| [229] マサ&ジュン、(自称)総裁の不適格性の再検証 ―――「生長の家30年暗黒史」刊行時に掲載予定?? <その一> |
- マサ&ジュン「ひととなり」検証委員会 - 2015年08月13日 (木) 10時48分
<特別エッセイ> 旅 人 の 被 災
(谷口雅宣・記述---平成16年10月23日〜24日新潟県中越地震遭遇記)
<< その日、午後三時過ぎにJR長岡駅前にあるホテルニューオオタニ長岡に到着した私と妻は、宿泊する十二階の部屋で荷物の収納を終えるや否や、再び出発の準備をした。妻の母方の祖母の実家が長岡市内にあり、その墓参りをするためである。ホテル一階の花屋でお供え用の花を買ってタクシーに乗り込み、約2キロ走った。
墓は、長岡駅の南側に伸びる引込み線沿いに建つ万休寺の境内にあった。墓参りを終わって二人がホテルにもどったのは、四時四十分ぐらいだった。夕食までにはまだ時間があるため、私たちは革靴とハイヒールをウオーキング・シューズに履き替えて、長岡駅周辺を散歩する事にした。
講習会の旅先で、私たちはよくこういうことをする。(妻の理由はさておき)私の理由の一つは、その土地や人々の雰囲気に触れるためである。叉、当地の産物や食品を眺め、あわよくば夕食に口にするもののヒントを得るためでもある。仕事で日本各地を訪れる機会をせっかく与えられているのだから、短時間の滞在であっても出来るだけその土地と人を知りたい――私の想像するところ妻もきっとそう考えているから、散歩には積極的だ。
その日は、妻の希望で墓参りが実現し、長岡に永く住む妻の親戚ともじかに接したことでもあるので、私たちは次に駅ビル内の書店に向かった。書店も訪問先を知るよい機会を提供してくれることがある。それはその土地が生んだ文学者や芸術家をはじめ、民俗、郷土史、そして観光案内に関する書籍をまとめて置いてある場合があり、そんな中から興味の湧く本をパラパラと見開くことで、その土地の文化的特徴をすばやく入手する事ができるからだ。またそういう“ご当地情報”が入手できなくても、書店ではおもはぬ“収穫”に恵まれることもある。
文学者や芸術家の中には旅を愛する人が多いが、その一つの理由は、知らない土地の珍しい文物に接する時の「旅人」としての目が新しい発見を促し、それが芸術表現に、役立つことがあるからだろう。この“旅人の目”は、いつもの生活の中ではみえないもの、あるいは一度見たけれども忘れ去っているものを見せてくれることがある。それと同じように、旅先の書店で本棚を眺めている時に出会う本は、東京の書店で探す本とはどこか異質な場合があり、私はそういう出会いもまた楽しいと思う。
私たちは駅ビルの案内人に訊いて、そのビルの中二階にある文信堂書店へ行き、しばらく別々に本探しに熱中した。そして私が買ったのは、免疫学者の安保徹氏(偶然にも当地の新潟大学医学部教授)の『免疫革命』(講談社インターナチョナル)と草野双人著『雑草にも名前がある』(文春文庫)だった。その時の領収書に印刷されたタイムスタンプを見ると、時刻は五時四十三分であった。私は書店の雑誌コーナーで『婦人の友』を呼んでいた妻に声をかけ、連れ立って駅ホームの方向へ歩いていった。絵葉書を買うためである。
妻は、講習会の旅先から子供たちに葉書を書くことを習慣にしていた。私は、そういう便りに適当な当地の絵葉書が売られているのを、駅の改札口近くの土産物売り場で見たような記憶があったから、妻を誘ったのだ。その売り場はすぐ見つかった。売り場の台の前方には、八枚組みの絵葉書が二種類、内容がよく分かるように掲げられていた。一つは、当地の画家、藤井克之氏による史跡絵葉書で『墨彩画で親しむ米百俵』という題がついており、もう一つは長岡市の夏の大花火大会を扱ったカラー写真の絵葉書セットだった。
これらの葉書を見ていた時に、いきなり小刻みの上下動が起こり、それが、腹の底から咽下に一挙に突き上げるように押し寄せた。それは地震というよりは、猛スピードで近づく新幹線の列車が、予定されていた線路から外れて目の前のホームを襲う――そんな異常な出来事のように私には感じられた。私も妻もその激しい振動に耐えられずにしゃがみ込み、這いつくばりながら、背後にあった大きなガラス窓の前を避けて、頑丈そうな鉄筋コンクリートの柱の下にうずくまった。
これが後に新潟県中越地震と名ずけられた大地震だった。震源地は、長岡市のすぐ南の小千谷市付近。マグニチュ−ド6・8で、短時間に震度6強の揺れが三回あった。
激震の渦中で駅の照明が一度消え、揺れ終わってまもなく元の明るさにもどった。が、天井や壁から建材の破片が剥がれ落ち、あちこちから埃のようなものが噴き出しており、周辺の物が倒れたり崩れ落ちていた。が、私は「それほどの被害ではない」と思った。安心したわけではない。大きな揺れの後には必ず余震が来ると知っていたから、私は妻にそれを告げて身構えていた。
余震はすぐに来た。しかし揺れの渦中にある人にとっては、それが「余震」であるのか、それとも一回目の揺れが単なる「前ぶれ」であり、その後にもっと大きな「本震」がくるのかは分からない。だから、いわゆる「余震」の中でも、第一震と同じ恐怖で身を固めながら、揺れが去るのを待つほかはないのだ。二回目の揺れは最初のものと同程度だった。が、妻の肩を抱きながら「大地震だ!」と思って身構えていた私は、その激震の襲来が中途で切れたような印象を持った。前に使った「新幹線」の喩えで言えば、狂乱した新幹線はホームへ乗り上げて近づいては来たが、我々を轢断する前に、途中でどこかへ消えてしまった――そんな印象である。
私たちの目の前には土産物屋の三十代の女主人が床に這いつくばりながら、携帯電話の操作に必死だった。彼女だけではない、周りを見回すと、ほとんど全ての人が、立ちながら、あるいは膝をつきながら、同じように形態電話の液晶ディスプレーをにらんで指先を懸命にうごかしている。形態電話を持ち歩かない私は、そんなことよりも身の安全を確保するためにもっと別のことをすべきではないか――と思っていた。
妻はこの揺れのあとで、立ち上がった女主人に声をかけて墨彩画の絵葉書を買った。その時私たちのいた場所は、地上から見ると二階の高さにあったから、まず地面の上に降りたいと思い、二人は駅ビルから東側に延びる渡り廊下を通って、駅東口へ降りる階段に向かった。
途中で、六十代前半と思われる派手な顔つきの婦人と一緒になり、婦人は「家が心配だから早く帰らなくっちゃ!」などと言って、私たちにいたずらっぽく笑いかけた。災害時の状況を報道する新聞や雑誌の記事に、ときどき「恐怖の叫び声」とか「恐怖で引きつった顔」などと書かれていることがあるが、私の周りにはそういう恐怖は全く感じられなかった。
駅の渡り廊下の途中では大型の看板が落ちていたから、相当な恐怖を感じた人もいただろう。また、駅東口へ降りたところにあるダイエー長岡店前では、店内から避難して来たと思はれる大勢の客がかたまっていたが、みな形態電話を操作したり、仲間と声高に話したりしながら、この日常生活の断絶の時をなぜか楽しんでいるようにも見えた。
その大きな理由は、彼らの多くが「笑顔」を見せていたからだ。笑いはもちろん、恐怖を隠すためにも使われる。しかし、その時の笑顔には「恐怖」の要素があまり含まれていないことを私は感じていた。というのは、私自身がさほど恐怖していなかった。また、この後に大小の余震が何度も続くのだが、そういう揺れが来た時に女性らが発する声は、“恐怖の叫び”というよりは、遊園地のジェットコースターに乗って急坂を下る時の叫び声―― 半ば自分を勇気づけ、半ばスリルを楽しむ声――と近いもののようだった。
私たち二人は、長岡駅東口前のバス・ターミナルの広場にしばらくいた。ホテルはすぐ目の前に立っていたが、余震が続く中でそういう建物に入ることと、頭上の心配が少なく周囲も見渡せる広場にいて、万が一の建物の倒壊を見込んで待つべきかの判断ができかねていたからだ。周囲にいる大勢の人々の心にも、同様の迷いがあったと思う。
その中には、明らかに結婚式場か披露宴の開場から出て来たと分かる正装の一団がいた。そこで思い出したのは、私たち二人が長岡駅へ散歩に出る前にホテル一階のパティオでは外国人牧師による洋風結婚式が挙行されていたことだ。そんな彼らが、式か披露宴を中止して外へ出てきていると言う事は、ホテル内が必ずしも安全でないと言う判断があるからに違いない。
しかし、ホテル内には私と妻の所持品のほとんどすべてがあった。現金やカード類は財布やハンドバックに収めて手元に持って出ていたが、問題は、仕事に必須の様々な情報を収めてあるパソコンだった。パソコンは二台あり、一台は翌日の講習会の講話で使う画像や写真や資料が保管されている。この時点では、私は翌日の講習会は当然行うと考えていたから、いずれホテルの自室に戻るつもりだった。
しばらくして、私たち二人はホテルへ向かった。が、玄関の照明が消えていた。玄関ばかりでなく、墓参りの前に立ち寄った花屋の照明も消えていて、生け花や造花が床一面に散乱していた。その隣の結婚式場も暗く、白いギリシャ風の背の高い植木鉢が倒れて破損していた。さらにその奥に、ホテルのロビー入り口とレストランがあるのだが、ロビーは人で溢れ、レストランは「CLOSE」の札を出して、中にいる客を店員が外へ出している最中だった。人込みの理由はすぐ分かった。
黒服姿のホテルマンが大声で、「地震で危険なのでエレベーターは止め、お客様はロビーに降りて待機して頂くことになりました。」とアナウンスした。レストランは閉鎖し、披露宴も中断して安全を確保するのだという。それを聞いて私は”最悪の事態“も考えねばならないと思った。
その”最悪の事態“が具体的にどんな事態なのかハッキリ分からなかったが、とにかく通常の講習会の旅のようにレストランで食事をし、ホテルの一室で妻と静かに時を過ごす”当たり前”の夜は、その日は来ないかも知れないと思った。そこで、隣にいる妻に向かって「駅前のコンビニ店で夕食用の弁当を調達する」ことを提案した。
こんな時に不謹慎に思われるかもしれないが、私は地震の揺れの合間にも空腹を感じていた。それは、私の中の純粋に生物学的な要請が、地震を経験しているという心理的なストレスに妨害されなかった証拠だ。言い換えれば、私がこの地震で感じた心理的ストレスはさほど大きくなかったのだ。
私の提案を聞いた妻は、しかし少し抵抗した。彼女にとって「コンビニ弁当」という選択肢は、旅先の食事としては選びたくない種類のものであったに違いない。が、この揺れではホテルのレストランだけでなく、町のレストランも、スーパーも、まもなく営業を中止するだろうと話すと、妻は納得したようだ。
長岡駅東口の一階には、マクドナルドとデイリーヤマザキが並んでいる。私たちがそこへ向かう途中で、そのハンバーガー店の赤い看板の電気が消えた。ここももう店じまいかと思い、異常事態の思いを深めた。隣のコンビニ店では若い従業員が二人忙しげに働いている。売り場の棚から商品がかなり落ちていたから、一人はその後片付けに没頭していた。
二台あるレジの一方の下に、道路の曲がり角にたっているような円形の大きな鏡が、破損して散らばっていた。私たちは弁当二個と、ポテトサラダ、お新香を買ってレジへ行った。すると店員が、 「暖めますか?」 と聞いたので、私は戸惑って、 「いや、いいです」 と答えた。こんな時に暖かい弁当を注文することに一抹のやましさを感じたからだ。が、 横にいた妻が、 「暖かい方がいいわよ」 と言ったので、私はそれに従った。
――女性というのは不思議なものだ。私はその時、代金を払いながら思った。私は「やましさ」を感じただけでなく、いつ余震が来るかもしれないこんな状況下では、早く店を出たいし、また買った弁当もいつ食べられるかわからないから、ここで暖めても冷えてしまう確率が高いと考えた。しかし妻は、「夕食はコンビニ弁当」という案に一度は反対したものの、いざ食べると決まると、より良い条件を求めている。そのこだわりが不思議だった。
食料を買い込んだ私たちは、再びホテルのロビーへもどった。そこに集まった人々の数はさらに増えていて、煙草の臭いが鼻をついた。私たちは入り口付近に空いている椅子を見つけ、そこに腰を落ち着けることにした。余震の揺れが時々やってきたが、その位置は、太い柱と頑丈そうな壁に二方を囲まれていたし、近くにガラスの戸や窓も無く、駅側のロビーの半分が見渡せるところだったので、安心出来ると思ったのだ。
やがて、ホテルマンが二人現れて、私たちの目の前で40インチほどのテレビの設置を始め、立ったり床に座ったりしていた客たちは、その前に半円形を描くように位置を変えた。私たちの椅子からはテレビは見にくかったが、音声ははっきり聞こえるので有り難い。こんな時に最も必要なのは正確な情報だと感じていた私は、NHK放送を聞きながら、そのアナウンサーが深刻な音声で伝える災害の渦中にいるにしては、結構落ち着いている自分を発見した。
落ち着きをとりもどせば、空腹を満たしたいと考えるのは自然だ。私はそう考えてコンビニ弁当の袋を開けようとすると、妻はなぜか抵抗するのである。
「一緒に食べようよ」と言うと、「こんな所で・・・?」と、しきりにためらう。いつも夕食をする時間をとっくに過ぎているし、腹も空いているのだから、買った弁当を暖かいうちに食べる事を躊躇する理由が、私には分らなかった。しかし、彼女にとっては、だれも弁当など食べていない中で、私たちだけが食べる事が何かいけないことだと感じられたようだ。
私は逆に考えていた。周りの人々が弁当を買って食べないのは、もうすでに夕食を終えているか、地震のショックで空腹を忘れているのか、あるいは私には分からない様々な理由で「自らの意志で食べない」のだ、と。だいたいホテルの宿泊客が皆一斉に食事をしなければならない理由などないのだから、他人に迷惑をかけない方法で食事をすることには、何もやましいことはない。このことは、今回のようにたとい「同じ震災の被災者である」という特殊条件を考え合わせてみても、全く変わらないと確信していた。
「あなた一人で食べて・・・」という妻のことばに、だから私は喜んで弁当をひろげ、頬張りはじめた。二種類の弁当を半分食べ、サラダもお新香も半分だけ食べて、あとは妻のために残した。私たちはよくこういう食べ方をする。行儀がいいとは言えないだろうが、二種類の味を楽しめるから、レストランでもすることもある。子供が一緒の時は、皆で突っつき合って何種類もの味を楽しむことも珍しくなかった。が、この日は、妻は恥ずかしがって一緒に食べようとしない。
私が自分の分を食べ終わりそうになっているとき、妻は安心したのか、幸いまだ暖かさが残る弁当を食べだした。「おいしい」と言って目を細めたところを見ると、相当腹が空いていたのだろう。やがて黒服のホテルマンがマイクを握り、「ホテルが炊き出しをする」とアナウンスした。
この「炊き出し」という言葉が、私には意外だった。ホテルにはその日の夕食分ぐらいの食料は充分あるはずだから、客に無料で配るのではなく、ちゃんと代金を取って食事を出せばいいと思った。が、出てきたものを見て、何となく納得した。それは、醤油で味付けをして海苔を巻いただけのオニギリだった。食料は充分あっても、いつものように電気やガスを使えず、あるいは非常事態だと判断して料理人の多くを家に帰したのかもしれなかった。
さて、ここまでは私たち夫婦の事だけを書いてきたが、二人の回りには私の秘書を含めて何人も“支援部隊”がいた。彼らはそれぞれに腹ごしらえをしながら、翌日の講習会が開催可能かどうかを判断するために、携帯電話や固定電話を使って一所懸命に情報収集をしてくれていた。講習会は午前十時に始まるが、音響や照明、映像装置の設置と調整は、通常ならば前日の夜に行わねばならない。
地震が起きたときは、おそらくその作業の途中だったろう。ということは、翌早朝から設置・調整が出来なければ開会に間に合わない。また、実行委員や遠方からの講習会参加者も朝早くに家をでる。こういう人たちのことを考えると、翌日の講習会の有無は、その晩のうちに決定して関係者に通知しなければならなかった。
私は、その決断の時間を午後十時半に設定した。というのは、丁度、その時刻ごろ開場に使われる長岡市立劇場の館長が、劇場内部の被害状況を実際に見て、会場として貸せるかどうかの判断をする予定だったからだ。先方が会場を「貸せない」と決めれば当然、講習会はできないが、「貸せる」と判断した場合でも、様々な状況を考慮してなお講習会をひらくべきかを、私が判断するほかはなかった。
人々の食事が終わってから十時半までは時間が空いていたので、私たちは十二階の部屋へ置いてきた荷物を取ってくることにした。もうこの時には、ホテル側は宿泊客を一階ロビーや二階の宴会場で休ませる方針を発表していたから、寝る準備のためにも自分の荷物が手元に必要だった。階段を十二階分上がることの心の準備はできていたが、やはり気になるのはその間、余震の大きいのがやって来た時の対応だった。
しかし、こればかりは事前の予測が不可能なので、意を決してひたすら階段昇りをするほかはないのだった。私たちはそれをした。が、ただ黙々と昇るのではなく、冗談を言い合っていた。半分昇った六階を過ぎると、言葉少なになった。一組のカップルが降りてくるのと擦れ違った。彼らも互いに話をしていた。その時私の頭の中にあったのは、9・11の際、ワールド・トレードセンターの上階から非常階段でおりる人々のことだった。彼らの場合、煙の立ち込める非常階段を、私たちの十倍近くの高さか降りたのだろう。狭く細長い空間の中で、大勢の人々の心の中で、次の瞬間に何が起こるか分からない不安が十倍長く続く・・・それと比べると、私たちはまだ幸運だと思った。
ホテルニューオオタニ長岡の1219号室は、予想していたほど混乱していなかった。私が危惧していたのは、室内に設置されていたポットや冷蔵庫中のジュースなどの液体が流れ出し、パソコンが使用不能の状態になっていることだった。
が、幸いにも、パソコンは二台とも置かれたテーブルやデスク上に無傷で残っていた。デスクからは三段ある引き出しが10〜20センチ飛び出していた。テレビも位置はずれていたが、台から落ちずにあった。ただ、そのテレビの横に並ぶ冷蔵庫の上にあった電気ポットとグラスや白い茶器セットなどが床の上に落ちて、周囲に破片が飛び散っていた。あとは、アルミ製の折り畳み式台の上に載っていた旅行鞄が、台ごと床の上に転倒しているくらいで、私たちの所持品には実質的な被害は無い。二人はそれらを大急ぎでまとめて鞄に詰め直すと、手や肩から荷物を提げ、さらに毛布を抱えて非常段階へ向かった。
ホテルのロビーへ戻ってから、私たちは同じ映像を繰り返しているテレビを見るともなく見ながら、情報収集を継続した。結局、予定の十時半ごろになって、市立劇場の館長が館内をみた結果、一般に貸すには危険だと判断したため、「会場は貸せない」と言う答えが返ってきた。
こうして、生長の家の講習会史上初めて、予定されていた講習会が開かれないという事態になった。天災による不可抗力であるにせよ、それまで講習会推進に努力してきた大勢の人々のことを思うと、何とも無念の思いが残る。そして、こういう稀有の出来事が何を教えているかを正しく知る努力が必要だと思った。
講習会の中止決定後は、私たちの最大の関心はその夜、余震の続く中、朝までどう過ごすかと言う事に移った。ホテル側は、喫煙者と非喫煙者とに分けて、眠る場所を一階と二階に用意してくれた。「眠る場所」とはいっても、それはベッドや布団ではなく、床の絨毯の上にシーツを敷いただけの、だだっ広いスペースだった。私たちが選んだのは、階段で二階に上がった先の、百畳くらいの広さの宴会場とおぼしき部屋の片隅だった。
そこへ荷物を並べ、持って来た毛布を敷いて寝場所を作った。私は上着を脱ぎワイシャツ姿になったが、万一の事を考えて下はズボンを脱がずに、靴下だけ脱いだ。そうして仰向けになって両腕両足をいっぱいに伸ばし、薄暗い広々とした天井を眺めていると、ふと子供の頃、生長の家の錬成会に参加した時のことを思い出した。錬成会では、参加者がこんな風に道場の大部屋で一緒に寝起きすることがある。それは、むしろ楽しい記憶だった。 「これは錬成会みたいだね!」 と、私は隣にいる妻に言った 彼女も笑いながら賛成してくれた。 日常生活から離れた不便な場所で、見知らぬ人と寝食をともにする――そういう点では、キャンプもこれと似た要素があるが、錬成会では参加者がそれぞれ何かの課題をもっていて、その解決を望んで参加する場合が多い。私たちはまさにその時「震災から抜け出す」という共通の課題を抱かえていたのだった。
私たちがこうして眠る態勢になったのは、午後十一時半をすぎていただろうか。周囲はまだガランとしていて、人々はその部屋を通り道のようにして歩いたり、階段近くで普通の声で話をしたりしていたから、なかなか寝付けなかった。そのうちに三々五々人が部屋に集まり、それぞれ思いの場所と方法で寝支度をすませた。私は眠れないままに、目を閉じてそういう人々のたてる音や話し声を聞くともなく聞いていた。
その途中でも比較的大きな余震が二回ほどあったが、もう誰も慌てなかった。が、静かに眠れると思ったのもつかの間、今度は部屋のあちこちからイビキが響いてきた。妻が寝ているすぐ向こう側に、中年の女性ばかり二三人がかたまって寝ていたが、そこからもゴーゴーという音が聞こえてきた。私は諦めの心境で静かに体を横たえながら、そのうちに寝込んでいた。
朝は、ホテルの人のアナウンスで目を覚ました。 「簡単ではありますが朝食を用意しましたので、一階のロビーへいらして下さい」 というのである。
前夜のオニギリを知っていたので、用意をすませた私たちは、あまり期待せずに階下へ降りて行ったが、結構まともな朝食だった。ハム、ソーセージ、ブロッコリ、パンが四~五種、牛乳、ジュース、コーヒー、オニギリ二種、ゆで卵、具だくさんの味噌汁、漬物(沢庵、野沢菜)そして梅干――という和洋二種である。更に盛り付けてくれたホテルマンは、夜はほとんど寝ていないと言う。私たちは、前夜にいたロビーに席を移し、テレビニュースを見ながら暖かい朝食をありがたく頂戴した。
腹ごしらえが終われば、いよいよ被災地脱出である。
ニュースやインターネットの情報から、震源地である長岡の南方へ出るのは避け、北方の新潟市を目指して車で走り、新潟空港から大阪へ出るか、あるいは富山まで海岸線を車で走って、空路東京へ帰るという二つの選択肢が浮かび上がった。ところがやがて、富山へ出るために通る柏崎市までの道路の一部が通行止めであることが判明した。また海岸線を走る道路は崖崩れの危険性が大きいなどの意見もでて、結局、新潟空港を目指して車でホテルを出ることに決まった。新潟から大阪・伊丹空港までの航空機も予約した。丁度、三席空いていたのである。
この時、第三の選択肢として、新潟からレンタカーを借りて磐越自動車道を福島県に向けて走り、郡山市から新幹線で東京へ帰る案も出たが、道路の破損や混雑の状況が分からず、またレンタカー会社の対応も疑わしかったので採用保留となった。
新潟までの陸路は、やはり土地勘のある人がいいと言ういうことで、地元の幹部の方にお願いした。国道八号線を北へ行き、中之島町の手前で通行止めになっていたので旧道へ迂回し、中之島町をノロノロとさらに北上し、三条燕のインターチェンジから北陸自動車道に入った。
中之島町は、信濃川が新潟市で日本海へ注ぐ手前にある大きな“中州”のような場所だから、川の水位とあまり違わない低地にある。運転してくれた人の話では、今夏の台風で信濃川の堤防が決壊し、町は150センチほど水の下に埋まったそうだ。その洪水の後の復興が終わるか終わらないうちに、今回の地震に見舞われた。だから、道路両脇に並ぶ住宅や事務所の建物には丁度人の頭の高さほどの位置に、泥水に浸かっていた後が残っているものが何軒も見られた。しかし、地震で倒壊した家は見られず、屋根の一部が破損した家が数軒、ブロック塀の倒壊が一箇所見られただけだった。
一部でノロノロ運転はあったものの、新潟への道程は予想外に順調で、私たちは十一時頃には新潟空港一階のロビーに立っていた。そこで新潟北越教区の牧野尚一教化部長を初めとした最高幹部数名の出迎えを受けたのには驚いた。丁度、錬成会の途中で心配になったので、私たち二人の顔を見たいとわざわざ駆けつけて下さったそうだ。
押さえてあった伊丹行きの航空機は午後三時半頃の出発だったから、そこで数時間が空いた格好になったが、大阪から東京までの旅程を考えると、この便に乗ることが最善かどうか疑問があった。同行していた私の秘書は、福島経由の第三案を提案したが、そのためにはレンタカーが押さえられるかどうかがポイントだった。空港ロビーにあるレンタカー会社の受付は、どこも人影が無い。
その一つのカウンターへ行くと「連絡はこちらへ」と添え書きして、会社の電話番号が大書されていた。そこへ電話すると「県外での乗り捨ては出来ない」と言う。他の数社へ電話してもほとんど同じ答えである。地震による交通の混乱の中で、レンタカーの乗り捨てをやめた会社が多いのだった。最後の頼みとしてオリックス・レンタカーに電話すると、「郡山の支店で乗り捨て可能」との答えが返ってきた。 「四十分後ぐらいに空港へ車をもって行きます」 この朗報のお陰で私たちは丁度いい時間に空港で昼食を済ませ、車を迎えることができたのである。
東京までの最後の旅程を簡単に書くと、磐越自動車道を抜けて郡山市に入ったのは午後三時半ごろ。四時前にJR郡山駅に着き、間もなく入ってきた東京行きの「MAX山彦118号」の先頭車両に飛び乗った。自由席だったが、幸いにも座ることができた。
その席で、私はこの文章を書き始めた。隣の席で、妻は、両親への便りを書き始めた。長岡駅で最初の一撃を受けたあの時に買った八枚組みの絵葉書に、何枚も番号を振って書いていた。東京着は午後五時二十四分である。谷口雅宣 >> (完)
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注・最も「総裁不適性」な書き方の部分はーーー
<< 腹ごしらえが終われば、いよいよ被災地脱出でる。・・・新潟までの陸路は、やはり土地勘のある人がいいと言ういうことで、地元の幹部の方にお願いした。・・・四時前にJR郡山駅に着き、間もなく入ってきた東京行きの「MAX山彦118号」の先頭車両に飛び乗った。自由席だったが、幸いにも座ることができた。その席で、私はこの文章を書き始めた。隣の席で、妻は、両親への便りを書き始めた。>>
* 中でも、< 「腹ごしらえが終われば、いよいよ被災地脱出でる」>。よくもこの様な自己本位のことが書けたものだ。総裁としての自覚と責任の、余りの無さを感じる。
* 信徒の被災状況を思いやる心もなく、また教化部の被災状況をも見に行かず、被災した幹部に脱出の道案内をさせ、列車に乗り込むや、この大地震をネタにしてエッセイを書く。ーーー全く常識を欠いた「不適格総裁」である。
* 常識人以下の、マサノブ君の非宗教家の人となりを余すとこなく表現された「暗黒史」を代表するエッセイであります。
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