【広告】楽天市場から2025年大感謝祭12月19日から開催エントリーお忘れ無く

生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

ホームページへ戻る

名前
メールアドレス
タイトル
本文
写真

URL
編集・削除キー 項目の保存


RSS
こちらの関連記事へ返信する場合は上のフォームに書いてください。

[27] 管理人ご挨拶の<補足> @ ――当掲示板に於ける「虚説」の摧破の論拠について
管理人 - 2015年07月23日 (木) 12時47分




「批判」見解の誤りと「虚説」の論破の論拠について、補足しておきます。



[T] 『生命の實相』倫理篇<和解の倫理>より、――

<<われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、虚説に対して和解してはならないのであります。虚説に和解したら実相をくらますことになります。実相をくらませば、みずから迷うことになるのであります。

 異端・盲説・妄念・妄想は、<本来無い説>―虚説―でありますから、その実相をみれば「本来ない」ことが判るわけでありますから、本来ないもの「虚説」に和解することは絶対に出来ないのであります。光は闇と和解することは出来ない。光が近ずけば闇は消えるほかはない。それと同じく、真説は虚説に近ずけば虚説を消す働きをする。

 虚説を許さないことをもって、和解と寛容の徳が無いように思うのは間違いであります。また、虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも實相を見て赦(ゆる)すことにしたのであります。どうかみなさんも虚説に対しては和解することなく、どこまでも「サタンよ去れ」の態度で進んでいただきたく、人間に対しては、その表面の<包み(罪)>を見ないで、その罪なき完全なる實相を見て、その罪を赦す(その罪を本来無いと見て捨てる)ことにしたいのであります。

要は「天地一切のものと和解せよ」との「生長の家」の第一最大の誡命(誡め)は「天地一切のものの實相と和解せよ」ということであって、仮相や虚説に対しては「サタンよ去れ」と排撃すべきなのであります。釈迦もキリストも同じような態度で虚説を駁撃(ばくげき)せられたのであります。>>



[ U ] 『生命の實相』「聖典講義篇」 <形よりも心が主>、――

<< 我々はすべての人間の實相を見て、『みんな神の子である。仏の子である。みんな救われている』という言葉の力によってその實相の神性、仏性を拝みださなければならないのであります。と云って、この『みんな救われている、みんな神の子である』と云う教えに反対してそれに駁論して来る者に対してはどうしたら好いかというと、イエスも、こういうものに対しては、やはり手酷(てきび)しく駁論を加えておられる。

生長の家は他人を悪く言わない教えであるのに或る場合に於いては生長の家でも生長の家に対する間違った批評にたいして弁駁して応(こた)へている、――あんなことするのは大人気ないじゃないか、真理は真理みずからを証明するから批難は黙殺して黙っておれば良い、――こういわれる人もあります。むろん黙っておって良いときもあれば、黙っていないで駁論するのが好い時もあります。その駁論を見て、却ってそれによって救われたという人もあります。

間違った批評に応酬するのは別に怒りによって相手をやっつけるつもりでするのではない。或いは人類の實相、本質そのものに対して『お前は悪人である』と云うわけでもない。間違っていることを間違っていると指摘し、外道を外道であると指摘し、正法を正法であるとして主張すると云うことは、必要なことである。それ自身が読者の興味を惹(ひ)く問答体の宣伝にもなるのであります。

キリストもその当時のパリサイ人或いは偽善なる学者に対して手酷しく罵っておられるのであります。マタイ伝第二十三章の十三節から十五節までにはこう書いてあります、――『禍害(わざわい)なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ、なんじらは人の前に天国を閉ざして、自ら入らず、入らんとする人の入るをも許さぬなり。禍害(わざわい)なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ…….禍害なるかな、盲目なる手引きよ….』という具合に罵っておられるのであります。

この当時のパリサイ人というのはユダヤ教の律法(おきて)に一所懸命であって、形式ばかりに執(とら)われて、もう形式にちょっとでも間違ったものは、みなそいつは神の教えに反(そむ)いているものであると号して『人の前に天国を閉じ』てしまったのであります。・・・そう云う杓子定規の教えを以って、大衆の前に天国の門を閉ざしてしまった者に対しては、イエスは激しい言葉を以って罵倒しておられるのであります。だから『生長の家』もこのイエスの遣(や)り方と同じことでありまして、『人間は既に仏である。此の世界は既に光明一元の世界である。』というこの真理の言葉を弘めて行くに当って、その光明思想の普及を妨げる反対論に対しては、時と場合によっては、激しく批(う)たれなければならないこともあるのであります。>>



[ V ] 『生命の實相』「聖典講義篇」 <イエスは必ずしも無抵抗に執われず>――

<<それはイエスが捕われて、大祭司カヤバの前へ引き出されて行った章(ところ)であります。イエスが云う『何故、我に問うか、我が語れることは聴きたる人々に問え。視よ、彼等は我が云いしことを知るなり。』かく言い給うとき傍(かたわ)らに立つ下役の一人、手掌(てのひら)にてイエスを打ちて云う『かくも大祭司に答うるか』イエス答え給う、『わが語りし言(こと)、もし悪しくば、その悪しき故を証せよ。善くば何とて打つぞ。』こういう具合にイエスも抗言して居られるのであります。イエスは打たれながら『我が語りし言、もし悪しくば、その悪しき故を証せよ。善くば何とて打つぞ。』と抗言して、決して無抵抗には他の一方の頬ぺたを打たせてはいないのであります。ですから、この『左の頬を打つ者には、右の頬を向けよ』と云うイエスの教えは、實相は火にも焼けず、水にも溺れず、況や手掌で打たれる位で傷付くものではないから、そう云うことには超脱した心境でおれと云われたので形の上で無抵抗でおれと云われたのではないのであります。

我々は時にはなるほど、無抵抗でいなければならないこともあります。しかし、大いに相手に対して抗言しなければならない時もあります。特に真理に関することでは争わねばならないことが度々あるのであります。聖書を御覧になりますと、到るところにイエスがパリサイ人や学者の説に反駁しその信仰の間違っている点を説破して、或いは罵ったり、或いは批評したりして居られるのを見出されるでありましょう。これは真理の光が、闇の中を進んで行く時やむを得ない状態であります。

光が進んで行けば、闇は消えなければならない。この時、光と闇とは衝(つ)き合うようにしばらく見えるのでありますけれども、光が進めば闇そのものは積極的存在ではなく、自然に消えていくのであります。しかし、一見したところは衝き合うように見える。それが真理が迷いに対する抗争であります。ですから、イエスも、ひとから打たれた場合に、別段手を以てたたき返している訳ではないのでありまして、『我が語りし言に、もし悪しきことあったらその悪しき故を証(あかし)せよ。』こう云う具合に云って居られるのであります。

『自分の云う説き方が間違っているなら、そのまちがっていると云うことを証せよ。自分は真理を述べるのである』と断固として云っていられるのであります。>>



[ W ] 『生命の實相』「聖典講義篇」<邪説を排撃するの可否>――

<<これは別に人と争うのではないのであります。真理を述べるために、他の間違った邪説と衝突すると云うことは是(これ)また止むを得ない事であります。だから、自分が正しいと考えている処の真理に対(むか)って、反対者が間違っていると云うのならば、その間違っている点を挙げて、ここは斯うまちがっていると云へと、斯う云う具合に云っておられるのであります。『生長の家』の説くところを時々批難する人がある。真理のよく悟れた人は批難しないで賛嘆されるのでありますが、充分真理の悟れない人や、所謂宗教業者で商売敵だと思って揚げ足取りして非難されるひとがありますが、そう云う場合、生長の家では黙殺することもありますが、他の人に誤解せしめて真理を伝える邪魔になると思われるような場合には敢然として其の他の人達の妄論を反駁することもあります。

すると『何じゃ、生長の家は総てのものと大調和をせよと教えておるのに駁論なんか発表するのは怪しからん。あんなことでは、生長の家本部そのものが生長の家の教えに背いている』と言う具合に考える人もあるようです。併し、非真理に対しては、駁論を発表することが必要であることもある。非真理が滔々乎(とうとうこ)として弘まっている時代に真理を説くには、非真理の説を是正しなければならない。『虚妄を壊するものは真理のほかに非ざるなり。』と聖経『甘露の法雨』の中に書いてありますが、邪説を打ち破るためには正説の法鼓を鼕々(とうとう)と打ち鳴らす必要があるのであります。

正説の法鼓を打ち鳴らすことは大調和を破っているのではない、大調和を破っている邪説の領域を狭めて、大調和の領域を広めることなのであります。釈迦が佛教をひろめられた時にも、婆羅門教(バラモンきょう)などの邪説に対して、やはりその教えの間違っているところを、論破することを怠られなかったのであります。ですから、邪説を論破して大調和の真理を弘めると云うことと、此の『山上の垂訓』でキリストの云われた『右の頬を打たれたら、左の頬を向けよ。』と云う教えとは又別のことであると観なければならないのであります。

これはキリスト自身の御生涯を見ると判るのでありまして、教えと云うものと時代、環境、御自身の生活と云うものとを切り離して考えると、本当の意味が解せられないのであります。教えと云うものは、生きた人に教え、時代に生きているもので、教えそのものが宙ぶらりんに生きているものではないのであります。>>





(18)
Pass



Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】楽天市場から2025年大感謝祭12月19日から開催エントリーお忘れ無く
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板