| [2617] インターネット道場―――体験実話特集 大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(30) |
- 信徒連合 - 2016年03月21日 (月) 09時41分
インターネット道場―――
体験実話特集
大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(30)
病気を癒やすとは、 畢竟(ひっきょう)、本来完全なる「神の子・人間」を顕現することに他ならず。 汝ら「人間・神の子」の自覚より 更に進んで「神の子・人間」の自覚に入(い)るべし。 通俗語で「病気を癒す」と普通言うのですけれども、人間は神の子であって、本来病気はないのでありますから、癒されるべき病気も本来無いのであります。だから通俗語の表現では仮に「病気を癒す」と言いますけれども、それは病気を癒すのではなく、結局は「本来完全なる神の子」の実相を現象界に顕現することであると茲(ここ)には説かれているのであります。
それは恰度、“暗(やみ)”というものは実在しない。「暗を消す」と仮に申しますけれども、“暗”とは“光が其処に存在しない”という消極的状態に過ぎないのであります。だから“暗を消す”のではなく、光をそこに照射すれば、“暗の本来の無”が明瞭になりますように、真理の光を照らして存在の実相を見れば、人間は神の子であるから、病気は「本来の無」をあらわし、人間は本来の“神の子“なる健康な実相を顕現するのであります。これを通俗語では「病気が癒された」というのであります。この事をこの一節は説いているのであります。
それから「更に進んで『人間・神の子』の自覚より、『神の子・人間』の自覚に入(い)るべし」というのは、「人間」とは普通“肉体”を指しているけれども、これは「神の子」であるんだと、“肉体人間”の自覚から“神の子人間”の自覚に向上した自覚を「人間・神の子」の自覚と表現されているのでありますが、「神の子・人間」の自覚というのは、既に、はじめから“神の子”であるものが“人間”として顕現しているのだと寧(むし)ろ“天降(あまくだ)りの霊的存在だという自覚”を表現したものだと受け取って頂ければ良いのであります。
昭和45年9月20日、別府市の市民温泉プールで生長の家の講習会がひらかれました。
“温泉プール”で講習会があるというので、温泉宿の広間かなにかで講習会がひらかれるのかしらと思って会場へまいりますと、体育館のように広いプールで、そこに温泉の湯が入って入れば自由に泳げる競泳場みたいな湯槽なのですが、そこに温泉の湯を入れずに、その中に敷き物を布(し)いて講習生がズラリと坐って、その三方の観客席みたいな処にも講習生がいっぱい坐っているのです。
そこで大分県佐伯市宮ノ内の吉高寿恵子さんが心臓弁膜症で40年間も、心臓の異常発作で悩んでいたのが全快した体験をお話になりました。しかもこの方は良人が酒乱で、その有様が見るに耐えないために、眼を覆う心を起していたら、「見るのを遮(さえぎ)る心」でありますから、「白内障(そこひ)」という視力を遮る病気に罹っていたのですが、練成を受けて自分の心境が一変すると共に良人の酒癖も治り白内障も治ってしまったのでした。吉高寿恵子さんは斯(こ)う語られた。
私は只今から、谷口雅春先生のお傍(そば)で体験のお話をさせて頂きます。勿体無くて胸がいっぱいです。私は子供の頃から、心臓弁膜症で発作が起こる度に、その苦しみは迚(とて)も口では申されません。丁度、死刑囚が刑場に連れて行かれる時の心境があんなだろうと思います。ただそれだけではありません。主人が迚もお酒が好きでして、ものの3合も飲みますと、もう大変です。時も所もなく、大きな声で怒鳴り散らします。
うちの子供の小さい頃は、父が飲み出しますと、私の後ろに来て恐ろしさに震えながら、「逃げよう、逃げようね……」と着物を引張ります。お天気の日はまだしもですが、雨の日や雪の日は、何時も跣足(はだし)で飛び出し、ずぶ濡れで夜の街を子供と2人、暗い所に蹲(うずくま)り、震えながら酒乱の夫が暴れ疲れて眠るまで外でうろうろしておりましいた。
あまりの辛さに、“せめて車の事故にでも遭って死にでもしてくれたら”と思ったことも度々でした。ところが昨年の暮頃から、私の目が急に見え難く、頭がずきずき痛みますので、佐伯駅前の石川眼科に診断して頂きました。「底ヒ」と聞きました時には、生きる力も抜けてしまいました。それからの私は、死ぬことばかりを考えました。
長い年月、苦しい悲しい日々を過ごしたことが、死にさえすれば解決出来ると思いました。そうする中に、4月の23日に主人が急に栃木に行くことになりました。期間は3ヶ月です。さあ、今の中になんとかせねばなりません。心は焦ります。そして、忘れることが出来ない昭和45年5月の7日、松本信子さんと仰言って、迚も生長の家の熱心な信者の方に誘われまして、西上浦相愛会長・西馬様のお宅にまいりました。講師の先生は今泉きよ先生でした。
先生は終始、笑いながら優しく分りよく、夫婦和合のお話をしてくれました。その夜帰りに松本さんに、聖経『甘露の法雨』をお借りしました。今泉先生と松本さんの確信ある口ぶりは、私を何の抵抗もなく拝む心に向わせて下さいました。
私が祈るだけで、本当に主人が変るものならと、その夜は床に入る気もしません。帰ったまま仏前に坐りまして、『甘露の法雨』を。3回読誦致しました、そして、先生の申されました感謝の言葉「有難うございます……」と祈念致しました。気附きましたら、畳に頭をつけて、「御免ね、御免ね……」と泣いていました。丁度、午前3時を過ぎていました。
次の日、松本さんがわざわざ『聖光録』を持って来て貸して下さいました。そして『聖光録』の中に出てくる遠隔思念と『甘露の法雨』三昧で食事をする時間も惜しいくらいでした。
ところが10日の夕方でした。「御免下さい、吉高さんのお宅はこちらですか?」と入って来た人があります。主人でした。そんな冗談など言う人ではありませんでした。私も懸命に祈っていましたので、もう軽蔑も憎しみもありません。夕方には主人の好きなものを沢山拵えまして、酒も1升瓶を前にしましてね、8合も飲んでいましたけれども全然違います。笑いながら、旅先の話をしたり、♪ここはお国の何百里……と歌まで歌ってくれました。その姿にただ嬉しくて、心の中で「神様有難う……神様……」と涙が出て仕方がありませんでした。(拍手)
そして、いよいよ待ちに待ちました大分練成に一人で行きました。練成の扉が開いた途端私はまた心を打たれましたのは、若い事務員の方が合掌しまして、「有難うございます……」と初めての私を迎えて下さいました。
不安も一度に吹っ飛んで、泣きたいくらい嬉しかったのです。そして、右も左も、上も下も、この偉大な御教えの方々の姿ばっかりなのです。もう夢中でした。講師の先生方のお話を、一言も聞き洩らすまいと懸命でした。2日目、喜多教化部長先生が、目の悪い人のお話をして下さいました。その時、私ははっと気附きましたら、朝から眼鏡をぜんぜんしてなかったのです。そして、目がはっきり見えます。私の底ヒは、その日を境に完全に治りました。(拍手)
感激の日々を過しまして、5月25日練成から帰りまして、私は、エビフライを拵えて食べました。と申しますのは、私は、肉類や、油もの、牛乳、卵などを、食べますと体が直ぐ腫れて、胸が苦しく動けなくなりましたので、一切食べないことにしていました。安心して食べましたのは30幾年振り、子供は目を丸くして、「お父さんに電報しようね……」と言いますので、「人間・神の子、病気なし、実相は円満完全よ……」と言いました。その言葉は今はもう、高校生になりました子供の口癖になりました。
それから、私の迚(とて)も可愛がっていました植木が枯れてしまっていましたのが、練成から帰ってひょっと見ましたら、他の木よりも2ヶ月遅れて新芽が出ていました。見るなり堪(たま)らなくなりまして、部屋の中に飛び込んで走り回りました。「有難う、有難う……」と言いながら。皆さん、3重の苦しみで死ぬことばかりを考えていました私は、40年近くも死の恐怖にさらされました心臓弁膜症が綺麗に治りました。(拍手)そして、主人の酒乱も治りました。底ヒも治りました。どんな字でも分ります。
神によって生かされました私の残された人生は、神の使命の愛行でございます。いくら暑くても遠くても喜んで参ります。そんな元気な体を頂きました。喜ぶ人の殖えるようにと念じながら、あちらことらと神誌を抱えて、生長の家の御教えを弘(ひろ)めさせて頂きます。谷口雅春先生、本当に有難うございます。大分練成の先生方、有難うございます。松本さん、会場の皆様、有難うございます。(拍手)
この吉高さんの体験で興味深いのは、本人の心が変ると、病気が消えると同時に、良人の酒乱が治り、しかも殆ど枯れていた庭木が新芽を吹いて生き返って来たことであり、まことに「肉体も環境も我が心の影」という教えの通りであります。
「神の子・人間」には病い無きなり。 「神の子・人間」の上には、 神の法則のみ支配す。 神は愛なるが故に 神罰の法則は汝を支配すること能(あた)わず。 神は生命なるが故に、 死の法則は汝を支配すること能(あた)わず。
ここには人間が病気になる法則などというものは「人間は肉体である」という仮相の世界にのみ存在するのであって、人間は“神の子“であり、“霊的存在”であるという“実相の世界“には、人間が病気になるという法則は存在しないのであり、ただ“神の法則”のみが存在するのであるという真理が示されているのであります。
そして、“神は愛なり”でありますから、その“神の法則”というのは“愛の法則”であります。この世界には“愛の法則”ばかりが存在しているのであります。生長の家を前々からやりながら、それをおろそかにしていたために神が神罰を与えられたとか、神のお譴(とが)めがあったとか考えてはならないのであります。「一切万事われより出でてわれに還る」であります。譴(とが)めがあったとすれば、それは、自分の内から自己処罰が出て来たのであります。何事に限らず、「こんなことでは可(い)かんぞ」という「気のとがめ」を起すようなことを、そのまま持ち続けないようにすることが肝腎であります。神は愛でありますから。愛なる神からは、愛に背く神罰などは出て来ない、“死の法則”も“病いの法則”も、実相に於ては存在しないのであります。しかし自己処罰は「みずからを、みずからで、正しい方向に向上せしめるため」に自己内部神性が行うのであるから、自己処罰が起ればみずから顧みて。今迄の生き方を改善して行くのがよいのであります。
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