【広告】楽天市場から2025年大感謝祭12月19日から開催エントリーお忘れ無く

生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

ホームページへ戻る

名前
メールアドレス
タイトル
本文
写真

URL
編集・削除キー 項目の保存


RSS
こちらの関連記事へ返信する場合は上のフォームに書いてください。

[3186] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第12回
信徒連合 - 2016年05月12日 (木) 08時58分




開祖・谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――


@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』

A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』

★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。


******************




<再掲載> 


インターネット道場


「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 


第12回





「山新田のおかか」


 小林春恵先生
 
「わが信仰の旅路」より




 悪いことは起こらない

 それは、終戦直後で食糧事情が非常に厳しい時のことでした。小出さんの何反歩かの田圃の稲を、誰かが全部刈り取って、盗んで持って行ってしまった。盗んだ人は、小出さんの家の田圃と大地主の田圃とを間違えて、大地主の稲と思って、小出さんの家の田圃の稲を刈り取って持って行ってしまったんですね。自分たちが食べられなくても、決められた米を供出しなければ、どんな酷い目を受けるかわからない。それで、さあ、大変なことになったというわけで、小出さんのせがれが警察へ飛んで行った。

 そうしたら、「今は現行犯でねばダメだ。現行犯でねば、全然つかまえることはできねえんだから、それは仕方ねえのう」ということで、全然取り上げてもらえなかったわけです。

 納める米もないし、一体、どうしたもんだろうと心配している。そこへ、小出さんが講演先から帰って来る。その時分に、小出さんは、もう生長の家の地方講師になってましたから、講演先から帰って来るのをまっていたせがれが、「かかあ、大変なことになったでえ」と言ってこれまでの事情をおかかに話しました。

「あののう、こういうわけで、現行犯でねえと取り上げられぬ」
 せがれの話を聞いたおかかは、「ああ、心配しんたってええ。この世の中はな、みんな神様によってつくられているんだすけな。何も心配しんたってええ。神様にお任せして、『有難うございます。有難うございます。働いた徳は消えない、働いた徳は消えない。田圃様、有難うございます。御先祖様、有難うございます。御先祖様のお蔭であの田圃で一所懸命働かせていただきました、有難うございます。働いた徳は消えない。有難うございます。有難うございます』と明るい気持で、安心して神様にお祈りしていればいいんだ。働いた徳は絶対消えねえもんだから」って言ったんです。

 息子は、「ほんまにそれでいいだか」と言う。小出さんは、「ああ、それでいい。『そげん言うたって……』と思いわずらうことが神様の栄光を止めてしまうんだすけな。そんな心が起こったら、『神様、神様、神様……』言うてな、神様にお任せするのが一番いいんだ」と、言ったのです。

 ところで、小出さんの家の田圃の稲を盗んだ人の方は、やはり同じ小作争議の連中です。はじめは大地主の田圃だと思ってやったが、実は小出さんの田圃だったということがあとになってわかった。

「小出さんならわれわれと同じで何反そこそこの田圃しか持っていないんだ。この厳しい供出の時に、今ごろ小出さんはどんな辛い思いをしているやら……。きっと気も狂わんばかりかもしれんな」と、盗んだ方にしてみれば、心配で心配で、じっとしておられない。そこで、山伝いに小出さんの家にやって来たら、ちょうど小出さんの親父がワラビを炊いて、腹ごしらえをしていた。

 稲を盗んだ連中は、「じいや、じいや、あのー、おめえのとこの家、稲盗まれたってそうだね、大変でねえか、どうしたねえ」と、自分たちが盗んでおきながらこんなことを言う。ところが、親父は平気な顔して、「なあに、心配いらねえんだ。おらっちのかかな、生長の家に入っているからな、何でも悪いこと起こらねえようになっているんだ。しっかり祈ってさえいればいいって、かかがそう言うからな、おら毎日祈っているんだ」って言ったんですよ。

 小出さんの家は、生長の家だから、“お祈り”は当たり前のようになっていたけれど、稲を盗んだ者たちは、“お祈り”なんて聞くと祈り殺されるとでも思ったのでしょうね。これは大変だというわけで、大急ぎで、自分たちが大地主の田圃と間違えて、小出さんの家の稲を刈り取ってしまったと、警察へ届け出たのでした。
  
 そして、小出さんの田圃の稲は人(盗人)が刈ってくれ、しかも全部白米になって返ってきたのです。結局、悪いことは何ひとつ起こりませんでした。




 姑と嫁

 それから、この小出さんのせがれが、言うんですよ、私に。「先生、どんなに恩になったかわからねえ」って。それで、私は、そのむすこに、「何そげにいっぱいまた厄介になったいの」って言ったら、こんな話をしました。

 小さい時から、寝てていつ目を覚ましてもね、おかかは、ランプをつけて、ゾウリを作ったり、ワラジを作ったりして働いている。おかかが寝ているのを見た事がないって言うんですよ。それで、こんな働きもので、シッカリしたおかかのとこへ来て、勤まる嫁は、世界中にいねえと思った。おれはこのおかかにお世話になって育ててもろたけども、そのおかげでわしは生涯嫁なんて取る事は出来ない。とにかく、このおかかと一緒に住まわれる者は一人もいまいと、そう思っていた。

 ところが、おかかの目から見たら、まあ十分の一どころか、それよりまだ落ちるかも知れないところの嫁の働きに対して、「いや、ありがとう、ありがとう。大でき、大でき、大できや。御苦労だな、行ってきてくれよ。いや、ありがとう、ありがとう」って、本当にそう言って、手を合わせてね、自分の嫁を田圃へ送り出してくれる。

 おれは、そのところを見ると、おかかは本当に仏様になられたと思う。おかかが自分の働きというものをつかまえて、それを握っていたら、それこそこれっぱかしの仕事をして一日の働きだと思っているか、なんてことになるかもしれないのにね。「ああ、ありがとう、ありがとう」って、本当に喜んでくれる。「こうやって嫁がいてくれるんでありがたいね、ありがたいね」って、毎日言ってくれるから、自分の嫁も喜んでいる。

 嫁にくる前は、おかかはどれだけやかましい人だかわからんと心配していたのですよ。たしかに、昔はおかかはきつかったらしいですからね。もう人が自分の悪口を言おうものなら、おまえどこからそれを聞いて、そういうことを言うか。それを誰が言うたのかってね。おかかは生長の家に入らない時分は、もう潔癖で、騒がしゅうて、誰が言うたか言うてみい。おまえも一緒に来い。おれはそこへ行って、そんなことを言ってんのが本当かどうか聞くからっていうようなわけでね。まあ口を正さねば承知しないという程、きつかったらしい。

 ですから、あのおかかと一緒に住める嫁なんて世界中どこへ行ったっていないだろうと、村のもんが言うてたんですよ。それをおかかは聞いてね、「ありがとうございます。村のもんが、おまえは気をつけれよ、自分と嫁とを比べてはなんね、おまえは嫁のかわりができるわけじゃあるまいし、その村のもんの言うことは神様のお言葉だから聞け、それをちゃんと心にとどめておけよ」って言ってね。

 おかかはそういう風にして、自分の心の中へおさめた。「自分の我を死にきらなければダメだ」ということを、神様が教えたんだなっていう風に、おかかは思うたわけです。そんな風で、生長の家に入ってからの小出さんの家は非常に幸せになったわけです。




 素晴らしい嫁

 小出さんは、前にも話しましたように生みの母親に死に別れました。そして、後添えの母親がやって来たんですが、この継母(ままはは)とおばあさんとが仲が悪かった。そこで、前にも言いましたように、おじいさんとおばあさんは、孫である小出タケさんに、「あんな継母なんて、腹の中嘘だらけなんだで。継母が優しげなこと言うたってね、生みもしねえ子がかわいいわけないしな、本気になって騙されるな」と、しょっちゅう言って聞かせていました。

 ところが、業の流転と言うんでしょうか、やがて小出さんが子を持つ母の立場になって、また一つの体験をさせられるのです。
 あれほど丈夫だったせがれの嫁が、にわかに病気を起こし死んでしまいました。子供が三人も四人もあるし、せがれだってまだ三十幾つを過ぎたばかりだから、やっぱり後添えの嫁をもらわねばなりません。そこで、このむすこの嫁探しが始まるわけです。

あっちこっちからせがれの後添えにどうかとの話が来た。この嫁探しがまた色々とおもしろいんですがね。これは、二度他家へ嫁いで小出さんの家は三番目だという後添えが来た時のことです。

 むすこが後添えをもらってちょうど一週間目の時のことですが、小出さんが講演先から家へ帰って来ると、娘が、「かかあ、今度来た母ちゃんな、変なんでえ」と言うんですね。それで、おかかが、「なしたい(どうした)?」って言ったら、「あんのう、かかがいない間に、母ちゃんが蔵へ入って行って、かかのタンスみんな開けてのう、これはダメや、これは役に立つ、なんて言うてのう、かかのタンスの引き出しあけて……」て、娘が言うたんです。

 ここが、大きな壁やね。ここでどのように対処するか。もし小出さんがこの時、「あの嫁にはそういう癖があるから、子供もありながら二度も追い出されて来たんだな」なんて言ったら、小出さんの信仰は一遍に消えるわけです。

 その時、小出さんが自分の娘にどう言ったかと言うとね、「ああそうか、そうか、私の祈りがきかれたんだ。『今度嫁に来る人は私と一体だ、私とひとつなんだ。有難うございます、有難うございます』と私が一所懸命拝んでいたからその祈りがきかれたんだ。一体だと思わなんだら、嫁に来て一週間そこそこで姑のタンスの引き出しをみんな開けて、上から下までかき回して見るなんてことは出来るはずがない。素晴らしい嫁やな、私と一体なんだ、有難てえ」って、小出さんは、娘に言ったんですよ。

 ここに、小出さんのその徹底した信仰の素晴らしさがある。
 それで、その娘は兄嫁に、「おれのう、悪いことした。おめえさんが、家のおかかのタンスをみんな開けてるもんだから、おかかにそのことを話したら、『一体だからこそ出来たんだ、素晴らしい。いい嫁がきてくれたな、有難てえなあ、神様のお蔭やな、祈りがきかれたんだなあ』って。そういうふうに言われて……、
おれのう、おかかに言われるまで、あんたのことを“変な人だ” “変な人だ”と思っていたけど、すいませんでした」って言うたんですよ。

 これを聞いた嫁さんはどう思ったかわかりませんけれども、小出さんは目の前に現われる問題を全部そういう風にもっていって、解決して行くわけです。そこの小出さんの信仰の深さがあったんですね。  




 継母、継子の世界を断ち切る

 この小出さんに、和子という孫(当時、小学校一年生)がありました。何しろ村の学校まで二里有半もあるから、村の子供達は、みんな誘いあって十二、三人が一緒になって通っているわけです。

「かずー、学校行こう」って、その日も、いつものように子供たちが和ちゃんを迎えに来ました。ところが、この子は、後からきたお母さんに言いつけられて、廊下のふき掃除をしているわけです。ところが、その日は寝坊したと見えて、まだ言われている廊下の拭き掃除が終わっていないで、学校に行く支度も出来ていない。

 和ちゃんが、「あののう、廊下(の掃除)まだすんでいないんだ」と言うと、誘いに来た子供達が、「でもなあ、遅うなるから、早う行こうよ」と言う。子供達も、二里有半の遠い道を和ちゃん一人でやらせるのは不憫だと思ったんでしょう、早く一緒に行こうということで、「かず」「かず」と、和ちゃんの名を呼ぶ。

 そうするとそれをまた後添えのお母さんが、「おめえたち、先行ってくれ。かずはな、今朝遅う起きたから仕事が間に合わねえんだ。遅う起きて仕事が間に合わねば、誰かがその仕事をかわってくれるっていうような、そんな悪い癖を、私は和につけさせることは出来ない。だから、おめえたち先行ってくらっしゃい」って言うた。

 子供たちは「かず」「かず」と言いながら、振り返り振り返りして気にかけながら山を下って行くわけです。
 これを知った村のおばあちゃんたちは、講演先から小出さんが帰って来るのを待っていました。

 そうして、「おまえのう、生長の家の先生でございますなんて言っての、そこらあたりへ行って講釈してるども、おまえ、孫が、どげんな目におうているかわかるかい。こないだの朝のう、和はかわいそうでのう、おとなでも一人で山を下るのは気味が悪いようだというのにのう、それをみんなして一緒に行こうと思って家の子たちが迎えにいったら、今朝おそ起きて和はまだ廊下のふき掃除終わっていないから、おまえたちさき行けと言うた。これが、自分の生んだ子だったら、今日はおれが拭き掃除しとくから、おまえ早う学校さ行け、というのが本当やないけ。まだ八つやそこらの幼い子供やないか。かわいそうに」と、村のおばあちゃんたには、おかかに言うてきかせるわけです。

 ところが、村のおばあちゃんたちから話を聞いた小出さんは、次のように言ったのです。
「ああそうか、そうか、それは有難いことだ。おれは、どんなにそういう親を神様にお願いしていたかわからねえ。おめえたちも知っているように、あの子の前の母親は、病気知らずの丈夫な人だと思っていたのに、ポックリ死んでしもた。人間は、いついかなる時、どんなことがあるやもわからん。だからね、どんな厳しい境遇の中にあっても、自分が主人公として立っていけるだけの子供の魂を育ててくれる人を待ち望んでいた。

 世間体を考えれば、二度目のお母さんだからとか、後添えだからなんて言われると困ると思って、言いたいことも言わないで、いい加減に育てたら、子供達はどんな不幸になるかわからない。しかし、今度来た和子の母親は、自分の怠惰を人に助けてもらおうというような子供に育ててはいない。有難いことだ。やっぱり、神様への祈りがきかれたんだ」

 そして、小出さんは、次にかわいい孫たちを集めて、諄々と説いて聞かせたのでした。
「今日な、ばあが山登ってこようとしたら、村のばばどもが和のことをわしに言うて聞かせてくれた。だが、今の母ちゃんのことを厳しいとか、残酷だとか、人の言葉にのって決して信じてはならねえぞ。どんなに今の母ちゃんは素晴らしい神様であるかわからん。

 人間の幸せは、自分で作っていかなきゃなんねえ。どんな時でもニコニコして、自分の受け持ちがやれるような人間に、小さい頃から習慣づけられることくらい有難いことはないんだ。『辛い』と言って、やらないでいたら人間の値打ちは出てこんでな。神様はあの小さな木さえも、大自然の寒さ暑さを体験させておられるだろう。そして大木に育って行く。人間も同じことなんだ。どんな時でもニコニコして“神様の子だ、神様の子だ、仕事はすればするほど楽しい。仕事はすればするほど力が出る、嬉しいな、楽しいな、仕事は神様がさしていなさるのだ”と思って、たとえ庭掃除であろうが、何でも、いつもそう念じながら、仕事をしていると私達の中にいらっしゃる神様が顕(で)て来るんだすけな」

 このようにして、小出さんは、自分が継母継子の問題で間違ったと同じ間違いを孫たちに起こさせないようにしたのでした。孫たちに真理を伝え、生長の家の教えを生活の中に生きることによって、世間でよくいう“継母と継子”の世界を完全に断ち切って行ったのです。




(3)
Pass



Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】楽天市場から2025年大感謝祭12月19日から開催エントリーお忘れ無く
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板