| [3240] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第73回 |
- 信徒連合 - 2016年05月16日 (月) 08時51分
<再掲示>
インターネット道場――
「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)
第73回
マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。
「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。
また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。
インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。
そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。
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もっと霊界の知識を持ち伝えよう。現象界の出来事は霊界でその雛形が刻々と出来上がりつつあり!
先祖供養、および個別霊の供養
誌友・鈴木友二郎氏による降霊会の記録
(『到彼岸の神示』帰幽の神示P.218−221)
臨終に何が起こるか
<<霊魂が肉体を脱出する際、高級霊は眼がさめたまま、スウーッと出て行って、霊魂自身が自分の肉体を上から見下ろして、「ああ、自分の皮袋はあんあ格好でひっくり返っているなあ、あの僕の外套(がいとう)もう少し上手に畳(たた)んでおけばよかったのに」などと思うこともあるのですけれども、それ程高級でない霊魂は意識を失って人事不省の状態で肉体を脱出します。
高級というのは、何度も生まれ変って、魂がみがかれている成熟せる霊魂のことであります。肉体人間でも成熟して老齢に入っているものは、あんまり熟睡しなくてもいいのであります。幼いものほど余計眠るわけです。赤ん坊などは、魂が幼くて成熟しておらんから、長時間眠る。段々大人になるに従って睡眠は少なくてすむようになるのであります。霊魂もやっぱり同じ事であります。意識が完全に目覚めたままで、死体を抜け出るのは、高級の霊魂だけれども、まだ幼い霊魂は、(註・幼いというのは、その肉体は大人になっておっても、魂がまだ何度も生まれ変っておらぬ、生まれ変りの回数の少ないのを幼いというのです)そういう霊魂は断末魔の苦しみで人事不省に陥ったまま霊界へ行くのです。
霊界へ往(い)って先輩の諸霊にいろいろと世話してもらって意識を回復して目をひらくと、潜水服を脱いだ潜水夫がやはり、水中と同じように眼がみえると同じように周囲が見えるのです。そして、死の直前の病気の時のその記憶が出て来るのです。その霊魂は肉体を抜け出た時は人事不省になっていて知らないのですから、自分が肉体を抜け出たという事を知らないのです。「死んだら何(なん)にも判らなくなる」と思っておった人の霊魂が、ハッと霊界で目が覚めて、そして何でも見えたり、記憶が蘇生(よみがえ)ったりしますと、その霊魂は、「自分は肉体のままで生きとった」と思うのです。それが多いのであります。
霊媒に霊魂を呼び出して研究してみますと、亡霊の80%位は自分の魂が肉体を脱して、肉体は焼場で灰にされていながら、肉体のままで生きていると思っているのが多いのであります。
上海(シャンハイ)の生長の家支部をしておられた鈴木友二郎という人の息子がそうでありました。なんでも船のマストの上から水上に墜落(ついらく)して死に、葬式も済み、父の家が移転した後、その霊魂が目覚めて父の友二郎さんを訪問したという話であります。>>(P.218−220)
物理的心霊現象について
<<或る日鈴木友二郎さんの息子さんが船のマストから水上に墜落して、目をまわして、ショックで死んでしまったのでした。友二郎さんは非常に悲しんで丁寧に葬式をして葬ったのでありました。そのころ青島(ちんたお)に藤倉夫人という生長の家の誌友で、物理的心霊現象の霊媒になれる婦人があったのです。その物理的心霊現象になれる婦人が上海に立ち寄った時に鈴木友二郎さんは霊媒に自分の息子を呼びだしたのです。
藤倉夫人というのは非常に物理的心霊現象に堪能な霊媒で、シャツなんかが、両手をしばられたままでシャツだけが脱げるのです。上衣はそのまま脱がないで、シャツだけ脱ぐのですから、むつかしいのです。手品ぢゃないのであります。シャツを破ってぬぐのならむつかしい事はないのだけれども、現象界の吾々には物質はあるように見えているけれども、こういう実験によって、「物質」というのは本質的には「無い」のであって、斯うして霊界の人間にとっては、「物質」を「無」として取扱うことができるのだということが実際に実験できるのであります。
この実験が誰にでも出来たらいいのですけれども、それは特殊の霊がやるのであります。これは霊がそのシャツを一遍霊界に引き込むのだということであります。一ぺん霊界に引き込んで、霊界でそのシャツを霊的流動体として取扱って自由に脱ぎ去り、それを物質界にもどして霊界からまた現実界に出してきてその実験会場へ抛(ほう)り出すのであって、物質界に於いて物質のままで、上着をを着たままでシャツを脱げといったとて脱げないのであります。そのシャツを霊界へ引き抜いていって霊的にそれを処置し、そしてそれを霊界から現実界に再び出すのです。それだから上に着ている着物そのままで、シャツだけが脱げるのです。だから、現実界と霊界とは自由に交通できているのであります。>>(P.220−221)
生きていると思っている死者の霊
<<兎も角、藤倉夫人はそういう事をやる霊媒でありました。その人が、上海(シャンハイ)にやって来たので、鈴木友二郎さんはその藤倉霊媒に、自分の死んだ息子を呼び出してもらったのです。すると息子の霊が、藤倉夫人の身体に憑(かか)って出て来た。父の友二郎さんが、「お前もう死んでいるんだよ」と言うと、「いや、私はこの通り生きている」と、その息子が言うのです。「私はね、船のマストから墜落してから一時人事不省になっていたが直きに目が覚めて、それからお父さんの家に帰ったんだよ。」彼は“直きに目が覚めた”と思っているけれども、昏睡状態の間は心が働かないから、本人にとっては時間が“ない”のです。だから、何ヶ月間も霊界に眠っておっても意識を恢復(かいふく)したときには直きに目が覚めたと思うのであります。息子の霊は続けて言いました。
「そして目が覚めて、お父さんの家に帰ったら、お父さんの家ね、空家になって戸が閉まっておった。それでお父さんは死んだんだなあーと僕は思っていたのです。お父さんはまだ生きていたんですか、それなら何処に往(い)ってたんです」と言うのです。その息子の霊は、自分の肉体が死んでいるのに、逆にお父さんの方が死んでしまって、それで家が空家になっておったと言うのです。
多くの霊魂の中には、自分が人事不省になっている間に肉体を火葬に附して既に肉体が“ない”ことを知らない霊魂があるのです。そこで鈴木友二郎さんは、「そんな事あるもんか、わしはこの通り生きているのだよ。あの頃わしはあの家を引っ越して今の此の家へ移って来ていたんだよ。お前は死んでいるんだよ、この通りお前の葬式のときの写真があるだろう」と言って葬式の写真を見せて説明すると、「いや、僕は生きている。この通り死んでなどおらん。」こう言って藤倉夫人の身体を慄(ふる)わして“生きている”ことを主張するのです。
「お前男じゃないか、その身体を自分の身体だと思っているけどさ、その乳房をさわって見い」と鈴木友二郎さんは言います。藤倉夫人は女ですから乳房が大きいのです。息子の霊は、それを自分の身体の如く触りながら、「ほう乳房があるな」と言う訳なんです。それでその息子はようやく、自分の肉体は死んで、今は霊魂だけで生きていて、藤倉夫人の女性の肉体を使って話しているのだと納得したと言うのであります。
「お前はどうして此処へ来ることができたのか」と訊(き)きますと、「この藤倉夫人の坊ちゃんが高い所におって黄金色の後光が射している。その坊ちゃんなかなか素晴らしい、その坊ちゃんが此処へ行けと言うから、僕は此処に来たんだよ」と言っているのです。>>(P.222−224)
幼くして死せる人間の霊が高級霊である実例
<<藤倉夫人の坊ちゃんというのは四歳で死んだのでした。幼くして現実界を去る霊魂は概(おおむ)ね地上生活を卒業したところの高級霊でありますが、これなどはその一つの例証であります。その坊ちゃんの霊は高い所におって、その霊体からは黄金色の光を放ってお母さん(藤倉夫人)を守護していたのであります。着衣のままで下衣(したぎ)を抜き取るなどのいろいろの現象を起すのは、この高級霊に配属されたその方面に才能ある霊がするらしいのであります。
こういう実例によって、霊というものは霊界に行って意識がめざめても、肉体を有(も)ったままで目が覚めたと思っている霊魂がたくさんあって、そのために、肉体の生活圏――物質世界に執着していて、霊界の行くべきところへ行くことができない――所謂(いわゆる)「浮かべない霊」が沢山あるのであります。
そういう霊は、「もう私は肉体ぢゃなかった、私は肉体の時代は終って霊魂だけになったんだ」という事を知るのが悟りの第一歩であって、自分は既に物質世界に属しないと知ると、物質に執着しなくなるのであります。現実界のものに執着しなくなると、霊的修養に励むことができるようになり、霊の向上――霊的進歩が得られるという事になるのであります。>>(P>224−225)
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