| [3262] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第75回 |
- 信徒連合 - 2016年05月18日 (水) 06時54分
<再掲示>
インターネット道場――
「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)
第75回
マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。
「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。
また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。
インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。
そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。
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もっと霊界の知識を持ち伝えよう。現象界の出来事は霊界でその雛形が刻々と出来上がりつつあり!
先祖供養、および個別霊の供養
特に、中絶児供養について
(『霊供養入門』(P.214−226)
自然流産と人工流産
<<自然流産は、その宿っている霊魂が、子宮内における体験を意識的に経験してそれを卒業し、もう再びその体験を継続する必要のない場合に、その霊魂が母体から去るのであるから、何ら不自然なことはないのであるけれども、人工流産は、せっかく生まれ変わる必要を感じて受胎してきた霊魂を強制的に霊界に復帰させるのであるから、これは大変な霊魂にたいする冒涜(ぼうとく)であり、大いなる罪を重ねることになるのである。それは恰(あたか)も、大学へ首尾よく入学した学生が勉強の最中に、本人の過ちにもよらず、本人の意思にもよらず、強制退学を強行させられるようなものであって、その霊魂は非常なショックを受けるのである。>>(P.214)
小児麻痺と人口流産児の霊との関係
<<人間は突如として殺される場合、その霊魂は、その殺害時の苦痛その他のショックによって、目を廻して人事不省に陥るのである。そして霊界に移行して後もその無意識状態はある期間つづく。その期間の長短はその霊魂の発達の程度によるのであって一様ではないのである。高級の霊魂ほどその無意識状態は短く、速く目覚める。未発達の霊魂は永く無意識状態を続ける。さて霊魂が霊界に於いて目を覚ましたとき(意識を回復したとき)すぐ思い出すのは死の直前の状態である。胎児が殺されて堕胎(だたい)せしめられた場合、彼の霊魂が霊界で目覚めると、自分が子宮の中で羊水(ようすい)の中に浮いていた状態を思いだすのである。そして自分がまだ胎児であって、手足が充分動かない状態であることを思い出す。霊界は心で思った通りの状態が、唯心所現的に出現するので、彼の意識的体験としてはそのような状態を具体的事実として体験するのである。しかし、母の胎内にいた時とは何だか状態が異なるのである。彼は誰かに救われたいと思う。誰かに縋(すが)りつきたいと思う。その思いが放送されて、それを不幸にして受信して受像した子供(または大人の場合も稀にある)は、水子(みずご)のような姿を自己の上に受像再現して、手脚が充分きかぬ、頭脳も明瞭でない小児麻痺的症状を呈することになるのである。人工流産児の供養によって、小児麻痺の治った例が起こるのは、その病気の背後にある流産児の霊が、聖経読誦の功徳によって悟りを開いて正常状態になり、その病的症状を放送受像させなくなるからである。生長の家の宇治別格本山に人工流産児供養塔が建立され、同様の霊魂を合祀(ごうし)して以来、小児麻痺患者が減ったのは事実である。>>(P.215−216)
・<(註・コメント)にもかかわらず、マサノブ君は人工流産児供養はすべての場合に効果があると云う事は出来ないとして、一部の対策とはなっても確実なものではないと懐疑的に考えられており、霊魂の事は現代社会の理性に反するとしているのであります。従って、マサノブ君は実際的には唯物論者であることがわかるのであります。>
ある奇病の治った話
<<流産児の霊魂の状態が、その霊波の放送を受けたために、流産児の羊水中にある状態を再現した不思議な病人の実話がある。 彼は、満州にいたとき重い腎臓炎にかかって医療によって治ったのであるが、その予後に不思議な症状にとりつかれた。彼は、就眠中に非常に多量の盗汗(ねあせ)をかいて夜は三度位ビショ濡れになった寝間着を取り換えなければならないのであった。満州の医者に相談しても原因不明で治療の見込みがないので、彼は日本へ帰ることにした。途中、大連を通過した際、当時大連に和田敬三という人が主宰している生長の家の大連支部へ立ち寄って話を聞き革表紙の『生命の實相』一冊を頒(わ)けて貰って船の中で読み日本へ帰ったら、真っ先に生長の家本部へ立ち寄って直接指導を受けたいと思って来たのだった。本部で流産児を祀(まつ)る形式や方法をきいて宿舎へ帰り、奉書(ほうしょ)の紙に流産児の名前を書いて宿舎の床の間に祀って、聖経『甘露の法雨』を二回、流産児の霊の悟りのために読誦して眠りについた。いつも三回も夜半に目覚めて寝間着を取り換えるのに、その夜にかぎって久し振りに朝までグッスリ眠ることができた。そして寝間着を取り換えようと思って見ると、少しもその寝間着が汗で濡れていないのであった。それきり彼のこの奇病は治ったのであったが、これは霊界で目覚めた流産児の霊が羊水の中に浸りながらいる状態を生前の記憶が甦って再生し、その水浸しの状態を霊波によって放送し、それを父親である彼が受像して、父親自身が恰も、羊水の中になお浸っている状態を再現して、全身ビショ濡れになっていたのであった。
以上は自然流産児の場合の胎児の霊魂の話であるが、人工流産児の場合は、堕胎用器具による外傷的または薬剤による障害を加えられた結果、死して半産するのである。そして肉体を脱出する直前の記憶をもって人事不省状態に入った霊魂は、霊界で目ざめると、その直前の記憶が意識によみがえる。「意識の状態」そのものがその霊魂が霊界で体験する「彼自身の状態」であるから、記憶に甦ったところの堕胎用機械による傷害苦痛(又は薬剤の刺激による苦痛)が、彼自身の霊界に於ける苦痛として継続するのである。例えばナイフで咽喉を突いて自殺した霊魂が、霊界で意識を恢復すると、霊界でいつまでも咽喉をついて苦しむ状態が再現して苦しむのである。それと同じく霊界で目覚めた堕胎児の霊魂は、堕胎器具で脳骨を突き刺して引き出したとすれば、悩骨に器具が突き刺された状態を意識の体験として霊界で具象化して、長くその苦痛を持続しつつ苦しむことになるのである。母親たる者、自分の胎児がそのような苦痛を霊界で永く継続するとしたら、甘んじて人工流産の手術を受け得る勇気が出るであろうか。>>(P.216−219)
驚くべき日本の“優生保護法”(現・母体保護法)
<<最近婦人のノイローゼ患者が殖えているということであるが、そのような患者が救われたいというので精神指導を受けるべく訪問して来た場合に「あなたは人口流産したことがあるでしょう」というと大抵当るのである。それほど人工流産は日本の若い女性の間に蔓延しつつある悪習慣となっているのである。何しろ、毎年正規の届出のあった人工流産数が最近では六十万人前後であり、未届け者がその倍数もあるというのであるから、毎年約百二十万人の胎児が闇から闇に葬られているのである。こんな悲惨なことを放置してもよいものだろうか。妊婦の中には、腹の中の子供が可愛くて仕方がないので堕(おろ)したくないのだけれども、夫や姑が「堕(おろ)せ、堕せ」と勧めるので、その勧めに抵抗し得ないで堕す女性も沢山あるということである。それは、現行の優生保護法が、「一人の医師がその婦人を診察して、この人が子供を産んだら経済上に困難を来たすと判断した場合には堕してもよい」ということを規定しているからである。医師が婦人の肉体を診断するのではなく経済状態を診断して合法的に堕胎(だたい)するというのだから、日本の法律も随分堕落したものだとおもうのである。これが果たして実際に優生の目的にかなうのだろうか。>>(P.219−220)
子供の非行の背景にある“流産児の怨念”
<<人工の場合も、自然の場合も、流産児の霊がまだ救われずに迷っていると、その迷っている念波が現実界に送られてきて、近親者や子供にひっかかることがある。すると子供が脱線したり、非行化することになる。特に、人工流産の場合は、中絶児の霊魂はそのお母さんや親を憎んでいる事が多いので、憎しみの念や、恨みの念を送ってくるのである。
これは何故かというと、前述したように、人間がこの地上に生まれて来るのは、自分で生まれようと思って来るのではない。生まれかわりを続けている生命に対して、神様が「この霊魂は今度はこの両親のあいだに生まれ変わらせてあげて、地球上のいろいろの経験を積ませ、魂を向上させてあげよう」とお考えになるのである。人間は、この神様の御心をうけて母親のお胎(なか)へ宿って来るのである。しかし、それを親の都合で、経済上の理由とか、世間を欺(あざむ)くために殺して出してしまう。すると霊魂にとっては、地上に生まれて来て、魂を磨かれ、より高い段階にまで向上しようと思っていても、それが妨げられるので、非常に憤慨する。そして復讐的にイタズラをする霊魂も出てくるわけである。こういう霊魂は、“念波操縦”とでもいうべき方法で地上に怨みの念波を送り、これに影響されて子供が親に反抗したり、勉強しなくなったり、あるいは非行グループの中に入って、親がどんなに注意しても非行を重ねる――というような現象が起こってくることになるのである。
このような場合は、流産した霊魂に名前をつけて、祀ってあげることが必要である。流産児に名前をつけるのは、霊界でも名前のない霊は、今まで名前がなかったので、呼ばれても悟りようがなかったし、いろいろと不都合が生じるからである。現象界でも名前がなければ、例えば学校で先生に呼ばれないなど、人と人とのコミュニケーションが断絶して孤立化してしまう。これと同じように、霊界でも無名の霊は孤立して霊的生長の機会を失ってしまうので、流産児にも必ず名前をつけて、位牌にはその名前を書いて、「あなたには今後こう云う名前を付けて呼びますから、その時、必ず祭壇にお出でください。」と申し上げる。「すると、私は『甘露の法雨』を読誦して差し上げますから聖経の真意をよく汲み取りて悟りを開いて霊の向上に資してください」と、このように聖経読誦の理由を申し上げることが大切である。すると、今まで名前がなかったので聖経読誦を聴聞する機会を失っていたのが、真理を聴聞する機会を得て霊が向上し、グレていた自分の子供が、正気にもどり、さらに優良児に変わってしまうような実例も沢山出てくる訳になるのである。>>(224−226)
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