【広告】楽天市場から2025年大感謝祭12月19日から開催エントリーお忘れ無く

生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

ホームページへ戻る

名前
メールアドレス
タイトル
本文
写真

URL
編集・削除キー 項目の保存


RSS
こちらの関連記事へ返信する場合は上のフォームに書いてください。

[262]  インターネット道場 ―――感激的体験記 ・ 小林春恵先生 「導かれて八十余年」 <その六> 「わが信仰の旅路」より
信徒連合 - 2015年08月16日 (日) 09時04分




 インターネット道場 ―――


感激的体験記 


 小林春恵先生 


「導かれて八十余年」 


<その六> 


「わが信仰の旅路」より




 主人との生活

 私と主人とが、結婚したきっかけにつきましては、すでにお話しましたが、このことにつきまして、谷口雅春先生は、『眞理』第三巻のなかに、「人間は物質に非ず、生き通しであると云う確かな証拠」と題して、次のようにお書き下さっております。

「小林昭三君は旧制の高等専門学校の在学生だった時分に生長の家に触れられたのでした。生長の家倫理学(『生命の實相』愛蔵版第七巻にあります)に限りない共感と悦びとを感じて入信せられたのであります。当時、小林君から自分の郷里の近くに誰か生長の家の講師はいないかと云うおたずねがあったので、本部から、当時、新潟県加茂町に住んでいられた二階堂春恵さんと云う地方講師を紹介されたのであります。それから、教えの上で小林昭三君は二階堂春恵さんと霊魂(たましい)の共鳴を得、いつしかそれが恋愛に発展したものらしい。その事については、私は深く知らないが、長岡市の古物商で重症の肺臓癌が、生長の家の教(おしえ)を実践することによって全治した勝本修助氏夫妻の媒酌により、正式に結婚することになったのであります」(二十一頁、原文正漢字使用)

 このように、主人と私の出会いについて、お書き下さっているのでございます。私達夫婦の結婚生活は短いものでございましたが、それは、実に味わい深い修行の生活でした。

 主人は、家庭を、霊魂(たましい)を研くための教えの道場として、厳しく生活しました。人を指導する際にも、我見の混じることをおそれて常に、「それは『生命の實相』第何巻何頁に谷口先生はこのように言っておられます」というように指導していました。

 一日も欠かさず谷口先生の本を熱心に読んでいました。
 ある時、新津の金子スイさんが非常に教化力がすぐれ、多勢の人を救っておられるので、私が、「金子さんは素晴らしいですよ。私も教化の点では負けそうです」と言うと、「生長の家の講師たるものが、勝負を考えるなどということはない。谷口先生のことを考えてごらん。どの弟子もどの弟子も、よりよく伸びることこそ先生のお喜びであるのだ。お前も、後進者の伸びるのが気にかかるスベタ芸人のような性根なら、み教えに対する背信だ。のびる人をどんどん押し上げてあげることこそ、布教者の第一使命だ。それが出来ないのなら、今すぐ講師をやめなさい」としかられました。そんなつもりで言ったんじゃなかったんですけれども……

 私はもう、伏し拝みました。そんなに短い月日の中でしたが、主人であり、師でもあったんです。




 主人の死の原因

 さて、これから私の主人が自分の死を通して、人間は生き通しであるということを教えて下さったことをお話ししたいと思います。

 私の主人の死の原因は、現象の言葉で言いますと、亜鉛版腐蝕液の薬害にやられたんです。主人の仕事は印刷製版業だったのです。それで、亜鉛版を腐蝕させる、薬品の中毒でやられました。

 ある時、工員の集団検診があって、主人もこの時、工員と一緒に検診を受けたのです。その検診にひっかかるんですよ。もうその時には、非常に重症だったんです。

 ただ、本人は、「人間は肉体でない、神の生命だ」という信仰を持っているために、肉体の状態というものにあまりとらわれていない関係で、まあ、咳が出ていたらしいんですけれども、そんなものどうとも思わないで、一所懸命に仕事をしていたんです。時間も足りないくらいに、日も夜も足りないくらいに仕事をしていました。

 そうして、検診の結果が出た時に、とにかく、「すぐ病院に来い」と言われまして、病院に参りました時にはもう、肺がほとんど話にならない程やられているというわけです。

そして、このまま仕事場に出れば、命はないだろうということになりました。
 その時、「それでは、今ならば医学上でなんとか処置が出来るのでございますか」と聞いたら、「もう医学上は、これだけ進んでしまったものに対しては、処置の方法はない」ということでした。それで、私の主人は「もう医学上、処置方法がないんですから、死ぬまで、医者の薬は一服も飲まない」といって、この世から、息を引き取るまでの間、一滴の薬も飲まないわけです。

 医者からそう言われてから、一年半ぐらいは生きたのですが、今度は、現場で仕事をいたしませんで、ほとんどふとんの中で寝る時間さえ惜しんで、一所懸命にいろいろ勉強やら、理論研究やらをしていました。



 主人の亡くなる前のこと

肉体が衰弱してくるに従って、主人の霊魂(たましい)が肉体から遊離しやすい状態になっていました。その亡くなる四十日前ぐらいから、霊界の霊魂と話ができるようになっていました。その頃に、次のようなことがありました。

 私の所へよく来ていた人に大藤(おおふじ)マキさんという人がいました。この人はご主人を早く亡くして、女手ひとつで、小間物をあつかいながら、女の子を四人も育てていました。子供達が立派に生長するのを楽しみに、苦労をものともせずに働いていたのです。子供達も、母親が自分たちのために一所懸命働いてくれているということを知っていますから、どの子もどの子もみな頭の良い、いい子でした。

 ところが、日頃活発で頭のよい大藤さんの末娘が、小学校六年生の頃のことですが、突然、学校で先生に話しかけられても、返事をしなくなりました。試験の答案も白紙です。

これは変だというので、学校から大藤さんの所へ連絡があった。大藤さんは、子供を食べさせるために夜遅くまで働き通しでしたので、子供の様子に気がつかなかったのです。それで、いそいで学校へ行ってみると、学校からの連絡の通り、末娘は、ボーッとした状態で、母親の言葉にも反応しません。

 それで、すぐ新潟医大で精密検査を受けました。その結果は、「骨の中の成分の必要なある要素が全然なくなる病気で、年と重ねて大人になるほど馬鹿の程度が深くなる。だが、現代の医学では処置方法はない」とのことでした。

 そういうことで、生き甲斐をなくした大藤さんは、力を落として私を訪ねて来たのでした。大藤さんからその事情を聞かされた私は、「どうしてあげたら良いのだろう」と思い、かたわらにいた主人に、「あんた、わからんかいな」と聞きました。

 その頃、主人は先ほどもいいましたように、霊界の霊魂と話が出来る状態になっていました。主人は「それでは、しばらく待っていなさい」と言って、娘の名前を心の中で静かに呼びました。そうしますと、娘にかかって来ている霊魂がわかってきたんです。それはタツという名前の霊魂でした。

 それで、主人は、大藤さんに、「タツという名前の仏さんを知っているか」と尋ねました。ところが、大藤さんは、「そんなタツというような名前の仏さんは知りません。御先祖様にそんな名前の人はいません」と言う。そこで、主人はもう一度、心を静かにして祈りましたが、やっぱり、それは、タツという名前の仏だという。それで、「自分の家の御先祖でなくても、なにかタツという名前の人に心あたりはないか」ということを、もう一度、大藤さんに尋ねました。そこで、大藤さんは、思いだしました。
 その霊魂は、この世に生きていた時、大藤さんの家の近くに住んでいた人でした。その人は、明治時代のまだ女性が高等教育を受けるというようなことがない頃の、女学校第一期卒業のインテリでした。財産はあったのですが、すこし変わったところがあって、異常なまでの潔癖症であり、人を寄せつけない人でした。ところが、どうしたことか、この人は、近所に住んでいる大藤さんの末娘だけは非常にかわいがったのです。

 それで、主人は、その霊魂に、「なぜ、大藤さんの娘にかかってきているのか」と、尋ねたんです。そうしたら、次のようなことがわかりました。

 タツさんの菩提寺の住職が、「素晴らしいお経本を寄付してくれたら、亡くなってから毎朝名前を呼んで供養してやる」と言うので、タツさんは、お寺へお経を寄付しました。

 その後、タツさんは亡くなりましたが、住職が、毎朝お経を誦(あ)げて供養してくれると約束したからというので、毎朝お寺へ行ったというわけです。ところが、あれほど約束したのに、坊さんは一度もお経を誦(あ)げてくれないというのです。約束の供養をしてくれないのです。それで、タツさんの霊魂は腹を立て、その坊さんにかかればよいのにかからないで、この世に生きていた時に、かわいがっていた大藤さんの末娘を頼って来ているというのでした。

 それで、大藤さんは、さっそく、菩提寺へ行き、お経の話をしたところ、住職はビックリしました。「いったい、あんたは、そのことを誰から聞いたのか。わしと、タツさんとしか知らない事なのに」というわけです。確かにお寺へお経は寄付されていたのです。それまで住職は、人間は死ねばそれまでと思っていたのです。

 それで、大藤さんは、お寺からそのお経をあずかってきました。それは大変な美術品です。大藤さんからそのお経を見せてもらった主人は、また、タツさんの霊魂を呼び出しました。そうすると、その霊魂が、「そのお経を燃やしてくれ」と言う。タツさんの霊魂は霊界で大変腹を立てている。そこで、主人は、「これは立派な芸術品だ。これを作った人はどれだけ真剣に真心をこめて作ったかわからない。自分が金を出したからといって、それを腹立ちのために燃やすことは許されない。そうやって、霊界から気ままに苦しみの念を送っているので、あんたが愛している大藤さんの娘が苦しみを受けている。霊には霊にふさわしい霊界としての修業の座があるから帰らねばならない」と言って、こんこんとさとしたのでした。

 ところが、タツさんの霊魂は、「そのままにしておくと、虫が食い始めてお経がボロボロになってしまいダメになるから、虫干してもらいたい」と言うのです。そこで、大藤さんは、「私の生きている間は、責任をもって、春と秋に虫干をする」と約束し、燃やすことは思い止(とど)まらせたのでした。そして、最後に、主人は、「今から世界中で一番ありがたい祝詞をあげるからね。その功徳で、あなたは修行の座に帰ることが出来るから」と言って、朗々と招(かみ)神歌(よびうた)を唱え、「イユーッ」と気合をかけたのでした。

 ところが、その翌朝のこと、大藤さんが起きると、末娘がすでに起きて机に向かい勉強しているのです。それ以来、この大藤さんの末娘の病気は治ってしまいました。




  主人の亡くなる時

 主人が、死ぬ時でございますけれど、ちょうどその日は、私と主人と二人で三条の自宅を離れて加茂という所に行っていたんです。その加茂にある家の二階は、主人が勉強するところにと、とってある部屋でございます。下の方は全部生長の家の集まりに使うために家賃無しでお貸ししている家です。ですから何の気兼ねのない家なんです。

 そこで、私の主人は息を引きとるんですけれど、誌友会を開いてお話しするのに、二人でそこへ行っていました。それで、話が終わって、大方の人が帰ってしまってから、主人が口を開けて、しきりに首をふる動作をしているんですよ。それで、私は「おもしろいことをしていられるな」と思って、「お父さん何しているんだね」と言いますと、「あのね、息が入らねえんだ」つまり呼吸出来ないと言うんです。

 そして、「業が自壊する時が来たね」って言うんです。肉体は終わる時が来た、死ぬ時が来たというわけです。

 それで私はびっくり仰天して、「それじゃ、死ぬんですか」と言ったら、私の言葉に対して、「死なないね、死が無いのに死ぬことはできないだろう」と言うんですよ。

 私はいつでも人に、「死はないんだ、死ぬことはない」って講釈していたけれど、いざその場になって、主人にそれを言われますと、返す言葉がないんですよ。それでもう、私自身がまるで硬直したように、二の句が継げないんですよ。

 そして、しばらくしてから、「お願いだから、お母さんが来るまで待っていて」って言ったんですよ。姑が来るまで、主人の母親が来るまで待っていてと。私の家に電話がございませんでして、近くの郵便局に行って電話を借りなければならない。そこへ人が飛んで行ってくれた。

 私は主人の側で、「『甘露の法雨』を読ましてもらおうな」って言ったら、私の主人が「うん」と言ったから、『甘露の法雨』を読み始めました。嬉しい気持で読めばいいのに、私は嬉しい気持で読まないで、
「ああ、結婚なんてみじめなものだ、結婚する時、まさか死に別れるってことを勘定に入れていなかった。私の予定しないその日にぶっつかってしまって、ほんとうにこんな悲しい思いのために、この日に会うために、私は結婚したのだろうか。悲しゅうて、悲しゅうてどうしようもない」

 と、私が泣き泣き『甘露の法雨』を誦(あ)げるわけですよ。主人はいやになってしまったんですね。
「春恵、やめなさい。お前はなんにもわからないんだね」って言ったんです。

「僕は乱れる人一番嫌いだから、もうやめておくれ」
 それは、私には切ない言葉です。
「お前は何んにもわからない人だね、僕は乱れる人嫌いだからやめれ」

 そんな言葉が、この世の最期の言葉として私にかたみに残ったとしたら、あまりにもみじめです。だから、私は必死に生長の家の神様にお願いしました。“神様、主人が喜ぶように落ち着いて読ませてー”親に泣きすがるような心で、瞬間声に出さないでお願いしました。そして、私は息を二、三回しましたら、大変気が落ち着き、
「お父さん、私、大丈夫、落ち着きましたから読ませていただきますからね、悪かったらやめれとおっしゃって下さいね」

 と言って、『甘露の法雨』を読みましたんですよ。私の心はしっかりして、“主人に最後の贈り物は、これ以外にないんだ”と思って、深い深い思いを込めて『甘露の法雨』を読んだのです。

そしたら、そこに饒(にお)村(むら)祐一(ゆういち)という医学博士がいたんです。この時の誌友会に饒村さんも出席しておられ、誌友会後もそこに残っておられたのです。

 なんとなく私は主人が気になって、以前に、
「お父さん、もしやのことがあると一大事だから、医者にかかっておきませんか。医者にかかっておらないと、死亡診断書がもらえませんからね」と言ったことがありました。

 そしたら主人が、
「春恵、医者にかかることが必要だと感じたら、かかってもいいんだよ。だけれども、死亡診断書が必要だからといって、かかる必要はないんだよ。死亡診断書が本当に必要ならば、必要なものは、必ずその時、間に合うように与えられるんだから。僕は、自分の持っている能力を、できるだけ多くの役に立つように働いてきたからね。だから必ず必要なものは与えられるんだよ。死亡診断書が必要なら死亡診断書の方から喜んでお役に立ててありがたいと言って来る」

 なんて言って笑っていたんですよ。あまり縁起のいい話じゃないですから、私も、そのことはそれっきりにしてあったんですよ。

 本当に神様は到る所に充ち満ちていて、一切の事を知っておられるんですね。私の主人が息を引きとるとき、そこには医学博士がおりました。

 そのうちに姑(はは)が、電話を聞いて駆けつけて参りました。
 姑(はは)は、部屋へ入るなり、「昭三、どうしんたんだや」と言いましたら、「おれは、疲れて疲れて、休みとうて休みとうてどうにもならない」と主人は言ったんです。

「遠慮しないで、春恵さんにふとんしけって言えばよかったのに」
 姑(はは)は、おしゃべりな私が人と話をして自分の大事な息子にふとんをしいてやらないで、話に夢中になってでもいたと思って、言ったんですけど、私はなんとなく、姑(はは)に、こんな事情ですとさっきからのことが言えない程、心の中はせっばつまっていたんです。

 そうしたらね、主人が、「来るのを待っていたんだから。じゃあ、休むかな。春恵それじゃあ、休むから『甘露の法雨』を読んでくれよ」と言うたんです。

 姑(はは)は、二階へ来る時に、『甘露の法雨』を読む私の声を聞いていたのでしょう、「春恵さん、今まで読んでいたでねえか、疲れているかもしれねえから私が読んでやろうか」と言ったのです。そうしましたら、「そうやな、春恵は疲れているかも知れんな。いや、僕は春恵の読み方が好きなんだ」って言って下さいました。

 生長の家の神様のお蔭でございました。
「春恵の読み方が好きだ」
たったこんな一言でも、最後の別れの言葉だと思えば、私にとりまして、それは生涯、宝玉のようにかけがえのないありがたい言葉なんでございます。

「それじゃあ、読ませていただきましょうか」と言ったら、「そうだね。しかし僕一人で大丈夫休まれると思うが、万一休まれなかったら頼むで」って言いましてね。
「おかか、それじゃ休むで」って、そうして、カクッとしました。これが私の主人がこの世から呼吸を止めた最期の瞬間でございます。

 饒村医学博士は、「ああ、僕は、ここに来ていて良かった。僕は喜んで、昭三さんの死亡診断書を書かせていただく」と言って、書いて下さいました。

 それで、その時、主人のために、歌をつくって下さった。その歌の意味は次のようなものでした。

「自分がお役にたてませんかと言った時、必要ありませんと言って、君はそのまま逝かれた。もう医者の手も必要ないと言われた。その時、自分としては寂しかった。せめて、自分としては、注射の一本も打ってもらいたいと言われたかった。が、君にはその必要もなかった」

 そんな意味の歌を二、三首、主人の死に添えて下さいました。
 そういうわけでございまして、私の主人の死を見ていたみなさんは、「不思議なもんだね、不思議なもんだね」って言うんですよ。死ぬ時くらいは、少しくらい変化があるのではないかと思ってたんです。それが、それまでしゃべっていて、「それじゃ休むで」なんて言って、本気で休んでしまった。肉体は休んでしまった。「ほんに苦しまなくたって死なれるんですね。やっぱりこれが寿命というもんだね」とみなさんに言っているんですよ。

 そして、それは九月の出来事でございましたので、主人のところへ、みなさん百合の花をたくさん送って下さいました。
 そうしたら、棺の中に納められた私の主人は、そうもやつれていないわけですよ。苦しんだ覚えもなければ、飯もあたりまえに食べていたし、排便も普通にやっていたしで、少しもやつれていない。百合の花がたくさんお棺の中へ入れられました。

 私は、お棺の中に手を入れ、首の下へ自分の手を入れて、もしや生きるかと思ってね、
「お父さん、お父さん、お父さん」と何回も呼びかけました。「お父さん、お父さん、春恵なんだけど、春恵がいるんだけど」それだって、なんにも答えるはずがないでしょう。

 で、死というこの事実、本当にそれこそ、お棺の中に入るさっきのさっきまで、打てば響くようになんでも答えてくれた主人が、死を境にして、その面影は変わらなくとも、もうなんにも答えてくれない、千里、万里を隔てた遠い人のようになった。私はその時、なんと死というものは恐ろしいものだと思いました。どうして死ぬんだろうかと思って。

 私は主人の寝棺のところへじっと顔をつけながら、「お父さん、もう何を言ってもわからないのね。春恵が、悲しい思いでここに立っているんだけれども、もうわからないんだね。あなたが大好きな大好きな『久遠いのちの歌』これから読ましていただく。もうあなたは、私にその喜びの答えをしてくれるということはないのねえ」と言いました。

そして私は、主人に届くやら届かないやら、あまりにもはかない思いを持ちながら、静かに読んだんですよ。

「是(こ)の身は霓(にじ)の如し、霓は久しく立つ能わず、須臾(しゅゆ)にして消ゆ……」

 そうしたらね、あの歌が終わる時に、不思議な事が起こりました。私の頭の上に、さらさらさらと風が吹いてきました。その風は、もしこの世に喜びの風というものがあるとすれば、まさに喜びを運んできたような、さわやかな、なんとも言えないさらさらした風が吹いたと思うと、私の胸の中へすーっと入るような気がしたんです。それて同時に、私は、“主人は死なない”とはっきりと思ったんですね。

 限りなくその妻を愛し、限りなく夫を慕(しと)うているその妻の思いというものが、その妻と夫の心が、肉体の死のいうようなはかないもので断絶されると考えたことが、どうかしていたということをすーっと思ってしまったんです。

“私は小林昭三の妻・春恵としている限り、昭三はけっして私を離婚する気づかいはない。私はいつまでも、いつまでも、小林昭三の妻、春恵なんだ”と、私はそこに本当に嬉しい妻の座を確立したのでございます。そして、私は嬉しくて、もうちっとも死んだと思えない。必要な時、呼べば、肉体という縛りがないから、答えて下さる。私にとって必要な時は、いつでも呼んで差し支えないんだという、そういう心が私に起こったんです。

 そこに山新田のおかか――小出タケさんもいました。加茂でのお話に来ており、最後まで残っていたのです。おかかもお棺について三条へ来ていました。

「おかか、お父さんに聞かせてもらいなさい。生き通しを聞かせてもらいなさい」と言ったんです。

 おかかは、いつもわからないところがあると、「昭三先生、ここわからねえから聞かせてくれ」って聞いていました。私の主人は深切に、そこはこういうことだ、これはこういうことだ、いつでも『生命の實相』を通して、必要な箇所を丁寧におかかに教えたものですから、おかかは非常に頼りにしていたわけです。

 おかかは、「昭三先生、タケでございます。タケでございます。タケは悲しゅうてなりません。これから誰に教えていただけるやら。どうかタケに教えられるものなら、教えられるということを、わかるように知らせて下さい」と泣きながら言いました。

 そして、おかかは意識がもうろうとしたようになって、あたかも眠っている人のようになりました。しばらく、そうしていましたが、私は心配になりました。無意識の状態で、こんなにしている所に、変な霊魂が寄って来たらと心配になり、『甘露の法雨』で背中をばんとたたいて、「おかか、おかか」って言うたら「はい」って言ってもとにかえりました。

そして、
「いつでも、昭三先生、どこでも、どんな時でも、お呼びして、ここわからねえって言えば、すぐわからせてくれるんですね」と言うのです。

 それですから、おかかは、いつでも講演する時になると、私の主人の写真を自分の前にちゃんと置いてしゃべっていたんです。

そこへ三条会館のママちゃんがハイヤーに乗って飛んで来た。この人は、私の主人を非常に尊敬していました。主人が死んだからと聞いて飛んで来たのです。

 そして、「先生、お前さんちの旦那さまでも、やっぱり死ぬんだのう」って、そこへカタカタと体を折ったように坐ったんです。そしたら、山新田のおかかが、「ママちゃんて、心配いらないんだて、あのね、春恵先生も私も、生き通しを霊風によって教えていただいたんだからね、だからママちゃん、いつでも昭三先生と言うと、昭三先生とつながるんだから心配いらねえんだ」と言いました。

「おめえさんたちはいいのう、そんな目に見えねえ霊風なんて信じられるども、おら、目に見えないものは信じられない」って言うわけですよ。

それで、私はね、
「お父さん、ママちゃんがね、目に見えないのは信じられないって言うから、目に見えるように、お父さん、知らせるってことは出来ませんか」って言うたんです。

 そうしましたら、しかばな――紙を細かく刻んで、わらで作ったしんにたくさん紙の花をさした造花――が、突然、内側の方だけ、サ、サ、サ、サ、と揺れて上にゆくとパッと止まるんです。あんな薄い紙の中の方だけで外側は絶対揺れない。中だけサ、サ、サ、サ、それも下から上へあがって、パッと止まる。それを何回繰り返したかわからない。

 それでみんなが、「あれ、あれ」と言っています。風はないし、外側はなんともないと、みんな言っている。私は、もういいだろうと思いましたから、「お父さん、ありがとうございました」「ママちゃん、わかっただろう」って言ったら「わかった、わかった」って言う。「お父さん、ありがとうございました」と言うと同時にパチッと止まったんです。





(4)
Pass



Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】楽天市場から2025年大感謝祭12月19日から開催エントリーお忘れ無く
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板