| [3273] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第76回 |
- 信徒連合 - 2016年05月19日 (木) 08時06分
<再掲示>
インターネット道場――
「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)
第76回
マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。
「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。
また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。
インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。
そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。
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もっと霊界の知識を持ち伝えよう。現象界の出来事は霊界でその雛形が刻々と出来上がりつつあり!
先祖供養、および個別霊の供養
特に、中絶児供養について
(『霊供養入門』(P.220−224)
舞踏病が治った話
<<「舞踏病」というのは、患者がじっとしていようと思っていても、手が踊りを踊るように動いたり、自分の頭をたたいたりしてしまう病気であるが、霊供養によってこの舞踏病が治った例もあるのである。
これは九州の小学校で校長をしていた竹下氏の体験である。竹下氏は或る日、生長の家で舞踏病が治った実話を聞いて、「舞踏病というのは面白い病気だ。私も一つ、そういう病気を治してみたいな」と思っていたそうである。するとやがて、竹下氏のいる生長の家の支部へ実際に四十歳ぐらいの舞踏病の人がやってきて、「先生、これを直してほしい」と言うのである。竹下氏の聞いていた舞踏病の治験例は、患者が自分の親に非常な反抗心をもっていて「親を殴ろう」と思っても、実際には親は殴れないので、じっとその気持を抑えていた人の話であった。その人は「殴りたい」という気持を抑えていたら、手がひとりでに動き出したというのである。そこでその人の心を「親に感謝する心」に導いたところ、舞踏病は治ってしまったのであった。
竹下氏はそのことを思い出して、今度の人もやはり親に反抗して「殴ろう」などと考えているかもしれないと思って、「親への感謝」を起させるような指導をしたが、それでも治らなかったのである。そこでよくよく考えてみると、竹下氏は、そういう場合、自分が動かそうと思わないでも手足が動くような場合は、霊のの世界から遠隔操縦されていることがあると教えられていたことを思い出した。
そこで、「あんた、誰か知っている人に、迷っている霊魂、あんたを思いつめておったりして、そして死んだひと。そんな人はいないのですか?」と聞いた。すると、「私は青年の時代に、ある女性と恋愛して、そして結婚したいと思ったけれども、そういう田舎ではね、家柄とか何とかいうのがやかましくて、そして結婚できないで、悲しく別れた。別れてから、その女性が気がついたら妊娠していた」というのである。
これは戦前の話で、戦後の民主主義の時代では、こういうような未婚女性の妊娠を恥ずかしいと思わない人が多いけれども、戦前の封建的時代で、しかも田舎では、そういう“父(てて)なし子”を孕(はら)むということは大変なことだったのである。
そこでこの人が続けるには、「その女性は結局、涙をのんで海に身を投じて死んじゃったんです。それはね、死ぬ時には、私のことを思いつめておったとおもいます」というわけなのである。
そこで竹下氏は言った。「それじゃね、その霊魂の位牌をこしらえて、それで腹の中にいた子供にも名前をつけてあげましょう。今ここでは、仮に紙で位牌をこしらえてあげるから、私と一緒にこの『甘露の法雨』をよみましょう」。そして『甘露の法雨』の読誦を二人で始めたのである。竹下氏が前に座り、その後ろに舞踏病の人がすわった。すると、『甘露の法雨』の終わりの方の「人間」という項まで読み進むと、竹下氏の後ろの方で突然、バタッと人の倒れる音がした。それっきり、舞踏病の人の声はしなくなってしまった。竹下氏が読み終わって後ろを見ると、その人はその場に死んだように倒れているというのである。竹下氏は「これ、どうしたらよかろう」と困惑してしまった。
その時、竹下氏は私の書いた『耶蘇(耶蘇)伝』(イエス・キリストの生涯を戯曲に書いた作品。『生命の實相』第32巻収録)のことを思い出したというのである。その中には、ある人が癲癇(てんかん)で倒れているのをキリストが見て、「起きよ!」とおっしゃると、その人がムクムクと起き上がるという場面がある。その箇所を思い出した竹下氏は「イエスのまねをしてやれ」と思い、意識を失って倒れている舞踏病の患者に向かって、「起きよ!」と言った。すると、その人はムクムクと起き上がってきて、もうそれきり舞踏病が治ってしまったのであった。>>(P.220−224)
『流産児よ、やすらかに』・楠本加美野偏著
<<谷口雅春先生の御言葉にありますように、「業(ごう)というものは何処に実在しているかといえば、潜在意識の中につかまれているのであって・・・潜在意識を浄化すれば、個人及び家系に伝わるすべての罪業は消えてしまうものだということが証明された」のです。
ここが大切なところです。先祖が迷っているから聖経をあげて聖経の功徳によって先祖に悟って貰わないと罪業が消えないという考え方は迷いであって、自分の心を浄化すれば先祖からの罪業も消えるわけなのです。これは流産児についても言えることであって流産児があの世で迷っているから供養せねばならないというのは間違いなのです。胎児を殺したという罪の自己処罰として自分が苦しむのです。
ですから水子地蔵をつくって流産児をなぐさめてみても、高価な供養料を捧げて供養して貰っても自分の心の中に罪の自覚がある限り問題は解決できないわけなのです。・・・
私は富士河口湖道場へ転勤になりました。 霊峰富士のふもとにある道場は恵まれた環境にありました。それにふさわしく道場を浄めるため、『甘露の法雨』を当番制によって一日中読誦する行事をはじめました。すると観世音菩薩の像を寄付する人が次々とでてきました。『甘露の法雨』は観世音菩薩が谷口先生を通して書かれたものですから波長があって引き寄せられたと思われます。
あるとき千葉県白鳩会の有志が慈母観音を寄付して下さいました。中絶児供養の願をこめてつくられたものでした。それは昭和五十二年八月十八日のことでした。そこで私は、九月より今まで先祖供養と一緒にしていた流産児供養を別にして、流産児のためだけに私が祭主となってやるようにしました。それは戦後堕(お)ろされた六千万の中絶児の供養のためでありました。
このようにして、流産児供養を別にしてするようになりましてから、救われる錬成参加者が続出しましたので、私自身びっくりしてしまいました。何故そういうことになったのか、私自身不思議でなりませんでした。それは、後になり谷口雅春先生より次のような御教示を頂くことにより氷解しました。
一、諸家に関わる先祖の御魂と流産児の御霊とはおのずから位が異なるので、それぞれにふさわしき供養をする。
一、練成会で先祖の御霊と流産児の御霊とを合同で供養する場合には、“降霊の儀”において、まず諸家に関わる先祖の御霊達に降りて戴きたる後、「ただ今より、実相妙楽宮地蔵菩薩傘下にある流産児の御霊達に降霊して戴きます」とことわりて、流産児の御霊達を次に降霊し供養する、と。
つまり先祖供養と流産児供養を一緒にしていた為、先祖供養の気持で流産児供養をしていたり、その逆であったりして成果があがらなかったわけです。
先祖供養は感謝・報恩の心でやり、流産児供養は愛と懺悔の心でやることが大切なのです。
同じテレビ放送でもチャンネルが違えば、何も映らなかったり、検討外れの番組が映ったりするようなもので、一所懸命していても、なかなかその思いが届かず効果も上がらないということを、教えて頂いたのでした。>>(P.220−222)
堕胎は戦争の原因となる
<<殺した者が殺されるという原因結果の法則“動・反動の法則”は結局、循り循って、戦争となり、多くの人が殺されることになるのであります。何故、「殺したものが殺される」という因果の法則が、戦争の形をとって来るかと言いますと、そのような胎児虐殺の行為を敢えてする人の人生観の奥にあるのは、「この世界はどうせ弱肉強食の世界であって、相手を殺さねば自分が殺される」という哲学又は世界観があるからであります。
世界の軍備拡大競争も、この弱肉強食の世界観・人生観が背後にあってそれを動かしているのであります。「或る個人又は団体が栄えるためには、誰かが犠牲にならなければならない」――この様な世界観・人生観をもっている限り、自国の繁栄を画策するためには他国を侵略する事を辞せないと云うことになるのであります。
世界に平和を持ち来たそうとおもったならば、このような弱肉強食の人生観、誰かの繁栄のためには犠牲を必要とする如き人生観を排除して、調和のある人生観――この世界は神の創った世界であるから、完全に調和していて、犠牲などを決して必要としない共存共栄の状態が実相である――という生長の家式の人生観・世界観を全世界に弘め、胎児暗殺の如き「殺害の業」を重ねる行為は即時停止するようにしなければならないのであります。>>(P.209−210)
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