| [3176] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第68回 |
- 信徒連合 - 2016年05月11日 (水) 08時59分
<再掲示>
インターネット道場――
「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)
第68回
マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。
「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。
また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。
インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。
そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。
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もっと霊界の知識を持ち伝えよう。現象界の出来事は霊界でその雛形が刻々と出来上がりつつあり!
個性命の進化と向上
人間は大海の一波一波ではない、個性生命は肉体死後も滅しない
(『人生を支配する先祖供養』P.97−98)
<<人間の生命は宇宙大生命の大海に浮かぶ単なる波ではないのである。“波は消えるけれども大海は永遠の存在である”というような説明の仕方では、人間は何らの慰めも受けることはできないのである。そんな考え方は、「大自然は永遠であるけれども人間は須臾(しゅゆ)的存在で消えてしまう儚(はかな)き存在だ」というのとおなじである。吾々が進歩を願い、向上を志すのは、個生命として独自の人格的存在として刻苦精励努力精進しつつあるのである。人間があらわれては消える波のような存在であるならば、何の為に刻苦精励努力精進するのか――このような人間の“個生命的存在”を“大海の波”にたとえる考え方は唯物論の一種に過ぎないのである。人間は決して波のような無機物をもって譬(たと)えてその存在意識が解るような簡単な存在ではないのである。波に比較して考えたことが間違いであったのである。>>(P.98)
<<生命は、同一条件に対しても個性ある別々の反応を示すのである。・・・生命の反応は個性的であって機械的でないからである。こうして生ける人間の生命は個性に従って、同様の環境条件に於いても異なる反応を示し、異なる人生経験をし、その人でなければあり得ない独特の感応を起こして、その魂が個性ある独特の進歩を遂げるのである。もし人間がこの人生に於いて幾多の困難を克服し、苦痛を忍び悲しみに耐え、複雑なる人生の事件に処して独特の反応を示しつつ、独特の進歩を遂げて来た個性的な人生経験の賜物(たまもの)が、肉体の死と共に何の甲斐もなく消えてしまって、Aの霊魂もBの霊魂も、一様に大生命の一海の中に個性もなく溶け込んでしまうとしたならば、地上の人生経験は全然無意義になってしまうのである。そんなことがあるはずもないし、あって好いはずもないのである。この事については『生命の實相』の「霊界篇」に高級霊のヴェッテリニからの霊界通信に於いて、仏教学者のうちには霊魂は高級に進化するに従って個性を滅して宇宙生命に還元してしまうように説く者もあるがこれは非常な間違いであると、憤激した語調で説いて、霊魂は進化すればするほど一層個性が発揮されるのだといっていることを参考にせられたいと思う。>>(P.97−98)
『生命の実相』第10巻・霊界篇下巻
<<わが子よ、われわれは知恵あるものをも賞(ほ)め讃(たた)えないし、愚かなる者をいやしめようとは思わないのだ。なぜなら彼らはすべてかくあるべくしてかくあるのであるからだ。知恵なき者もやがて知恵を得るであろうし、知恵ある者もかつては知恵なき者であったからだ。かくして人間はいよいよ高く向上するのだ。知恵において勝れたるものは、その知恵によって神から与えられたる使命を果たし、愛においてすぐれたる者は、愛によって神から与えられたる使命をはたす。しかし最も知恵においてすぐれたる者もやがてまた、最も深き愛を獲得するであろう。また愚かなる者もやがては最上の知恵を獲得するであろう。そして“あらゆる人類は永遠のタイムを通じて等しき高さに向上する。”>>(P.53)
<<われわれが、人を指して偉人だの賢者だのと呼ぶのは、その人の神性を指していうのではなく、その人が地上に生きている間の彼を指していうのだ。<すべての人々には神性が宿っている。>しかしこれを感ずる者はすべての人間というわけにはゆかない。大知恵者といえども、自己に宿っている神性を自覚しないでその地上の生涯を終ることがある。これは彼の運命だ。しかし、神がその人の上に微笑(ほほえ)みを投げかけ給う者のみは、自己の神性を感ずることができるのだ。もし、大知者の上に神が微笑(ほほえ)みを投げかけ給うならば、彼はどうなると思う?彼は霊が神であることを感ずる、しかし依然として彼の頭脳には神は理解されないだろう。なぜなら、肉体人間の頭脳には神は理解し難きものであるからだ。「が、ひとたび神が彼の上に微笑(ほほえ)みを投げかけ給うたならば、彼はもう決して魂の歓びを失うことはできないのである。この“法悦”こそ奇跡(きせき)でなくてなんであろう。なんじら愚かなる人間が奇跡だなどと考えている現象よりも、魂の法悦こそ幾層倍もの深遠な奇跡であるのだ。」>>(P.54)
『人間死んでも死なぬ』<序・闘争なき世界への翹望(ぎょうぼう)>
<<本書で私が申し上げようとすることは近代のスピリチュアリズムの研究から得られた「他界よりの消息」に根拠を置くのであります。霊界通信に真実性をみとめない方にとっては無意義のたわごとのようにも思われるかも知れませんが、いづれは何人もこの肉体を捨てて何処かへ行かねばならないのであります。或いは肉体の死と共に、「人間」そのものもなくなると信じている人もありましょうが、そう性急に速断しないで下さい。肉体死後に霊魂が存続するか、存続しないかで、この世の生活を生きる態度がかわって来なければならないのです。現世だけで、この「人間」が終るのでしたら、利己的快楽ばかりを追求しても好いかもしれませんが、現世の生活は、やがて来る未来世への準備であるとしたら、滅多な軽はずみな生活は出来ないと思います。>>(P.1−2)
<<現世にて苦しんだ人々からくる霊界通信は、苦痛の渦中にいるとき呪わしく思ったところの大苦痛も、現在享受し得ている向上の状態にくらぶれば、実にそれは小さなものに過ぎないと云う事を述べているのであります。私が『生命の實相』第九・十巻に書いている霊界通信の研究はお読み下さっていることだと思いますが、各種降霊会にあらわれて出て来た霊魂(スピリット)は、いづれも現世の苦痛が、今ある如き自己の向上をもたらしたと告白しているのであります。「実に辛(つら)苦しみでした。しかしそれは苦しむだけの値打ちはあったのです。それは私の向上でした。--------そのために得たものは、私の苦しんだ苦しみなどのとても比べものにならないものです。」と一人の偉大なる霊魂(スピリット)は通信してきているのです。
苦痛の意義を否定し、苦痛が加わることを加害と認め、苦痛が存在することを被害と認める限りに於いて「苦痛は世界のいづこにも現存の事実なるが故に」この世界は加害者と被害者との調和なき集団としか認めることは出来ないでありましょう。しかし苦痛の意義をみとめ、苦痛を機縁として一切万物の霊魂が進化し得ることを知るものはこの苦痛の世界を霊魂の向上のための鍛錬の世界として喜んで受けることができましょう。この自覚に立つことによって苦痛は私にとって自分を脅(おびや)かすものではなくなって来たのであります。激しき苦痛は肉体的には実に苦しい。しかしこれによって霊魂が進化するのだと云うことを顧みれば苦痛は私にとっては一種の勉強だと思われるようになって来ました。苦痛が来る毎に私は内なる自己に向かって「苦しめ、苦しめ、大いに苦しめ、そうして大いに進化し向上せよ」と言います。人は歯を治療するためや、健康をよくするためにでも可なりな苦痛を忍びます。それだのにわれわれは霊魂の向上のために苦しむことを呪うべき少しの理由もないと思うようになって来ました。
いやしくも此の世界が存在し得ている以上、どこかで調和しているに違いないのです。これは私が先見的に得た自覚でした。しかし苦痛は不調和のあらわれのように、今まで思われていたのでした。しかしわたしに霊界よりの通信が「苦痛は霊魂の進化のために、なくてはならぬものだ」と教えてくれたとき、この世界は苦痛があっても究極的には調和しているのだと云うことが判って来ました。もう私にとっては苦痛の境涯を閲(けみ)しつつある人も被害者でなければ、苦痛を与える人も加害者でなくなりました。それは互いの無限向上のための切磋琢磨(せっさたくま)であると信ずるようになって来ました。私はこう信ずることによって、今まで敵として見えていた者が、自分を生かす味方に変貌することを体験しました。そこには宇宙の最高理念を実現せんがために、互いに切磋琢磨しながら進み行くための相互の心境を映す「鏡」があるばかりだと解って来たのです。>>(P.7−10)
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