| [213] インターネット道場 ―――感激的体験記 ・ 小林春恵先生 「導かれて八十余年」 <その一> 「わが信仰の旅路」より |
- 信徒連合 - 2015年08月11日 (火) 08時07分
インターネット道場 ―――
感激的体験記
小林春恵先生
「導かれて八十余年」
<その一>
「わが信仰の旅路」より
父母のこと、幼いころのこと
私の父は真言宗の僧侶でした。山形県に羽黒山、月山、湯殿山の出羽三山というのがありますが、お山参りと言って、月山へは、毎年七月と、八月の二ヵ月間だけ、山登りが出来るんですが、この時季が来ますと、父は、信者達の先立ちとして、信者の人達を案内して、よくお山参りをしていました。八十すぎまで生きておりましたが、一生のうちに、八十数回、お山に登ったようです。
私の母の実家は旅館を経営していましたが、母は、幼い時分に、ある事情で盲目になりました。目の見えなくなった娘のことを心配して、母の両親は、娘になにかを身につけるようにさせておきたいと思い、三味線をならわせたのでございます。新潟県には、目の見えない女性が、三味線をひきながら旅回りをするゴゼという人達がおりますが、私の母の両親は、このゴゼについて、自分の娘に三味線をならわせたのでした。
このゴゼの人は、私の母を自分の跡継ぎにしようとでも思っていたと思うんですが、私の母を弟子として、もう、泊まり込んで、熱心に三味線を教えたのでした。
そして、私の母も三味線の腕があがり、これならゴゼとして旅回りができるということで、そのゴゼの師匠は、私の母をつれて旅に出たいと母の親に話したのでした。ところが、母の親は娘をゴゼにするために三味線を教えたのではないというわけで、ゴゼになって旅にでることに反対しました。
自分の跡継ぎにと思って熱心に教えたのに、その期待を裏切られたゴゼの師匠は、腹を立てて、「わしはこの家を一生恨む」という言葉を残して、家の者達がとめるのもきかないで、吹雪の中へ出ていったというんです。そのゴゼは生きているのやら、死んでしまったのやら、それ以来、そのゴセがどうなったのか一切わからないということです。それで、私の母は、そのことに心をいためて、仏門に心をひかれていくわけです。
私は小さい時分から、おしゃべりだったようです。母の話によりますと、私がオシメをしていた時に、オシッコを教えないで、オシメをぬらしてしまう。ところが、空模様が悪くなって、雨が降りそうになると、空を見ながら、「シメ、どうしよう」と、私が言うというんですね。雨が降ったら、オシッコでぬらしたオシメを干しても乾かないので、オシメが間に合わない。それで困るというわけですが、そんな、親が心配するようなことを、オシッコを教えない私が言うものだから、母は、「そんなこと心配しんかってええから、オシッコいって、オシメをぬらさないように」と言って怒るわけです。
また、母は子供を十人生んだですが、私は小さい時分、子守さんに子守をしてもらっていたんです。ところが、この子守さんは、大変、芝居が好きだったんですよ。私の母は、この子守さんによく芝居を見せてやっていました。そして、私をおんぶして、芝居を見に行きました。ところが、背中におんぶされている私が芝居の言葉を覚えて帰って来るわけですね。そして、オシッコもろくに言えない私が、家へ帰って来たら、「しゃらんこ、しゃらんこ、しゃあらんこ。あずま下りの一節を……」と、芝居で覚えて来た言葉を上手に話すってんですよ。
私の母は子供を十人生みましたが、私は長女に生まれました。私が六歳の時でしたが、台風かなにかで、能代(のうだい)川、阿賀野川、信濃川との三つの川の堤防が切れて、私達の家のあたりは、もう水で一杯になったことがあるんです。家の仏壇をかざっておく棚が高いものですから、家の者はみなそこへ避難していたんです。 そうしたら、船頭さんが、船でみんなを乗せにきてくれたんですが、その船頭さんが言うには、「もう水はどこまで増すかわからないから、今のうちに、二階にいる人ももちろんみんな家から出てくれ」と言うわけで、近所の人達もみんな避難して、家を出ることになりました。まず、女子供を舟に乗せて避難させるということになりました。
その時、私の母は、六歳の私を頭に四人の子供がいましたが、舟に乗る時、私の父が母に、「かかっちゃ、覚悟はついているか」って言うたんですよ。そうしたら母は、「ハイ、大丈夫でございます」って言うた。
そして私たちの乗っている舟は流されて行くんです。その舟には私の家族だけではなく、近所の人達も乗っていたのですが、それらの人が、「かか、ほれ、そっちへ流されて行く」と言って泣いている。「いくら泣きやがったってどうにもならん」と言って怒っている。もう舟のなかでケンカしているんです。
ところが、私達四人の子供は親の前にちゃんと坐って、人が怒ったり、泣いたりしているのを見ていて、一つも泣き声を出さないんです。恐いと思わないんです。それはどうしてかと言うと、私の母が、真剣に手を合わせておがんでいた。母は何をおがんでいたかと言うと、父が別れる時に、「かかっちゃ、覚悟はついているか」っていったものだから、もう、この水でダメなんだと思ってね、四人の子供をつれて死なねばならんと思ったって言うんですよ。
それだから、仏縁のある所へ子供をお引き取り頂こうという、それはもう、仏縁のある所へお導き下さいという、母の真剣な祈りだったんです。自分の子供は死ぬもんだと思って、仏縁のある所へというので、母は真剣に拝んでいたわけなんですね。
この母の祈りが通じたと思うんです。この時、私達家族は皆無事に救われ、そして後に、私は生長の家のみ教えに触れることが出来ましたのも、この時の母の祈りのお蔭だと、今もって感謝しているのでございます。
それから、こんなこともありました。私の子供の頃、家の近くの曲馬団がいました。その曲馬団の幼い子供達が、お金を落としたとか、芸が下手だといって、親方に叱られ、懲らしめのためだというので、夜のご飯も食べさせてもらえず、外へ追い出されてシクシク泣いていることがよくありました。
そういう子供がかわいそうで、私の母は、三人、四人とその日によって違うんですが、それらの子供をそっと裏口から、家にいれて、握り飯を作っては、その子供達に食べさせていました。そして、その子供達を自分のふとんの中に寝かせて、その枕許で、「オンキャベイロシャノオナカモダラバリハンドバジンバラハラバリタヤ、オンキャベイロシャノオナカモダラバリハンドバジンバラハラバリタヤ」と光明真言を唱えていました。
それは、この子たちが幸せになるようにという思いで、唱えていたのでした。そして、明け方になると、子供達を起こして、「このことを親方に言ってはいけないよ。わかったら、おまえたちがどんな目にあわされるかわからないからな」と言って帰すのでした。
今考えますのに、この母が、曲馬団の不幸な子供達をかわいそうに思って握り飯を食べさせ、子供達の幸せを祈った。この母の積んだ徳によって、私は本部講師になったんだと思うんです。
そんなことがあったことを思いますと、こうして、八十歳を越えた私が、みなさんのお世話になって、生きておられるのも、考えて見ますと、やっぱり、母の祈りと徳のお蔭だと思われるんですね。
入信のきっかけ
私が生長の家に入信したきっかけをお話しいたしましょう。 私は、若い時分に、鍼と灸の勉強をするために東京に出て、鍼灸マッサージの学校へ行っていたことがありました。ところが、その鍼灸マッサージの学校の私と同じクラスに、とてもニコヤカで雰囲気のよい上品な奥さんがいました。その奥さんが、ある時、私に、 「明日は日曜日で、谷口雅春先生のお話があるんですよ。お願いですから、あなた明日どうか私と一緒にお話を聞きに行って下さいませんか」と、とても嬉しそうに話しかけて来ました。ところが、私は、この人いったい何を言うかというわけで、「明日は用事があるからダメだ」と、つき放すように強い言葉で断りました。特に病気でもないし、悩んでいるわけでもありません。ですから、生長の家の話を聞くつもりはありません。
ところが、次の土曜日になると、その奥さんは、又、「明日は日曜日で、谷口先生の……」と、話しかけて来るんです。私は、その人の話を終わりまで聞かないで、「いやいや、私は明日、用事があるから」と言って、断るのです。 そういうことを何ヵ月も繰り返したのですが、それでも、その奥さんは、あきらめないで、一所懸命に私を誘い続けるのですよ。
とうとう、しまいには、さすがに私も面倒くさくなって、その奥さんに尋ねました。 「あんたは、どうしてそうやって私に生長の家に行こう、行こうと言うんかね。何のために言うんですか」 と言ったら、その奥さんの言うには、「実は、私の一家は生長の家の教えによって救われたのです。だから、私の顔を知っている人で、この人はと思われる人には、必ず一度は谷口雅春先生のお話を聞いていただくところまでお誘い申し上げることにしているのです。そして、一度、お連れしましたら、後はお聞きになろうがなるまいが本人の自由です。でも、一度も御案内しないうちは、誘うことをやめないのです」と言うわけです。
そこで、私は「ああ、そうですか、それじゃ、一度話を聞きに行けば、後は誘わないんだね」って言ったら、「ええ、そうです」と言う。「じゃあ、明日の日曜日、あなたと一緒に話を聞きに行きましょう。一度聞きに行けば、後は誘わないというんだから」ということで、その奥さんに連れられて赤坂にあった生長の家は行くことになりました。
ところで、生長の家に行く前に、生長の家ではどんなことを教えているのか、その予備知識を得たいと思い、その奥さんに、 「ところで、明日生長の家の話を聞きに行く前に、予備知識として、生長の家はどんなものか、あなた、一つ話してくれませんか」と言ったんです。そうしたら、その奥んが、「私、お伝えするのに、もし間違ったことをお話ししては申し訳ありませんので、それでは私の家に来ていただけませんか。家には主人がおりますから、主人から詳しくお話ししていただきます」と言うわけです。
そこで、その奥さんについて行きました。ところが、その奥さん、玄関を入るなり、大変うれしそうな声で、「お父さん、いつもお話ししていました方をお連れしました。生長の家のお話を聞いてくださるそうです」と、御主人に声をかけました。
その時、御主人は、着物を着たまま、日の当たる縁側に寝ころんで新聞を読んでいましたが、「ああそうですか。それはありがとう。ありがとう。ちょっとお待ち下さい」そう言って、奥の部屋に入りました。
しばらくすると、袴をはいて出て来たのです。そして、床の間を背にして、姿勢を正して、 「汝ら天地一切のものと和解せよ……」 と、大調和の神示を、おごそかな調子で読んだんです。
そして、大調和の神示を読み終わると、 「実は、生長の家のお話と言うのは、こういうものです。あとは、明日、谷口先生のお話を直接お聞き下さればよろしいと思います。ああ今日はどうぞごゆっくりして行って下さい」 そう言って、御主人は、又、奥の部屋へ入って行きました。
そして、しばらくすると、お茶を飲みに出て来ましたが、袴を脱いでもとの着物姿になっています。たった五分間ほど神示を読むためだけに、わざわざ袴をつけてくるその敬虔な態度に、私は、生長の家の教えはなみなみならぬ教えだと感じました。それで、私の魂の底に生長の家を植えつけられたのでした。
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