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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[303] インタネット道場 ――― 三代目(自称)マサノブ総裁の「今の教え」は、開祖・谷口雅春先生の『御教え』ではありません。本当の世界に冠たる『御教え』の神髄を学びましょう。 <その二>
信徒連合 - 2015年08月21日 (金) 09時32分





マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いていますが、この本には、特に生長の家の発祥に関して、発祥時の数々の奇蹟に関して、生命的国家論に関して、霊と霊界と先祖供養に関して、奇跡的体験談と体験談の重要性について・・・これらの重要な事柄に関してマサノブ君は自分の考えに反するとして完全黙殺しております。だから、『生長の家ってどんな教え?』ではなくて、『マサノブ教ってどんな教え?』と改題すべきです。

そこで、開祖・谷口雅春先生の世界に冠たる『御教え』の神髄部分をシリーズで連載いたします、開祖・谷口雅春先生の御文章から理論理屈を超えた“いのちの言葉のひびき”を直接御感得下さい。



********************



 
昭和7年11月25日「本来生、不滅の神示」

<< 物質の束縛に縛られざるものを人間と言うのである。真の人間は「神の子」であって物質ではなく、肉体ではない。肉体ではないから物質の世界に出入する事もない。物質の世界に出入することがないから物質の世界より見れば人間は不生である。不生であるから滅することも亦ないのである。物質界は念に従って生ずる念の映像なるが故に、従ってまた滅すれども「人間」は本来物質界に生ぜざるを以って又滅すると言う事もない。人間は本来「生」である。「滅」に対する「生」ではなく、本来「生」であるから、老なく、病なく、死なく、破壊が無いのである。老とは「生」の衰耄を言えども、人間は本来「生」であるから衰耄せず老朽しないのである。衰耄は「生」にあらず、人間に非ず。衰耄なきを「人間」と言い、老朽せざるを「人間」と言う。病なきを「人間」と言い、「死」なきを「人間」と言う。釈迦は「人間」の生老病死の四苦を見て出家したと言えども、釈迦はそのときまだ「人間」を見ていたのではない。念の影を見て「人間」と思い違いしていたに過ぎない。釈迦が此の世を見て無常と観じたのも「真の人間」の世を観たのではない。それは無明の投影の世を観て無常としたのである。真の人間は無常の中にあらず、肉体の中にあらず、人間は永遠不死、金剛身、如来身、実相身、清浄身である。人間は神の子なるが故に本来「浄」にして不浄ではない。人間を指して不生不滅不垢不浄というのは真相ではない。般若の思想は無常想から実有想に到る過渡的思想であるから、不生不滅不垢不浄を説きたれどもこれは物質に比喩しての方便説である。人間は不生不滅ではなく、本来生にして不滅がその実相である。また人間は不垢不浄ではなく真清浄真無垢がその実相である。本来生、不滅、本来清浄真無垢なる人間の実相を知ったとき汝らは歓びに満たされて手の舞ひ足の踏む所をしらないであらう。 >>



これが「本来生、不滅の神示」の全文であります。まことに素晴らしい内容の開祖・谷口雅春先生にのみ降だされた神からの啓示(神示)であるに拘わらず、あろうことか第三代目(自称)谷口雅宣総裁はこの神示講義が書かれている雅春先生の御著書「神ひとに語り給ふ<神示講義・教の巻>」を「今の教え」から見て<内容上の理由>から相応しくないとして再販中止(事実上の絶版処分)との断を下したのであります。と言うことは、信徒にとってはこの神示の詳細を学ぶことも出来ず、教団自らがこの神示を捨て去ったことになるのであります。まさに開祖・谷口雅春先生に対する忘恩的行為であります。!!


 
「生長の家」の御教えは、宗教界における<大学院の教え>であると言われてきたのであります。その面目躍如たるものがこの「本来生、不滅の神示」の内容であるのであります。そこで次にこの神示の講義解説の要点を「神ひとに語り給ふ<神示講義・教の巻>」P.139−P.163より抜粋引用させて頂きます。開祖・谷口雅春先生は、この神示を四つに分けて順次解説講義されているのであります。



第一段<<物質の束縛に縛られざるものを人間というのである。・・・真の人間は「神の子」であって・・・肉体ではない。・・・物質の世界より見れば人間は不生・・・であるから滅することも亦ないのである。>>


(御講義の重要章句の抜粋)

<< この人間が「不生」ということが最も大切な真理・・・人間は肉体がオギャーと生まれた時に生まれたのではない・・・それ以前からをる・・・不生であるから死ぬこともない・・・この「不生の命」随って「死なないいのち」というものを知ることがすべての宗教の神髄であります。・・・「生じたところの肉体」を「自分」だと思っている限りに於いては、人間は死ななければならない・・・「不生」を得るには、その考えをクラリと換えることが必要・・・三百六十度転回になりますと、今まで物質だと思っていた世界が、物質ぢゃないのであって霊であることが判る・・・山川草木国土悉皆成仏――みんな仏の<いのち>の現れである・・・一切のものが「物質」ではなく、人間も「肉体」ではなく「物質」ではない・・・「新たに生まれる」「生まれ更わり」というものが成就する・・・世界そのものが変貌する・・・その新たに生まれ更わる行事が神想観であります。・・・「・・・もはやわれ物質に非ず肉体に非ず、霊的実在なり金剛不壊なり・・・われ霊的実在なり、金剛不壊なり、病むことなく老いることなく死することなし。・・・もはやわれ物質に非ず肉体に非ず、霊的実在なり金剛不壊なり。・・・今まで自分の生きていた<いのち>が、如何にも尊い素晴らしい厳かなる神の<いのち>であると言う自覚が起こってくる・・・自分の<いのち>が「不生」の命、生まれないところの「久遠の<いのち>であると言う事を自覚する・・・>>


 
第二段<< 物質界は念に従って生ずる念の映像なるが故に、従ってまた滅すれども、「人間」は本来物質界に生ぜざるを以って又滅すると言う事もない。人間は本来「生」である。 >>


(御講義の重要章句の抜粋)

<< 此の本来「生」というところが注目すべき焦点であります。人間は・・・「本来生」なんです。つまり始めなき初めから<生きて>いるのです。人間は生命(いのち)そのものなのです。現象界に生まれたり滅したりするのでなくて永遠に「生」なのであります。・・・どこまでも人間は「生」である・・・「不生の生」・・・消滅するっていうことはなくて本来の「生」・・・「絶対の生」・・・本来生きとおし・・・始めなき初めから永遠の生き通し・・・生まれたことがない・・・「不生の生」・・・現象界に生まれたと言うこともなく、「消滅する」ってことが全然ない。本来の「生」である。 >>



第三段 << 人間は本来「生」である。「滅」に対する「生」ではなく・・・本来「生」であるから衰耄せず老朽しない・・・「念」の影を見て「人間」と思い違いしていた・・・無明の投影の世を観て無常とした・・・真の人間は無常の中にあらず、肉体の中にあらず、人間は永遠不死、金剛身、如来身、実相身、清浄身である。・・・般若の思想は無常想から実有想に到る過渡的思想・・・物質に比喩しての方便説・・・人間は不生不滅ではなく、本来生にして不滅がその実相・・・不垢不浄ではなく真清浄真無垢がその実相である>>


(御講義の重要章句の抜粋)

<< ここには人間不滅の最高の素晴らしい真理が・・・「人間は死すべきものだ!病むべきものだ!老いるべきものだ!」と言う五官認識を真っ向から打ち破った・・・普通の人間では到底言うことのできない大宣言・・・「観」の三百六十度転回を完成・・・本当に実相を観た神人でないとこの様な言葉は言えない・・・これは私が書いたのではなく神様が書かして下さった・・・永遠に衰耄しない人間を見る・・・それを「本当の人間だ」と言う・・・「人間は久遠不滅である」と言ったら・・・この肉体が永遠に存続するのかと思っていたら間違い・・・それは肉体という影を見ている・・・単に皮袋を見ている・・・>> 
  
(御講義の重要章句の抜粋)

<< 肉体というのは念の影であって<人間ではない>というのが神様の教え・・・「念」というものが形に現れる。・・・人類というものはみんな「肉体というものは老いるものである」という念波を起こしている・・・その人類の念が誰の肉体にもあらはれる・・・人類の念(即ち人類意識)の具象化・・・見えている肉体が人間ではない・・・人間の念の影で出来た皮袋であって人間を見ないものである・・・「老朽せざるを人間といひ、病なきを人間と言い、死せざるを人間と言う・・・この大真理が本当に判ったら釈迦牟尼如来と同じ悟りを得たことになる・・・「人間というものは<死なない>ものだ!」・・・それを<根本に>自覚することが大切・・・そこから生活が本当に出発して行くのでなければ足が地に着いた生活だとは言えない・・・その時釈尊はまだ「人間と言うものを肉体だ」と思っておられた・・・釈尊が「人間」そのものを本当に見られた時に・・・「奇なるかな、奇なる哉。一切衆生悉く仏の徳相を具有しているのである」・・・即ち「すべての人間が久遠滅びざるところの仏である!」・・・換言すれば「人間というものは死なないものである」という根本を見られた・・・私たちは常に此の久遠滅びざる人間を見ることが必要・・・人間を観れば「人間<そのもの>」人間の実相を観ることが必要・・・実相を見るのです。実相です・・・自分の実相というものは神の「<いのち>」そのものである・・・神想観を修して、それを念じ「人間は老いないものである。死せざるものである。」と言う自覚を深める・・・そこから人間・久遠不滅の金剛不壊の信仰と言うものが生まれて来ることになるのであります。 >>



第四段 << 本来生、不滅、本来清浄真無垢なる人間の実相を知ったとき汝らは歓びに満たされて手の舞ひ足の踏む所を知らないであろう。>>


(御講義の重要章句の抜粋)

<< 生長の家は、これは人類最後の最高の教えをするところであります・・・救うと言っても色々あって・・・一時的救い・・・そんな救いは永久の救いではない。本当の救いというものは「人間は神の子である。老朽せざるを人間という。病まざるを人間という。死せざるを人間という。真清浄真無垢なるところの神の<いのちそのもの>が人間だ」と言うことを自覚させて永遠に朽ちざる生命の自覚を与える宗教が一番素晴らしい宗教・・・この最も高い救いを与えるのが生長の家であるのであります。>>


  
補足―――<< 般若の思想は無常想から実有想に到る過渡的思想 >>の解説(1)


「大般涅槃経解釈」<まえ書き>より抜粋引用させて頂きますと・・・

<< わたしは「大般涅槃経」をもって仏教経典のうち最勝最高のお経であると思っている。何しろ釈尊御自身が今までお説きになって来られたところの諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の消極的な説き方を裏返して、この世界は無常ではない常恒不壊の<実>の世界であるとお説きになられ、この世は不浄の穢土だとお説きになったのを翻してこの世界はこのまま<浄土>であるとお説きになられ、諸法は無我ではない<我>がある、その<我>とは<如来蔵>を意味するのだとお説きになられ、この世は今まで説いたような苦娑婆ではない、ここはこのまま極楽じゃとお説きになられたところの仏教それ自身の自己革命とも言うべき、厳しい革命的教典であるからである。

と言って、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静と、その時までに説かれた仏教が間違っている訳ではないのである。それはそのままで現象界の真実を説かれたものであって、人間は一度は、無常の世界を体験し、無常の世界に<常>なるものを求めて得られず、そこにこの世界を<苦娑婆>であることを体験しその<苦>のあらはれて来る根因について思索を重ね、ついに、本来無いところの<我>をあると思って執着して来たところに<苦>が生ずる所以を観察せられ、苦の根因そのものが「物質世界は実在するし、<我>というものも存在する」と言う迷妄から人生さまざまの苦が生じているのであると語られその迷妄は転倒夢想であり、色受想行識の世界は<空>であるという般若の哲学を釈尊は宣布せられたのであった。その空哲学の大成が大般若経である。

しかし釈尊はここまで説きたって、衆生一般にとっては、現象界の一切の存在を<空>であると否定しきったとき、生活の足場が失はれてしまうであろうことを多分考慮に入れられた上のことであろうと思うが、くだけ去る現象界に生活の足場を置かないで現象界がいかに崩れ去ろうとも、その奥にある金剛不壊の世界の足場に立って生活すべきことを示唆せられて、「法華経」の如来寿量品に於いて「衆生、劫尽きてこの土の焼くると、見る時もわが浄土は安穏なり」と常楽金剛不壊の世界を示し給うたのである。この「法華経」にその片鱗を示されたる常楽金剛不壊の世界を更に詳細に論じられたのが「大般涅槃経」なのである。その説かれるところ、いちいち「生命の実相」の説く真理を裏付けるものなのである。 >> 

  
補足―――<< 般若の思想は無常想から実有想に到る過渡的思想 >>の解説(2)

「大般涅槃経解釈」P.148−P.149より抜粋引用させて頂きます。

<<・・・大体、釈尊の説法は、成道直後、普賢菩薩に対して実相直視の教典「華厳経」を説法された後、それでは大衆にわかりにくいと言うので、大衆に解かり易い小乗のお経なる阿含部のお経から段々奥深い真理である大乗のお経をと説かれたのであります。それで天台大師は、釈尊の説法を次のように五時に分けて分類していられるのであります。

第一時  華厳   第二時  阿含   第三時  方等   
 第四時  般若   第五時  法華・涅槃

ここには、釈尊からいろいろの御教えが説かれるのは、段々後になるほど不純物が除かれ正味の生粋の精髄の教えが醇熟して説かれているのは牛から乳が出で、乳から酪が出で、酪から出酥が出、出酥から熟酥が出、最後に醍醐が出るようなものであって、十二部経から修多羅が出で、修多羅から方等経が出で、方等経から般若の<空>の哲学が出で、<空>の哲学から更に超出して無常・苦・無我・不浄にして<空>なる現象の奥に「常・楽・我・浄」の仏性が実相として実在することを説いた涅槃経が出てきたのであって、この涅槃経こそ最高の真理をといたものであると仰せられた。その涅槃経には「一切衆生悉有仏性」が説かれているのであります。「仏性とは如来のことである」「だから諸君も如来自身である」その如来のあらゆる功徳は無量無辺で、とても列挙して数え上げることは出来ないが、諸君自身のうちにその如来の功徳が宿っているのである—―と、人間の実相がそのまま如来であることを説き給うたのがこの涅槃経でありまして、誠に生長の家の所説を釈尊は裏書きしているのであります。>>




<注釈コメント>

第三代目(自称)谷口雅宣総裁は、実相人間は<本来生・不滅>なる事を説かない。講話の中で「実相」というコトバは使うがその内容は解説しない。現象中心の話で、「肉体は炎」「川とは水の流れ」と説き、<肉体の奥にある如来なる人間の実相・水の流れの奥にある理念存在たる実相の川>には触れない。(触れれば「原理主義」となる?)これでは、「朝に紅顔の美少年、夕べに白骨となる」「引き寄せて結べば柴の庵なり、解くれば元の薪なり」と言う<空仏教>と同じで、(自称)雅宣総裁は実有想の最高レベルの御教えを無常想の般若クラスヘとレベルダウンせしめているのであります。ああ!!




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