| [3101] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第62回 |
- 信徒連合 - 2016年05月05日 (木) 07時51分
<再掲示>インターネット道場――「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第62回
マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。
「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。
また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。
インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。
そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。
******************
インターネット道場―――
もっと霊界の知識を持ち伝えよう。現象界の出来事は霊界でその雛形が刻々と出来上がりつつあり!
輪廻転生について
<<生命は死を超えて前進する>>
死の神秘のつづき
(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.91−94)
<<--------「死」の問題について自分はまたたずねた。ヴェッテリニは説明を単純化するために進化の程度を四段階に分けて、これらの各段階の霊魂が地上の生活から霊界へうつり行く状態を説明してくれた。
第一階級――最低級――この階級の霊魂は自己の宿っている肉体を最後の極度まで使うのである。その霊魂は自己の機関とする肉体に言葉どおりしがみついているのであって、この階級の霊魂を肉体から引き離すためには、時として霊界のスピリットの干渉が必要であるのである。この階級においては、死後少しも意識をもっていない。かかる霊魂は地球の低い雰囲気内をいわば「昏睡」の状態でなまくらに彷徨しながら、次なる生まれかわりの時期を待つのである。
第二階級――においては、肉体を去って帰幽せる霊魂は霊界のスピリットの群れによって迎えられる。これらのスピリットたちは帰幽の霊魂の意識を目覚めしめ、その責任の観念を喚(よ)びおこそうとするのである。彼らは帰幽の霊魂の能力に応じて死の現象のなんたるかを理会せしめようとするのである。かかる帰幽の霊魂が今度生まれかわってこの世に出る場合には、前なる生涯においてしたところの生活――それが善であろうと悪であろうと――の反動的生活を営もうとするのである。そしてこの反動的生活を通じて彼は自己の責任感の幾分を“あらわ”にするであろう。
第三階級――の帰幽の霊魂については、すでにある程度の意識を発達させている。彼は責任を知っている。それは帰幽の前においてさえも、睡眠または昏睡状態中すでに、自己を待っているところの霊界の状態を予見することができるのである。死に面してその人が一定の態度――恐怖ないし平安 ――を示すのはこの予見によるのである。すなわち睡眠または昏睡中の予見にもとづいて、意識が昏睡から覚(さ)めたときに漠然たるそれとなき予感におそわれるのである。かかる霊魂がいよいよ肉体をはなれて、霊界の案内者に導かれて白色のスピリットの居並ぶ前につれ行かれれば、彼は自己の過去の生活をスッカリまざまざと意識せしめられ、その責任を感ずるのである。この程度の進化状態においては、帰幽の霊魂は自己の未来の生活に横たわっている試練の火を理会と諦念(あきらめ)とをもって受けることができる――なぜなら彼みずから試練の火の必要をさとっているからである。
第四階級――最後にこの階級の進化を遂げた霊魂においては、臨終にのぞんで運命の修正を申し出ることもできるのである――これは今日、青色スピリットがレイヌに説いたところであるが、ヴェッテリニはそれを次のごとく説明した。――運命によって定められた死期が近づいて来たときに、ある程度まで発達した霊魂は、肉体の睡眠中または無意識状態中に肉体を脱出して、司配級のスピリットの所へ相談に行くことができる。これらの司配級のスピリットに助けられて彼は自己の生活について負うべき責任とその結果とを完全に意識する。このとき、もしその霊魂が――すでに高き進化をとげているのではあるが、――なおしばらくの間この世に生まれ代わって来る必要がある場合には、<彼はあらかじめ定まった時刻に死なないで、その瞬間まで耐えしのんできたところの同じ苦痛の状態を、数年間ないし数ヶ月間継続して、>普通ならば受けるべきはずの、もう一度この世への「生まれかわり」の緩徐な過程を踏まないで、地上における最後の進化を、生まれかわりを省略して、高速度に完了するのである。これは白色のスピリットの非常な恩恵的取り計らいのように思われるのである。>>
運命選択の特権
(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.101−102)
<<人間の生涯は摂理――「不可知の手」――によって定められている。恒星と遊星との運行の影響の下に一定の妊娠を遂げ、出産し、そして一定の時日に死するということは摂理の手できめられている。が、運命は修正を受くるのである。審判階級のスピリットが干渉するのはここである。もし運命の修正によって個体霊魂の進化がたすけられるならば、星の運行によってあらかじめ定められたる死の時期を早めたり遅らせたりするのである。(例をいえば、レイヌの父系の祖母は最近に死んだのである。これについてヴェッテリニの語るところによれば、彼女の死は星の影響に従うならばもっと遅く来るべきだったのである。しかるにその保護のスピリットが彼女の受苦をもはや十分なりとみとめてすぐ彼女の霊魂を釈放したのである。これと反対に受苦の期間を延ばして死期を遅らせることも起こりうるのである――彼女の母系の祖母は本来ならこの四月に死んでいたはずであると。)「死の使者(つかい)はこの仕事にばかり従事している特殊階級のスピリットではないのである。彼らは新たに帰幽せる霊魂の世話をする役目の一群のスピリットに属するものである。「死の使者」は数人のこともあればただひとりのこともある。
自己の責任を知ることができるだけに、意識の発達した霊魂は幽界へ移行するやいなや彼の生前のあらゆる行為をまともに見る。そして自己の行為を精査して生じた悲歎と悔恨の情とは、彼が次にこの世に生を受けたとき一段高き進歩を遂げるための努力を喚起するのである。しかしながら自責の意識の発達していない霊魂も、時として霊界の審判廷の前に伴(つ)れて行かれるというのは、彼はその時は何もハッキリ自覚しなくとも、漠然とある執拗な印象を受け、やがて時が来るとこの印象が彼に反省と省察との機会を与えるからである。
十分発達せる霊魂は、自身が次の世に受くべき運命を選択する特権をもっている。彼はもはや輪廻の波動にただ受動的のみには従わないのである。彼は自己が欲するならば、霊界にそのまま止まってそこで自己の進化をつづけることもできる。また彼は他の人間の進化を助けるために、周到なる考慮の後に相当な位置に生まれかわり出て、他を利することによって自己をいっそう利するのである。霊界における進化はいっそう速やかなれどもいっそう困難なのである。それで多くの霊魂は遅くとも苦痛少なき現世の修行を選んでいる。地上の人間にとってはこの霊界における進化が何より成り立っているかを知ることはできない。<われら人間の摑(つか)むことのできるただひとつの点は、まず自己自身をあらゆる現世的な繋縛(けいばく)、あらゆる地的な興味から截(た)ち切ってしまうことである>。徐々に、彼は与えられた運命を修正し得るまで進化をとげる――彼はかようにして、「運命」そのものの王座に近づく。しかし「運命」そのものの本質は依然として不可知である-------高級のスピリットは運命が不可抗的に各人の生活の上にそれ自身を課していることを知っている。ある事件――幸福もあれば不幸もある――は避くべからざるものである。「不可知の手」――神秘な謎の手があらかじめそれを用意しておくのである。
ヴェッテリニは説いて曰く、ある「生命」が受ける諸種の境遇のおよそ一半は業運の法則によって決定せられているのである。残余のうち半分は個体の自由になし得るところで他の半分は高級なるスピリットの修正の手にあるのである。各人の生命を支配するこれら諸種の影響要因の区分は明瞭で、規則的で、権威ある語調でレイヌの口を通じて語られた――ライフの半分は業運によって決定せられる。四分の一は各人の自由意志に属する。他の四分の一は高級霊(グレート・スピリット)の手に委(ゆだ)ねられている。>>
物質主義者の霊魂
(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.188−190)
<<ヴェッテリニ曰く、―― 「大多数の物質主義者は、自己の過去世の生活について微かな記憶をすら留めていないので、単純に自己の唯物的意見に固執(こしゅう)するのである。彼等の心の内には自己が信ずる粗大な証明しかもたない、極めて単純な物質的世界観と相鬩(せめ)ぐところの、なんとなくそぐわないような感じが絶対に起こらないのである。彼らはこの世に生まれ出る以前に幽界に昏睡状態にいたのであって、交霊会に呼び出された前の君の父の霊魂のようにさえ達していなかったのである。彼らは生まれかわって出てきたが、自己の過去の状態について何一つ直覚的な認識をも留めないのである。それで彼らは物質的に議論を進めて行けば、最もロジカルだと思われる信仰に驀進することができるのである。低い階級の物質主義者はこの部類に属する。」
「秀でたる思想家、偉大なる知性を備える大思想家のごときでさえも、その霊魂が前者と同じくはなはだ低い進化のものであることがしばしばある。彼らは幸いにも非常に安全な非常に制御しやすい肉体を得たのである。騎手は下手でも乗馬が非常に良いのである。名馬は最も貧しい騎手にさえ巧妙な乗り回しをみせる。」
「しかし、また人類の幸福のために働いているところの賞賛すべき、真理に忠実な、最価値ある哲人にして、応報応果のことについてなんの望みも有しないものがある。この哲人!ああ------彼らは偉大なる進化をとげつつあるのである。彼ら自身の為にしようという少しの観念もなしに捧げきった、研究の生活をなしつつある彼等の生活は、彼の霊魂を高きに引き上げる。しかしかかる場合はまれである。しかもかかるひとびとでさえもその臨終において『誰がこれを知ってくれるだろう?自分は自己が真理であると信ずることのために自己の内の最善なるものを奉仕さしたのだ------しかしこれを誰が知ってくれるだろう?』と果たして嘆息しないであろうか。ぜんぜん応報を期待しないでいられるものはほとんどないのだ」と。>>
“生まれかわり”・“霊界の生活”についての霊界通信の異論の原因
(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.190−191)
<<ヴェッテリニはいう―― 「まずわれわれは霊媒を介して意志を通ずるということに伴う非常な困難とその困難より来るまちがいと、それから<霊界通信をもたらすスピリットの大多数が低き階級の無知のスピリットであることを考慮にいれなければならない>。彼らは生前もそうであったように、十分知りもしないことをペチャクチャしゃべりたがるのである。霊界通信をもたらすスピリットに高級なスピリットがきわめてまれだということを記憶しなければならない。--------しかしながら高く進化せるスピリットも『生まれかわり』を否定することがあるのである。それは生前より人間は生まれかわるものではないとの確信を抱いて霊界に入り、自分がすでに高き進化を遂げた霊魂であって『生まれかわり』の必要もなく、自分の住む霊界が高き圏内にあるので『生まれかわり』ということが少しも議論にも噂にも上がらないような場合には、そのスピリットは、生まれかわりはないものという信念を暫(しば)しの間は持ち続けるのである。」>>
霊魂の創造について
(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.163)
<<自分(注・コルニエル氏)は他の問題を提出した。―― 時間の全経過を通じて、霊魂は無制限に創造されつつあるものであるか。それとも永遠を通じて一定数の霊魂が存在するのであって、ただその進化状態の相異から霊魂の種別というものが生じるのであるか?
これに対する(ヴェッテリニの)、答え―― 否、霊媒を通じての答えの移牒(いちょう)はきわめて複雑したものであった。実際レイヌ(注・霊媒)の現在の状態では、これに対する答えを明瞭にもとめるのは無理であった。すべてのうちただ一つだけ確答を得た。そしてそれは確実と認めてよいであろう――それは霊魂の萠芽(めばえ)は全期間を通じて間断なく創造されつつあるということである。
(谷口注)各自の霊魂の発達の等差や、地上生活への生まれかわり度数の相異や、肉体の年齢にかかわらず、霊界通信で「あの霊魂はまだ若い」などといわれる時日から見ても、常に新しく現象界へ霊魂の萠芽(めばえ)が現顕されていることがわかる。>>
|
|