| [336] インターネット道場 ――― 感激的体験記 ・ 菊地藤吉先生 「サヨク共産主義からの廻心」 <その二> 「ここに道あり」より |
- 信徒連合 - 2015年08月25日 (火) 07時07分
インターネット道場 ―――
感激的体験記
菊地藤吉先生
「サヨク共産主義からの廻心」
<その二>
「ここに道あり」より
2 疲れをしらぬよろこび
帰郷してから、まず最初に妻に対して今までの我儘(わがまま)を心から詫びなければならないし、それに二万円の盗難のことも、そしてあれもこれも……全部話そうと思ったのであったが、二週間以上も留守にしたため仕事も重なっていて忙しく、なかなか落ちついて話す機会が見当たらないままに第一日は過ぎてしまった。
実は“生長の家”の教えを受けてからも、妻に対しては、あまりよい夫ではなかった。最初は優しくしようと、努力をしたのであるが、心算(つもり)だけで結果としては、むしろ“生長の家”の教えを盾(たて)にとって、妻の一つ一つのふるまいを批判していたのであった。少し失敗をしても、「あなたも『白鳩』(“生長の家”の婦人教養雑誌)を読んでいるはずなのに、どうしてこんな失敗をするのかね」 といった調子であった。
最初のころは、妻も、 「もっと優しく注意して下さったらどうですか。あなたのやり方は“生長の家”でないと思います」 と口答えをしたりしていたが、それがだんだん口答えをしないで、黙って涙を浮かべるようになり、ついには妻の方が、神想観、聖経読誦を熱心に実行して、こちらが何を言っても、ニコニコ合掌するようになっていたのであった。それだけに、飛田給道場から帰ったのを機会に、私も今までの態度は詫びてすべて生まれ変わって、新生の生活のために、妻に深く詫びる決意をしたのであった。
二日目の深夜、寝床に入ると、詫びるための心準備に、心の中で、<私は日本一やさしい夫である>と繰り返し念じた。自分の潜在意識にも、繰り返しよびかけて<明朝こそは、そのような優しい態度で詫びるのだ>と決意して眠りに入った。
三日目の朝、仏前で聖経『甘露の法雨』を読誦し終ったときであった。突然、妻が畳に手をついて、 「あなた、今までのことは赦して下さい」 と泣き伏してしまった。こちらが詫びようと思っていた矢先でもあり、あまりにも突然であったので、アッケにとられながら、 「どうしたの、留守中にでも、何かあったの」 と思わず言葉を出したとき、 「いいえ、留守中は何もありませんでしたが、今までの私は、あなたに叱られてばかりいて、そのたびにつらい、つらいと思って過ごしてまいりました。それに心の奥底では、あなたを恨むような気持になることさえあったのです。しかし今度、練成会から帰ってきてからのあなたは、何もおっしゃらないけど、今までのいっさいは、あなたが悪いのではなく<すべて私が悪かったのだ>と気がついたのです。そして、これからは、どんなことがあっても、あなたに素直に従って、日本一の優しい妻として、あなたに感謝できる自信がハッキリできたのです。どうか今までの至らなかったことや、少しでも恨んでおりましたことは、本当に赦して下さい」と、息をもつかぬような真剣さで詫びるのであった。
こちらで、あやまらなければならないのに、先を越されて、私は完全に敗北感を受けてしまった。 「いや、今までのことは私が悪かったのだよ。こちらこそ赦してもらいたい」 と、心の底から、素直にあやまるほかしかたがなかった。 「いや、私が悪かったのです。」 「僕がわるかったのだよ。」 二人がともに詫び合って、 「これからが新生だね」 と手を握り合った朝のさわやかさ。草花の香りをのせた凉風が、家中に流れこんで、まさにこれが地上天国というのか、極楽世界と表現したらよいのだろうか!夫婦ともに“生長の家”の教えを受けることができた幸福に、さらにいっそう感謝を捧げずにはいられなかった。それにしても、相手に教えようとも、責めようともしたのではなく、「自分こそ日本一の優しい夫になろう」と決意したとき、妻も同じ心になって詫びてくれた。これは唯物論の世界では、どうしても考えられることではないのであった。
「すべての人の生命は、神の生命において一体であるから、すべての人は自分の心の影なのだ」という“生長の家”の教えによってこそ実現できるのであり、これが人生問題解決の根理念であったのだ。
「実は、飛田給道場で二万円が盗まれて……」 と話しだしたときにも、妻は少しも顔色を変えずに、 「今まで闘争、闘争で奪った過去が、これによって、いっさい浄められたのだと思ってがんばりましょう」 と妻は、けな気にも励ましてくれるのであった。そのおかげで、二人ともどもに、“生長の家”に感謝しながら、なんの苦もなしに、飛田給道場へその金は返済できた。金や物質によってのみ、生活が支配されて心が暗くなったり迷ったりするのではなしに、心に感謝と明るさをもって、調和の中に生活すれば、その中から楽しく金も物も、必要に応じて生み出されるのが“生長の家”の正しい人間観であった。
それまでは、<別々の肉体をもった男と女が、世間のしきたりによって、仕方なく夫婦になった偶然の結婚だ>という長い間の唯物論的観念から、“生長の家”の教えによって、ハッキリと<神に導かれ、神に祝福された本来一体の“生命”が、仮に陰(女)、陽(男)に分かれていたのが“元の一体”に還ったのが夫婦であり、それだからこそ定められた二人が相会うのは、本来の半分が、他の半分を見出して“結婚”することによって、お互いに不足なところを相補い合って、完全なる“一人格”を生活することなのだ>ということが、しみじみと感じられたのであった。
そうだとすれば<妻の魂は、私自身の魂であり、私自身の魂は、妻の魂なのだ>ということが、極めて自然に悟られて、ただただ妻の行為のいっさいが、感謝しないではいられなくなった。 「なんというありがたい教えであろうか」と、毎日毎日同じことを話しながら感謝の明け暮れであった。そして、結婚後、はじめて楽しく、二人で北海道内の旅行をしたのもそのころであった。
そのような喜びの中に、私の住む村を中心とした誌友相愛会や青年会は、ますます数を増し、ぐんぐん盛んになっていった。ふり返ってみて、どのような会合、団体であっても、その中心になる人が、悦びと、愛と、感謝をしているときには、自然に集会も活発に発展することは間違いのないことであった。
私は、どこの集会へ出席しても、「飛田給道場での悦び」や「赦せぬ人を赦した体験」を語り「妻との拝み合いの嬉しさ」を一所懸命に話して廻ったのであった。長い間、求めに求めてきた人生の悦びを、本当に生まれてはじめて経験できたのだから、疲れを知らなかった。
飛田給練成から帰って間もなく、私は夜の隣村の青年集会に出席するため、夕方、自転車に乗って「ありがとうございます。ありがとうございます」と自然にでてくる言葉のリズムに、ペダルを踏む足も調和した楽しい気分を満喫しながら、田舎道を急いでいた。途中に、長い下り坂があって、ペダルを踏まないでも、速度が増して、まるでオートバイにでも乗っているような気持であった。相当にスピードは加わったが、ブレーキも踏まずに快く飛ばしたのであった。
ところが、坂の下は急なカーブになっていて、いつもなら十分に気をつける場所なのに、つい調子づいて、スリルを楽しみながら急に曲った。曲ってからフト前方を見ると、年の頃なら十七歳か十八歳ぐらいの、一見、農家の娘さんらしいのが、両手に大きな風呂敷包みを持って、天気のよい田舎道を、いかにも、のんびりと、すぐ目の前に歩いてきていたのであった。その距離は約四メートル!
「ハッ」として、手と足でブレーキをかけた。自転車も、ギューと吠えるような無気味な音をたてて、ザザザーと横すべりをするような、不安定さで止まろうとするのだが、それでもなお勢いが余って、その娘さん目がけて、突き進んでゆく。このままで行ったら、どうしてもぶっつかる!娘さんも、それに気づいて「アッ」と棒立ちになったが、どうにも仕方がない。
あわや、と思ったとき、<よしっ、転ぼう>と、とっさに決意した。<こちらが転びさえすれば、娘さんとの衝突だけは免れる。>そう思って、みずから体を横転させた。しかし、それは一瞬の出来事であり、一瞬の決意であったのだ。幸いに、娘さんとは、ぶつからないで、まさに寸前で私の体は横飛びに、道路の上に投げ出された。<ああ、ぶつからないでよかった>と思うのもつかの間、その転んだ場所は、田舎道によくある三メートルも高く土盛りをした道路なので、そのまま道路の横下へ、斜めにズルズルと滑り落ちた。<下まで落ちないように、なんとか途中で止まる方法がないものか>と考えながら、自転車のハンドルを両手でシッカリと握ったのであったが、途中ひっかかるものもなく、自転車もろとも、とうとう道路と、畑との間の溝下まで落ちこんでしまった。
おまけに、仰向けに落ちた私の腹の上に、続いて落ちてきた自転車が乗っかって、ハンドルを下に車輪を空に向けて、クルリクルリと空廻りしだしたのであった。溝には多少の水があるらしく、背中がヒヤリとしたが、<本当にぶつからなくてよかった。もしも、あの娘さんと正面衝突していたら、今ごろどうなっていたであろうか>と思いながら、腹の上の自転車を、外そうとして、両足をバタバタ動かしていると、 「ワッハッハハハハハハ」 と突然大きな笑声が道路の上から降ってきた。見上げると、その娘さんが、溝へ落ちこんだ私を、道路の上からのぞきこんで、まことにも無邪気に、一所懸命に笑いこけているのであった。
なるほど、ふだんなら人間が自転車に乗るのが本当なのに、今は反対に、自転車が人間の上に乗って空廻りしているのであり、なんとか起き上がろうとして、両足をバタバタやっている恰好を、上から見ているのだから、これは滑稽には違いない。
しかし、<娘さんとぶつからないようにと思ったからこそ、自分から転んで落ちてやったのに、それを笑うとは何事だ。>私は急に腹が立った。<ぶんなぐってやろうか>と思ったが<まず起きて道路に上がらなくては>と苦心して、自転車を引っぱり上げながら、道路へ戻ることができた。
<娘さんは?>と見ると、もう大分遠くへ歩いていたが、ちょうどそのとき、私の方を振り返って、また「クスッ」と、忍び笑いをしたようであった。
「ちくしょう」 自転車で後を追いかけようかと思ったが、そのとき<いや、相手が笑えるくらいだから、よかったのだ。ぶつかっていたら、今ごろは、あの娘さんを病院にかつぎこまなければならなかったではないか。そう思って赦すのだ> と心の奥からの、ささやきが聞こえてきた。
<そうだ>とは思うものの、共産党員であった時代のことを思い出すと、あの頃は、自分たちが少しでも善いことをすると、それをデカデカと掲示板などに書いて、宣伝した習慣が、まだ心の隅のどこかに残っていて<このまま引っこんでしまうには、どうも腹の虫が納まらない>と思うのであった。せめて、「あなたのために、私がわざわざ転んであげたんだよ」ということだけでも、あの娘さんに知らせてやらなくては、という気持が頭をもち上げる。
恥ずかしいことではあるが、その時は、本当に、そのように思ったのだから情けない。けれども、やはりそのとき、谷口雅春先生のお話の一節が、頭にキラリと浮かんできた。
先生が、ニコニコ私をさとして下さるようであった。さらに『生命の實相』の「智慧の言葉」に書かれてあった言葉も、つぎつぎと私を取り巻いてくれた。「愛行を行なったことを忘れることが最上の愛」
<ああ、そうであった>と深く反省した。<もしもあなたのために……などと知らせたら、あの娘さんは、自分で笑ったことに対して、どんなにか自責で心を暗くすることだろう。あの娘さんは、なにも知らないで帰宅するのが一番よいことなのだ> と思い直すと、私の心も晴れ晴れしてきた。
幸い自転車も破損していないし、私は背中が濡れただけで、体のどこにも傷もなく、痛みもない。<それにしてもよかった。こんなときに谷口先生のお話や、『生命の實相』の真理の言葉が思い出されるとは、なんと幸せなことであろう>と、しみじみありがたく思った。
色づいた山の美しさと、空の青さとを、なにか知らん大きな感動で見上げたとき、「あの娘さんは、あなたに対する観世音菩薩だよ」と、天空からの声が、さらに私の全身を包んだ。
<そうであった。“生長の家”の教えを受けてから、少しばかりの体験をしただけで「いっさいの人を拝めるようになった」などと、誌友会などで、得意になって発表していたが、今日は「溝に落ちたとき、あのように笑われても、笑った相手を本当に赦すことができるようになったかね」と観世音菩薩が、あの娘をとおして、私の拝めるようになった程度を、私自身に知らせにきて下さったのであった。>
そのように思うことができて嬉しかった。神は、あらゆる所に満ち給いて、あらゆる機会に導いて下さっているのだ。無限の魂の向上のために……。
<ただ、その導きを、導きとして受けるか、恨んだり憎んだりするかは、その人の心次第なのだ。>私は、もう一度、あの娘さんの後姿を見て、改めて感謝の合掌をして祝福したのであった。“生長の家”の教えを、さらにさらに深く感謝しながら……。
そして、<今夜の青年誌友会は、また特別に楽しいことであろう>と悦びいっぱいで、自転車を走らせた。夕焼けの美しい空を仰いで、口笛は大自然の中に無限に広がってゆくのを観じながら。
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