更に熟考の結果、連絡会議、閣議、御前会議の審議の外に、更に審議検討に手落ちなからしめ、陛下の此の御深慮に答うる意味に於いて、十一月五日の御前会議に先立ち、更に陸海軍合同の軍事参議官会議の開催を決意し、急遽其の御許しを得て十一月四日に開催せらるる如く取り運んだのでありました。此の陸海軍合同の軍事参議官会議なるものは、明治三十六年軍事参議官制度の創設せられてより初めての事であります。
大東亜解放戦争 =真相は日本が勝ったのだ= 岩間書店刊・岩間 弘著 (下巻・P.168〜187)
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