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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[239]  インターネット道場 ―――感激的体験記 ・ 小林春恵先生 「導かれて八十余年」 <その四> 「わが信仰の旅路」より
信徒連合 - 2015年08月14日 (金) 08時37分




 インターネット道場 ―――


感激的体験記


 小林春恵先生 


「導かれて八十余年」


 <その四> 


「わが信仰の旅路」より




 待てば海路の日和―横領事件

 主人が亡くなりましてから、四年ほど経ってからだと思うのですが、他(ひと)の噂話から、小林の印刷工場も機械類も知らぬ間に名義変更されていたことがわかりました。実は、小林の母が昭和十七年に夫に先立たれたとき、一まず小林印刷は休業したことにして、子供が大きくなったら、“そのまま、お渡しするから、万事任せて下さい”という約束で、暮らし向きは工場からもらってきていたわけなのであります。

 公証人や弁護士さんにも相談したようですが、公の書類には実印も押してあるので“もうダメです。今まで通り黙って要り用な金をもらってきて、子供さんが大きくなるのを待つ方が好い”と言われたのでした。

 そもそもは、“小林印刷を休業するために要るから”と言われて、母が実印を貸したのが発端だった、とわかると私はますます腹が立ってきました。
「お母さん、訴えたってダメだと言うのなら、私は思いきって家の屋上へ拡声器を上げて、実印の扱い一つで、どんな運命をつくるかわからないことをジャンジャン言いますよ。そうすれば相手の立場もなくなるでしょう……」 
 いきり立つ私に、母は言いました。

「春恵さん、腹が立っても、今は喧嘩する時機(とき)ではない。まだ愛と保護を必要とする子供が、あんたにも私にもいるのだから、あと十年待ちなさい。親の喧嘩は、子供の教育に良くない。十年経てば、子供達も学校を卒業することだし、それまで待ちなさい」

 私は“神様に感謝しても、父母に感謝しない者はダメだと教えていただいているのだから、母に逆らうまい”と思って、一時は納まるのですけれど、またしても不愉快になってくるのです。
 そして、あの工場のために半日たりとも働いたことはないのに、ふっきれない自分が浅ましくもなるのでした。

 母は、こうも言われたのでした。
「春恵さん、あんたに楽々として工場を運営していくだけの力があれば、私はどのようにでもしてあげるが、今はこのままにしておいても、何十人という職工さんとその家族が、安心して生活していられる。その徳は、決してむなしくはない。相手が豊かに成功するように祈りなさい。それが一番大事やからのう。そして工員さんが皆、幸せに暮らしていることを感謝しなさいよ」

 立派な母に比べて、徳の足りない自分が哀れでなりませんでした。それで徳積みのために、生長の家の道場を建てようと思い立ちました。そうすれば、大恩ある母に対して、腹を立てるような浅ましい心も起こらなくなるだろうと思ったのでございます。




 浄めの火でした ― 奇蹟

 横領事件を知ってから六年、私のささやかな道場が建ってから四ヶ月目のことです。私はちょうど、東京に出ていたのですが、夜半(よなか)に電話がかかってきました。家事の知らせでした。
 足が、ガクガクしました。建物が惜しいのではない。教えが伸びるのを塞き止めるようなことにでもなったら、布教者として申し訳ない、と身も心も凍える思いでございました。

「神様、信徒に会った時の私の態度と言葉を正しく、お導き下さいませ」
 汽車の中でも、駅からの道筋でも、祈りつづけました。
「小林先生、帰って来(こ)らったかのう。道場は、火も水も入らずに、真中に、そっくりそのまま残っているのう」

 まず、声をかけられたのは、水野善夫講師(せんせい)でした。母も飛んで来ました。
「おお、おお、春恵さん。大出来だった。真理の証しが立ったでのう」

 その時、母は右の手に八百円のお金を握っていました。お話は聴くけれど菩提寺に悪いからと、聖使命会には入らなかった母の叔母さんが“論より証拠”を見せられたと言って、持ってきたばかりの聖使命会費だったのです。

 結局、工場も機会も家も焼けて、道場だけが残りました。主人が亡くなったときの遺産分配で、私の名義なった土地だけが残ったわけでした。それで私は、主人の弟で当主の敬(けい)典(すけ)さんに、その土地を全部、贈与いたしました。

 そしたら、例の横領事件が、一挙に解決したのでした。
「お母さん、よかったのう。宗教家の嫁もろうて好(え)かったのう。春恵さんが敬典さんに土地を全部贈るということであれば、私は他の土地を探して、工場を建てますから。私は、二代目の金(きん)資(すけ)さんのお蔭で、今日になったんだからその忘れ形見の敬典さんに譲られているということであれば、こんな嬉しい御恩返しの時はないからのう」ということになったのでした。

 もし、私が母の言うことを聞かずに喧嘩していたら、六年後の火事では、私が争うたがために、隣り近所の人も丸裸にしていたに違いありません。そんな私が、みなさんの前で愛を語り、法を説くことがどうしてできましょう。

 私が今日まで、御本部のお恵みで働かしていただくことができましたのはひとえに、母が私に「喧嘩は十年間、待ちなさい」と言って下さった、そのお蔭であったと、今もいつでも思うことでございます。

 み教えで結ばれた夫と妻、姑と嫁の座は、歳は逆さまでもゆるぎなく、幸せな私でございました。




 お宅が燃えていますよ

 この焼けなかった道場のことについて、もう少し、詳しくお話ししましょう。
 昭和三十四年四月二十三日は、新潟県三条市(自宅)につくらせて頂いた二間半に八間の玩具のようにかわいい道場開きの日でした。本部の講師(せんせい)方にも来て頂き、信者の皆さんと一緒に非常に楽しい思いで道場祝いをさせて頂きました。

 そして、四ヶ月後の八月二十五日に上京した時、本部の婦人部へ参りまして、「白鳩」誌五十部の一括購入を申し込みました。ささやかな道場のできたお礼心から、向こう一年間どなたか御縁のある方々に毎月五十部の「白鳩」誌を愛行させて頂こうと思ったのでした。

 それから、谷口先生が本部の隣りの東郷神社の増築のために、復興奉賛会顧問に加わっていられて、東京都内の誌友さんたちも寄付をしておられると承りました。私も、貧者の一灯のつもりで、千円献金させて頂きました。

「今日は、本当に佳(い)い日だったな」と思って、喜びに満たされた気持でふとんに入ったのが、夜の十二時でした。

 ところが、午前三時頃、けたたましい電話のベルと、宿の奥さんの何事か起こったことを暗示する声の響きで起こされました。生母も姑も存命している私は“故郷の親たちに何か起こったのじゃないか”と思って、電話口へ飛んで行きました。東京に在学中だった息子へ友達のお父さんからの知らせでした。

「小林さん、あなたの家は今、火事で燃えていますよ……」
 三条市のわが家と隣接の地坪二百坪木造三階建ての工場から発火して、周辺が火の海だというのです。その工場のつづきに、道場をつくったのですから、工場が焼け落ちたのなら、道場も焼けてしまったにちがいない……。

 もとより、小林春恵ひとりの業として、全てのことが浄化の働きのために必要な過程であったとしても、皆さんに聖使命会に入ることや愛行をおすすめする立場にある私です。

たとえ道場が焼けてしまっても、信者の信仰をぐらつかせることのない態度が、私にできますようにと、一所懸命に神様に念じつづけました。

 そして、何より嬉しかったことは、愛行用の「白鳩」誌五十部の納金を前日に済ましていたことでした。火事の後では、現実に家作(かさく)の三万円近い家賃(工場は他に貸してあった)がとれなくなるので、まとまった愛行も出来にくくなる場合も考えられるからでした。お蔭で、少なくとも一年間は、毎月五十部の「白鳩」誌を愛行できる。実に行き届いた神様の御愛念だったと非常に心安らかな思いでした。

「護られている、護られている……」
 と念じながら、帰途につきました。三条の駅近くになると、いつもは汽車の窓から東本願寺別院と工場の屋根が見えたのに、こんどは東別院の屋根ばかり。見なれた工場の屋根が見えない。“皆さん、どうしているだろう”と案じられるのでした。




 ベニヤ板一枚で

 工場は全焼していましたが、道場も住居も無事でした。白鳩会、相愛会、青年会の皆さん、家族や親戚の者はもちろんのこと、多勢が玄関に飛び出して来て、迎えて下さいました。

 汽車の中から、腹をくくって一所懸命念じつづけてきた私は、まず合掌。
「皆さん、有難うございます」
「小林先生!愛行は火にも焼けないということを教えてもろうたね!」
 水野善夫会長(当時、三条市誌友相愛会長)が、深い瞳に万感こめて、まず言われました。
「神様のお蔭だ。本当に愛行は火にも焼けない……」
皆さんも、口を揃えて言われる。姑(はは)も飛び出してきました。

「ああ春恵さん。ご苦労だった、ご苦労だった。愛行は火にも焼けない。あんたは、大きな布教をしてくれらったのう……」
 姑(はは)の眼には、切ない中にも嬉しげな涙が光っていました。

 工場の窓ガラスは全部融け、二階は桁まで全部焼けているのに、窓枠一つも焦げていない。ベニヤの天井板一枚で、階下の道場内には火も水も入っていない。どうして防がれたものか到底解らない。風が変わって、その間だけ燃えなかったのではない。上も焼け横も焼け、前も後も焼けているというのに、道場だけがそっくり残っているのです。

 そして、工場と道場の間の押入れは、上段と下段は工場側から使い、真中の棚だけを道場側で使っていたが、上下は全焼。真中だけが、そのまま残っている。その中には、谷口雅春先生が前年お越しになった時に、お敷き頂いた白絹の夜具が入っていたのです。その夜具には少しの損傷もなく、そっくりそのままでした。

 そして、これほどの大火事であったのにもかかわらず、その日の子供会も一六四人という盛会で、予定通りに開くことができたのです。




 み業の顕れんがため

こうした証しを通して、聖使命会員が急速にふえました。まず、姑(はは)方の叔母が早速とんで来て入会を希望。それまでは、姑(はは)がいくらすすめても“家は浄土真宗だから”と耳を貸さなかった人だっただけに、姑(はは)の喜びも一入(ひとしお)でした。以来、新潟県下で三条市だけが、聖使命会費の納入率九十何%を下がったことがない。やめる人もいないし(昇天や移転を除いて)会費が集まらないということもないのです。

 北陸第一を誇ってきた、明治九年から五十年がかりで完成したといわれていた金沢市の東本願寺が、二時間余りで焼けてしまったと聞くにつけても、それに比べたら玩具よりも簡単なものでしかなかったわが家の道場。しかも、たどたどしい信仰を神様が御守護下さって、ベニヤ板一枚の天井に防がれて、火も水も入らずに無事だったことの有難さ。
 しみじみと「有難かった」と、思い出深く感謝しているのでございます。





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