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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[291]  インターネット道場 ―――感激的体験記 ・ 小林春恵先生 「導かれて八十余年」 <その十> 「わが信仰の旅路」より
信徒連合 - 2015年08月20日 (木) 09時49分





 インターネット道場 ―――


感激的体験記 


 小林春恵先生 


「導かれて八十余年」


 <その十> 


「わが信仰の旅路」より




 柳緑子ちゃんの話 

 さて、全国から多くの方がこの山形練成会に来て下さいましたが、私が新潟県出身のこともあって、新潟県では、若い時から一緒に生長の家を勉強した私の仲間の人達が沢山いて、そういう人達が私をなつかしがって、また慕って、新潟県から山形練成会へよく来てくれたものです。

 そんな私の昔からの知り合いに吉田ムツさんという人がいましたが、その吉田ムツさんが、この人を救うには、山形にいる小林春恵に合わせるしかないとの思いで新潟県の新津から、山形の練成会へ連れて来た人がいました。それは、柳緑子という人です。

 この人は実にかわいそうな人で、生まれた時からの半身不随で、四十八歳の時までろくに口もきけず、手足も動かずというような不幸な状態だったのです。生まれた時に、小児マヒで生まれたんですね。

 彼女の父親はお寺のお坊さんでした。母親は、はやり病(やまい)でそれまで健康だったのが、突然、手も足も不自由な体になってしまった。伝染病なのかどうか知りませんが、その頃、村で三人ほどの人が、そんな風になったらしいのですが、彼女の母親も不自由な体になってしまった。そのような不自由な体になってから生まれたのが緑子ちゃんでした。不自由な体の母親から、不自由な体をした子供が生まれたわけです。

それで、母親は、次に子供が生まれたら、また同じような体の不自由な子供が生まれるのではないか、と恐れたんですね。だから、彼女の母親は妊娠しないように、夫を極力避けたんですね。

 ところが、夫は三十代の男盛りです。それで、父親は夫を拒む妻に対して強く当たりました。そして、彼女の母親は、彼女が七歳の時に、彼女のことを心配しながら死んでしまいます。

 その後、すぐ父親は若い妻を迎えるわけです。その後添えの母親は――彼女にとっては継母ですね――緑子ちゃんを嫌って、彼女の面倒を見てくれないんです。父親も、継母の手前もあったためなのか、これも彼女に邪険にしました。かわいそうな彼女は不自由な体で、お寺の縁の下で生活していたということです。

 ところが、この緑子ちゃんが小学校の一年生になった時、机を並べて勉強したお友達が、熊木フジイさんです。この熊木さんは、早くから生長の家にふれていました。

 緑子ちゃんが三十歳の時、緑子ちゃんの父親がなくなります。それで、緑子ちゃんは、農家だった熊木さんの家に逃げこんで来るわけです。緑子ちゃんが、熊木さんの家に来た時、熊木さんの父親は、緑子ちゃんを家に置いてやれと言いました。そして、その後すぐ脳卒中かなにかで倒れて死んでしまうんです。ですから、熊木さんの家の人にとっては、緑子ちゃんを家において面倒を見てやることは、父親の遺言のようなものだったのです。

 緑子ちゃんのことについて、熊木フジイさんは、次のように話してくれました。
「緑子ちゃんは、生まれた時から半身不随でね。手足がしびれていて、転んで血が出ていても、痛みを感じないようで、肩が下がって足をひきずりながら歩いて、手も左で字を書いて、頭はよかったけれど、そういう体の不自由さで、結局耳も半分聞こえないから、発音もはっきり言えないような状態だったんです。ご兄弟の方にはいろんな優秀な方がおられたから、特別バカ扱いっていうか、そんな風に見られるから、なおさらしゃべらない。
何か言ったら、笑われるかという恐れでね。誰も引き取る人はいなかったんです」

先ほども言いましたように、熊木さんは早くから生長の家に入っていましたが、かたくなな緑子ちゃんには、いささか手をやいていたようです。
 ところが、昭和四十八年、緑子ちゃんが子宮筋腫の手術をして退院し、お姉さんの所へ来たのです。ところが、そこが、吉田ムツさんの家の近くだったんですね。それで、生長の家に熱心な吉田さんと熊木さんが二人して、緑子ちゃんを山形の練成会へ連れて来たわけです。

 新津の駅から列車に乗って、山形へ来る道中も大変だったんですね。同じ列車に乗っている男の人が、緑子ちゃんを見て、
「あれ、化物がいるがや」と大きな声で言ったんですよ。それを聞いた緑子ちゃんは、それはもう腹立たしいやら、悔しいやら、悲しいやらで、そのまま列車から降りて死んでしまおうと思ったらしいんですよ。その途中で列車から降りようとするのをなだめすかせて、吉田さんと、熊木さんは、彼女を山形の道場まで連れて来たのです。

 そうして、ようやく山形の道場へ着いたら、列車の中で、緑子ちゃんのことを、「あれ、化物がいるがや」と言った男の人も山形の練成を受けに来てたんです。

 私は、教化部長していてね、こんなこと言うと悪いけど、彼女の姿を初めて見た時には、
「こんな化物のようなもんが、どうして救われるだろうか」
 と、思ったんです。それで、私も彼女の姿を見て困ってしまって、なぜ、こんな人をここへ連れてきたのという気持もあって、彼女を連れてきた吉田さんに、「吉田さーん」と呼びかけました。

 そしたら、吉田さんは、彼女を連れて行く所はここしかなかった、彼女を救えるのは、もう小林春恵しかないというような気持がこもっていたと思うんですが、私の目を見ながら、哀願するように、手を合わせて、「センセーエ」って言ったんです。この時、吉田さんの切ない気持が私に伝わって来ました。

 そして、練成会が始まりました。浄心行が終わり、その次の日の折り合いの時でした。祈ってもらいたい人に前に出てきてもらいましたが、彼女も吉田さんに背中を押されて、みんなの前に出て来ていました。

 それで、私は彼女に、「おとうさーん、おかあさーんって言いなさい」って言ったんです。ところが、彼女は何も言わないで、黙っている。私が、また、「おとうさーん、おかあさーんと言いなさい」と言っても、彼女は、やはり知らんふりして、黙っている。

 その時、練成会には百名余りの人が来ていましたが、いくら、「おとうさーん、おかあさーんと言え」と言っても、彼女は言わないもんだから、私もなんだかばつが悪くなってしまった。ところが、その時は、私は彼女が余り口がきけないんだということを知らなかった。そんなこと知らないもんだから、彼女は私の言うことをきかないんだと思って、私は、もう彼女のことをなげてしまった。そこが、やっぱり神様のお働きだったんやね。

 私は、彼女を救おうと思って、「おとうさーん、おかあさーん、ありがとうと言いなさい」と、いくら一所懸命に言わせようと思っても、彼女は言わんもんだから、もう、彼女に言わせようとするのをやめてしまった。

 それよりか、私自身はなんの心配もない。口もしゃべれるし、何でも出来るんだから、私が自分の親に感謝しようと、その時、思ったんですね。そして、私は私の心の中で、「おとうさーん、おかあさーん、ありがとう」って、緑子ちゃんの親に言ったわけではなく、私の親に言ったんです。

 ところが、そのうちに、緑子ちゃんが、「アーッ!」って言ったんです。それは、きっと、彼女の父親と母親がこの機会に救わないとどうしようもないと、霊界で心配して、その思いが、通じたんだと思うんですが、彼女の目に、彼女の父親と母親の顔が、実相額の両脇に見えたんですね。それで、「アーッ!」と言った。

 彼女の目に、お父さんとお母さんの顔が、明らかに、はっきりと見えたわけなんですよ。お母さんに至っては、死に別れてから実に四十年ぐらい経っていますから、もう本当に、彼女自身も、親がそんなところに出て来るなんて思ってもいなかったんです。

それが出たとたんにね。彼女は、「ああ、自分は不具、不具というてたけど、自分の指は六本でもなかった。四本でもなかった。ただ、いうことをきかないだけだ」と気がついて、ワンワン泣いたんです。そして、
「おとうさーん、おかあさーん」
 と心の底から叫んだんです。この瞬間に、生まれてから四十八年間、積もりに積もっていた恨み憎しみがとけたのでしょう、彼女の肉体は忽然と癒されたのです。生まれてから一度も上がらなかったこの手が、上がったんですね。

 それから、緑子ちゃんの心が解けて、仏様になって来たのです。山形の練成会から帰ってから、一つ一つがもう完全な力が出て来たんです。

 そして、練成会から帰った夜、彼女はあまりにも嬉しくて、その夜は寝れなかったと言うんです。そして、何となく右の手にエンピツを持ちたくなって、エンピツを持って書いたのが、数え唄だったんです。自分で考えて書いたのではなく、スラスラッと出てきたというんですね。それはね、次のような数え唄です。

一つとや 人もわたしも神の子よ
     一日たのしい仕事です
二つとや ふたりの親御を大切に
     父母あればこそ人になり
三つとや みんなで仲よく生長の家を
     谷口先生のお蔭です
 
緑子ちゃんは、この数え唄に自分で振付けをして踊るんです。緑子ちゃんは、現在は、地元である新潟越南教区の長岡の練成会へ来て、教化部長の田村大先生の御好意で、毎月、練成会のお炊事のお手伝いをしたり、笑いの先導をしております。

 そして、私も毎月、長岡の練成会でお世話になり、お話をさせてもらっていましたが、私の話の後などに、緑子ちゃんが自分の体験を話したり、自分でつくった数え唄にあわせて、自分で振付けた踊りを踊ったりすることがあります。

 踊りも、最初の頃は、手や足の動きは、ただ棒をぶっきらぼうに振り回しているようなものでしたが、現在では、踊りにもしながついてきましたね。やっぱりもともと頭が良いんですね。

 とにかく、山形練成に来て救われてから、毎月、練成会にやって来ましたが、来る度に良くなって行くのがわかりましたよ。

 そして、緑子ちゃん、自分が生まれた時から、四十八年間、医者にかかっても救われんかったのが、山形練成に来て救われたもんだから、それで村中の病人の所へ行って、必ず救われるから山形へ行ってくれと言って、誘うんです。そういうようにして、緑子ちゃんに誘われて山形の練成会に来た男の人がいました。

 緑子ちゃんはその男の人を山形の練成道場まで連れてきたのですが、自分一人だけ先に二階の道場へ行ってしまって、その男の人が一階に一人でいるんですよ。それで、私は、
「会場は二階だから二階へ行ってくれんかね」って言ったら、その男の人は、「行かねえや、そんなところへ」って言うんですよ。それで、私は、「それでは、あんたは生長の家の話を聞きに来ようと思って、来たのではないのかね」って言ったら、「話なんて聞かんたってええや。緑子が、小うるそうて、小うるそうて、なんだって、一遍でいいから、一遍でいいからってこきゃがるから、一遍だけなんだぞってね、それでいいからと言うので来た」って言うんです。だから二階なんか行って話なんか聞かなくたっていいと言うのです。

 その男の人は、「自分は二十年も医者にかかりどうしで、薬を飲みつづけて、おもゆのようなものを食べている。緑子のやつが、おれが、おもゆを炊いてやるからと言うのもだから来たのに、おもゆなんか忘れてしまったようにして、自分はさっさと二階へ行って話を聞いている」って言うのです。

 それで、私は、その男の人と、ああでもない、こうでもないとしゃべくっていたら、到頭お昼の時間になってしまった。その男、朝から食べないで来ているので、腹がすいているわけです。それで、その男は、「おもゆが出来ていないから、かたいご飯を食べて、わしがきりきりまいして苦しんで、かたき討ちしてやろう」と言うのです。

いろいろな考え方があるもんだね。そういうことで、その男は練成会のご飯を食べた。そうしたら、腹が病むどころか、苦しくなるどころか、ケロッとしている。食物に対する恐怖心で二十年間も医者にかかりつけていたこの男はその時を限りとして、ついに医者を離れて、健康になってしまったんです。

 この緑子ちゃんに誘われると、皆断れないと言うんですね。その言葉、その顔、そのすべてから神の光が輝き出しているからでしょうね。

 この他、山形練成会に参加した方や山形在任期間中ご縁のあったなつかしい人達が、その折の体験談を送って下さったので、二、三、次にご紹介しましょう。




 山形練成会で救われた人々


  小林春恵先生との出会い  
<山形県新庄市> 五十嵐武子

 先生が、山形県の教化部長になられて、初めて新庄に御挨拶においで下さった時、私は新庄青年会の女子部長をしておりました。「小柄な、やさしそうな先生だなあ」という第一印象を受けました。しかし、何度も、御講和をお聞きしているうちに、段々とその印象は、「大人物で、霊的な雰囲気をお持ちの、愛深い素晴らしい先生だなあ」という感じを抱くようになりました。

 小林先生が、生長の家のみ教えに触れられた頃のことを、新潟弁で話される時、親しみの中に、本物の信仰生活は如何にあるべきかを魂の底に染み込ませて下さいました。実生活そのものが、即、信仰生活であることが、とても尊いことと思いました。

そして、御主人と出会い、結婚生活のお話しは、当時、二十歳の娘であった私には、それは感動的なロマンの高いお話で、私達に、素晴らしい夢を与えて下さいました。御主人の小林昭三先生の昇天される頃のお話――人間は生き通しの生命であることや、不思議な霊の世界の荘厳な体験を通されてのお話には、感動しました。

 また、山新田のおかか――小出タケ先生の一代記はいつお聞きしましても、真理の証人(あかしびと)として、涙を流して感動しない時はありませんでした。一度、小出先生にお会いして、お話をお伺いしたいものだなあと思いまして、当時、県の女子部長を拝命していた私は、女子部の一泊見真会の講師としておいで頂けないものだろうかと、小林先生にお伺いいたしましたところ、快くお引受下さいまして、現在の教化部が完成する前の、小白川町の仮住居の教化部においで頂いたことを昨日のことのように思い出します。

 小林先生に導かれて、多くの信仰的体験を受けられた方は多勢おられることと思いますが、その中から二、三の例を御紹介しましょう。

 新庄市福宮に住む沼沢吾吉さんは、奥さんの体の具合が悪く、勧められて二人で練成会に参加し、浄心行の時、遠い昔に借金のことで憎んでいる相手があったことを思い出しました。

そして、「あなたを許しました。ありがとうございます」と、一心に祈っていると、何十年も前からついていた首のところにあった大きなコブが、跡形もなく消えてしまったのでした。それまで、痛みもなかったので、手術をして取るまでもないと、そのままにしていたものだったが、目だつのでとても気になっていたと大変喜ばれました。

 現在、千葉県市原市に住んでいる本田こと先生も、小林先生に生長の家に導かれたかたですが、練成のお手伝いのために参加されて、浄心行を受講者と一緒に受けていた時、亡くなった御主人の声がして、「お前は、子供たちにとってはいいお母さんなんだがなあ……」と言ったそうです。

「なんだがなあ……」という言葉の中に、御主人の寂しさと悲しみが、心に伝わって来て、「お父さん、すいませんでした。行き届かなくて、ごめんなさい」と心から、謝りました。そして、浄心行が終わり、ふと立とうとした時、今まで、左足の膝に水が溜まって痛くて歩けなかったのが、それっきり消えてしまい、それ以降、膝の痛みに悩むことはありませんでした。

 私も失恋のショックから立ち直れなくて、ノイローゼ気味になり、生理も止まっておりました時、練成に行き、感謝行で、小林先生の心の底からの「お父さん、ありがとうございます。お母さん、ありがとうございます」の声と一緒に、父母の名前を呼んでいるうちに、体中がポカポカと暖かくなって、どんなにか、両親は心配していることだろうかと思い、涙が出て止まりませんでした。それっきり、過去を捨て今の自分を大切に生きる勇気が湧いて来ました。もちろん、生理の方も順調になり、良き伴侶に巡り会い、結婚することができました。

 これらの体験は、生長の家の真理を身をもって実践体現された小林先生の堅信とお人柄が生んだ数多くの体験のほんの一端でございます。




  小林先生のご指導の練成会で娘が救われる
<新潟県三条市> 結城万紗子

 あれは、今から十七年前、今年成人式を迎えた長女が、三歳の時でした。ようやく幼稚園に慣れてきた頃、風邪がもとで、腎盂炎という病名で、入退院を繰り返すようになってしまいました。

なかなか症状が好転せず、このままだと、将来、色々な病気を併発するとのことで、当時、その道の権威ある大学病院の教授を紹介していただき、主人と取るものもとりあえず、駆けつけました。そこで、半日以上も待たされ、ようやく私達の番になりました。娘と二人で診察室に入りまして、驚きました。先生方の他に、インターンの学生さん数人がゾロリと横たわる娘のベッドを取り囲み、なにやら外国語で話をしておられました。そのうち、泣き叫ぶ娘の手足を両側から押え込み、大きな注射器を、直接娘のお腹へ突き刺しました。私は、全くかわいそうで見ていることが出来ず、足がすくみ、主人にもう二度とここへ来たくないと言って、泣き伏してしまいました。途方にくれて、病院から家に戻り、主人の母に泣きつきました。

 母は昔から、生長の家の熱心な信者でした。母は、ニコッと笑って、「今からなら、山形の練成会がちょうど良いから、そこへ行き小林春恵先生をお訪ねしなさい」と言われました。ワラをもつかむ思いで、早速、見知らぬ山形の練成道場へ娘と二人で出かけました。

 それでも、途中何度か、現代医学以外の宗教なんかで、病気が治るのだろうか?もし又具合が悪くなったら、こんな遠い所で、私一人でどうしよう……などと思い煩いながら、期待と不安で、やっと道場へたどり着きました。

 道場へ入ってビックリしました。そこにあったのは、私が、今だかつて味わった事のない、何とも言えない雰囲気と、おやさしい小林春恵先生の笑顔でした。

「どうしたの?こげんかわいげな子、なんにも心配しんたっていいよ」 先生独特の語調で、慈愛に満ちた暖かいお言葉に、体中が熱くなって、胸にどっとこみ上げて来るものがあり、何もお話しすることが出来ず、ただただぬぐいきれないほど、涙があふれました。それを娘が、一所懸命ふいてくれていたのが忘れられません。思えば、この子は、お墓参りをして、一所懸命御先祖様にお願いして、嫁いでようやく五年目に授かった大切な子宝でした。

 必死の思いで、浄心行、先祖供養、感謝行、その他の行事に参加させて頂きました。練成会も終わりに近づいた頃、娘のあらゆる病気の症状が、一昼夜、出続けました。ひきつけ、発熱、嘔吐を続けるのです。一睡もすることなく夜が明けると娘は目を開け、ニコッと笑って、食事がしたいと言うのです。今までの事がうそのように、おいしそうに、何でも食べる娘を見て驚きました。

 小林先生も、「もう大丈夫、帰ったらお医者さんに行ってみなさい」と笑っておっしゃいました。この一週間の素晴らしい体験を、早く主人と母に知らせたい。はやる心で、山形の広い自然の中にたたずむ道場を後にしました。

 そして、半信半疑の心を押えながら、病院へ行ってみました。いつも渋い顔で応対される先生が、その日はニコニコして、「結城さん、尿がとてもきれいになりましたね」と、不思議そうに、「これならもう大丈夫、薬も一切飲まなくてもよい」とおっしゃるではありませんか。その帰り道は、天にも昇る気分でした。

 生長の家という素晴らしいみ教えを、大切な娘を通して、私達夫婦に教え導いて下さった神様に、家族みんなで拝みました。

 その後、次女、三女と子宝に恵まれ、主人は地方講師として、私も白鳩会の支部長として、生長の家のお手伝いをさせて頂きながら、毎日感謝の生活を送らせて頂いております。




(5)
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