| [269] インターネット道場 ―――感激的体験記 ・ 小林春恵先生 「導かれて八十余年」 <その七> 「わが信仰の旅路」より |
- 信徒連合 - 2015年08月17日 (月) 07時25分
インターネット道場 ―――
感激的体験記
小林春恵先生
「導かれて八十余年」
<その七>
「わが信仰の旅路」より
物質無痛
主人が亡くなって、九日目から、私は、生長の家の講演に出かけていましたが、或る日主人の思い出のある加茂の家に泊まりたいと思って、「お母さん、私、加茂の部屋に泊まってきますからね」と主人の母に断わっておいて、講演が終わった後、加茂の家に行きました。そして、加茂の家に着きましたら、「そちらへ着いたら、大至急、帰ってくるように」との電話連絡が、小林の家からあったということを、区長さんから知らされました。
「何かあったんかな」と思いながら、とにかく大急ぎで家に帰って見ましたら、子供の良一が、熱を出して寝ているんです。夫に死なれて十四日、私の子供がそこに倒れているんですよ。
それで、私は、「良一、どうしたんか」って言ったら、「おっかちゃん、熱あるばっかで、せつのうねえんだ。おっかちゃん、心配ねえで」と言うんです。
それで、私が、「そうかい」って言ったら、子供が、「お父ちゃんがねえ、おっかちゃんがどこへ行ってても心配すんなって。おれが、治るまで絶対ここからどこへも行かないでいるから、安心せいって、お父ちゃんが言ったんやで」と言うのです。
私は、びっくりして、「おまえ、お父ちゃんの夢見たのかい」って言ったら、「おっかちゃんは、お父ちゃんがここに居なさるのが見えないのかね」と言うんですよ。
十一歳の子供には、私の主人がそこにありありと見えているのです。その幼い子を安心させようと思って、子供に見えるようにしているんです。
それで、私が、「そうか、そんなら、お父ちゃんは、そこにいなさるんか」って言ったら、「おかあちゃんには、どうして、お父ちゃんが見えねえんだ」って言うんです。
それで、「良一、お父ちゃんは、いつここへ来なさった」と言ったら、「わからねえんだ、おっ母ちゃん。おれ、熱い、痛いって言ってたら、お父ちゃんが、良一、落ち着いて、落ち着いて、『物質無痛、物質無痛』と言うてたら、痛みは止まるぞって言ったんで。だから、お母ちゃん、そこ痛かったら、『物質無痛、物質無痛』と言うといいんだね。その痛みは止まるんだよね」と子供が言うんです。
その時、私は、明らかに主人がそこにいることがわかったんです。というのは、私達は、「無痛安産」とか、「物質に感覚なし、知性なし」とは言っておりましたけれども、「物質無痛」という言葉は、『生命の實相』には出てこない言葉なんです。「物質無痛」なんていう言葉は、十一歳になったかそこいらの子供が、親が言わないそんな言葉を言うはずがありませんから、それはやっぱり、主人が、そこにいて、子供の苦しみを取っていたんだということが、私にはわかるわけなんです。
亡くなってから自分の戒名を書く
小林家の菩提寺は浄土真宗のお寺です。そのお寺の住職はなかなか有名な学者で、親鸞聖人が、「自分が死んだら、遺骸を鴨川へ流してくれ」と言われたことから来たのかどうかわかりませんが、この住職は、死んだ人間にお経を誦げる必要はない、と考えていました。だから葬式の時にも、自分は行かないで伴(ばん)僧(そう)さんを出すんです。私の主人の時にも伴僧さんが来ました。そして、その伴僧さんは、「釈昭三」という戒名を書いたんです。
それから六日目に、この住職が、小林の家にやって来て、小林の母(姑)に、 「おまえは、またあんにゃに死なれたってのう」 と言いました。私の方では、せがれのことを「兄き」とか、「あんにゃ」と言うんです。
「若いのに、かわいそうなことしたのう」 とも言いました。 それで、私はすぐに、主人が私のために書いてくれた原稿と主人の日記を、住職の所へ持って来てそれを見せました。その日記を読んで住職は、主人の母に、 「小林のおっかさん、いくら勉強しても、ここまでの心境に入るっていうことは面倒なものだ。おまえのところの息子はいい心境だったね。まあ、ここまで来たんだから、別に、早く死んだって悲しむことはなかろう。まあ、親は悲しかろうけど。まあ、おまえんとこのあんにゃの心境は素晴らしい。七日、七日には、俺がお経を誦げに来るから」 と言ったんです。
そして、その坊さん、七日、七日に来る時に、必ず、菓子屋からお菓子を届けさせたんです。お寺にあがったお菓子をもってきたと思われないようにとでも思ったのでしょうか、とにかく、菓子屋から直接届けられた。そうして、時季でもない梅の花を自分で切って持ってこられた。
そうしたら、私の姑(はは)が、 「春恵さんて、おれも随分お寺には多く死んだ人のためにお世話になったが、坊さんがのう、そっちの方から菓子持ってきたり、花持って来たりするなんて初めてだね。うちの昭三っておもしろいでのう」 と言いました。
住職は七日、七日来てくれましたが、三十五日になって、「俺が位牌を書き直す」と言って、今度は、「正導院釈昭三」と、自分で戒名を書き直しました。
ところで、それから二日経って、飛んで来ました。「小林さん、小林さん、大変だ。俺も坊主六十年やってるけれど、死んだ人間から、位牌の名前が違うから書き変えてくれなんて催促されたことはなかった。はよう、それを貸してくれ」と言うからね、
「どうしたんですか」と言いましたら、「これまでに、こんな目におうたことねえ」と言って、次のような話をするのでした。
お寺の庫裡(くり)にいたら、「ご院主さま、ご院主さま」と呼ぶ声がするから、「おう」と言って、あたりを見たが誰もいない。
また、「ご院主さま、ご院主さま」と呼ぶ声がする。 「なんだ、誰か俺を呼んだのか」と奥へ声を掛けると、奥からは、家人の、「何んにも呼びません」との声がしました。
ところが、「ご院主さま、ご院主さま」との声がします。 「だれだ、おれを呼ぶのは」と言ったら、「居(い)島(じま)の小林昭三です」との声です。居島というのは小林の家があるところの地名です。
「なに、居島の昭三。おまえ死んだんではないか」 「いや、死んでいませんよ。私の名前が違うから、位牌を持って来て、書き直していただきたい」 まあ、そういうわけで、位牌をもらいに来たとのこと、そして、 「なあ、小林さん、俺は、死んだ人間にはお経を読まなくてもよいと考えていたが、とんでもないことだ。これからは、死んだ人間に、しっかりとお経を誦げるよ」 と言ったとのことです。
新しく書き替えて住職が持って来た位牌には、主人の筆跡で、「生長院釈昭三」と書かれていました。自動書記で、自分の戒名を書いたのでした。
坊さんに読経の意義を教える
さらにもう一つ、お坊さんと関係ある話があります。 主人の友人に樺沢さんという、禅宗のお寺のお坊さんがいました。小さい子供の時分に、水に溺れようとしたところを私の主人に救けてもらったことがあるらしいんです。
それで、親御さんがいつでも、「おまえは小林昭三に助けてもろうた。昭三のお蔭で助かったんだで」と、言ったとみえて、主人とは仲が良かった。それで、主人が死んだというので、この樺沢さんがお経を誦げに来たわけです。
それで、樺沢さんが、仏壇の前で、一所懸命お経を誦げていたらね、 「樺沢、忙しいところをわざわざ済まさんかったなあ」 と言う声が聞こえた。自分の名前を言われたもんだから、樺沢さん、何気なく、お経を誦げながら、顔をあげると、仏壇の中にニコニコして私の主人がいるって言うんですよ。
それで、樺沢さん、びっくり仰天して、 「小林な、おまえ死んだんではなかったか」 と言うと、 「お前は、人間は死ぬともうそのまま、何んにも無くなると思っているのか。それだったら、おまえはどうして年忌したり、法事をしたりしているのか」 と言うたと言うんですよ。
年忌する限りは、法事をする限りはあくまでその霊魂が生きているということでなければならないわけですからね。 「それじゃ、昭三、おまえ、お経わかるか」 と言うと、 「おまえより、よっぽどよくわかるんだからしっかり読めよ」 と言うた。
それで、樺沢さんが、 「意味のわからないお経でもわかるかい」 と言ったら、 「真心で読んでりゃ、仏の慈悲に通うんえ」 と言うたと言うんですよ。 真心をこめて、お経を読めば、その真心が神や仏、高級霊に波長が合い、正しく導かれるということです。
それで、樺沢さんが、 「昭三、ありがとう、俺はおまえのお蔭で、お経を読む態度がわかったよ。ありがたかったでえ」 というわけです。
そしたら、私の主人が、 「樺沢、おまえ、土産持って来たか」 と言う。 それで、樺沢さんが、 「いや、土産なんか持って来なかった」 と言ったら、 「今日、春恵がここで生長の家の誌友会をして、二十二、三人集まるから、生菓子の二十五、六個買って届けておけ。午後の七時に俺も来て待っているから」 と主人が言うたと言うんですよ。
そんなことで、その夜、「昭三と約束しましたから」と言って、樺沢さんが、生菓子を持って来た。その時、持ってきたお菓子を食べた中に、前に越南教区の相愛会連合会長をしていた水野善夫さんもいました。
そういうようなわけで、私の主人は、お坊さんにしっかりとお経を誦げさせなければ、多くの死後の霊が救われにくいと思ったのか、とにかくそういう風に、死んでから、お坊さんに魂の生き通しを知らせる為に出て来たんです。私の主人は、お坊さんに、「人間死んでも死なぬ、生き通し」ということを知らせたのでした。
それから、それはちょうど主人の死後、十七日目のことでございましたが、講習会があり、谷口雅春先生がお越しになられた時に、私の姑(はは)、――主人の母でございますが、先生に、「小林昭三の母でございます」と言って御挨拶申し上げたのです。そうしましたら、谷口先生が、「おお、おっ母さんか。昭三君は、高級な霊魂だったね」と、おっしゃられた。
そうしましたら、それまで、「育てて、学校出して、そして、若いうちに死んでしもうた」と思って悲しんでいた、その息子に対する悲しみが、谷口先生から、「おお、あんたの息子さんだったか、昭三さんは。昭三さんは、高級な霊魂だったね、お母さん」と言われてね、そう言われたら、一遍に姑(はは)の胸がスーッと楽になったそうです。
「谷口先生に、そのように言って頂いて、ありがたかった。うれしかった」と姑(はは)は、喜んでいました。
この頃のことをよく知っておられる水野善夫前新潟越南教区の相愛会連合会長から、次のような思い出話を寄せて頂きましたのでご紹介して、この項を終わらせて頂きます。
小林春恵先生の想い出
前新潟越南教区相愛会連合会長 水野善夫
私が生長の家のみ教えにふれてから、今日まで、ズーッと、小林春恵先生とのおつきあいをし、小林先生を見て参りましたが、小林先生は、実に正直で、素直で、どんなことでも言ったことは必ず実践するという実行力のある人である。
御主人の昭三先生とは、短い結婚生活だったが、この昭三先生が、又、魂の高い人で、二十一歳年上の春恵先生との結婚の話がすすみ、お母さんが許されて、お二人は結婚されたのであるが、この昭三先生が、春恵先生を導かれたのである。
小林春恵先生は本部講師として、新潟県内をお話しして回られるようになり、昭三先生も、一緒について回られた。そして、家に帰って来ると、チェックしておいた良かった処、悪かった処を、春恵先生に教えられたのである。
もちろん、人のいる所ではそんなことはされない。なぜ、それが解るかと言うと、春恵先生が後から、私共に、そのことを教えて下さるからである。
越後の冬は大変寒いが、お二人で、『生命の實相』を読んで、よく勉強されたものである。春恵先生は、居眠りの名人であり、居眠りがはじまると、夫に、「春恵、風呂場に行って水を被って来なさい」と言われる。すると、春恵先生は「ハイ」と答えて、頭から水を被って来るというような、素直さである。髪をふいてもなかなか乾かないで、髪が凍る。それでも、また、居眠りがでる。私共が、遊びに行くと、平気で、笑って、そんな話を聞かせて下さる。そんな、気持の良い先生である。
また、子供のようなところがあって、非常に、人の言うことを信じられる先生である。
戦争当時、先生は一人で加茂に住んでいて、そこで、毎朝、早朝神想観をしていた。行事のあと、神想観に参加した皆さんに食事をご馳走される。ところが、日によって、予定していたよりも多勢の人になることがある。そうすると、オジヤ(越後ではゾウスイとも言う)の中に、水を入れて量を多くして、食べさせるんだそうです。だから、いくら多勢でも困らないと言って、よく笑って言っておられた。
そして、戦争中でも、食べ物に不自由したことはなかったそうです。心の優しい、大きな気持の先生である。
先生は、長い間、県外に出ていたので、新潟県の人にわすれられてしまいそうである。それで、ようやく新潟県に帰ってこられた先生に、もう一度、新潟県の光明化の為になってもらいたいと思う気持ちが、私の中にあったので、田村教化部長に話をしたところ、願ってもないことだと、喜んで下さり、春恵先生にお願いしたところ、喜んで承知して下さり、長岡の練成を手伝って下さることになった。以後、長岡練成ではなくてはならぬ先生になり、平成三年四月まで毎月指導して下さった。
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