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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[3215] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第71回
信徒連合 - 2016年05月14日 (土) 10時40分



<再掲示>


インターネット道場――


「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 


第71回



マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。

「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。

また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。

インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。

そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。



******************





もっと霊界の知識を持ち伝えよう。現象界の出来事は霊界でその雛形が刻々と出来上がりつつあり!




先祖供養、および個別霊の供養



祖先供養及び霊魂祭祀の祭式及び儀礼

(『人生を支配する先祖供養』P.60)

<<生長の家は万教(迷信教以外の)にはいづれも真理ありとみとめるので、それぞれの宗教の儀式の伝統を尊んで他宗の祭祀の仕方を批判するつもりも、改式を勧めるつもりもない。霊魂祭祀の問題は形式や儀式作法よりも、霊的理解を得ることをもって中枢的な事項であると思うからである。(供養の順序方法等はP.61以降に説明されています)>>


(註・コメント)

上記引用の<<霊魂祭祀の問題は形式や儀式作法よりも、霊的理解を得ることをもって中枢的な事項である>>は、極めて重要な事であります。よく聞くことでありますが、お坊さんに毎月お詣(まい)りに来てもらっているから先祖供養は十分だ、毎月お墓詣りをしているから先祖供養は十分だ。と、考えている人が大勢いますがそうではありません。先祖供養の基本的心構えは、(1)御先祖への感謝、(2)日常語で書かれた「真理の言葉」を捧げる、(3)他人任せにせず自分自身で供養することであります。一つにまとめると、毎日の日課として、仏前(神前)に座ってご先祖の諸霊に感謝を捧げ、自分自身でご先祖の御霊を招霊して、日常語で書かれてあってその意味が理解できる「真理の言葉(その宗教の聖典・経典)」を読誦することであります。最高の「真理の言葉」は『聖経・甘露の法雨』であります。




霊による現実界への影響――


<憑依(ひょうい)について>

(『霊供養入門』P.231−234)


<<聖経『甘露の法雨』に次にような一説があります。「霊姿に甲乙あり、病める霊あり、苦しめる霊あり、胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊あり、心臓も有(も)たざるに心臓病にて苦しめる霊あり、」霊眼でみると「霊姿に甲乙あり」――即ち、霊の姿にも色々の状態がある。病んでいる霊がある。苦しんでいる霊がある。「胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊」もあるというのである。日本では死骸(しがい)を焼いてしまう。だから肉体の胃袋も一緒にやけてしまって、灰になっているから、胃袋は無い。それでも、胃病になって苦しんでいる霊がある。「心臓も有(も)たざるに心臓病にて苦しめる霊」もある。死骸は焼場へ行って焼いてしまったから、その肉体の心臓は無くなってしまっているのに、霊魂だけが、心臓病の続きをして苦しんでいるということがある。

「これすべて迷いなり。斯(か)くの如き霊、人に憑(よ)れば憑られたる人あるいは胃病を顕わし、或いは心臓病を顕わす。」そこで、このように霊界において迷っていたり、あるいは病気で苦しんでいる霊がいると、「なんとか救われたい」と思って、その霊が“頼みの心”を起す。この“頼みの心”は、親子とか孫とか親類の人とか、そういう親しい人や、感じやすい人に感ずることになる。つまり霊界を“放送局”とすると、現実界の人間が“受信機”になって感応するわけである。そして、胃病でくるしんでいる霊が「たすけてほしーい」という念波を孫娘にでも送ると、その孫娘が胃病になる。

あるいは心臓病で苦しんでいる霊魂が「救われたーい」と思って、その念波を送ると、それを受けた人が心臓病のような状態になるということになるのである。

 続いて『甘露の法雨』は、次のように説いている。「されど霊覚に映ずるさまざまの苦しめる霊は、第一義的実在にあらず、彼らは誤れる信念によりて流転せる迷いの影なり。」そのように霊眼によると、苦しんでいる霊があることが見えるけれども、その「霊覚」に見える苦しんでいる状態の霊魂は「第一義的実在にあらず」――つまり、本当は病気ではないけれども、迷いによって病気の状態を顕わしているだけである。従って、そういう霊魂に『甘露の法雨』を読んであげたら、その霊魂が救われて悟りを開き、病気の念波を送らなくなるから、それによって現実界の人間も救われるということになるのである。>>(P.231−234)




肉体は現実世界での“作業服”

(『霊供養入門』P.234−239)


<<われわれは「死ぬ」というけれども、実際は、霊魂は生き通しであるから第一義的には「死」はないのである。ところが、「現象的」にいうと、われわれの霊魂は「肉体」という、一種の“地上生活の作業服”を着て地上へ天降って来る。そして地上生活の“任期”を終えると、この「肉体」という作業服を脱いで、そして霊界へ行く。そこで、われわれが「死ぬ」という時期は、霊界から観ると、ちょうど“誕生予定日”に当るわけで、祖先の霊魂は、われわれが地上で子供の誕生を待つように霊界で待ち構えているのである。現実界からいうと「いよいよ御臨終でございます。お別れでございます」といって悲しむことになるが、本人が「人間は肉体ではなく、霊である」という悟りを開いていると、「死」は、「肉体」みたいな窮屈なものから脱出することであるから、「私は霊界へ行ったら、もっと自由自在になれるんだ」と喜び、霊魂が肉体に執着してしがみつくことはなくなるので、肉体からやすやすと脱(ぬ)ける。これは霊界における“無痛分娩”ともいえる。

 ところが「この肉体が人間だ」と思っている人は、霊魂が肉体に執着して、しがみついている。しがみついていたら、「この洋服脱がしてやろう」と思っても、なかなか脱ぎにくい。しかし、もう霊界へ誕生する時期が来ているから、いやでもこの“作業服”を引きむしらなければならない。このように肉体と霊魂の分離が難しい場合は、霊魂は“断末魔の苦しみ”というものを味わうことになる。しかし、その苦しみがあまりひどいと、神様の摂理で、ある程度以上の苦しみは感じなくなるようになっているので、霊魂は気が遠くなって無意識状態になり、その無意識状態のまま霊界へ誕生することになるのである。そこで、霊界で無意識で眠っているような状態にある間に、現実界では坊さんが来て戒名(かいみょう)をつけたり、死骸を焼場へもっていって焼いたり、土にうずめたりしても、霊魂はそういうことは一向に知らないということになる。

 ところが、ある日、目を覚ますと、霊魂には何でも見える。それは外套(がいとう)を脱いでいても目が見えるのと同じで、その脱いでいる外套を誰かが焼いたとしても、どこかへうずめたとしても、自分は見える。そして「私は生きておった」と思うのである。「生きておった」と思うと、今まで眠っていた間の「時間」というものは感じない。本当に熟睡していたら何日眠っていても、その間の時間は感じないのと同じで、起きると、寝る前の直前のことを思い出す。そして、気を失う前に「あ、肺炎だった」と思い出すと、肺炎の状態が、そこに“夢のように”顕われるわけである。現実界からいうと“夢のように”という表現になるけれども、霊界は「思う通りに顕われる世界」であるから、霊魂本人にとっては“現実に”肺炎に罹(かか)っているわけである。それで苦しみながら「今日はお医者さん来てくれないか。ドクターは来ないか」と思って待っていても、ドクターは来ない。そこで「仕方がない。家族でも呼ぶより仕方がない」というわけで、霊魂は一心に家族や親族を呼ぶのである。その“呼び声”は、霊には声帯がないから耳に聞こえる声ではないけれども、これは一種の“心の波”である。この“心の波”が、近親の親とか孫などにひっかかって、そこで近親者が病気の状態になるということになるわけである。(P.234−237)




『甘露の法雨』の功徳

<<このような迷っている霊魂に対して『甘露の法雨』を読んであげると、そこには「肉体も物質も、そんなものは無い。罪も病も無い」ということが書いてあるので、霊魂は「おやっ?」と気がつく。そして霊界では“現実に”自分には“肉体”がないのであるから、「肉体も何もないのに、病気の姿を顕わしていた」ということを聞かされると、催眠術をかけられてビッコを引いていた人が、術者に「さ、もう足は治った」と言われると、ちゃんと立ち上がるのと同じように、病気が治ってしまうということになるわけである。そうすると、霊界から病的な心の波を送っていた放送局が送信しなくなるので、こちらの現実界でもその病念の波の放送を受信していた人が癒されてしまうということになるのである。祖先の霊魂たちは、いろいろの種類の病気に罹(かか)ったままで霊界へ移転したのであるから、霊界からの影響による病気は「何病だけ」と特定するわけにはいかない。祖先が「何々病で死んだ」という病気の数だけ、霊界の病人たちから病念の放送が来ているわけである。>>(P.237−238)




霊界での時間のサイクル

<<ところで、霊界へ行った霊魂は、すぐに目がさめるわけではないのであり、中には二十年も三十年もねむっているものもある。霊界の時間のサイクルは、この現実界の時間のサイクルとは違う。だから、現実界で「三十年」というと、随分長いように感じられるけれども、霊界では「一分間のごとし」であって、大した長さではないのである。霊魂は、眠っている間は苦しみを感じないものであるから、心臓病で死んだ人の霊魂でも、この眠っているあいだは心臓病の念波をおくらない。ところが、現実界のサイクルで二十年なり三十年なりの時間がたって目を覚ましたら、まえの心臓病の状態を思い出して「ああ心臓が苦しい誰か助けてほしい」と思って、その病気の念波を放送するようになる。そして現実界の人間がその念波を受けたら、心臓病に罹(かか)るということになるのである。死ぬと同時に病気の念波を送るのではないのであって、目が覚めてから病念を送る。ところがいつになったら霊魂の目が覚めるかは決まっていないから、祖先の霊魂の中に病気で死んだ人がある場合には、現実界では、その放送を受けた時に、「突然に」病気が顕われるということにもなるわけである。>>(P.238−239)


(註・コメント)

この<霊界での時間のサイクル>のことは非常に大切な事でありまして、毎日の日課として心を込めて先祖供養をしていながら不都合な病気等が家族に起こって来る場合があるのは、遡れば多勢の御先祖様の霊魂の中には非常に長年月のあいだ霊界で昏睡状態でいてその霊魂が時期が来て覚醒されるケースがあるわけです。この間の実際の事情は各家庭によって千差万別であります。したがって、先祖供養はこれで充分だと考えずに継続してゆく事が極めて大切であります。ここまで行き届いて先祖供養のことを説かれている宗教家は開祖・谷口雅春先生のほかには中々見当たらないと思われます。



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