| [2489] 15年前・生長の家への進言・「生長の家教団」に呈す鈴木正男 |
- 蒼穹 - 2016年03月13日 (日) 12時37分
平成13 年5 月10 日発行「道の光」掲載
「生長の家教団」に呈す鈴木正男
「不二」五月号に「歴史観をめぐる言論弾圧緊急シンポジウム」と題した報道記事が 掲載されてゐるが、この記事を更に説明したい。このやうなシンポジウムが急濾開催さ れたことは極めて異例のことであった。この緊急集会開催の直接の理由は生長の家教団の 出版部である「日本教文社」発行の蔡燧燦著『台湾入と日本精神』が発売中止となったこ とに起因する。詳しくは右の「不二」五月号記事を見ればわかる如く最近の生長の家教 団の左旋回は甚しいものがある。このことは有志国民の最も憂ふところであったが、三月 十四日『台湾人と日本精神』の発売中止が発表された。時あたかも台湾の李登輝前総統が 私人として医療のため来日のピザを巡り、中共が強硬に日本政府に対しビザを発行しない やう申入れ、これに対し政府が困惑してゐる時であった。生長の家のこの処置は人道上か らも当然ビザを発行すべきであるといふ一般の日本の世論に逆行するかに見えた。中共派 に手をかすかに受け取られた。そこで、それまで生長の家の近来の動きを憂ひ歎いてゐる 真情が押へに押さへ切れなくなり、急速『日本教文社と谷口雅宣副総裁の言論弾圧に抗議 する市民の会」なるものが結成され、右シンポジウムが三月二十三日に開催されたのであ った。このやうに書くと、私ども大東塾・不一一歌逗会もこの緊急シンポジウムに関係 してゐたかの如く思はれるが、このことは全然なかった。この集会の内容のごくあらま しは前記の如く、「不二」五月号に掲載されてゐる如くであるが、その全ては『月刊日本』 五月号に掲載されてゐる。 本塾・本会の同志諸友の中には生長の家とその信條、思想を共にする方々も多い。そこ で本塾・本会と生長の家教団との関係の経過を記述し、現在の生長の家教団に対するわれ 等の態度を明らかにする次第である。 戦前は私どもと生長の家との関係はなかった。戦後もしばらくはその状態が続いたが、 昭和二十七年日本の独立恢復とともに、建国記念日、二月十一日紀元節復活の運動が起 った。この運動は年とともに盛り上り、その運動の母体として毎年二月十一日の奉祝行事 とその法制化のために「紀元節奉祝会」が昭和三十二年に設立され、事務局を神社本庁内 に置いた。運動の中心は神社関係、旧軍関係、宗教団体関係、思想団体等々で、その中で も生長の家と私どもは、その有力メンバーであった。 この会には生長の家からは中林政古氏、当方から長谷川幸男塾監が参加して、両者の間 は急速に親しくなり、お互ひに頻繁に出入するやうになりお互ひに理解を深めた。 両者の間がぐっと近くなつたのは昭和五十年十月『大東亜戦争肯定論』の著者林房雄氏 が逝去され、当方の主唱により翌五十一年一月、東京九段会館に於て開催された「林房雄 大人追悼集会一に生長の家が全面的に協力して呉れたことによる。 このやうな経過の結果、昭和五十三年六月影山塾長が長崎県下の生長の家住吉本宮に谷 口雅春総裁御夫婦を訪問懇談されたのであった。この時の影山塾長は左の三首を詠まれて ゐる。 - 2 - 長崎県下なる生長の家住吉本宮御造営現場を見学
朗々と谷口総裁御夫婦の談笑つづくさやかなるかも
モンペばきの総裁夫人欣然と案内したまふさやかなるかも
三島事件古賀浩靖も案内の中にまじりてさやかなるかも
そして、この秋十一月二十一日、影山塾長は同宮の落慶大祭には招かれて参列され、直会では参列名士諸家を代表して祝辞を述べられたが、その祝辞では、相たづさへて日本の再建に勇往せんことを烈々と述べられた。筆者は塾長附添としてそれを拝聴した 。 影山塾長はその三ケ年後の五十四年五月自刃された。その追悼文を総裁夫人輝子様が、機関誌「理想世界」(昭和五十四年八月号)に御掲載いただいた。これは相当長文であるのでその結論部分のみを掲げる。
五十三年十一月二十一日であった。この目は午後二時より我が生長の家本山では新殿祭が挙行せられ、それか終ると引きつづいて鎮座祭が行じられて、めでたく国家鎮護を目的とする住吉本宮の落慶大祭は終った。
午後四時四十分頃、私たちは本宮の顕斎殿より出て、新練成道場の大食堂に於ける祝賀パーティに出席した。(中略)和田理事長によって開会の辞が述べられ副総裁の挨拶、総裁の挨拶が終ると、私だちの夫婦の手によって鏡開きが行はれた。私たち夫婦は槌を手 にして鏡を打った。
香ぐはしい祝ひの酒は流れ出した。人々は手に手に盃を持って近づいて来た。この時、大東塾の塾長影山正治さんは祝辞を長々と述べられ、そして鄭重な感謝を捧げてドさった。
言葉が終ると「乾盃っと」大きな声で叫ばれた。 場内いっぱいの男も女も、日本民族もブラジル民族も、アメリカ人、カナダ人も、一斉に盃もつ手を高々と挙げて、笑顔をほころばせて盃をかたむけた。乾盃し終ると、集った人々は海外代表の挨拶を熱心に傾聴したり、田村五郎君の詩吟にうっとりしたりしてゐ たが、やがてあちこちのテープルヘ散って行き、海山の珍味を珍しげに楽しげに箸にしてゐた。
影山さんの音頭で、さまざまの民族が一斉に顔をほころばせて盃をあげた。ああ、それは、あの日一日のことではなく、今後の毎日の在り方であって欲しかった。生き永らへて、もっと、もっと音頭をとりつづけてゐて欲しかった。
今朝ほどの本山の良本総務の知らせでは、「『落慶式』の映画には、藤本刀匠のそばに、影山さんがハッキリ映って居ります』とのことであった。広島県の無形文化財である藤本昭さんは、住吉本宮の御神体である『護国の神剣』の製作者である。その人のそばにハッキリ影山さんが映ってゐるといふことは、偶然とは思へない、深い因縁を感じる。
「元号法制化」が為されなかったならば、「天皇国日本」の形が崩潰に傾いて行くことを、愛国者たちは憂ふるのである。「天皇国日本」であることを無視して、キリストに関係のある西暦のみを用ゐようとする人々は、それは日本人の魂を失った人々だといへよう。
以上
雅宣似非総裁は西暦を用い、生長の家をローマ字表記しかも略アルファベット表現の全く日本精神を失った者です。
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