| [3157] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第67回 |
- 信徒連合 - 2016年05月10日 (火) 07時58分
<再掲示>
インターネット道場――
「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)
第67回
マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。
「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。
また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。
インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。
そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。
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もっと霊界の知識を持ち伝えよう。現象界の出来事は霊界でその雛形が刻々と出来上がりつつあり!
個性命の進化と向上
『別冊・真理』<生死を超える道>よりの抜粋
霊的進化の促進――
<<宇宙の本源たる「一つの心」の宇宙設計中に於けるあなたの地位は、或る程度まで、生物学的法則と、人種と、その他の自然界の法則とによって決定されています。あなたは自己の人種、出生地、及びあなたの生まれた社会の性格や文化を変更することは出来ないのです。然し一個人としては自己の個体の運命を担当しているのであって、あらゆる面で自己の幸福増進のために心の法則を利用することができるのであります。然し宇宙設計中のあなたの地位は長期に亘る命題であって、あなたはその本体は「肉体」ではなく「霊」でありますから、自己の運命と云っても、五十年や七十年の限られた一生だけの問題ではないのであります。従ってあなたは目先の幸、不幸にとらわれず、自己の個人的進化のために必要な真理を求めてそれを身につけることがあなたの務めであります。
肉体的な人間の進化の舞台に比し、遥かに高い世界があって、そこでこそ本当の自由と力と独立が得られるとすれば、あなたは人生の如何なる事業に従事するよりもその世界の発見に従事することに最大の興味を感ずる筈であります。われわれはその遥かなる高い世界に達するために、今まで多くの宗教人が選んで来たところの苦行と云う古い道にくらべて、一層確かな容易な旅する道を探し出して、その海図と、羅針盤とを得たのであって、それをあなたに紹介したいと思うのです。
キリストはこの自由と力と独立が得られる高き世界を「天国」又は「神の国」と呼ばれました。次に引用するコリント前書にあるように、パウロは実相の人間を自然人と区別してこれを「霊なる人」と呼んでいます。例えば――
始めの人アダムは活(い)ける者となれりとあるが如し。而して終りのアダムは生命を与うる霊となれり。霊なる者は前(さき)にあらず、反(かえ)って血気のもの前(さき)にありて、霊のもの後(のち)にあり。第一の人は地より出でて土に属し、第二の人は天より出でたる者なり。この土に属する者に、すべて天に属する者は似るなり。」(コリント前書第15章45−48節)
パウロは又コリント前書第15章で「兄弟よ吾汝らに告げん。肉と血は神の国を嗣(つ)ぐこと能わず。又朽つべきものは、朽ちざるものを嗣ぐこと能わず」と続けて言っているのであります。これは死すべき肉体は一時的のものであり、実相の霊体は永遠不滅であると云う意味であります。
この真理を悟る者は死に支配されることなく、死の恐怖を失うのであります。不滅と云うことは、土にて造られ土に複(かえ)るべき肉体によって不滅を得るのではなく、土にて造られず土に複ることなき実相の霊体によって不滅を得るのであります。個人がいと高き神の国に至るために登る梯子の第一段は、魂は地上に於いても生活を営むが、同時に不滅の霊体を持っていることを認識しなければならない。この不滅の「霊体」こそ、神の国に至る「乗り物」なのであります。神の国に至ると云うことは肉体が向上進歩すると云うことではなく、霊の悟りが向上進歩することであります。これは霊的悟りであって、その悟りは霊体又は幽体の「主人公」たる不滅の「実相の自己」に目覚める時に得られるのであります。
この悟りを得た人は霊的進化の次の段階に入るのであります。然し吾々はその霊的進化の段階の資源や力を直ちに充分に利用出来ると云うわけには行かないのであります。それは巻いた糸を解くように、徐々にしか展敍(てんじょ)してゆかないのです。音楽、機械学、自然科学、工学等に於いて、技倆(ぎりょう)や専門技術は徐々にしか上達しないのと同じように、宗教的悟りも、精神科学の知識も、いはば徐々に滲(にじ)むように現実界の生活方法を通して染み込んでくるのであります。>>(P.91−94)
展開する舞台――
<<人生が発展し行く舞台面を見るためには色々の場面があって、それが統一されて最高の目標すなわち理想に向かって進んでいるのだと云うことを先ず知らなければなりません。鉱物界に岩石が生まれてやがてその岩石が砕けて土となったのは破壊であるかと云うと、そうではなくて、植物と云う地上生命出現のための準備をしたのであって、常により高きものへと前進しているのだと云うことであります。やがて植物は壊(くだ)けたる岩石の集合体なる土壌から発生し、それには種子(たね)を生じ種子は植物となり、植物は次代の種子を造ります。そしてこれが無限に繰り返されます。それは無限に増殖する生産能力を有する生きた有機体であります。それは霊の表現であるからです。またこの故に、植物は生産機械以上のものであります。機械は終いには摩滅して、役に立たぬ部品となってしまうけれども、植物は自己を修理し、自己の傷を癒し、自己と同じ美しさの植物を又別に創(つく)ることが出来るのであります。然し個々の植物はその存在の周期を終る時その活動を停止し、これを再び活動せしむることは出来ません。その復活は新しい体の中に行なわれます。すなわち、成熟した種子の中に再生するのであります。
植物及び全ての生物はこの周期的再生によって進化が可能なのであります。全ての生命の根元である「霊」は常に一層高度の表現に向かって進んでいるのであります。鉱物界に於いて、「植物」にまで発展すると云う声なき預言が、無生物の形の中に既に豫示(よじ)されているのと同じように、植物界には、さらにそれがなお一層複雑な有機体に発展することが豫示(よじ)されているのであります。植物の中には這うもの、歩くもの、走るもの、登るもの、飛ぶものがあるのであります。動物の如く食物を消化する植物もある。極めて巧妙な工夫と罠(わな)とを用いて獲物を捕らえる植物もあります。一寸触れるだけの刺激を与えるだけで、反応を表す神経組織を持っている植物もあります。或いは観たり、聞いたり、その他自己の生存する環境に適応する不思議な力を持っているものもあります。一つの植物がすべての感覚を持っているものはないが、種々の種類の植物の中にあらゆる感覚が表現されているのであります。この無言の預言の中に、別の形の生命即ち動物界が預見されないでありましょうか。観察眼のある注意深い研究家なら、原始時代の植物界の高級な「種」の生命と知性とは、更に高級な生命体(動物)の出現を預示していたのだと云うこと、即ち植物の有する未完成感覚は、動物の視覚、聴覚、味覚、触覚となって表われる時代へと進んで行く過程中の胎児期であったと云うことに気がつくはずであります。
ここに注意を要する点は、生命が一段高い標準の生命に高昇する時、低い階級の生命的存在を常に支配すると云うことであります。この点は植物王国が感覚のない鉱物界より優位にあることは見れば明瞭であります。植物界に於いて生命は、自動力のない物質を捉え、持ち上げ、活動のための体として使用し、それによって霊と智慧とを発揮するからであります。私はこの興味深い植物の内にすでに潜在的に存在する動物的性格に興味を深く感ずるのであります。>>(P.101−103)
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