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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[2768] 完全優位の『正統・生長の家』、そして『マサノブ教』は脛(すね)に傷もつ教え!  <第六部>
塚原卜伝 - 2016年04月01日 (金) 09時56分







「子記事」に、遥かなる追憶<第六部>として、「純粋教理批判=マサノブ君」の「反・『御教え』」、「反・開祖」、「生長の家」解体実行語録の数々を掲載します。


********************


「掲示板」情報のお蔭で、マサノブ君の生来の實相隠蔽の内容が明らかとなったのであります。そして、マサノブ君の實相隠蔽度合いが最近益々今生では回復不可能となって来たこともわかるのであります。



[ T ] 「掲示板情報」で判った『狂乱総裁』マサノブ君の今に到る思想的生い立ち 


1、 子供の頃、庭の蛙をとらえて“火あぶりの刑”に処して遊んでいた。 (残酷無比)

2、 子供の頃、食卓に零した味噌汁を吸うように叱られた。 (見返したい怨念)

3、 「遂に自分も独裁体制を布く事が出来た」と友人に語ったとか。これも少年時代からの夢?(独裁者志向)

4、 青年の時代に書いたタイトルは『穴グラから』であった。 (光明思想ではなく暗黒思想)。

5、 若き頃の発言は「人生で一番大事なことは、権力を持つこと」 (権力への憧れ)

6、 退職金と権力を手中に収めるための、復職を前提とした「副総裁辞任劇」、(飽くなき金銭欲)

7、 その昔、信徒(宮崎氏)から寄贈された“お山”の住居を教団に買取らせて自己資金化? (飽くなき金銭欲)

8、 「法燈継承劇」を無理矢理に演出挙行、『ニセ法燈継承者』をまかり通させる。(手段を選ばず目標達成)

9、自分もまた死後、「大聖師号」を付けさせたいために、清超先生の御遺言を無視した。(手段を選ばず目標達成)

10、 継承者自らが、継承した教団をつぶす“忘恩的行為”を着々実行。 (破壊と蕩尽)

11、 看板は『生長の家』、中味の実態は換骨奪胎した『ニセ生長の家・マサノブ教』で信徒を欺瞞 (詐欺商法と同じ)


以上、要するに『残酷無比・怨念・独裁・暗黒思想・権力欲・金銭欲・戦略的知力・宗教詐欺』――― これが完全に『神性隠蔽マサノブ狂乱総裁』の正体であります。常識的な意味から言っても、『宗教・信仰』の世界からは考えられないことばかりであります。これがそのまま『非生長の家マサノブ教』のアキレス腱であり、脛の傷となってしまっているのであります。




[ U ]  完全優位の『正統・生長の家』、そして完全劣性のスネに傷持つ『マサノブ教』の比較



   比較項目    「正統・生長の家」  判定    「マサノブ教」  判定


1、 教義について     唯神實相神学 ○        左翼唯物現象論 ●

2、 基本聖典      『生命の實相』 ○        『大閑雑感』  ●

3、 経典        『甘露の法雨』 ○        『大自然惨禍経』●

4、 神示        神示集・神示祭 ○         人間知    ●

5、 神想観       完全に実修   ○         不完全実修  ●

6、 礼拝         『實相』   ○        大自然(雑木林)●

7、 祭式          日本式   ○         西洋式    ●

8、 立教目的    人類光明化と日本国實相顕現 ○     地球環境保護 ●

9、 国家観        生命的国家観 ○         世界市民思想 ●

10、 國體         天皇国日本  ○       共和制・世界政府 ●

11、 愛国心      中道實相の愛国心 ○      戦争に繋がる・不要 ●

12、 講師のレベル    非常に高い   ○    非常に低い  ●

13、 信徒の質     求道心は旺盛  ○    お孫さま信仰  ●

14、 体験談       真理の証し人  ○  たまたま、非科学的 ●

15、 国防意識     旺盛(七生報告) ○  マサノブ君にはナシ ●

16、 お金と真理との優先順位    真理 ○         お金・退職金 ●

17、 人生の霊的使命   真理国家の建設 ○      優雅な宗教貴族生活 ●

18、 浄財の使用目的  立教の使命と目的に沿って ○  超高給と利ザヤ稼ぎ ●

19、 教団設立の淵源   實相世界    ○ 『狂乱総裁マサノブ』の人造●

20 「天壌無窮の御神勅」  日本国家の淵源 ○      一切認めず無視 ●

<追加>

21、 人間観          神の子  ○     人間至上主義(罪の子)●

22、 運動方針    個人と国家の實相顕現 ○   趣味と遊びのクラブ活動 ● 


 総合点              100点            零点              




(70)
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[2769] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の 「生長の家」解体実行の証明語録 (1)
遮那王 - 2016年04月01日 (金) 10時18分


遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (1)

@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!



*************************




● 4637 :尊王=マサノブ:2015/09/12(土) 08:22:33 ID:UX9V9c2Y
生長の家・開祖の『御教え』全相復活を目指す掲示板が改めて、「トキ管理人」氏に対して『純粋教理批判』・『感想』君2名の書込み禁止処置を要請する。実行して頂きたい。と言っているが、それは谷口雅春先生の教えに反する行為です。私には総裁かどうか判断はつかないけれども、総裁ならば尚の事議論をするのが生長の家だと思います。雅春先生は正々堂々を好む方でしたよ。『御教え』全相復活を目指す掲示板なのであれば、相手を書き込み禁止にしないで頂きたい。恥ずべきことです。

● 4660 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/13(日) 11:22:01 ID:DD4jWV6M
真説と虚説の二項対立について、さらにつっこんで考えてみます。この一信徒によれば「物質なし」とするのが真説であり、「物質あり」とするのが虚説となるようです。「物質なし」とは「物質は存在しない」とする否定判断です。「物質あり」とは「物質は存在する」とする肯定判断です。この未知の領域をわたしは「外部」と呼びたいとおもいます。この一信徒にとって、ものごとの判断は否定判断と肯定判断しかありません。この二つの判断だけでことたりているということです。内部の真理とはこういうものです。内部の真理には肯定判断と否定判断のふたつしかありません。この信徒にとって「外部」は存在しません。どちらかひとつが真でありあとのひとつのが偽である。これがすべてなのです。

● 4688 ・4690・4692:屠蘇地租過疎=マサノブ:2015/09/14(月) 21:41:02 ID:MDvyz5eo
トンチンカンも≪信仰者≫なら、アジ演説はいい加減にしろよな!
トンチンカンは、≪信仰者≫なのか?いや、違うな。ヘイトスピーカーだ。
トンチンカンよ、≪ヘイトスピーカー≫のお前が谷口雅春先生を語るな!

● 4427 :純粋教理批判(身元の詮索は無用) =マサノブ:2015/09/08(火) 23:26:36 ID:DD4jWV6M
実相は独在にあらず。実相を不在にさせた外部が必ず存在する。わたしはこのようにも考えます。真理は内部にではなく外部にある。わたしがいいたいのはこのことです。

● 4428 :純粋教理批判(身元の詮索は無用)=マサノブ :2015/09/08(火) 23:44:01 ID:DD4jWV6M
実相独在はイデア論です。それは真理を自己の所有物とするイデア論の考え方です。わたしはイデア論に反対いたします。



(注)

* 「純粋理性批判」=マサノブ君は、本流側の追求が激しいので最初から相当荒れております。

* マサノブ君は、色々なHNを多用して入ります。内容中心に判読すれば、マサノブ君本人である事は容易に分かります。




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[2783] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の 「生長の家」解体実行の証明語録 (2)
遮那王 - 2016年04月02日 (土) 11時17分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (2)

@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!



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● 197 :感想男=マサノブ?:2015/09/10(木) 10:03:43 ID:JPiKJZkg
・・・生長の家の自由な生き方が本当にできるものかの疑問が増えますね。・・・その敗戦前の雅春先生の言への疑問なんです。知的誠実さがあり宗教家としての正しい道を歩んでいたかそれを疑問としているのです。云うことと行動が相反するという話が喧しい時がら、敗戦前に雅春先生がどんなことを言い国民を先導したかを知りたいのです。戦後に何云っても詮無いことです。雅春先生が敗戦前に言行一致であったか不一致であったかを聞いているのですから。

● 200 :感想男=マサノブ?:2015/09/10(木) 13:29:22 ID:JPiKJZkg
会話するもしないも自由、単に自分のブログでそれぞれが意見を述べていると思えばなんてことないでしょう。

● 204 :感想=マサノブ?:2015/09/10(木) 15:02:42 ID:JPiKJZkg
理念と云う生長の家特異の考えを述べるのは勝手です。・・・大和の理想国、八紘一宇の理想国今どこにありますか。大調和の谷口家が何処にありますか。現象実相などの言葉に関係なく人間は生きているのです。其処に何らの理想の実現がなされないのであれば単なる理屈と云われてしまうでしょう。

● 210 :純粋教理批判(身元の詮索は無用)=マサノブ:2015/09/10(木) 17:15:05 ID:DD4jWV6M
西欧の支配下にあった国々は政治的には独立できたかもしれませんが、民族の精神は失ったままなのですよ。精神はいまだに西欧列強の支配下にあるのですよ。植民地支配からの解放が日本国の使命であるのなら、精神の解放に向けて日本国はなぜもっと積極的に取り組まないのでしょう。

● 214 :感想=マサノブ?:2015/09/10(木) 18:05:13 ID:JPiKJZkg
古事記日本書紀の造られた時から日本精神は天皇の取り巻きによって隠されてきたのではないかと思っています。・・・雅春先生は自覚に基づいて真理を説かれたのかも知れませんが、言葉の上では古事記から出発しているのです。ホツマツタエの原文の世界はまるで知らなかったのです。・・・ホツマツタエに書かれていたものをかゃくほんして作られたものらしい古事記を基に真理を説かれていることへの疑問であります。

● 215 :純粋教理批判(身元の詮索は無用)=マサノブ:2015/09/10(木) 18:20:31 ID:DD4jWV6M
生長の家は逆に日本的精神を高らかにうたいあげているようにおもえますが、アフリカや南米の国々がいまだに抱え込んでいる問題をおもいやるのであれば、こういうことはできないはずです。こうした無神経ぶりがどこからくるのか、教えていただきたいとおもいます。

● 4576 :純粋教理批判(身元の詮索は無用)=マサノブ:2015/09/10(木) 13:34:02 ID:DD4jWV6M
「真理は外部にある」・・・外部の真理は不完全な姿でしかあらわれない。完全円満なる実相としてあらわれることはほとんどない(もちろん例外はあるでしょう)。これが古今東西の真実ではないでしようか。・・・内部の真理とはなにかといえば、それはまず間違いなく左脳自我の産物である。内部の真理はほとんど例外なく、善と悪や、霊と物質といた二項対立をたてる仕方で真理を説明しようとするからです。二項対立をたてるのは左脳自我の特徴です。内部の真理とは左脳自我の真理にほかなりません。霊と物質の二項対立をたてれば、霊を内部に留保し、物質を外部へと放逐しようとするでしょう。外部はマイノリティのたまり場なのですよ。・・・二項対立は言葉の宿命です。・・・内部の真理はつねに自己(左脳自我)をはこびてなされるもののようにおもわれます。万法すすみてあらわれてくるのが外部の真理であるといえます。








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[2804] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の 「生長の家」解体実行の証明語録 (3)
遮那王 - 2016年04月03日 (日) 11時07分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (3)

@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 216 :純粋教理批判(身元の詮索は無用)=マサノブ :2015/09/10(木) 22:23:13 ID:DD4jWV6M
言葉を奪われるということは自国の文化や伝統から完全に切り離されるということですよ。精神をも奪われるということですよ。日本人の英語化がすすんで5世代、10世代とたてば、いまある文化や伝統など跡形もなく消え去っていることでありましょう。植民地支配はまだおわっていない。これは厳然たる事実です。日本の使命とはいったいなんだったのですか?文化から切り離されて生きなければならない人々の苦悩を共有する。これも使命なのではないですか。「イエス・キリストのような役割を果たした」というのであれば、こちらのほうがよりいっそう重要な使命のようにおもわれますが、それを「どこ吹く風」でいられるとは、いったいどうした風の吹き回しなのでしよう。

● 4583 :純粋教理批判(身元の詮索は無用)=マサノブ:2015/09/10(木) 22:17:25 ID:DD4jWV6M
内部の真理とは、人間が左脳自我をもったことで外部の真理を受け取れなくなり、その代替物としてつくりだした真理です。外部の真理はふだんの心がけとは関係なくあらわれてくるものと考えております。

● 4592 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/11(金) 11:25:00 ID:DD4jWV6M
植民地支配からの解放が重要なのではない、あの戦争をいかに正当化するかということが重要なのだ、というのが生長の家の本音であるととられかねませんよ。

● 4593 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/11(金) 11:43:59 ID:DD4jWV6M
曳馬野さんはある事実にもとづいて雅春先生を「変節漢」といっておられるのではないですか

● 4597 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/11(金) 12:58:43 ID:DD4jWV6M
わたしは実相独在の排他性を問題にしているところなんですがねえ。実相独在とは「実相しかない」と言っているわけですから、これ以上の排他的表現はなかなかみつからないでしょう。



● 4598 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/11(金) 13:11:35 ID:DD4jWV6M
わたしは、植民地支配にたいする認識が甘い、といっているのですが、戦争を正当化できる部分だけをとりあげて、それを認識のすべてとしているようにもみえます。

● 4600 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/11(金) 13:26:12 ID:DD4jWV6M
教理の排他性、このことを批判したいのですよ。「大調和の包容の精神」といいながら、実際はものすごく排他的な教理なのですよ。教理と異なることをいえば「迷いだ、人間知だ」と排他的な言葉が即座にかえってまいりますが、なぜこうなるのかといえば、教理に排他性がひそんでいるからですよ。教理の排他性が今ある問題を引き起こしている。このことに気づかなければ問題のまともな解決はありえないといっていいでしょう。総裁は排他性の犠牲者です。

● 4601 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/11(金) 13:31:01 ID:DD4jWV6M
本流の排他性は「誤読」ではなく教理がつくりだしたものです。





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[2817] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の 「生長の家」解体実行の証明語録 (4)
遮那王 - 2016年04月04日 (月) 10時04分







遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (4)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4602 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/11(金) 13:49:16 ID:DD4jWV6M
解放などどうでもよい、戦争を正当化できればよい、これがみなさまの本音だからですよ。本音はこういう形であらわれるものなのですよ。解放が問題なら真の解放に向けてより真剣に語りあうべきであったが、それがいっさいなされてこなかった。本音はみえみえでしょう。

● 4605 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/11(金) 14:55:43 ID:DD4jWV6M
万教は一切を包容する日本精神によってそれぞれが活きる、雅春先生の御教えでいけばそれが、具体策でしょうか。現実を見ましょう、現実を。一切を包容する日本的精神が生長の家のどこにあるのですか。生長の家のなかでさえ実現されていないものをもってして具体策とする。こういうことばかり言いつづけて80年がたってしまいましたねえ。

● 4608 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/11(金) 15:48:22 ID:DD4jWV6M
いまだ現象にあらわれざるものをもって具体策となす。世間ではこれをやる気のない証拠とみなしますね。
私は植民地問題よりも「我が国の貧困問題」や「失業問題」、あるいは「経済状況」の方にどうしても関心が、いきますね。そんなところでしょうか。かつて日本は身の破滅もかえりみずに、植民地解放のための戦争に突入したのではなかったですか。今は「わが身大事」ということですか。たとえ経済が破たんしようとも植民地問題解決のために身をていして尽くすということは、もうやらないということですね。

● 4621 :感想=マサノブ:2015/09/11(金) 18:27:23 ID:JPiKJZkg
他の、本流掲示板のほうも、たまには ご覧になられたほうがいいですよ。すごいことに なってます。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/daityouwa.html これが生長の家の信徒の姿なんですね。災害に会った人の事を一つも思いやれない人間の集団。

● 4637 :尊王=マサノブ:2015/09/12(土) 08:22:33 ID:UX9V9c2Y
生長の家・開祖の『御教え』全相復活を目指す掲示板が改めて、「トキ管理人」氏に対して『純粋教理批判』・『感想』君2名の書込み禁止処置を要請する。実行して頂きたい。と言っているが、それは谷口雅春先生の教えに反する行為です。私には総裁かどうか判断はつかないけれども、総裁ならば尚の事議論をするのが生長の家だと思います。雅春先生は正々堂々を好む方でしたよ。『御教え』全相復活を目指す掲示板なのであれば、相手を書き込み禁止にしないで頂きたい。恥ずべきことです。

● 4647 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/12(土) 14:35:02 ID:DD4jWV6M
強力な薬には強い副作用があるように、強力な教理にも強い副作用があります。その副作用とは、教理を信じるものに尋常ならざる排他性を植えつける、というものです。「真の教え」をたててそれに反する考え方を虚説として排除しようとしていた人がいた。いっぽうを「真の教え」としてたてて他方を「虚説」として排除する。これが副作用としての排他性です。「尋常ならざる排他性」です。



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[2835] 「純粋教理批判=マサノブ」の 「生長の家」解体実行の証明語録 (5)
遮那王 - 2016年04月05日 (火) 09時58分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (5)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4648 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/12(土) 15:09:28 ID:DD4jWV6M
言葉とはそもそもが排他的なものです。日本国とは何か、定義できますでしょうか。「日本人が住む国」といったところで定義にはなりません。なぜなら日本人とは「日本国籍をもつもの」だからです。地図をみせて「これが日本です」と示すことはできます。しかし日本国という概念がなければ地図をもって示すことはできないはずです。「これが日本です」と示せる人は日本国という概念をすでにもっているにきまっています。その概念をその人はどうやって得たのか、これが問題になります。もしも地球に日本しかなければ、日本という概念がうまれるはずがありません。日本という概念をもつためには、日本ではないほかの国がかならず必要になります。イギリスやインドや中国という国があって、はじめて日本という概念をもつことができるということです。日本国とは、イギリスでもない、インドでもない、中国でもない、その他の国でもない、こういう仕方でしか定義できないはずなのです。地球上に日本しかなければこういう仕方での定義は不可能です。したがって日本という概念はうまれようがない、ということになるはずなのです。言葉は他を排除することでしか定義できない。わたしは言葉とはこのようなものだとおもっています。じっさいの言語活動はきわめて複雑であるので、どの言葉が何を排除しているのかを決めつけることはできません。しかし、いかに複雑であろうともあらゆる言葉が他のあらゆる言葉を排除していると、わたしはこのように考えています。言葉とはそもそもが排他的である。これがわたしの考えです。

● 4650 :純粋教理批判マサノブ:2015/09/12(土) 16:49:02 ID:DD4jWV6M
宇宙とはそもそも何かというと、大気圏の外側が宇宙なのですね。大気圏の内側は宇宙ではありません。つまり、大気圏の内側でないものを宇宙と呼んでいるわけです。大気圏の内側がなければ、もちろん宇宙もありません。もしも人間がひとりで宇宙をただよっていたとしたならどうでしょう。自分以外はすべて宇宙です。しかしその人が生まれてからずっとそういう状態であったとすれば、自分という概念が生まれるはずがないので、宇宙という概念をもつこともないでありましょう。わたしのいう「実相」とはこういう状態をいいます。自と他の区別がない。したがっていかなる概念も生じえない。それがただある。これが実相です。実相独在とはいっさいの概念が生じえない状態です。概念を生じさせるには外部からの作用を必要とする状態です。その概念はいかにして生じたのか、これが問題になります。

● 4652 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/12(土) 17:57:49 ID:DD4jWV6M
「言葉とは何か」が簡単にわかるはずがありません。言葉とは何かを言葉で説明しなければならないのですから、これは至難のわざです。言葉とは何かを知らなくても言葉をつかうことができるわけです。たいていの人は言葉とは何かを考えることもせずに言葉をつかっているわけです。このことが問題をひきおこします。生長の家では、運転の仕方を知らずにクルマを運転する人のたとえがもちいられていたとおもいますが、言葉とは何かを知らずに言葉をつかっている人とは、運転の仕方は知っているがどういう運転をしたら危ないのかを知らずに運転している人といえます。

● 4657 :純粋教理批判 =マサノブ:2015/09/12(土) 21:35:02 ID:DD4jWV6M
言葉とは他の言葉との関係、言葉は単独で意味をもつことはなく、他の言葉との関係においてのみ意味をもちます。この「関係」をわたしは排他的にたがいを排斥しあう関係とみています。排斥しあう関係がなければ言葉に意味はないということです。実相と現象の関係もこれとかわりません。たがいに相手を排斥しあう関係でなければ両者ともに意味をもつことないということです(現象がなければ実相もないということです)。現象なしの実相が考えられますでしょうか。「現象はない」と言葉にすることで現象を不在にさせ、その不在を埋める形でしか実相は語れないはずです。悟りの境地は「万法すすみて」でありますから、ここで書いたこととはおそらく無関係でありましょう。

● 4659 :純粋教理批判 =マサノブ:2015/09/13(日) 00:57:47 ID:DD4jWV6M
言葉があからさまな二項対立の関係に入るとき、排他性は暴力性をおびた排他性へとさらにパワーアップいたします。このパワーアップした排他性が問題をひきおこしているわけです。「真説」と「虚説」。これがあからさまな二項対立です。こうした二項対立では、片方の項だけが純粋に現前するよう意図されます。「現前」とは「今ここにすでにある」という意味です。片方の項の純粋現前が意図されるかわりに、もう片方の項は暴力的に外部へと排除されます。パワーアップした排他性は、あからさまな二項対立をもちいるものに、片方の項を外部へと排除するよう働きかけます。気に入らないものを排除したい欲望。これは誰にでもあります。この「働きかけ」はこうした欲望を刺激します。欲望を刺激されたこの人が虚説の排除を強硬に主張しはじめるのは、もはや時間の問題です。





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[2845] 「純粋教理批判=マサノブ」の 「生長の家」解体実行の証明語録 (6)
遮那王 - 2016年04月06日 (水) 10時03分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (6)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4660 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/13(日) 11:22:01 ID:DD4jWV6M
真説と虚説の二項対立について、さらにつっこんで考えてみます。この一信徒によれば「物質なし」とするのが真説であり、「物質あり」とするのが虚説となるようです。「物質なし」とは「物質は存在しない」とする否定判断です。「物質あり」とは「物質は存在する」とする肯定判断です。この未知の領域をわたしは「外部」と呼びたいとおもいます。この一信徒にとって、ものごとの判断は否定判断と肯定判断しかありません。この二つの判断だけでことたりているということです。内部の真理とはこういうものです。内部の真理には肯定判断と否定判断のふたつしかありません。この信徒にとって「外部」は存在しません。どちらかひとつが真でありあとのひとつのが偽である。これがすべてなのです。

● 4661 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/13(日) 13:12:44 ID:DD4jWV6M
二項対立がはらむ問題点は、暴力的ともいえる排他性だけでなく、無限判断を隠蔽するという点にもあります。実相と現象は二項対立の関係にあります。二項対立の優越項である実相は劣位項である現象にたいして十分に排他的です。そして無限判断=外部にたいしては排他的であるばかりでなく、それを隠蔽してさえいます。実相独在とされたことによって、こうした未知なるカテゴリー=外部は隠蔽されてしまいました。

● 4662 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/13(日) 15:17:22 ID:DD4jWV6M
「物質は非存在である」といってのける意味などどこにもあるはずがないからです。無限判断にもそれに意味をあたえるカテゴリーが必要、それはその都度あらわれては消えるという仕方であらわれてくるカテゴリーです。カテゴリーは皆無なのではなく無限に存在するということです。無限に存在するカテゴリーのなかからその都度ごとの必要におうじてひとつのカテゴリーがあたえられる。それは自分でつくりだすのでもなく、選びだすのでもない。必要におうじて外部からあたえられる。真理を語るにおいて二項対立(肯定判断と否定判断)をもちいさえすれば、比較的かんたんに真理は語れるものと考えます。

● 4666 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/13(日) 17:46:46 ID:DD4jWV6M
すべてのカテゴリーは外部からやってくる。これがひとつの仮説です。人間はその都度、外部からやってくるカテゴリーにもとづいて判断していた。人間は自分たちが理解できる言葉に置き換えた。そうやっていくつかのカテゴリーが言語化された。いつしか人間は、言語化できたカテゴリーだけをもちいて物事を判断するようになった。結果的になにがおこったのかといえば、無限にあるはずのカテゴリーのほぼすべてが隠蔽されてしまった、という出来事がおこりました。

● 4667 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/13(日) 18:08:51 ID:DD4jWV6M
カテゴリーが固定されたことで人間は外部の真理にコンタクトできなくなった。かわりに自前の真理をこしらえた。その真理こそ「内部の真理」とわたしが呼んでいるものです。内部の真理とはイデア論です。イデア論は「真理はわがうちにある」と考えます。わがうちにある真理を現象世界に純粋現前させる。外部の真理はイデア論によってさらに強固に隠蔽されることになります。イデア論をもちいるかぎり、それは人間にとって都合のよい真理にしかならないからです。イデア論では真理は自己の所有物と考えます。所有物である真理を利用することで自分にとって都合のよい現実をつくりあげようとするからです。

● 4668 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/13(日) 18:37:23 ID:DD4jWV6M
自分にとって都合のよい現実をつくりだしてくれるのがよい真理である。これがみなさま方の考え方である。都合のよい現実をつくりだせないものは真理としての値打ちがない。みなさま方はまちがいなくこのように考えておられます。「実相を観る」とか「実相をあらわす」とかいわれますが、これはいったいなんためですか?隠蔽された真理や忘却された真理を掘り起こすためですか。自分に都合のよい現実をつくりだすためですか。




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[2853] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (7)
遮那王 - 2016年04月07日 (木) 09時17分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (7)



@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4669 :純粋教理批判 =マサノブ:2015/09/13(日) 21:25:58 ID:DD4jWV6M
人類を迷妄(イデア論)から救うといいながら、気づいてみれば生長の家もイデア論であった。イデア論であるがゆえに教団内部も迷妄におおわれた。「すべての人を神の子としておがむ」。なんのためですか。すでにここにあるはずの真理を純粋現前させる。このためですよねえ。「すべての人を神の子としておがむ」も結局はイデア論であったということです。

● 4675 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/14(月) 05:58:53 ID:DD4jWV6M
今起きている問題はイデア論が自壊する姿です。環境問題もおなじです。みなさまが理解できる言い方でいえば、イデア論の自壊が環境問題となってあらわれている、というよりほかはありません。「イデア論が自壊するのか」といわれても、それはわたしにはわかりません。

● 4676 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/14(月) 06:12:43 ID:DD4jWV6M
アレーテイアを失ったことで人類はその代替物としての宗教を必要とした。アレーテイアが回復されれば宗教は必要なくなる。これがわたしの考えです。

● 4677 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/14(月) 06:32:10 ID:DD4jWV6M
禅は宗教ではない、とわたしは考えます。禅者は宗教を必要としない。なぜなら、禅者はアレーテイアだからです。イデア論が自壊しつつあるということはイデア論の有効期限がきれつつあるということです。アレーテイアをふたたび取り戻す時期がきているということでしょう。

● 4678 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/14(月) 07:50:39 ID:DD4jWV6M
万教帰一とはようするに、すべての宗教はイデア論だということでしょう。人類意識がイデア論を欲し、それにもとづいてすべての宗教がつくられた。こういうことでしょう。イデア論によって構築された救済思想、これが宗教の定義でしょう。

● 4680 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/14(月) 11:23:13 ID:DD4jWV6M
宗教がなんで環境問題なんだ。イデア論とは「みずからの言葉をもって真理となす」考え方です。「地球の資源は人類のものだ」といえばこれが真理となり、「すべての生き物のなかで人間こそが最高の価値をもつ」といえばこれが真理になります。仮象の世界である地上にイデア界の真実を実現することこそが自分たちの使命であると西洋人は考えたはずです。そのためにはどうすればよいかというと、自分たちのなかにすでにイデアはあるのだからそれを実現していけばよい、ただこれだけのことでありました。イデアの実現であったはずの行為が人類を苦しめる環境破壊へと結びついてしまった。最大のあやまちは人類がイデア論を信じたことにあるはずです。みずからの言葉をもって真理とみなし、自分たちに都合のよいことばかりをやりつづけてきたことにあるはずなのです。すべての宗教はイデア論に帰一いたします。人類が二千年かけておこなってきたイデアの実践はいまや人類に悲惨な結果をもたらしつつあるともいえます。それでも宗教は、なおもイデアの真理実現のための実践をつづけるのか、それともイデア論の間違いをただすための実践へと方向を転換させるのか。多くの宗教がこうした岐路にたたされているのです。総裁は後者の道をお選びになった。宗教も環境破壊をひきおこした物質文明も一蓮托生である。つまりはこういうことです。なおここで述べたことはすべて私見です。このことはいっておきます。



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[2860] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (8)
遮那王 - 2016年04月08日 (金) 10時26分




遥かなる追憶<第六部>、


「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (8)

@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4683 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/14(月) 14:24:09 ID:DD4jWV6M
哲学するのはほんとうによいものです。ところで、哲学と宗教のちがいとはなんでしょう。哲学はイデア論を捨てました。形而上学も捨てました。それは贈与と獲得のちがいです。現代の哲学が問題にするのは贈与です。宗教はあいかわらず獲得を問題にしています。宗教にとって真理は自己の所有物です。所有物である真理を利用してなにを獲得するか。これが宗教の中心テーマです。自分にはなにも戻ってこない。これが贈与です。純粋なる贈与です。見返りを期待した贈与は贈与ではありません。アレーテイアは外部からなんの見返りも求めることなく贈られてくる純粋なる贈与です。人間はそれを受け取りみずからのために用立てるだけです。お礼をいう必要はありません。さらなる贈り物を受け取るために媚びる必要もありません。心は関係ありません。見返りを必要とするのであれば、それは贈与ではないからです。哲学の中心テーマのひとつ、なにひとつ自分にもどってこない活動、それが人間にできるのか。この問題を探求することが現代哲学の中心テーマであると、わたしはこのように考えおります。総裁がなさっておられるのは贈与であるのかもしれません。誰にたいするものかはわかりませんが、純粋なる贈与を実現するための活動であるのかもしれません。宗教にとって重要であるのは、なにひとつ自分にもどってくることのない贈与ではなく、多くのものが自分にもどってくる獲得です。総裁にたいする批判とは「総裁は自分にもほかの信徒にも何も獲得させてくれないではないか」というのがほとんどのようにおもわれます。そんな人たちになにかを与えたところで贈与にはならない。総裁はおそらく純粋なる贈与を実現しようとしておられるのです。

● 4686 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/14(月) 19:39:16 ID:DD4jWV6M
ここにひとりの罪人がいるとします。この罪人を強制的に罰するのと、本人が気づかぬままに矯正手段を講じて別の人格につくりかえるのとどちらが問題であるか。
ミシェル・フーコーは後者のほうが問題であると考えました。気づかぬうちに人格をつくりかえられてしまうくらいなら、強制的に罰せられたほうがまだマシだとフーコーは考えたのですね。
ポストコロニアルは後者です。言葉を奪われたことで本人たちが気づかぬままに別の人種に仕立て上げられる。これがポストコロニアルです。フーコーであれば、軍事力による直接支配よりもポストコロニアルをより深刻なものととらえるでしょう。
軍事的支配よりもより深刻であるやもしれぬポストコロニアルにかんして、本流はなにもしてこなかった。「解放は日本国の使命」は戦争を正当化するための口実でしかないことが、これによって示されました。
総裁は「あの戦争は侵略戦争であった」といっておられるようですが、「国の使命」をもちだしての反論はもはやできなくなりました。この件にかんしては総裁の勝利が確定いたしました。
ポストコロニアルにかんして無関心であることを本流が「やましい」と感じることはないでしょう。「解放とはなにか」を本気で考えるつもりなど、もともとなかったのですから。

● 4688 :屠蘇地租過疎=マサノブ:2015/09/14(月) 21:41:02 ID:MDvyz5eo
トンチンカンも≪信仰者≫なら、アジ演説はいい加減にしろよな!

● 4690 :屠蘇地租過疎=マサノブ:2015/09/14(月) 21:52:23 ID:MDvyz5eo
トンチンカンは、≪信仰者≫なのか?いや、違うな。ヘイトスピーカーだ。

● 4692 :屠蘇地租過疎=マサノブ:2015/09/14(月) 22:10:59 ID:LboeUCpg
トンチンカンよ、≪ヘイトスピーカー≫のお前が谷口雅春先生を語るな!
谷口雅春先生は、≪ヘイトスピーカー≫の道具ではない!

● 4694 :屠蘇地租過疎=マサノブ:2015/09/14(月) 22:19:36 ID:MDvyz5eo
はいはい、苦しい時の身元詮索ね(笑)。
あんたの≪ヘイトスピーチ≫、ウザイんだよ。ただ、それだけ。

● 4696 :屠蘇地租過疎=マサノブ:2015/09/14(月) 22:31:29 ID:MDvyz5eo
今は、あんたのことを≪ウザイ≫って言ってんの!
谷口雅春先生の≪信仰者≫だったら、≪ヘイトスピーチ≫なんかしねぇって。
いいか?もう一度言うぞ。
谷口雅春先生は≪ヘイトスピーカー≫の道具ではない!
あんたの書き込みを見て、そう思ってる人は多いと思うよ。

● 4698 :屠蘇地租過疎=マサノブ:2015/09/14(月) 22:39:23 ID:MDvyz5eo
>今やるべきコトは、「マサノブ爺さん」の ≪言行不一致≫ についての≪言及≫です。<
大した≪信仰者≫だこと(笑)。
そんなこと、「生命の實相」に書いてあるんか?
だから、トンチンカンは≪ヘイトスピーカー≫って言われるんだよ。

● 4699 :屠蘇地租過疎=マサノブ:2015/09/14(月) 22:47:18 ID:MDvyz5eo
山ちゃん1952さんも
「悪意の言葉からは神性が生まれない。」って言ってるぞ。
谷口雅春先生を思い、慕うのであれば、≪ヘイトスピーチ≫はやめろ。谷口雅春先生が悲しまれる。

● 4702 :神の子さん=マサノブ:2015/09/14(月) 23:55:06 ID:OBD5aeAY
屠蘇地租過疎さん、トンチンカンさんは簡単なことが分からない人なんです。例えばですね、中共に向けて同じように『お前たちの指導者は唯物論者で、自分たちの権力の為に政治をしている○○主席は辞めろ』『海外侵略の下準備をしている○○主席を国民は追放すべきだ』と繰り返し繰り返し述べ、私は正当な日本精神の持ち主です。私は日本人の代表として共産主義の虚説を伝えます。こんなことを3年も4年もしていたら両国が人類兄弟の本来の姿が出るはずはないのです。こんな簡単なことが分からないのです。信仰者なんてものではなく人間として??なんです。話すだけつまらないですよ。



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[2872] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (9)
遮那王 - 2016年04月09日 (土) 10時07分



遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (9)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4709 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/15(火) 06:42:39 ID:Sp9Va04o
実相に外部はある。
その外部とは「非存在」、「非実在」といった無限判断によって示される領域である。・・・実相に外部があるということが強くうだがわれます。


● 4711 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/15(火) 06:47:31 ID:DD4jWV6M
すべての宗教はイデア論に帰一する。
「人間神の子」はそれじたいが環境問題である。
哲学は贈与を、宗教は獲得を問題にする。


● 4713 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/15(火) 09:34:38 ID:DD4jWV6M
すべての宗教はイデア論に帰一する。


● 4714 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/15(火) 09:41:16 ID:DD4jWV6M
人類がほんらいの姿にもどること。「救済」をいうとすればこれが救済です。イデア論はほんらいの姿をうしなった人類がつくりだした一種のひずみです。ほんらいの姿にもどればひずみは消えて宗教も消えてなくなります。


● 4715 :純粋教理批判マサノブ:2015/09/15(火) 10:05:33 ID:DD4jWV6M
人類がほんらいの姿にもどること、これが悟りです。


● 4718 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/15(火) 13:55:57 ID:DD4jWV6M
教理は左脳自我を抑制するどころかむしろ強化している。その結果として本流にみられるような尋常ならざる排他性をうみだしている。具体的にはとうするか、わたしがいえるのは禅、あるいは禅的な修行です。


● 4720 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/15(火) 15:12:26 ID:DD4jWV6M
教団内でおきている問題は教理が避けがたく持ってしまった排他性によって生み出されたものです。教理の排他性に気づかぬかぎり問題の解決はありません。




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[2883] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (10)
遮那王 - 2016年04月10日 (日) 08時52分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (10)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4721 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/15(火) 15:24:12 ID:DD4jWV6M
禅、あるいは禅的な修行は外部とつながるまでの一時的なものです。いちどつながってしまえば特別な修行は要しません。それが人類ほんらいのあり方なのですから、自然にあるがままで何もする必要はありません。


● 4729 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/16(水) 01:54:40 ID:DD4jWV6M
禅僧になるわけではない。外部とのつながりを維持するために禅の修行を続ける必要はない。


● 4730 :純粋教理批判マサノブ:2015/09/16(水) 01:59:30 ID:DD4jWV6M
「大調和」をたてにとりさえすれば相手を追及したり裁いたりがいとも簡単にできてしまうことを「大調和の排他性」とわたしはいっております。「大調和せよ」といわれてそれができなければ、総裁ならずとも逃げ出したくなりますよ。誰もが逃げるしかないほどに「大調和せよ」は排他的なのです。


● 4732 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/16(水) 10:08:21 ID:DD4jWV6M
実相独在とは内部の話です。内部でしか通用しない話です。実相には外部があります。それは到達不可能な外部です。そこになにがあるのか、それを知るのは原理的に不可能です。
しかし外部は実相に作用して実相を不在ならしめ、天地創造の運動を開始させた。外部が内部に侵入した。内部と外部の相互作用がはじまった。わたしが「外部につながる」といっているのは、この相互作用につながるということです。こうすることで間接的に外部とつながるということです。外部と直接的につながるのはおそらく不可能でしょう。


● 4735 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/16(水) 10:18:25 ID:DD4jWV6M
教団内で起きている問題は真理の排他性が原因であるとわたしは考えおります。


● 4736 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/16(水) 10:23:49 ID:DD4jWV6M
「大調和のどこが排他的なのか」そこでわたしは答えました。「真理は排他的だ、のどこが屁理屈なのか」、


● 4739 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/16(水) 11:38:19 ID:DD4jWV6M
内部と外部の相互作用につながっている。これが人類のほんらいの姿である。その人類が二項対立の体制に入った(実相と現象、霊と物質、善と悪というような二項対立で物事を説明するようになった)ために、人類は相互作用とのつながりをうしない、その補償として宗教をつくった。相互作用につながって人類ほんらいの姿をとりもどせば宗教は必要なくなる。


● 4741 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/16(水) 12:52:05 ID:DD4jWV6M
大調和できないことをもって相手を裁けるのは大調和の排他性のためである。


● 4742 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/16(水) 13:00:46 ID:DD4jWV6M
大調和できないことをもって相手を裁くということは、大調和を排他的に用いているということ。
真理を排他的に用いることで総裁を裁こうとする人が総裁の周辺には少なからずいた。これが今おきている問題をつくりだした。



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[2895] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (11)
遮那王 - 2016年04月11日 (月) 15時04分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (11)



@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4746 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/16(水) 13:30:44 ID:DD4jWV6M
真理を排他的に用いることで総裁を裁こうとする人が総裁の周辺には少なからずいた。これは事実でしょう。総裁周辺の人々は真理をなぜ排他的に用いたのでしょう。それは教理に排他性がひそんでいるためではないのか。


● 4748 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/16(水) 14:49:38 ID:DD4jWV6M
教義にひそむ排他性に気づけば今おきている問題は解決する。これが問題解決のための具体的提言です。


● 4750 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/16(水) 15:22:36 ID:DD4jWV6M
総裁がなにをいっても「それは人間知だ」と周りの人たちにいわれたらどうでしょう。総裁は「人間知」を排他的表現ととらえるでしょう。


● 4752 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/16(水) 16:07:40 ID:DD4jWV6M
すべての真理は排他的である。ここでいう真理とは内部の真理です。内部の真理は二項対立で成り立っています。実相をのこし現象を捨てるというように、片方の項だけをのこしべつの片方の項をきって捨てる二項対立で成り立っています。両方の項をともにのこすということはしません。片方をかならずきって捨てます。真理と異なるものはかならずきって捨てます。すべての真理はこのように排他的です。


● 4753 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/16(水) 16:11:43 ID:DD4jWV6M
肯定にせよ、否定にせよ、それは二項対立にもとづく判断です。外部の真理を二項対立で判断することはできません。肯定も否定もありません。あるのは無限判断だけです。


● 4756 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/16(水) 16:44:03 ID:DD4jWV6M
総裁が環境運動という方針を打ち出されたのは、イデア論にたいする鋭い感覚があればこそ。「宗教がなんで環境運動なんだ」と言っているような人はイデア論の排他性、暴力性にたいする自覚のない人です。




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[2902] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (12)
遮那王 - 2016年04月12日 (火) 10時04分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (12)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

*************************





● 4758 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/16(水) 22:07:07 ID:DD4jWV6M
言葉はもともとからして排他的。すべての言葉は他の言葉にたいして排他的です。いかなる言葉であれそれを発したとき、そこにはかならず排他性がひそんでいます。言葉を用いるものは、自分でも気づかぬうちに他のなにものかをかならず排除しています。教理がいかによいことを説こうとも、それが言葉で書かれたものであるからには排他性を除外することはできません。ましてやそれがよりいっそう強固な排他性を発揮する二項対立を階層的に積み上げることで成り立っているとすればなおさらです。どんなに人を救う力がある教理であっても、それにはかならず排他性がひそんでいます。排他性のない教理はどこにも存在いたしません。この教えは素晴らしい。たしかにそうでしょう。たとえそうであっても排他性をないものにはできないのです。言葉のもつ排他性、教理にひそむ排他性、これに気づかなければおなじ問題が何度もくりかえされるだけです。犠牲者は総裁だけではありません。


● 4763 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 10:56:37 ID:DD4jWV6M
すべての真理は排他的です。私がこちらで真理を語ればそれはもちろん排他的真理です。そのようなことはいわれなくても承知しております。


● 4764 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 10:59:08 ID:DD4jWV6M
信徒の支持は受けられない。このことはすでに確認いたしました。宗教にとって排他性こそが力なのだということがわかりました。


● 4765 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 11:12:05 ID:DD4jWV6M
「大調和せよ」が排他的であることはすでに証明されたはずです。「大調和せよ」はこれじたいがすでに不調和なのです。


● 4767 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 11:28:04 ID:DD4jWV6M
排他性のない宗教はない。排他的でなければ宗教ではない。このことに異論をはさむ余地はありません。排他性こそが宗教の力なのです。すべての宗教はイデア論に帰一いたします。イデア論においては真理の自己所有化がおこります。真理はいつでも手元にあって自由に使えるものとみなされます。自分が「これが真理だ」とおもったもの、言葉として言い表したものはすべて真理となります。

● 4771 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 12:48:26 ID:JPiKJZkg
書かれている内容は何も解らないので返事ができないトンチンカン


● 4774 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 13:10:15 ID:JPiKJZkg
書かれている内容は何も解らないので≪返事ができない≫トンチンカン・・誰がみたって≪頭のなかは空っぽ≫・・?? 全世界の『信徒』の皆さん・・ そうですよね・・・


(注:マサノブ君は、相手の追及に返答できなくなると、かつてのお通夜の暴言の如く“捨てゼリフ”調になるのであります。これが神性隠蔽されている彼の現象的性格なのです。)


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[2913] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (13)
遮那王 - 2016年04月13日 (水) 09時26分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (13)



@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4775 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 13:13:59 ID:DD4jWV6M
天地の創造において、外部は内部に侵入し内部を収縮させたのですよ。このときからすでに暴力性と排他性ははじまっております。言葉は天地創造のときからはじまった暴力性と排他性の写しでもあります。天地創造のときにおきた出来事とおなじ出来事が言葉のなかでもおきているということです。
言葉がパルマコン(薬と毒の両面性をもつ)であるように、外部の介入もパルマコンです。言葉は薬にもなるが、同時に毒性を持つ。暴力性と排他性、これがその毒性です。みなさま方は教理が言葉で語られたものであるにもかかわらず、教理にはいっさいの毒性がふくまれていないと思い込んでおられる。教理がパルマコンである可能性は、みなさま方にとって思いもよらぬことなのです。人類の課題は左脳自我を使いつついかにしてほんらいの姿をとりもどすかということにある、とわたしは考えます。


● 4776 :ヘイトンチンカルト=マサノブ:2015/09/17(木) 13:23:30 ID:hGoQl/Kk
トンチンカン、再び品性を語る(笑)。

● 4778 :ヘイトンチンカルト=マサノブ:2015/09/17(木) 13:32:18 ID:hGoQl/Kk
トンチンカン、三たび品性を語る(笑)。

● 4780 :ヘイトンチンカルト=マサノブ:2015/09/17(木) 13:36:43 ID:hGoQl/Kk
トンチンカン、居直る(笑)。

● 4781 :ヘイトンチンカルト=マサノブ:2015/09/17(木) 13:45:23 ID:hGoQl/Kk
トンチンカン、自ら≪信徒≫と名乗る。
…………迷惑な話だ!

● 4784 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 14:09:46 ID:JPiKJZkg
『信徒』は迷惑この上ないのです!!
トンチンカン、自ら≪信徒≫と名乗る。…………迷惑な話だ!
将来の給料の為に  ≪信徒≫  を名乗る   …………迷惑な話だ!
≪頭空っぽ≫  と云われても事実には反応しない  ≪迷惑な信徒≫だ

● 4786 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 14:33:11 ID:JPiKJZkg
トンチンカンは、未だ「マサノブ爺さん」から≪給料≫を貰ったことはありません!!
平気で嘘をつくトンチンカン  こんなのが≪信徒≫の訳ない

● 4788 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 14:43:52 ID:JPiKJZkg
平気で嘘をつくトンチンカン  こんなのが≪生長の家信徒≫の訳ない

● 4790 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 14:56:41 ID:JPiKJZkg
平気で嘘をつくトンチンカン  こんなのが≪生長の家信徒≫の訳ない  ・・ この ≪根拠≫ はあるのですか? ≪根拠≫しらじらしい  いつも総裁総裁と根拠なく言うだろ。生長の家をつぶすためのスパイだろ おまえさんは

● 4792 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 15:19:07 ID:JPiKJZkg
無門関解釈なんて読んだこともないし、読んでも解らないから、質問に答えられない ≪偽信徒≫
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
だから禅の事を言われるとネット上のものを貼り付けるしかできない、質問に答えられない ≪偽信徒≫ トンチンカン

● 4793 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 16:03:32 ID:JPiKJZkg
質問に答えられない ≪偽信徒≫ トンチンカン
教義の話には絶対乗らない・・・ヘイトスピーチ  のみ

● 4795 :再掲=マサノブ:2015/09/17(木) 16:52:29 ID:JPiKJZkg
平気で嘘をつくトンチンカン  こんなのが≪生長の家信徒≫の訳ない  ・・ この ≪根拠≫ はあるのですか? ≪根拠≫しらじらしい  いつも総裁総裁と根拠なく言うだろ
生長の家をつぶすためのスパイだろ おまえさんは

● 4797 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 16:59:47 ID:JPiKJZkg
黙っていても、他人から「仰がれる」 ≪品位≫ が大切なのですよ!! 
人に求める前に自分がなってくれ  あんたに ≪品位≫ があるって WWW ≪信徒≫を装いヘイトスピーチに励む  質問に答えられない ≪偽信徒≫ トンチンカン のどこに ≪品位≫ が在る?

● 4799 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 17:05:19 ID:JPiKJZkg
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『本流の貼り付けだけ』で ≪ヘイトスピーチ≫だけするなんて・・  誰がみたって≪品性≫は・・・??
いやいや、「偽信者のトンチンカン」は素晴らしい ≪品位ある行為≫ だと思っている??
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● 4800 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 17:08:53 ID:JPiKJZkg
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『生長の家をつぶすためのスパイだろ トンチンカン』
『生長の家を潰そう』としているのは、≪偽信者のトンチンカン≫その人ですよ!!
『谷口雅春先生の≪御教え≫』を、根幹から まったく知らないのでスルー しているのは・・・≪偽信者のトンチンカン≫
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

● 4802 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 17:21:07 ID:JPiKJZkg
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あれあれ、≪投稿パターン≫まで ソックリ にまねる・・・
≪品位≫ 有る ≪偽信者≫ トンチンカに学んで ≪品性≫ の良い人間になりましょう 全生長の家信徒の皆さん
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● 4804 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 17:23:18 ID:JPiKJZkg
これだけ ≪偽信者≫ と云われても否定しない 
スパイ確定の トンチンカン

● 4805 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 17:27:34 ID:JPiKJZkg
まったく同じ文の投稿する
これって街頭アジでよくされる 手法でしょう 
やはり≪偽信者≫のアジ演説でしょう

● 4806 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 17:42:00 ID:JPiKJZkg
偽信者のトンチンカン この質問に答えてみて 生長の家の信者なら簡単でしょ?



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注:

今回は、マサノブ(偽)総裁の“捨てセリフ”満載の投稿文であります。まさにマサノブ君は狂乱j狂態で、これでもか、これでもか、と悪たれの言葉の羅列! 羅列!

どのようなハンドルネームを使おうとも、近ごろではその内容を一瞥すれば、=マサノブであることが即座にわかるのであります。まさに、マサノブ狂乱総裁!

彼も、インターネットを熟知しているのでありますから、、この様な投稿文は全世界に発信されて、『生長の家の総裁とは、なんと下劣なヤクザまがいの品性しか持ち合わせていないのか? 本当によくもここまで生長の家も落ちぶれたものだ』と世界中の心ある信徒や識者から見られていることぐらい分かっているはず。しかし、彼は狂乱状態であるからそこまで考え及ばぬのであります。

マサノブ君は、信徒から「マサノブ教」のマチガイや矛盾を突かれると答えられなくなるのであります。そこで、“ヤクザの捨てセリフ”となるのであります。

なかんずく、数ある投稿者の中でも「トンチンカン」氏は,”異才・偉才”であります。的確な短い言葉でマサノブ君のマチガイを指摘しているのであります。この異才・偉才ぶりは他の誰にもマネは出来ないのであります。

マサノブ君は、いかに屁理屈を展開しても、全く太刀打ちが出来ないで、いつも「トンチンカン」氏にはたきこまれ、土俵上でつんのめって這い蹲り砂をかんでしまわざるを得ないのであります。







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[2928] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (14)
遮那王 - 2016年04月14日 (木) 11時17分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (14)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4811 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 20:45:47 ID:DD4jWV6M
イデア論が陥りやすい思考パターンに「すべてを自分とみる」や「すべてを自分と等価のものとみる」というのがあります。「世界のすべては自分なんだ」といえば、これはイデア論の可能性があります。どうしてそうなってしまうのかといえば、ヨーロッパ人に特有の思考パターンに原因がありそうです。よくいわれることですが、ヨーロッパ人には空間恐怖症というのがあって、絵画でも隅々まで塗りつぶさないと気がすまないのだそうです。イデア論はヨーロッパ人のこうした特性を反映しているにちがいありません。未知なるものの存在は耐えられない。理解不能のまったき他者が存在するのは耐えられない。すべては自分が理解できるものでなければならない。こういった欲動が反映されて、イデア論は外部の存在を許さない内部の思想、「すべては自分である」というように内部を特権化する思想になったと考えられます。


● 4813 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 20:57:25 ID:DD4jWV6M
ソシュールの言語学について
人間は川をみて「カワ」と名づけたのではない。「カワ」と名づけたことで川があらわれた。これがソシュールの言語学です。
世界は言葉でつくられている。こういうことです。真説も虚説もすべて言葉がつくりだしたものです。実相も現象もおなじです。言葉がつくりだしたものです。実相と現象の区別。これも言葉がつくりだしたものです。すべての二項対立は言葉がつくりだしたものです。雅春先生は人間が川をみて「カワ」と名づけたと考えておられたとおもいますがいかがでしよう。


● 4816 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 21:10:02 ID:DD4jWV6M
人間が名づけることで世界はあらわれた。名づけるまえには何があったのでしよう。カントのいう物自体でしょうか。フランスの精神分析医ジャック・ラカンは「物自体がなければそこにはまなざしがある」といいました。誰のまなざしなのでしょう。


● 4820 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 22:13:30 ID:DD4jWV6M
ある奥深い山で乳飲み子を抱えて身動きできなくなっている虎をみつけました。見捨てて去りますか、それともエサをとってきてあたえますか。でもそのエサとはなんなのでしょう。進退両難がないのであればどうすればよいのでしょう。人間はほんらい自由なのだからこのような選択にしばられることなく見捨ててこの場を去るということなのでしょうか。「進退両難がない」とはいかなる場合にあっても判断はつねに可能であるということでしょう。たしかにそうかもしれませんけども、ではこのたとえは何を示しているのでしょう。いかなる判断であってもそれには排他性や暴力性がともなうものだ、ということをこのたとえは示しているようにわたしにはおもわれます。


● 4826 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 07:26:00 ID:DD4jWV6M
進退両難はない。雅春先生はこのようにいわれるのであるが、それは「獲得」を考えた場合です。手でつかめばうしなわれるはずの命が得られる。これは獲得です。たしかに雅春先生がいわれるように、獲得したいのであれば進退両難は生じえないのかもしれない。では贈与ならどうでしょう。手でつかめばそれはもはや獲得であって贈与ではない。さあどうしますか。贈与などにしばられるから進退両難が生じるのだと雅春先生はお答えになられるかもしれません。贈与など考えずに獲得だけを考えればよい。そうすれば進退両難は生じえない。おそらくはこういう答えになるでしょう。哲学が贈与をなぜ問題にするのかというと、それは「自己中心」を問題にするからです。イデア論は徹底的に自己中心的です。真理をおのれのものとし、おのれのために利用する。獲得だけを問題にする。これがイデア論です。こうした自己中心性を逃れるにはどうすればよいか。そのためには純粋なる贈与しかない。哲学はおそらくこのように考えるのでしょう。自己中心的であってもよい。これが雅春先生の答えであるような気がしてなりません。自分中心であってよいのであれば、たしかに手でつかめばよいのです。



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[2937] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (15)
遮那王 - 2016年04月15日 (金) 09時36分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (15)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4827 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 07:44:44 ID:DD4jWV6M
>〈公案の解答は、人それぞれのようです。どれが、正しいとか、間違っているとか、そういうものでは、ないです。〉と云いますと公案はそもそも何の為にあると思いますか?公案は編み出したのは臨済禅師ではなかったでしょうか。臨済は言葉を問題にいたしました。言語化されたものは相手にするな。心にしたところでそれはすでに言語化されたものだ。このようなものを相手にする必要はない。これが臨済の考えであったようです。公案とは何か。それは言葉というものをつねに主題化しようする左脳自我を抑制するためのものです。進退両難はないということを教えるためのものではありません。雅春先生の答えは左脳自我の働きによるものです。左脳自我の抑制につながらないものです。


● 4829 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 08:06:17 ID:DD4jWV6M
公案の答えは肯定判断でも否定判断でもあってはなりません。無限判断がなされていなければなりません。その人のなかで無限判断が成り立っているかどうか、このことだけが問題になります。
何を答えるかは問題ではありません。雅春先生のなかで無限判断が成り立っていればよいのですが、成り立っていなければそれは左脳自我による判断でしかありません。香厳上樹の公案は設定があまりにも作為的で無限判断の成り立ちにくい公案のような気がいたします。


● 4831 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 08:11:46 ID:DD4jWV6M
内部の真理(イデア論)を支持する人であれば左脳自我の働きだけで十分なのでしょう。左脳自我は外部の真理には不向きのようにおもわれます。


● 4833 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 08:39:37 ID:DD4jWV6M
わたしは「いかなる判断であってもそれには暴力性や排他性がともなうものだ」ということをこのたとえは示しているといっているのですよ。立ち去るとすればそれは排他的であり、エサをあたえればそれは暴力的だといっているのです。


● 4837 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 08:52:50 ID:DD4jWV6M
わたしがこのたとえで言いたのは、教理といえども多くの判断が含まれている。多くの判断が含まれていながら排他的でもない、暴力的でもないということはありえない。こういうことです。


● 4839 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 09:01:11 ID:DD4jWV6M
>どっちに転んでも、悪の行為ってこと?
なんか、あなた、心が病んでません?
わたしが言っているのは言葉についての話なのです。言葉は排他的であり、どっちに転んだところでかならず他のなにかを暴力的に排除するということです。言葉は他の言葉との排他的な関係に入らないかぎり意味をもつことはない。言葉が意味をもつとすれば、それはかならず他の言葉を排除しているということです。





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[2952] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (16)
遮那王 - 2016年04月16日 (土) 11時28分



遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (16)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4840 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 09:06:09 ID:DD4jWV6M
>自分に対して 教理を 使えば、⚪️、
教理を使って、他人を裁くのは、✖️、と言いたい?
こういう単純なことをいうために書いているのではありません。教理にひそむ排他性を問題にしているのですよ。


● 4843 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 10:03:01 ID:DD4jWV6M
>教理にでも なんにでも、潜んでるんじゃないの?
だから言っているではないですか、言語化されたものにはすべて排他性があると。教理にひそむ排他性に気づかないかぎり今おきている問題の解決はない。これをいっているのですよ。二項対立で組み立てられた言説には他者排除の欲望がひそんでいる。これをいいたいのですよ。


● 4847 :神の子さん=マサノブ:2015/09/18(金) 11:37:40 ID:DRZ7EDG2
減らず口ばかりいうガキみたいな人ですね。閲覧者に笑われますよ。とんちんかんさんや私でなく、あなたのほうがね。釈迦の悟りの時を「一見明星」の時とする禅に対し、乙女の差し出す一杯の飲み物に愛の世界、生かし合いの世界を見た時とする、このまるで違う見解を鵜呑みにしている人間は、カルト以外の何物でもない。


● 4848 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 12:55:29 ID:DD4jWV6M
>減らず口ばかりいうガキみたいな人ですね。閲覧者に笑われますよ。
減らず口とはいわずに、せめてフレンチナンセンスといってください。わたしのいっていることが理解されて笑われるのであれば大いにけっこう。その人はそうとうな力量の持ち主です。
わたしはあなた様のすべての質問に答えたわけですが、それにたいして「減らず口をたたくガキ、みんなから笑われる」との対応。礼儀を知らぬようですね。


● 4849 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 13:11:02 ID:DD4jWV6M
他者との出会いは進退両難である。
他者の自己化。これが、イデア論者が得意とする他者との出会い方です。他者を自己へと取り込んで理解した気になる。それは自分がつくりだした他者でしかない、真の他者とは異なる自己化した他者にすぎない、にもかかわらず他者がわかった気になる。
真の他者を直接的に知ることもできない。自己に取り込むことなく、そのままの他者を直接的に知ることはできない。自己に取り込んでもわからない。直接的に知ることもできない。他者との出会いは進退両難の経験なのです。
禅の公案は進退両難の経験です。進退両難の経験をとおして真の他者、外部の他者へと開かれる経験なのです。すべての人を神の子としておがむ。これがすべての他者を自己へと回収しようとするイデア論者の試みでないとしたら、いったいなんなのでしょう。


● 4850 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 14:26:10 ID:DD4jWV6M
わたしはこちらで言葉にかんする自分の考え方を述べてまいりました。それを読んでみなさま方はお笑い草だといっておられる。これはわかりました。ところで生長の家では言葉をどのようにとらえておられるのでしょう。自分の考えいわずに相手の考えを笑うというのはどうかとおもいます。生長の家の考え方を教えていただけますでしょうか。




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[2963] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (17)
遮那王 - 2016年04月17日 (日) 09時38分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (17)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4852 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 17:09:48 ID:DD4jWV6M
>純粋教理批判さんは、言葉の排他性や”パルマコン”など指摘しながら、ここで、生長の家の人たちに呼びかけ、言葉による真理のやりとりを、希望される。やはり、言葉の限界を指摘しながら、一方で言葉の力のようなものに、期待や希望を持ってるのではないですか?<
よくみてらっしゃいますね。おっしゃるように「言葉の限界」というものはあります。言葉で真理を語るのは不可能な経験です。それはつまり、いかなるカテゴリー(判断の枠組み)を用いようとも真理を語ることはできないということです。しかしわたしはですね、一回かぎりしか使えないカテゴリーに言葉の限界をこえる可能性をみいだしたのです。このカテゴリーは自分でつくりだせるものではなく外部からそのつど与えられるものです。それは外部=真理とつながったカテゴリーである可能性があります。


● 4857 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 18:20:34 ID:DD4jWV6M
「一回かぎりのカテゴリー」は専門用語を用いれば説明が可能かとおもいますが、ここでそれはやりたくないので「一回かぎりのカテゴリー」の言葉でお茶をにごそうとおもいます。「一回かぎりのカテゴリーの意味がわからない」は正しい判断です。ただなにも説明しないというのではあまりにも不深切ですので、「一回かぎりのカテゴリーの可能性」について少しばかり説明いたしましょう。生長の家では「物質はない」と否定しますが、正規の哲学をふまえたうえでのオカルト哲学者であり世界的な教育思想家でもあったルドルフ・シュタイナーは物質体にこそ宇宙の叡知が刻まれている、というようなことをいっています(物質体とはなにかの説明は省きます)。これはどういうことかというと、わたしなりに解釈すれば、物質体には文字(原エクリチュール)が記されているということです。「一回かぎりのカテゴリーの可能性」とは、この文字を読み取れる可能性です。


● 4859 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 18:45:11 ID:DD4jWV6M
誤解があるといけませんのでひとこと言っておきますと、ここで私が述べておりますことは、多少のアレンジはあるもののすべて哲学的な裏づけがあり学問的な言及がなされているものばかりです。


● 4862 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 20:33:40 ID:DD4jWV6M
物質はあるのでもないのでもない。非存在です。相手が書いたものを貼り付ける。この行為に意味はありません。なにか意味があると相手におもわせて象徴界のゲームに引きずり込む。使い古された古典的手口です。


● 4863 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 20:47:21 ID:DD4jWV6M
現代の物資世界は虚数によって示されます。虚数には大きいも小さいもなくしたがって時間も空間もありません。虚数によって示される世界ははたして現象世界なのでしょうか。ひも理論によって示される「ひも」の長さは10のマイナス35乗メートル、現象化可能な長さとされるプランク長とほとんどどうとうの長さです。
その「ひも」がいかに強固なものか。銀河系の全重量(質量ではない)に匹敵する力で引っ張ってもこの小さな「ひも」はきれない。しかもなにかがぶつかれば、そのなにかを宇宙の果てまではじきとばすほどの速さで振動している。はたして「ひも」は現象なのか。これが現象とすれば、現象とははたしてなんであるのか。現象とは何か、それは決定不可能なあるなにものかです。


● 4866 :純粋教理批判 =マサノブ:2015/09/18(金) 22:51:22 ID:DD4jWV6M
「現象とは何か」と問われても答えられないのが生長の家です。現象とは何かがわからないにもかかわらず「現象はない」といっているのが生長の家です。ひも理論というよりもM理論では宇宙は11次元と確定したようです。人間が体験できるのはこのうちの4次元だけです。11次元のうちの1次元はのぞくとしてものこりの6次元についてはなにもわかっていないのが現実でしょう。
わかっていないものについて「ある」とか「ない」とかいうことにいったいどんな意味があるのでしょう。「現象はない」。時代についていけてない気がいたします。



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[2975] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (18)
遮那王 - 2016年04月18日 (月) 09時59分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (18)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4763 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 10:56:37 ID:DD4jWV6M
すべての真理は排他的です。私がこちらで真理を語ればそれはもちろん排他的真理です。そのようなことはいわれなくても承知しております。


● 4764 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 10:59:08 ID:DD4jWV6M
>信徒の支持派受けられない
このことはすでに確認いたしました。宗教にとって排他性こそが力なのだということがわかりました。


● 4765 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 11:12:05 ID:DD4jWV6M
「大調和せよ」が排他的であることはすでに証明されたはずです。「大調和せよ」はこれじたいがすでに不調和なのです。


● 4767 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 11:28:04 ID:DD4jWV6M
排他性のない宗教はない。排他的でなければ宗教ではない。このことに異論をはさむ余地はありません。排他性こそが宗教の力なのです。すべての宗教はイデア論に帰一いたします。イデア論においては真理の自己所有化がおこります。真理はいつでも手元にあって自由に使えるものとみなされます。自分が「これが真理だ」とおもったもの、言葉として言い表したものはすべて真理となります。ところでわたしは「総裁でない」にもかかわらず総裁とみなされて反論がなされているようです。どうしてこのようなことがおこってしまうのでしょう。ゲシュタルト心理学はこのことを説明しているようです。似たようなものはすべておなじものとみなす。こうした判断が脳の中でおこっているようです。こうした判断をそのまま鵜呑みにして「総裁に似たものはすべて総裁である」とみなさまは思い込んでおられるのです。


● 4768 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 11:35:35 ID:DD4jWV6M
総裁でないものを総裁とみなして反論しても仕方がないでしょう。わたしが言っていることに反論してください。



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<コメント>

マサノブ君は、「純粋教理批判」という投稿者は自分でないと言い張っているが、この様な『御教え』批判の投稿文を載せる信徒など居ない!

あくまでもマサノブ君が、「純粋教理批判」が自分でないというならば、「本部公式サイト」か「唐松模様」で“自分の投稿文ではない”と返答しなければならない。そして、この様な紛らわしい投稿の削除を「トキ掲示板」から削除すべきである。

しかしマサノブ君は、一向にこの処置を為さない。だから、「純粋教理批判」=マサノブなのである。

また、われわれはこの様な理屈のための理屈を述べる低級な“屁理屈問答”に理屈でもって答える必要を認めない。われわれは、優雅な宗教貴族マサノブ君程には“大閑人”ではないのである。








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[3035] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (19)
遮那王 - 2016年04月29日 (金) 10時23分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (19)



@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4775 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 13:13:59 ID:DD4jWV6M
天地の創造において、外部は内部に侵入し内部を収縮させたのですよ。このときからすでに暴力性と排他性ははじまっております。言葉は天地創造のときからはじまった暴力性と排他性の写しでもあります。天地創造のときにおきた出来事とおなじ出来事が言葉のなかでもおきているということです。言葉がパルマコン(薬と毒の両面性をもつ)であるように、外部の介入もパルマコンです。言葉は薬にもなるが、同時に毒性を持つ。暴力性と排他性、これがその毒性です。みなさま方は教理が言葉で語られたものであるにもかかわらず、教理にはいっさいの毒性がふくまれていないと思い込んでおられる。教理がパルマコンである可能性は、みなさま方にとって思いもよらぬことなのです。いうまでもなく「外部の真理」もまた使い方をあやまれば毒にもなるパルマコンです。左脳自我というやっかいなものを人類は手に入れてしまったのですよ。人類の課題は左脳自我を使いつついかにしてほんらいの姿をとりもどすかということにある、とわたしは考えます。



★★ 以下、異才・トンチンカン氏の追求投稿内容に答えられなくなったマサノブ君の狂乱コトバを濫用しての品性を完全喪失したていたらく振りを紹介します。これが、「マサノブ教団」総裁の品性なき正体であります。★★




● 4776 :ヘイトンチンカルト=マサノブ:2015/09/17(木) 13:23:30 ID:hGoQl/Kk
トンチンカン、再び品性を語る(笑)。

● 4778 :ヘイトンチンカルト=マサノブ:2015/09/17(木) 13:32:18 ID:hGoQl/Kk
トンチンカン、三たび品性を語る(笑)。

● 4780 :ヘイトンチンカルト=マサノブ:2015/09/17(木) 13:36:43 ID:hGoQl/Kk
トンチンカン、居直る(笑)。

● 4781 :ヘイトンチンカルト=マサノブ:2015/09/17(木) 13:45:23 ID:hGoQl/Kk
トンチンカン、自ら≪信徒≫と名乗る。
…………迷惑な話だ!


● 4784 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 14:09:46 ID:JPiKJZkg
『信徒』は迷惑この上ないのです!!
トンチンカン、自ら≪信徒≫と名乗る。…………迷惑な話だ!
将来の給料の為に  ≪信徒≫  を名乗る   …………迷惑な話だ! ≪頭空っぽ≫  と云われても事実には反応しない  ≪迷惑な信徒≫だ

● 4786 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 14:33:11 ID:JPiKJZkg
トンチンカンは、未だ「マサノブ爺さん」から≪給料≫を貰ったことはありません!!
平気で嘘をつくトンチンカン  こんなのが≪信徒≫の訳ない

● 4788 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 14:43:52 ID:JPiKJZkg
平気で嘘をつくトンチンカン  こんなのが≪生長の家信徒≫の訳ない

● 4790 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 14:56:41 ID:JPiKJZkg
平気で嘘をつくトンチンカン  こんなのが≪生長の家信徒≫の訳ない  ・・ この ≪根拠≫ はあるのですか?
≪根拠≫しらじらしい  いつも総裁総裁と根拠なく言うだろ
生長の家をつぶすためのスパイだろ おまえさんは

● 4791 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 15:07:06 ID:JPiKJZkg
生長の家をつぶすためのスパイだろ おまえさんは・・・
だから本流の貼り付けだけで生長の家の真理は何も知らない
無門関解釈なんて読んだこともないし、読んでも解らないから、質問に答えられない ≪偽信徒≫

● 4792 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 15:19:07 ID:JPiKJZkg
無門関解釈なんて読んだこともないし、読んでも解らないから、質問に答えられない ≪偽信徒≫だから禅の事を言われるとネット上のものを貼り付けるしかできない質問に答えられない ≪偽信徒≫ トンチンカン

● 4793 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 16:03:32 ID:JPiKJZkg
質問に答えられない ≪偽信徒≫ トンチンカン
教義の話には絶対乗らない・・・ヘイトスピーチ  のみ

● 4795 :再掲=マサノブ:2015/09/17(木) 16:52:29 ID:JPiKJZkg
平気で嘘をつくトンチンカン  こんなのが≪生長の家信徒≫の訳ない  ・・ この ≪根拠≫ はあるのですか?
≪根拠≫しらじらしい  いつも総裁総裁と根拠なく言うだろ
生長の家をつぶすためのスパイだろ おまえさんは

● 4797 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 16:59:47 ID:JPiKJZkg
黙っていても、他人から「仰がれる」 ≪品位≫ が大切なのですよ!! 
人に求める前に自分がなってくれ  あんたに ≪品位≫ があるって WWW ≪信徒≫を装いヘイトスピーチに励む  質問に答えられない ≪偽信徒≫ トンチンカン のどこに ≪品位≫ が在る?

● 4799 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 17:05:19 ID:JPiKJZkg
『本流の貼り付けだけ』で ≪ヘイトスピーチ≫だけするなんて・・  誰がみたって≪品性≫は・・・??
いやいや、「偽信者のトンチンカン」は素晴らしい ≪品位ある行為≫ だと思っている??

● 4800 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 17:08:53 ID:JPiKJZkg
『生長の家をつぶすためのスパイだろ トンチンカン』
『生長の家を潰そう』としているのは、≪偽信者のトンチンカン≫その人ですよ!!
『谷口雅春先生の≪御教え≫』を、根幹から まったく知らないのでスルー しているのは・・・≪偽信者のトンチンカン≫

● 4802 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 17:21:07 ID:JPiKJZkg
あれあれ、≪投稿パターン≫まで ソックリ にまねる・・・
≪品位≫ 有る ≪偽信者≫ トンチンカに学んで ≪品性≫ の良い人間になりましょう 全生長の家信徒の皆さん

● 4804 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 17:23:18 ID:JPiKJZkg
これだけ ≪偽信者≫ と云われても否定しないスパイ確定の トンチンカン

● 4805 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 17:27:34 ID:JPiKJZkg
まったく同じ文の投稿する、これって街頭アジでよくされる 手法でしょう。やはり≪偽信者≫のアジ演説でしょう

● 4806 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 17:42:00 ID:JPiKJZkg
偽信者のトンチンカン この質問に答えてみて 生長の家の信者なら簡単でしょ?

● 4807 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 18:51:12 ID:JPiKJZkg
偽信者のトンチンカン この質問に答えてみて 生長の家の信者なら簡単でしょ?

● 4808 :神の子さん=マサノブ:2015/09/17(木) 18:56:56 ID:JPiKJZkg
純粋教理批判さんの主張に関係していると私は思います。
生長の家の信徒と云うなら、無門関第五 香巌上樹の公案です。
上の解釈のどこが間違いか言ってみて、出来て当たり前、できなければ生長の家の信徒ではない。生長の家を貶める ≪偽信徒≫ トンチンカン



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[3042] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (20)
遮那王 - 2016年04月30日 (土) 08時23分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (20)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4811 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 20:45:47 ID:DD4jWV6M
イデア論が陥りやすい思考パターンに「すべてを自分とみる」や「すべてを自分と等価のものとみる」というのがあります。「世界のすべては自分なんだ」といえば、これはイデア論の可能性があります。どうしてそうなってしまうのかといえば、ヨーロッパ人に特有の思考パターンに原因がありそうです。よくいわれることですが、ヨーロッパ人には空間恐怖症というのがあって、絵画でも隅々まで塗りつぶさないと気がすまないのだそうです。イデア論はヨーロッパ人のこうした特性を反映しているにちがいありません。未知なるものの存在は耐えられない。理解不能のまったき他者が存在するのは耐えられない。すべては自分が理解できるものでなければならない。こういった欲動が反映されて、イデア論は外部の存在を許さない内部の思想、「すべては自分である」というように内部を特権化する思想になったと考えられます。


● 4812 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 20:48:57 ID:DD4jWV6M
雅春先生の解釈はとにかく何かをつかむ。つかむことで身の安全をはかったうえで答える。こういうことなのですね。


● 4813 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 20:57:25 ID:DD4jWV6M
ソシュールの言語学について
人間は川をみて「カワ」と名づけたのではない。「カワ」と名づけたことで川があらわれた。これがソシュールの言語学です。
世界は言葉でつくられている。こういうことです。真説も虚説もすべて言葉がつくりだしたものです。実相も現象もおなじです。言葉がつくりだしたものです。実相と現象の区別。これも言葉がつくりだしたものです。すべての二項対立は言葉がつくりだしたものです。雅春先生は人間が川をみて「カワ」と名づけたと考えておられたとおもいますがいかがでしよう。


● 4816 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 21:10:02 ID:DD4jWV6M
人間が名づけることで世界はあらわれた。名づけるまえには何があったのでしよう。カントのいう物自体でしょうか。フランスの精神分析医ジャック・ラカンは「物自体がなければそこにはまなざしがある」といいました。誰のまなざしなのでしょう。







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[3060] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (21)
遮那王 - 2016年05月01日 (日) 08時36分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (21)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

◎ あらゆる宗教的経典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感によって書かれたものである。霊感によって書かれたものは、ただ、霊感のみこれをよく解釈し能うのである。いかなる博学者も、ただ語義のみを知って霊感なきものは、真に経典の生命を捉えない。生長の家は霊感によって、仏教といわず、キリスト教といわず、日本神典といわず、あらゆる尊き経典の神髄に透徹してこれを拝むのである。

「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4820 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/17(木) 22:13:30 ID:DD4jWV6M
ある奥深い山で乳飲み子を抱えて身動きできなくなっている虎をみつけました。見捨てて去りますか、それともエサをとってきてあたえますか。でもそのエサとはなんなのでしょう。進退両難がないのであればどうすればよいのでしょう。人間はほんらい自由なのだからこのような選択にしばられることなく見捨ててこの場を去るということなのでしょうか。「進退両難がない」とはいかなる場合にあっても判断はつねに可能であるということでしょう。たしかにそうかもしれませんけども、ではこのたとえは何を示しているのでしょう。いかなる判断であってもそれには排他性や暴力性がともなうものだ、ということをこのたとえは示しているようにわたしにはおもわれます。


● 4826 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 07:26:00 ID:DD4jWV6M
哲学が贈与をなぜ問題にするのかというと、それは「自己中心」を問題にするからです。イデア論は徹底的に自己中心的です。真理をおのれのものとし、おのれのために利用する。獲得だけを問題にする。これがイデア論です。こうした自己中心性を逃れるにはどうすればよいか。そのためには純粋なる贈与しかない。哲学はおそらくこのように考えるのでしょう。自己中心的であってもよい。これが雅春先生の答えであるような気がしてなりません。


● 4827 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 07:44:44 ID:DD4jWV6M
公案とは何か。それは言葉というものをつねに主題化しようする左脳自我を抑制するためのものです。進退両難はないということを教えるためのものではありません。雅春先生の答えは左脳自我の働きによるものです。左脳自我の抑制につながらないものです。


● 4829 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 08:06:17 ID:DD4jWV6M
公案の答えは肯定判断でも否定判断でもあってはなりません。無限判断がなされていなければなりません。その人のなかで無限判断が成り立っているかどうか、このことだけが問題になります。
何を答えるかは問題ではありません。雅春先生のなかで無限判断が成り立っていればよいのですが、成り立っていなければそれは左脳自我による判断でしかありません。香厳上樹の公案は設定があまりにも作為的で無限判断の成り立ちにくい公案のような気がいたします。


● 4831 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 08:11:46 ID:DD4jWV6M
内部の真理(イデア論)を支持する人であれば左脳自我の働きだけで十分なのでしょう。左脳自我は外部の真理には不向きのようにおもわれます。



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[3075] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (22)
遮那王 - 2016年05月02日 (月) 09時50分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (22)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

◎ あらゆる宗教的経典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感によって書かれたものである。霊感によって書かれたものは、ただ、霊感のみこれをよく解釈し能うのである。いかなる博学者も、ただ語義のみを知って霊感なきものは、真に経典の生命を捉えない。生長の家は霊感によって、仏教といわず、キリスト教といわず、日本神典といわず、あらゆる尊き経典の神髄に透徹してこれを拝むのである。


「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4837 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 08:52:50 ID:DD4jWV6M
教理といえども多くの判断が含まれている。多くの判断が含まれていながら排他的でもない、暴力的でもないということはありえない。こういうことです。


● 4839 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 09:01:11 ID:DD4jWV6M
言葉は排他的であり、どっちに転んだところでかならず他のなにかを暴力的に排除するということです。言葉は他の言葉との排他的な関係に入らないかぎり意味をもつことはない。言葉が意味をもつとすれば、それはかならず他の言葉を排除しているということです。


● 4843 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 10:03:01 ID:DD4jWV6M
言語化されたものにはすべて排他性があると。教理にひそむ排他性に気づかないかぎり今おきている問題の解決はない。これをいっているのですよ。二項対立で組み立てられた言説には他者排除の欲望がひそんでいる。


● 4847 :神の子さん=マサノブ:2015/09/18(金) 11:37:40 ID:DRZ7EDG2
釈迦の悟りの時を「一見明星」の時とする禅に対し、乙女の差し出す一杯の飲み物に愛の世界、生かし合いの世界を見た時とする、このまるで違う見解を鵜呑みにしている人間は、カルト以外の何物でもない。


● 4849 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 13:11:02 ID:DD4jWV6M
すべての人を神の子としておがむ。これがすべての他者を自己へと回収しようとするイデア論者の試みでないとしたら、いったいなんなのでしょう。

● 4852 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 17:09:48 ID:DD4jWV6M
言葉で真理を語るのは不可能な経験です。


● 4862 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 20:33:40 ID:DD4jWV6M
物質はあるのでもないのでもない。非存在です。


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■■ 純粋教理批判=変装・マサノブくんへーーー

次の、開祖・谷口雅春先生の御文章をシカと心得よ!!

@ 『< (「 無 」 の字、 「 ない 」 という言葉 は ) この織り込み方は 、わたし独特であって、わたし独特のインスピレーションによって書いてゆくので、誰にも真似(まね)は できないのであります。思想は 真似はできても、言葉の調合は 真似ができないのであります。 >

かくのごとく 「 無 」 の字は 竣効(しゅんこう)を有(ゆう)するので、生長の家では、それが人間に働きかけて、生命を生かすので、有効無害の働きをするように、文章中に巧(たく)みに 他の言葉と混ぜて 調合(ちょうごう)してあるのであります。「 無 」 の字、 「 ない 」 という言葉は、生長の家の発明でも発見でもありません。釈迦の昔からある言葉ですが、生長の家の独創的なところは、「 無 」 の字、「 ない 」 という言葉を、文章全体の中に織り込んである その織り込み方にあるのであります。この織り込み方は わたし独特であって、わたし独特のインスピレーションによって書いてゆくので、誰にも真似(まね)は できないのであります。思想は 真似はできても、言葉の調合は 真似ができないのであります。だから、今まで お経を読んでも 聖書を読んでも 治らなかった病気でも、その同じ真理が
説いてある生長の家では、聖典を読んだり 話を聴いただけで 病気が治るのであります。 』


A 『 あらゆる宗教的経典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感によって書かれたものである。霊感によって書かれたものは、ただ、霊感のみこれをよく解釈し能うのである。いかなる博学者も、ただ語義のみを知って霊感なきものは、真に経典の生命を捉えない。生長の家は霊感によって、仏教といわず、キリスト教といわず、日本神典といわず、あらゆる尊き経典の神髄に透徹してこれを拝むのである。』





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[3082] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (23)
遮那王 - 2016年05月03日 (火) 09時50分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (23)

@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

◎ あらゆる宗教的経典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感によって書かれたものである。霊感によって書かれたものは、ただ、霊感のみこれをよく解釈し能うのである。いかなる博学者も、ただ語義のみを知って霊感なきものは、真に経典の生命を捉えない。生長の家は霊感によって、仏教といわず、キリスト教といわず、日本神典といわず、あらゆる尊き経典の神髄に透徹してこれを拝むのである。


「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4863 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/18(金) 20:47:21 ID:DD4jWV6M
現象とは何か、それは決定不可能なあるなにものかです。


● 4866 :純粋教理批判 =マサノブ:2015/09/18(金) 22:51:22 ID:DD4jWV6M
「現象とは何か」と問われても答えられないのが生長の家です。現象とは何かがわからないにもかかわらず「現象はない」といっているのが生長の家です。「現象はない」。時代についていけてない気がいたします。


● 4877 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/19(土) 10:23:04 ID:DD4jWV6M
実相と現象の区別はほんらい的に不可能です。区別できないものを無理やり区別することから排他性や暴力性が生じます。イデア論の排他性や暴力性は区別できないもの、決定できないものを無理に区別し決定しようとするところから生じます。総裁排除にかぎらず教団内でおきてきた問題の多くはイデア論がもつ排他性や暴力性と無縁ではありません。これに気づかぬかぎりおなじ問題が何度でもくりかえされます。


● 4880 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/19(土) 10:45:40 ID:DD4jWV6M
生長の家はイデア論なのですよ。環境問題をつくりだしたのはイデア論です。生長の家をつくったのもイデア論です。


● 4898 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/19(土) 15:19:24 ID:DD4jWV6M
現象とは何か、これを決定することはできないということです。決定できないものを無理やり決定することによって排他性、暴力性が生じる。なぜかといえば、決定できないものを決定するには、あるはずのない境界を無理にでもつくりだして、その境界の向こう側にあるものを暴力的に排除するよりほかに方法がないということです。「暴力的」の意味は、排除を正当化する合理的な理由がないということです。



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[3093] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (24)
遮那王 - 2016年05月04日 (水) 09時07分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (24)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

◎ あらゆる宗教的経典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感によって書かれたものである。霊感によって書かれたものは、ただ、霊感のみこれをよく解釈し能うのである。いかなる博学者も、ただ語義のみを知って霊感なきものは、真に経典の生命を捉えない。生長の家は霊感によって、仏教といわず、キリスト教といわず、日本神典といわず、あらゆる尊き経典の神髄に透徹してこれを拝むのである。


「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 4901 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/19(土) 15:40:27 ID:DD4jWV6M
イデア論とは「自分の言葉(想念)をもって真理(イデア)とする」考え方です。ソクラテスは「想起」ということをいってますよね。思い出せばよい。こういうことです。人間はすでにイデアを知っている。それを思い出せばよい、こういうことをいっていたはずです。以上のようなことからイデア論においては、真理はつねにここにある。いつでも利用可能なかたちでここにある、というかたちで理解されることになります。


● 4902 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/19(土) 15:46:21 ID:DD4jWV6M
あらゆる決定は暴力である。このことにたいする自覚があるかないか、これが問題と考えます。


● 4906 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/19(土) 16:31:39 ID:DD4jWV6M
二項対立とはいってみれば決定のためのシステムです。自分にとって都合のよいほうの項(たとえば実相)を手元にのこし、都合のよくないほうの項(現象)を暴力的に外部へと排除するためのシステムです。生長の家においては、実相と現象、完全と不完全、霊と物質、光と闇、善と悪といった二項対立がふんだんに用いられます。二項対立を用いるごとに、信徒のなかでは片方の項の暴力的排除がなされているはずです。ですがこれだけで問題が生じるというわけではありません。人間には「自分にとって不都合なものを排除したい」とする欲望が少なからずあるはずです。二項対立の乱用はこうした欲望をいたく刺激します。その結果として「どんな理由をつけてでも相手を排除したい」とする欲望が信徒のなかで肥大化し、ついには抑えがたい欲望となっておらわれ、ときにそれは快感となったりもするはずです。
「真理の裁きあい」はこうしたメカニズムでおこる総裁が真理を理解しがたい方法で批判しはじめたとき、こうした方法に慣れていない信徒はこれにどう対応できるのかといえば、「真理の裁きあいのメカニズム」をいつもどおりに起動させ総裁を否定し排除することだけであったとおもわれます。


● 4907 :純粋教理批判=マサノブ2015/09/19(土) 16:44:29 ID:DD4jWV6M
多くの生物がさけがたく陥るのが優越行動です。他よりも上に立つための行動です。二項対立の乱用は信徒をしてさらなる優越行動へと駆り立てた可能性がある。今おきている問題を考察するとき、この可能性を考えないわけにはまいりません。本流をささえているのは真理ではなく優越行動です。


● 5684 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/19(土) 10:49:19 ID:DD4jWV6M
生長の家はイデア論なのですよ。環境問題をつくりだしたのはイデア論です。生長の家をつくったのもイデア論です。総裁のなかでこのふたつながっているのですよ。復興Gさんはけっきょくイデア論で総裁を批判している。総裁が否定しているであろう当のもの(イデア論)をもちいて総裁を批判しているのですよ。このことに復興Gさんはまったく気づいておりません。


● 5686 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/19(土) 11:50:16 ID:DD4jWV6M
生長の家の歴史は浅く人類的評価はまったく定まっておりません。人類全体の問題を考えるにあたって評価の定まっていない教えをもちだして持論の正当性を訴えるのは適切ではないでしょう





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[3103] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (25)
遮那王 - 2016年05月05日 (木) 08時08分





遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (25)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

◎ あらゆる宗教的経典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感によって書かれたものである。霊感によって書かれたものは、ただ、霊感のみこれをよく解釈し能うのである。いかなる博学者も、ただ語義のみを知って霊感なきものは、真に経典の生命を捉えない。生長の家は霊感によって、仏教といわず、キリスト教といわず、日本神典といわず、あらゆる尊き経典の神髄に透徹してこれを拝むのである。


「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 5687 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/19(土) 12:34:35 ID:DD4jWV6M
人類は自己の欲望を肥大化させエゴむきだしでみずからの繁栄を追求してきましたよね。この追求に少なからず貢献したのがイデア論です。みずからの言葉をもって真理となす。これがイデア論ですから人類にとってこれほど都合のよいものはありません。人類が原子力を必要とするようになったのはイデア論を都合よく利用して欲望を肥大化させたからです。


● 4920 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/20(日) 06:42:54 ID:DD4jWV6M
現代思想では常識とされる、人間は川をみて「カワ」と名づけたのではない、「カワ」と名づけたことで川があらわれた、とする考え方は間違っているとお考えのようです。これについては説明いたしましょう。人間は世界をそのままみているのではない。これはおわかりでしょう。なにをみているのかというとそれは表象です。脳のなかにつくられたイメージのようなものをみているのですよ。川はもちろん表象です。物自体ではなく表象です。この表象をつくりだすために人間は言葉の助けを必要とする。つまり、人間の脳は言葉のたすけによって表象をつくりだしている、言葉のたすけなしには表象をつくれないということです。「人間の脳は言葉のたすけによって表象をつくりだしている」というのはわたしのアイデアであり、ほかにこのようなことを言っている人がいるのかどうか定かではありませんが、現代思想で常識とされる考え方をわたしはこのように解釈するということです。もちろんソシュールはこのような考え方をかたくなに否定するでありましょうけども。


● 4921 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/20(日) 07:00:00 ID:DD4jWV6M
人間は物自体をみているのではなく脳のなかにつくられた表象をみているわけですが、いったい誰がこれをみているのでしょう。脳が自分でみているのでしょうか。これはちょっと考えられませんね。脳が表象をみるためにはその脳がまたしても表象をつくらなければならなくなるはずです。表象なしにちょくせつみることができるのであれば、そもそも表象などつくる必要はなかったはずです。脳の役割は表象をつくりだすことだけであって、表象をみるということはやっていないのではないでしょうか。だとすると他にみているものがいるはずです。そのみているはずのものこそ実相であるとわたしは考えます。外部の侵入によって収縮させられ、天地創造の場から追いやられた実相こそが表象をとおして世界をみている。わたしはこのように考えます。


● 4926 :純粋教理批=マサノブ:2015/09/20(日) 10:17:24 ID:DD4jWV6M
実相がなにをやっているのかというと、ただみているだけです。聞くとか味わうとかもやっているはずですが、いずれにしてもやっているのはこれだけです。もちろん実相は表象をとおさずとも世界をみることはできるはずですが、人間を体験するためには人間がつくりだした表象をみることで人間からみた世界を体験する必要があったのかもしれません。どちらにしても実相はたったこれだけのことしかやっていないはずです。このことが事実だとすれば、これが実相のすべてなのでしょう。天地の創造を自分でなしとげるとか、自分でものを考えるとかということは、実相にはできないはずなのです。ジャック・ラカンは「わたしはわたしがいない場所で考える」といっています。考える自分と本当の自分(実相)はべつだということをラカンはいっているのです。実相の自分はなにも考えない。ただ考える自分をみているだけです。


● 5703 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/20(日) 21:53:58 ID:DD4jWV6M
雅春先生の教えを正しいものとして物事をつきつめていくとかならず矛盾につきあたります。


● 5715 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/21(月) 16:45:28 ID:DD4jWV6M
「カワ」と呼んだことで川があらわれた。カオスがコスモスへと変わる瞬間です。言葉がカオスをコスモスへと変えた瞬間です。言葉がなければ人間はカオスをコスモスへと変えることができません。カオスを「カワ」と名づけた瞬間から人間はコスモスの世界の住人となります。



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[3117] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (26)
遮那王 - 2016年05月06日 (金) 09時02分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (26)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

◎ あらゆる宗教的経典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感によって書かれたものである。霊感によって書かれたものは、ただ、霊感のみこれをよく解釈し能うのである。いかなる博学者も、ただ語義のみを知って霊感なきものは、真に経典の生命を捉えない。生長の家は霊感によって、仏教といわず、キリスト教といわず、日本神典といわず、あらゆる尊き経典の神髄に透徹してこれを拝むのである。


「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 5716 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/21(月) 16:58:03 ID:DD4jWV6M
「物質はない」は絶対的真理でもなんでもありません。すべての物質は言葉でつくられています。ないのがあたりまえです。


● 5718 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/21(月) 19:31:09 ID:DD4jWV6M
実相とはなにかといっても定義不可能というのが実情でしょう。雅春先生の御文章はけっこういい加減なことが書かれているようです。信じるか信じないかの問題であるのならともかく、「宇宙の仕組み」、「世の中の仕組み」、「人間の仕組み」を問題にしようとするときには、こうしたいい加減さが混乱をきたす原因となります。


● 4978 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/21(月) 11:13:37 ID:DD4jWV6M
総裁の「ご乱行」がはじまりではない。はじまりは総裁を乱行へと追い込んだ教理の排他性にあるのですよ。


● 5001 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/22(火) 14:50:01 ID:DD4jWV6M
総裁はどうやら教理にたいして反旗をひるがえしたとみなされているようなので、これをもってわたしは「みなさんが考える乱行」と考えております。総裁がなぜ反旗をひるがえしたのかの原因を究明せずして、反旗をひるがえすのをまずやめさせるとはどういうことかといっているのです。


● 5723 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/21(月) 23:22:49 ID:DD4jWV6M
問題は中心化された個人です。自分を世界の中心とみなす中心化された個人、これが問題です。中心化された個人は自分中心にしか世界をみない。すべては自分の心の影。自分が正しいと信じるものが真説で、そうでないものは虚説。自分中心に真理を理解した気になって、自己満足でしかない言説を周囲にふりまく。問題が起こればなぜそれが起こるのかを深いところまで考えようとはせず、自分が信ずるものを広めさえすればそれですべての問題が解決するとのご託宣。あげくの果てには自分の言葉を真理と思い込んでなんでもありの言いたい放題。おのれの主観にとじこもって客観性はかえりみない。雅春先生までもが人間は世界の中心と説いておられる。中心化された個人にお灸をすえる。誰かがやらねばならぬことでしょう。


● 5724 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/22(火) 08:54:00 ID:DD4jWV6M
問題が生じたとき、なぜそれが起きたのかとは考えない、教理を広めさえすれば問題は解決する、このように考えるのが宗教です。ようするに「ものを考えない人」をつくりだすのが宗教なのです。


● 5725 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/22(火) 10:00:49 ID:DD4jWV6M
実相と現象のあいだに位置するのがコーラです。コーラは生成の場です。実相を現象へと変換する生成の場でもあるようです


● 5741 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/22(火) 14:14:25 ID:DD4jWV6M
反証不可能な超越項の乱用はつつしむ。説明責任を果たす。議論を継続するためのこれは最低限のルールである。






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[3125] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (27)
遮那王 - 2016年05月07日 (土) 08時46分



遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (27)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

◎ あらゆる宗教的経典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感によって書かれたものである。霊感によって書かれたものは、ただ、霊感のみこれをよく解釈し能うのである。いかなる博学者も、ただ語義のみを知って霊感なきものは、真に経典の生命を捉えない。生長の家は霊感によって、仏教といわず、キリスト教といわず、日本神典といわず、あらゆる尊き経典の神髄に透徹してこれを拝むのである。


「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 5745 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/22(火) 16:59:28 ID:DD4jWV6M
個人の勝手な解釈どうしのひらかれた議論。ひらかれた生長の家実現のためにこれを実現しましょう。ルールは、説明責任を果たす、反証不可能な超越項の乱用はつつしむ、これでいいでしょう。


● 5751 :純粋教理批判マサノブ:2015/09/22(火) 18:48:38 ID:DD4jWV6M
「反証不可能な超越項」とは「神が完全なる実相世界をつくった」といったような表現です。このようなことをいわれても反論のしようがない。実相世界が創造される様子を多少なりともイメージできるような表現をしてもらわなければ反論のしようがないということです。


● 5753 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/22(火) 19:11:45 ID:DD4jWV6M
すべては心の影。これは現代人のおごりではないかとおもわれる次第です。


● 5758 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/22(火) 23:57:21 ID:DD4jWV6M
生長の家では五官を迷いであるかのごとく説きますが、五官はたしかに実相なのです。五官によって得た情報のようなものを何らかの方法で変換することで人間はそれをドリーミング(ホログラム映像)として翻訳しているはずなのですね。


● 5759 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/23(水) 00:29:01 ID:DD4jWV6M
一元論ははじめから結末がどうなるかが決められている決定論だからです。
神一元の世界観では神と対立するものは存在しません。これはいってみれば一人でゲームをやっているようなものですから予想外の展開というものがありません。自由とはなんでしょう。一元論が決定論であることを認めること。この苦渋の決断こそが人間にあたえられた唯一の自由という気がいたします。


● 5760 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/23(水) 12:56:00 ID:DD4jWV6M
電信柱はないはずなのになぜぶつかるのかといえばそこに力が働いているからです。電信柱にぶつかった瞬間、それは力を感じた瞬間でもあるわけですが、この一瞬、人は実相世界にいるともいえる。しかしそのすぐあとに「痛い」とか「こんちくしょう」とかの思いが湧いてきて人はたちまちにして現象の世界にひきずりこまれる。「それがある」、「それがただある」、これが究極の実相です。究極の実相を想像するのはそれほどむつかしくはない。宇宙のなかに自分一人だけがいると想像できれば、これが究極の実相です。
実相独在とはこういう意味です。ほかに何もない。「ほか」という観念もない。ほんとうになにもない。「ない」ということもない。「ただあるだけ」としかいいようがない。これが究極の実相です。


● 5761 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/23(水) 13:20:16 ID:DD4jWV6M
究極の実相を活性化させたのが外部です。外部が内部に侵入した。外部に侵入された実相は収縮を余儀なくされた。実相は内部のさらなる内部へのひきこもりを開始した。実相は他者との関係をもったことでこのときはじめて「自分」の感覚をもった。心とはなんでしょう。言葉と情動がまざりあったもの、これが心です。かつての人類は言葉と情動が分離されていたために心をもてなかった。何千年かまえに言葉と情動がまざりあったことで人類ははじめて心をもつことができた。心はしかし心を体験することはできない。心を体験しているものはべつにいる。心はほんとうの自分ではない。心を体験しているほんとうの自分がべつにいる。心を体験しているもの、それが内部のさらなる内部へとひきこもった究極の実相です。心を体験している究極の実相こそがほんとうの自分です。「赤肉団上に一無位の真人」と臨済が呼んだ一無位の真人こそが究極の実相でありほんとうの自分です(このあたり、正統の解釈とはズレている可能性あり。正統の解釈があればの話ですが、存じておりません)。わたしのいう一無位の真人はただみているだけです。心の中の出来事をただみているだけ。人は誰もが一無位の真人として世界をみている。このことだけはいえる。しかし多くの人はそのことを自覚できずにいる。自分のなかの一無位の真人を自覚するには自分をべつの場所に置く必要がある。外部とつながった場所におく必要がある。外部とつながった場所に自分をおいたとき、人は一無位の真人を感じられるようになる。究極の実相を感じることができるのは外部だけだからです。




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[3138] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (28)
遮那王 - 2016年05月08日 (日) 10時16分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (28)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

◎ あらゆる宗教的経典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感によって書かれたものである。霊感によって書かれたものは、ただ、霊感のみこれをよく解釈し能うのである。いかなる博学者も、ただ語義のみを知って霊感なきものは、真に経典の生命を捉えない。生長の家は霊感によって、仏教といわず、キリスト教といわず、日本神典といわず、あらゆる尊き経典の神髄に透徹してこれを拝むのである。


「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 5762 :神の子さん=マサノブ:2015/09/23(水) 14:21:29 ID:???
 わたしは臨済と同じ禅の奥儀に到達した。べつに悟りに到達しても、宇宙を一握できるような壮大な心境になれるわけではない。「法」の世界での話であって現実味は乏しい話である。だから、禅を学ぶ人たちは、いかにも最もらしい一無位の真人なんて造語に惑わされぬことである。何回もいうが、一無位の真人なんてものは、悟りとは何の関連もない、臨済が上から目線で、言い得て妙に作った造語でしかない。
 禅の奥儀を極めたわたしには、慧能の偈こそ真実とわかる。もし臨済の時代に慧能が生存していたならきっとこういうだろう。 「わたしには、一無位の真人なんてものは、影も形も見えない」


● 5763 :純粋教理批判マサノブ:2015/09/23(水) 15:11:38 ID:DD4jWV6M
「一無位の真人」の表現を理論的に説明したはずです。「内部の内部へと収縮した究極の実相」と説明したはずです。わたしがやろうとしているのは真理を理論化することです。


● 4984 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/22(火) 10:23:43 ID:DD4jWV6M
総裁が乱行を演じていればそりゃ問題でしょう。なぜそうなったのかを考えねばならぬ問題でしょう。


● 5001 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/22(火) 14:50:01 ID:DD4jWV6M
わたしのいっている「乱行」とは教理にかんするものです。総裁はどうやら教理にたいして反旗をひるがえしたとみなされているようなので、これをもってわたしは「みなさんが考える乱行」と考えております。総裁がなぜ反旗をひるがえしたのかの原因を究明せずして、反旗をひるがえすのをまずやめさせるとはどういうことかといっているのです。原因の究明がさきだろう。これが世間の常識だろう。これが屁理屈、詭弁、嘘っぱちとはどういうことかといっているのです。


● 5768 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/24(木) 00:41:15 ID:DD4jWV6M
主体とは「それがただある」が主体生成の過程をへて誕生したものです。この過程は、「それがただある」の収縮と言語的世界の誕生によって説明されますが、くわしいことはわかりません。
「それがただある」主導的な役割を果たしたのが言語であったと考えられます。ジジェクは「主体は空無である」といいます。エスも空無です。しかしジジェクはこれにつけくわえて、主体は狂気のさなかにあるともいいます。ジジェクが正しければエスもまた狂気のさなかにあることになります。エスはいまだに救われていない。そういうことのようです。


● 5776 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/24(木) 11:16:59 ID:DD4jWV6M
わがうちに光があり、光のうちにわれわれはあるのですから、われわれは絶対に暗(やみ)を知らない。いっさいの暗黒はない。これがわたしのいう排他性ですね。光と暗の二項対立を立てて劣位項である暗を外部へと排除することで優先項である光を内部にとどめおく。こういうことを延々とつづけていれば、誰だって排他的な性格が身につくことでしょう。







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[3147] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (29)
遮那王 - 2016年05月09日 (月) 10時31分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (29)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

◎ あらゆる宗教的経典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感によって書かれたものである。霊感によって書かれたものは、ただ、霊感のみこれをよく解釈し能うのである。いかなる博学者も、ただ語義のみを知って霊感なきものは、真に経典の生命を捉えない。生長の家は霊感によって、仏教といわず、キリスト教といわず、日本神典といわず、あらゆる尊き経典の神髄に透徹してこれを拝むのである。


「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 5778 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/24(木) 16:02:17 ID:DD4jWV6M
環境問題とはけっきょく人類が「〇〇は神が人類にあたえたもうたものだ」と考えたことからはじまったと考えます。生長の家もこれとまったく変わらぬことを説いています。


● 5784 :純粋教理批判 =マサノブ:2015/09/25(金) 11:34:54 ID:DD4jWV6M
神一元の神は、ふれるものすべてを金に変えたというミダス王のごとく、あらゆる対象を神へと変えてしまうようです。教えを信じていたころから教えにたいする違和感をどうしても解消できずにおりました。もしかしたら違和感の正体はこれであったのかもしれません。


● 5786 :純粋教理批判 =マサノブ:2015/09/25(金) 19:34:23 ID:DD4jWV6M
総裁はすでに実際的な活動をはじめておられます。生長の家が立教して80年だそうですが、その間にも日本国内で数々の公害問題が発生しています。生長の家は公害防止のための役割を果たしたのでしょうか。わたしにはどうもそのようにはおもえません。


● 2665 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/24(木) 11:33:28 ID:DD4jWV6M
宇宙の業といえばダークエネルギーでしょう。宇宙はすでにダークエネルギーの時代に突入してしまったようです。最後はビッグリップ、原子までもが素粒子にまで分解してその状態が永遠につづくことになるのかもしれません。


● 2666 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/24(木) 11:43:36 ID:DD4jWV6M
拝金主義は昔からあったことで今にはじまったことではないはずです。何が問題か、それは人間中心主義であり、それを生み出したのはおそらくキリスト教的世界観であり、その世界観をささえているのが「みずからの言葉をもって真理となす」イデア論であるとする考えをわたしはもっています。教えもまたイデア論であるとわたしは考えます。世界観としてはキリスト教的世界観とおなじと考えます。そのために「神は原子力エネルギーを人類にあたえたもうた」というがごとき人間を中心とした思考にどうしても落ち込んでしまうのではないでしょうか。
教えでは環境問題に対応できないばかりか、むしろ環境破壊を生み出した人間中心主義をよりいっそう助長しかねないとさえ考えております。


● 2672 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/25(金) 11:53:38 ID:DD4jWV6M
わたしのいう人間中心主義とは「おのれの言葉をもって真理となす」考え方をいいます。「牛は神が人間にあたえたものだ」、こした言い方が「おのれの言葉をもって真理となす」ということであり、わたしのいう人間中心主義です。人間中心主義に対する批判は「それはおのれの言葉をもって真理となそうとするイデア論である」とする方向からでないと無理のような気がいたします。イデア論を徹底的に批判するよりほかはないと考えます。生長の家にこれができるのか、ということです。わたしのみるところでは、生長の家においてもまた「おのれの言葉をもって真理となす」考え方が支配的のようです。生長の家は人間中心主義を批判できない。わたしはこのように考えます。


● 2673 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/25(金) 11:58:50 ID:DD4jWV6M
生長の家の教えで環境問題に介入したとしても、それはイデア論とイデア論の対立でしかない。わたしがいいたいのはこういうことです。


● 2674 :純粋教理批判マサノブ:2015/09/25(金) 12:20:47 ID:DD4jWV6M
どんな教えにも問題はある。わたしが言っているのはこういうことです。キリストの教えにしても人間中心主義という副産物を生み出してしまいました(とわたしは考えている)。雅春先生の教えにしても、雅春先生の意図に反して思いがけない副産物を生み出すということです。本流にみられるような尋常ならざる排他性もそのひとつと考えます。






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[3159] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (30)
遮那王 - 2016年05月10日 (火) 09時18分




遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (30)


@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

◎ あらゆる宗教的経典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感によって書かれたものである。霊感によって書かれたものは、ただ、霊感のみこれをよく解釈し能うのである。いかなる博学者も、ただ語義のみを知って霊感なきものは、真に経典の生命を捉えない。生長の家は霊感によって、仏教といわず、キリスト教といわず、日本神典といわず、あらゆる尊き経典の神髄に透徹してこれを拝むのである。


「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 2677 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/25(金) 14:40:01 ID:DD4jWV6M
わたしがいっている人間中心主義はヒューマニズムです。自然破壊をいかにして正当化するか。正当化するにあたって大きな役割を果たしたのが一神教です。自然界の万物に神がやどるとする多神教やアニミズムでは環境破壊はとうてい正当化されるものではありません。多神教やアニミズムを否定する一神教のほうが、環境破壊を正当化するには都合のよい考え方であるのはたしかな事実です。一神教であれば「牛は神があたえたものだ」とする言い方が成り立ちます。多神教やアニミズムにおいてもこうした言い方を成り立たせることはあるとおもいますが、それにはかならず「礼をもってなされなければならない」といったような条件がつくはずです。こうした条件を取り払って人類の好き勝手ができるようにしたのが一神教であるともいえます。宗教と環境破壊はけっして無関係ではありません。生長の家では「感謝して食する」というはずですが、一神教は、多神教やアニミズムを奉ずる人類が当然のこととしてなしていたであろう感謝の思いでさえも取っ払ってしまったという気がしてなりません。


● 2680 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/25(金) 22:01:56 ID:DD4jWV6M
わたしは神(外部)と実相は別個のものと考えています。それぞれが不生不滅と考えています(というか考えるよりほかはない)。人間とは何かというと、外部の侵入によって内部の内部へと収縮した実相と、実相と外部との相互作用によって生じた文字情報がつくりだした物質体とでもいうべき実体とで成り立っていると考えています。


● 2681 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/25(金) 22:04:20 ID:DD4jWV6M
現代人が古代人とちがうところは左脳自我を発達させたことです。ものごとを抽象化する能力は古代人の比ではないでしょう。たしかに左脳自我は外部のメッセージを聞くことのさまたげにはなりますが、外部のメッセージにたいする認識を飛躍的に向上させたのも事実です。「アニミズムの復活を」などと考える必要はどこにもありません。


● 2682 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/25(金) 23:14:20 ID:DD4jWV6M
生長の家の教えには「神は人間に自由なる意思をあたえた」とあるはずです。「神は人間の実相に自由なる意思をあたえた」とは書いてないはずです。生長の家でいうところの人間とははたして何なのか。つきつめていえば「人間の実相」というものがあるのか、こうした疑問がとうぜんのごとくでてくるものと考えます。


● 2686 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/26(土) 16:57:43 ID:DD4jWV6M
人間中心主義という言葉を聞いて「おのれの言葉をもって真理となすこと」ほかの人がこのように定義しようがしまいが、関係のないことです。宗教が環境問題に取り組むときにこうした定義が必要になる。究極の出来事を考えるにあたって問題になるのは時間ということになるでしょう。はじめから存在したということは、無限の過去から存在したということでありますから、時間の経過は事実上不可能ということになります。神と実相ははじめから存在した。わたしはこのように考えます。いずれにしても外部のことはなにもわかりません。外部はあると想定するしかない、外部が何であるかは想像するしかない、ということです。


● 2687 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/26(土) 18:51:57 ID:DD4jWV6M
生長の家の教理が、実相と現象、完全と不完全、霊と物質といった二項対立でできているということはすでに述べました。一元論に二項対立はほんらいない、ということです。神の一項しかないということです。神の一項しかないにもかかわらず二項対立を立てなければ真理を説明できない。このことからおそらくは矛盾や疑念が生じます。人間というものは、実相という意味でも現象という意味でもほんらいないものなのでしょう。ないにもかかわらず、神にたいして人間という項を立てなければ真理を説明できない。それでやむなく人間という項を立ててしまうことになるのでしょう。人間という項を立てたからには人間とは何かを説明しなければならなくなる。天地創造がいかにしてなされたかを説明しなければならなくなる。「神が人間に完全なる自由をあたえた」といわなければならなくなる。一元論の真理とは「神が神を神した」これがすべてなのでしょう。二項対立にまどわされることなく雅春先生の教えが理解できれば問題などおこるはずがありません。真説と虚説の二項対立をたてるがごときやり方は、雅春先生の教えとは何の関係もないということです。




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[3178] 遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (31)
遮那王 - 2016年05月11日 (水) 09時24分



遥かなる追憶<第六部>、「純粋教理批判=マサノブ」の「生長の家」解体実行の証明語録 (31)

@ 「生長の家」信仰に於いては、“教義の研究・議論”は邪道である。必要ない。

A 真理は、肉体頭脳による理論・理屈・分析でわかるものではない。何時までたっても、堂々巡りで真理の奥堂へ達することは出来ない。

B 自己生命そのもので、真理の奥堂に達するには三正行(聖典読誦・神想観・愛行)の実践である。

◎ あらゆる宗教的経典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感によって書かれたものである。霊感によって書かれたものは、ただ、霊感のみこれをよく解釈し能うのである。いかなる博学者も、ただ語義のみを知って霊感なきものは、真に経典の生命を捉えない。生長の家は霊感によって、仏教といわず、キリスト教といわず、日本神典といわず、あらゆる尊き経典の神髄に透徹してこれを拝むのである。


「純粋教理批判」=マサノブ(偽)総裁は、いつまで経っても真理を生命的に直接把握は出来ない。

以下、その“屁理屈語録”の数々を一回に付き5個程度づつ掲示する事にする。いづれも開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判の連続である。この様な理屈こきでは衆生救済は具体的には出来ない。頭デッカチ・マサノブ、何おか況や!!

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● 5786 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/25(金) 19:34:23 ID:DD4jWV6M
生長の家が立教して80年だそうですが、その間にも日本国内で数々の公害問題が発生しています。生長の家は公害防止のための役割を果たしたのでしょうか。わたしにはどうもそのようにはおもえません。80年の年月をついやしたところで日本国内にさえ広まっていない教えを全世界に広めるのに、いったい何百年まてというのでしょう。


● 5793 :純粋教理批判=マサノブ:2015/09/26(土) 10:43:14 ID:DD4jWV6M
かつて日本は公害問題でたいそう苦しみましたが、生長の家の一部の人たちは「これは現象だから何もしなくてよい」と具体的な取り組みには反対したはずです。問題はほぼ解決したとおもわれますが、それは何もしなかったからではなく技術や法規制が大きな役割を果たしたからです。

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いよいよ追いつめられてきた「狂乱総裁・マサノブ」! ――― 昨日の狂乱発作回数40数回!!


怒り心頭? マサノブ君は、大閑にまかせて昨日は40数回のヘ屁理屈ウップンの書きコモを展開した。新記録樹立であります。こんなことでは、本日の函館講習会は平常心で臨むことも不可能、またせっかくのVIP前泊も砂を噛むような心情かも? 昨日の狂乱投稿文いくつかを先ず抜粋転載いたしましょう。


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● 186 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/10/09(金) 20:27:03 ID:yPuEDcac
総裁が無慈悲に批判されれば総裁を擁護しようとする勢力があらわれるのも無理からぬ話です。わたしはただ、批判がなされたという事実ではなく批判の内容そのもののあまりのレベルの低さに憤りを感じるばかりです。総裁の発言内容にみあっただけの批判はできないものかと。


● 241 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/10/10(土) 17:46:09 ID:yPuEDcac
原子力の肯定と生長の家の教えは同型という気がしますね。生長の家の教えとは神を飼いならしてみずからの利益につなげようとするものではないでしょうか。外部ということを考えるとき、神とは想像を絶する存在であり、人間の手に負えるものではないという気がしてなりません。原子力も同じです。生長の家の発想に立てば、原子力は神と同様に飼いならせるものであり人間の手に負えるものでもあるということになるのでしょうが、はたしてどうなのでしょう。光明思想にあまりに慣れ親しんでしまうと、怖れるべきものがわからなくなる。そんな気がしてなりません。


● 3004 :素直なしゃっかん(=マサノブ):2015/10/11(日) 09:52:19 ID:4zCjbtaA
これでもつくづくわかるんだけど、掲示板に何年も我を張って真理真理、ひとには実践しましょうといっても、都合のわるいことは心の影ってねwあたしゃあんたの心の影でもないし、ひとの意見を影っえ傲慢にもほどがと⁇ 世間でやってみなよ。。まあ仕事場でも相手にされないからここで真理ぶつふりするんだろうけど管理人に謝らせながら掲示板張り付いて、じぶんは人に頼んで削除し、混乱掲示板張り付いてこんな依存しかできないよ、自責で伝道もできないしたまに都合のいいこと言われれば、そうですね!素晴らしいですね!とまいどの都合よくそれだけは自分のてがらにしていくよ


● 5934 :純粋教理批判(=マサノブ) :2015/10/09(金) 22:59:44 ID:yPuEDcac
実在でないものが消えるということは、実在でないものがいったんは現れるということですね。これはどういうことなのでしょう。


●5937 :純粋教理批判 (=マサノブ):2015/10/10(土) 08:49:25 ID:yPuEDcac
仏教は宗教か。わたしはちがうとおもいます。仏教は宗教ではない。では何かというと、仏教とは学である、学問である。物質体を研究する学問である。物質体には精神でさえも織り込まれている。ユングのいう集合的無意識とは物質体をいう。仏教は森羅万象を生みだす物質体を研究する学である。物質体には宇宙の全叡知がきざみ込まれている。物質体を研究すれば宇宙がわかる、精神がわかる、真理がわかる。


● 2994 :神の子さん(=マサノブ):2015/10/11(日) 00:36:55 ID:gcx.i5jU >>2991
トンチンカンはマサノブの悪口を言う為に生まれて来たんだからおめでとうとか言ってる暇があるなら、もっとどんどんマサノブの悪口を言いな自分の使命を忘れるなよ、サボってんじゃねーよ、トンチンカンの父ちゃんと母ちゃんがマサノブの悪口を言いまくれるように一生懸命育てて下さったんだろう、ご両親にたくさんマサノブの悪口を書いたり言いまくれるようになりましたと胸を張って報告できるように頑張れ


● 2995 :神の子さん(=マサノブ):2015/10/11(日) 00:39:06 ID:gcx.i5jU
柄ににも無くトンチンカンを励ましてしまったぜw 寝るわ



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<講評>


@ マサノブ君の真理理解のレベルの低さを自らが証明した書き込み文―――
『批判の内容そのもののあまりのレベルの低さに憤りを感じるばかりです。総裁の発言内容にみあっただけの批判はできないものかと。』――― マサノブ君は何回言っても、「マサノブ教」自体が開祖・谷口雅春先生の『御教え』から見れば“虚説”である事が解らない。それは、真理を肉体頭脳知で把握しようとしていることが解らないからであります。レベルが低いのはマサノブ君自体であります。はき違えてはいけない。


A マサノブ君が、「トキ掲示板」投稿規則(生長の家の教えと谷口雅春先生批判をしないこと)に違反している投稿文―――

1、『生長の家の教えとは神を飼いならしてみずからの利益につなげようとするもの』

2、『光明思想にあまりに慣れ親しんでしまうと、怖れるべきものがわからなくなる。』

3、『実在でないものが消えるということは、実在でないものがいったんは現れるということですね。これはどういうこと』

4、『仏教は宗教か。仏教は宗教ではない。仏教とは学である、学問である。物質体を研究する学問である。物質体を研究すれば宇宙がわかる、精神がわかる、真理がわかる。』


B 又も出て来たヤクザまがいの捨てセリフ。マサノブ君は答えに窮した時にこの様な捨てゼリフを発してしまうクセがある。―――
『トンチンカンはマサノブの悪口を言う為に生まれて来たんだからおめでとうとか言ってる暇があるなら、もっとどんどんマサノブの悪口を言いな、自分の使命を忘れるなよ、サボってんじゃねーよ、 寝るわ 』


C マサノブ君は、投稿者に対して「答えよ、答えよ!」と執拗に追いつめる。今回もそうだった。しからば自身はどうなのか? 彼は、一向に下記の投稿文に対して自己の見解を述べてはいないのであります。



< マサノブ君が、是非とも認識すべきこと!>

1、信徒達から次第々々に見放されつつある事、――― 「講習会」の衰退、「聖使命会員」の急減!

2、インターネットの電波に乗って、全世界にマサノブ君の『言行不一致』振り(悪業)、特に「親不孝・兄弟との不調和」の事実が知れ渡ってしまったこと。

3、前代未聞の、デッチアゲ自作自演の『法燈継承劇』の演出!

4、自分が継承した教団自体を、自分の手で解体し、受け継いだ『御教え』を抹殺しようとしていること!

5、現在の教団(実質的には「マサノブ教団」)に残っている信徒の大半は、パソコンを持たず、したがって実態を知らない。しかし、クチコミで実態を知りつつあり。だから、信徒脱退減少は益々続いて行く。

6、かくして、世界の宗教界から、マサノブ君は『落第宗教家』の烙印が押されつつあり!
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=kimidouge&mode=res&log=415


D 「トキ管理人」氏への注文――

開祖・谷口雅春先生の『御教え』に関して議論する事はマチガイであります。開祖・谷口雅春先生の達せられたお悟り(大悟徹底)を議論の対象にすること自体が間違って居るのであります。開祖・谷口雅春先生は『生長の家の真理は完成されたものであって議論しあったり研究すること自体がマチガイで、真理の周りを堂々巡りして、何時まで経っても真理そのものを自分のものに出来ない。生長の家の真理は議論したり研究すべきものではなく実践すべきものである』と説かれているものであります。

故に議論好きな人や批判好きな人は、「生長の家」掲示板に入って来るべきではなく、「生長の家掲示板」以外でそれを行うことを徹底して頂きたいと思うのであります。悟っていない者が、前人未踏の高く深き悟り(大悟徹底)に達せられた人と対等に議論し合おうと考えること自体が根底からマチガイのであります。「トキ管理人」氏はこの辺をあいまいにしたがために、教えの後継者が自ら継承した教えを非難攻撃する本音を吐き出す場所となってしまったのであります。だから、以後は、『生長の家』及び開祖・谷口雅春先生を批判する書き込みの禁止は絶対的掲示板規則として運営されなければなりません。


E これ以上の恥をさらさず、マサノブ君よ、直ちに辞表を提出して『生長の家』教団から立ち去るべし!


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