| [3145] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第66回 |
- 信徒連合 - 2016年05月09日 (月) 09時29分
<再掲示>
インターネット道場――
「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)
第66回
マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。
「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。
また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。
インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。
そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。
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もっと霊界の知識を持ち伝えよう。現象界の出来事は霊界でその雛形が刻々と出来上がりつつあり!
個性命の進化と向上
『別冊・真理』<生死を超える道>よりの抜粋
<<人間は一層高き世界に向かって進化の螺旋階段を登って行きつつあるのであります。イエス、マホメット、釈迦、ソクラテス等の聖者は、その生活と教えとによって、如何なる精神的生活の原理を実行すれば、各個人が、そして遂には人類が、一層高き世界に到達することができるかということの目標を示しているのだと吾々の精神科学は観るのであります。>>(P.12)
<<人間の知的発達の程度は、最下級の痴呆者から、大思想家、大科学者の創造的天才の頂点に至るまで実に千差万別であります。この事実が人間の生命は単に「種族」の生命として動物、昆虫、鳥類、魚類の場合のように、一斉に揃って進化するのではなく、「個」としての生命が、個々別々に進化することが判るのであります。人間の心、道徳、精神の発達程度に右のような大差があり、従って、条件に不公平を生ずるという事実は、人間の個性生命の不滅と云う問題に関連して深い意義があるに相違ないのであります>>(P.31)
<<人間不平等の所以――
ともかく人間の天賦は他の動物のように大勢がみな一様ではなく、個人個人がみな精神的にも、道徳的にも、更に肉体的能力にまでも、個性的に異なる発達をしていることによって、人間の霊魂が繰り返し生まれかわる間に特殊な発達をとげたのだと結論してもよいと思うのであります。このことは非情にむつかしい問題であることを私も認めます。とくにこの事には未知の部分が含まれていますので益々困難ではあります。或る点では推理によって結論に到達しなければならないのでありますが、推理に頼ると云うことは、すべての古い宗教と少数の新しい宗教とのどちらにもある致命的誤りの源であったことは明らかであります。然し先入観や偏見によって証拠を抂(ま)げようとさえしなければ、代数方程式の場合のように、人生の事実に合致する答えが得られる可能性はあるのであります。
實相哲学を主流とする神学体系は、「神はすべてであり、神は霊である。故にすべては霊であり、物質は存在せず」と云う直観的真理を基礎としているのであります。この直観を基礎とした哲学および神学は、病気の如き人間経験を否定する時は、理論的であり、科学的であります。これは絶対理想主義の哲学であって、理論的に「罪と病と死」の存在を否定する時、この三つの悪は意識の中に居り場がなくなり、従ってそれらを恐れることが無くなるからとの理由でこの説を受け入れる人にとってはなかなか好結果を得る学説であります。この純粋理想哲学を奉ずる人の信念が昂揚するとき、五官の立証するものを否定し、さらに理性が肯定するものさえも否定し客観的経験さえも否定し去るならば、自律神経を媒介として生理作用を司る潜在意識は、その「否定」によって悪(病気等)をおそれなくなっている人をその悪から解放するのであります。>>(P32−33)
<<心の因と肉体の果――
このような問題に直接に接近して行くためには、心の世界に働く因果の法則の有りのままを研究しなければならないのであります。“宇宙の知性”は人間を創造し、人間の魂に不滅の観念および不滅を実現したいと云う希望を植えつけたのである以上、これを立証する方法も必ず造ってあるに相違ないのであります。しかし如何に多数の人々がそのことを信じているにしても、疑いの存する限り、実例によって立証されていないのだと云うことになるのであります。
人間の大多数が信じ且つ願っているところの生命の「不滅」と云うことは、滅する肉体を超えて不思議な煙幕の彼方にあるのであります。この肉体の眼は、こうした煙幕を貫いて見る事が出来ないのでありますから、理に照らしてその不滅なる「結果」を来たすための「因」求めなければならないのであります。われわれは盲目的信仰のみを頼りとすることは出来ないのであります。歴史を見ても現代人の為す所を見ても、、人間は本気になって誤謬を信ずることが出来るものだと云う事が明瞭に証明されているのであります。例へば、キリスト教の世界では、文字通りの「天国」と客観的な「地獄」とが現実に存在し、肉体死後の魂がそこに行くのだということを信ぜよと教え、また事実大多数の人が信じているのであります。そして死後人間の或る者は永遠の歓喜を受け、ある者は永遠の苦痛を受けるのであると信じているのであります。
右の信仰の証拠としては、昔ながらの教義と伝説意外には何もないのであります。その伝説と教義とは九十九パーセントの人間が文盲で迷信に浸っていた頃の無知蒙昧の暗闇時代(くらやみじだい)の人々の書いたものであります。それらによると肉体を離れた人間の魂には二つの階級があり、その住む場所が二つの場所に別れるのだと云う以外には住む場所はなく、その精神的原因としては、或る人の身代わりの苦しみを信ずる事によるだけで一方は聖人となり、他の人はそれを信じないだけで永久に罪人として処罰されると云うこと以外には何もないのであります。そう云う宗教においては、公正な神の本質、贖(あがな)いの法則、精神的進化の原理等は皆拒否され、科学上の事実と理智の叫びは無視され、その代わりにずっと昔死んだ人々の言葉の権威および教会当局者の言葉を迷信的に信じているのであります。>>(P.34−36)
<<過去の預言者の偉大な直観にみちびかれて真理を悟る者は幸いであります。然し私たちは単にそこで止まってしまってはならない。私たちは自分自身、己の耳を開いて大自然の声を聴き、心の眼を開いて大自然の魂が斯くも豪壮にして劇的な、適格な言葉で教えてくれる教訓を見なければならないのであります。その教訓はすべて私たち自身に関するものであって、目に見える形で書かれており、私たちによく考えよと言って挑んでいるのであります。>>(P.50−51)
「個」の進化と「種族」全体の進化――
<<「種族」としての全体の進化は、植物であっても昆虫であっても、或いは獣の場合でも、「種」としての生命は共同戦線を張って前進するのでありますが、人間の進化に於いては「個」としての生命が様々に変化ある戦線を張って前進するのであります。その前進は一列には並んでいないのであります。その前進は個人的業績として蓄積されてゆくのであって、工学上の製品、芸術、技術等の文化的創造、教育上の進歩-------等の如く、その福祉は、全体に及ぶことは及ぶのであるが、魚族、鳥族、象族等が「種」の進化の共通のものを代々受け継いで行くが如くには、人間は、種族全体が、個人の知的精神的発達を代々受け継いで行くことを証明する何物もないのであって、人間は、個々の霊魂が一人ひとり進化するのであります。>>(67−68)
<<遺伝は肉体的特徴だけは承(う)け継いで行くのであって、一定の型の器官を有する身体は人類の共通の継承物であります。知性はその力を比較して計るとき、下は愚鈍の零(ゼロ)から、上は天才と呼ばれる最高のものに至るまで、実に無数の段階があるのであります。
低い段階の親が、高い段階の子を持ち、高い段階の親が低い段階の子をもったり、大都市の貧民窟(ひんみんくつ)に生まれた子供が非常に大きな権力のある地位を得たり、王侯富貴に生まれた子が堕落して能力なく、非生産的寄生生活をしたりすることがあります。斯様(かよう)な変化は本能のみで生活する低いレベルの生物には全然起こらぬか、少なくとも極めて稀であって、それらの生物同士を比較してみても、その能力の差を見ることはほとんど出来ない程であります。先ず、人間以外の生物は、その与えられている能力が種族別に平均していると言えるのであります。>>(P.68)
人間には平等はない――
<<ところが人間は平等には生み出されていない。一人一人が、著しい特色、傾向、個性的性格等を持って生まれるのであります。犯罪的傾向、残忍な性格、反社会的衝動等を天賦的に持っているのもあれば、又通常の人もいます。通常とは種族民族又は国民の作っている共通の標準に精神的に又道徳的に合致していると云う意味であります。更に或る者は生まれながらにして特に勝れた力と天賦とをもっています。動物や昆虫は平等に生まれると言い得るであろうが、人間は平等の素質をもって生まれるとは言えないのが事実であります。>>(P.69)
差別の原理――
<<身体の生理作用は自然の法則に随って行なわれますが、魂の発達は霊の法則に従って行なわれます。前者は肉体に関連し、後者は霊体に関連します。前者は一時的であり、後者は不滅であります。そして霊体の発達が存続して人間に差別を生ずる原理となるのであります。霊体を使用する魂は如何なる「生まれ更り」の肉体に入るにしても、その肉体に入る前に「個」として存在していたのであるからであります。人間の精神的道徳的身長が千差万別である理由は他に説明のしようがないのであります。これは人間進化の理に叶った説明だと言わなければならないのであります。>>(P.69−70)
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