| [4051] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第56回 |
- 信徒連合 - 2016年07月08日 (金) 08時51分
谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――
@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』
A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』
★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。
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平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より B
<いのちは一つ>
私の尊敬する先輩のK先生は、生長の家の婦人講師として、多くの人達を真理によって指導していられる方である。そのために、息子さん夫婦のお家に落ちつかれるのは、2カ月に一回か3ヵ月に一回は良い方で、半年に2、3日ということもあるらしい。そういうわけで、初孫の誕生後1年目あまりで訪問された時、幼い孫が脱腸で苦しんでいるのを見て、「ああ可哀そうに! 母親が真理を知ったなら、孫の脱腸も治るはず」と思われたので 『白鳩』誌(成長の家で編集している主婦向教養雑誌)をお嫁さんの前に出して言われたそうである。
「これを読んでごらん。そしたら、子供の病気も治るはずだから」 そしたら、お嫁さんの返事が、どうであろう。 「おかあさん、そんなことを言わないで下さい。そんなことを言われると、私はおかあさんを嫌いになるから……脱腸ぐらいは、少し大きくなってから手術したら、すぐ治るんですもの」
K先生は、その時、いと軽く答えられたそうである。 「ああ、そうだったね。よし、よし」 そして、その晩就寝前に、瞑目合掌して、しみじみとその日の出来ごとを反省された。
「私は壇の上からは『すべての人と事と物の光明面を見て、暗黒面を見るでない」と説いている。しかし、今日私の嫁に対して取った態度や言葉は、どうであったろう。真理を授けて親も子も幸福に、健康にと、祈る心は善意のほかの何ものでも無いけれど、その持って行き方は、聞く相手にとっては決して嬉しいものではなかった。相手に対する好意も感謝も認められない。その答えが率直に、はね返ってきたまでである。
さあ、今晩はこの瞑目合掌の中て 嫁と私との間の精神的交流を清めさせて貰いましょう。『○○さん、有難うございます。ありがとうございます。あんたは、私のたった一人の可愛い息子の妻、息子の半身として神さまからいただいた大切な大切な娘です。あんたがいてくれるので、精神的にも肉体的にも息子の生活に支柱が与えられ、安心立命しているのです。その上、孫まで与えられたのです。あんたは妻として、母としてのつとめを果たしてくれている掛け替えのない娘です。それは、どれだけ感謝しても感謝しても、し切れないもの、誰をもって代えることもできない、あなた一人だけのできる分野です。有難うございます、ありがとうございます」
合掌感謝していると、涙があふれてきて、たまらなくなったというのである。そして、思い出る顔も思い出る顔も、輝いている息子の顔と嫁の顔ばかりで おもいでる言葉も楽しいものばかり、うれしいものばかり。そんな時間がおよそ一時間ばかりも続いてから眠りに入って、気持のよい一夜が明けた。翌朝K先生は晴れ晴れとして、九州方面への巡講に出られたというのである。
そして、K先生は2ヵ月ほど後に、息子さんのお家へ帰ってこられた。すると、どうであろう。お孫さんの脱腸が、跡形もなく消えてしまっていたというのである。
驚いたKさんが、お嫁さんに「脱腸はどうした?」と尋ねられると「あれ、お母さんがあの晩、まじないして行って下さったのでしょう」と言われた。そこへ息子さんも飛んで来て「お母さんのまじないで 子供の脱腸が治ったよ。ありがとう」と大喜びで言われたそうである。
「平岡先生、悟らせてもらいましたよ。一つ心、これが真理ですね。神意ですね。地上34億の生命の源は一つと示されてありますね。夫婦が、親子が、一つ心になれば良いのである。誰からハイと合わせて行くか。嫁からでなければならぬ、子供からでなければならぬなどと、そんな定まりはなかったのですね。気のついたものから、生活に行じていけば良いことでした。ありがたいことです」 K先生は、合掌して話を結ばれたのであった。
<一切ハイで自由自在>
私を生長の家の教えに導いてくださった故寺田繁三先生は、子供が弱いと訴える人には必ず「夫婦仲がよくいっていないだろう。奥さんはご主人にハイとついて行きなさい」と言われた。商売がうまく行きませんと訴える人にも、子供の学校の成績がわるいと訴える人にも、娘の縁談が整わないと訴える人にも、いつも同じ返事をされたものである。
「夫婦仲がうまくいっていないだろう。奥さんはハイと主人について行きなさい。朝目が覚めたら必ず、ご主人にお早うございますを実行しなさい。それくちいのことが実行できないで、子供を丈夫にしたい、商売を繁昌させたい、学校の成績も良くしたい、就職や縁談もうまく運びたい、などと欲張っても、ちょっと無理だ」こんなふうに、ハイを強調されたものである。
そして、2回目に行くと「お早うございますを本当に実行しているか」と問いつめられる。だから、実行しないでは、先生の前に出にくくなるので、ハイを行ずるようになる。実行していれば、それに添うだけの答えも出るわけである。全く真理は厳粛です。 考えてみると、ハイの生活ほど、たくましい生活はないと思う。雨よし、風よし嵐よし。すべてに順応できる生活である。食事にしても、パンでは困る、メン類ではどうにも、という生活ではない。
夫はお酒がすきでは困る、舅は頑固では嫌だ、という生活ではない。すべてに順応して、すべてに合わせることのできる生活が、本当のハイの生活であって、これほど逞しい生活はないと思うのである。
NHKのテレビ。ドラマ『おはなはん』で有名になったドラマの主人公のモデルの方は、現在83歳とか聞いているが、あのおはなはんの魅力は、何よりも生活態度の逞しきにあると思うのである。頑固な舅さんに逢っても、間もなく「良い嫁女だ」と好かれる嫁になる。最愛の夫を一瞬の嵐に吹きちぎられるように失っても、すぐ決意あらたに立ち直って、子供達のために生きぬいた素晴らしい順応力は、偉大なるハイの生活である。これほど逞しい生活が、どこにあろう。日々に新たに甦って、逞しく美しく生きたいものである。それは、一切ハイの積みかさねから生まれる生活だと思うのである。
<ことばの神秘・大 丈 夫 経>
ある晩、村の若妻会を終えて、家へ帰ったのは、もう10時を過ぎていた。テレビのスイッチを入れて、始まったばかりのドラマを見た。戦後20年の母の記録6千3百何十通の応募作品中から第一位に選ばれた「大丈夫経」という記録映画であった。
話は、ある家の主人が、夕食後にわかの病気で息を引き取るところからはじまった。医者も間に合わない瞬間的な出来ごとであったが、主人は最後の息が切れるまで「大丈夫、大丈夫」と言い続けるのである。だんだん目が見えなくなり、耳も聞こえなくっても「大丈夫、大丈夫」と言いつづける。
もう声にならない最後の最後まで「大丈夫、大丈夫」と唇が動いている。その大丈夫は、自分は死なないという大丈夫なのか、それとも自分が死んでもあとは大丈夫という大丈夫なのか一切わからない。そして、医者がかけつけた時には、もう脈搏は消えていたのである。
未亡人には、男女6人の子供と姑、それに召使いの老夫婦の10人が残された。資産といっては可なり広い屋敷と家とが残されたが、他には別に目ぼしいものはなかった。
それからの未亡人には、夫の最後の言葉の「大丈夫、大丈夫」一つをたよりの生活が始まるのである。最初に召使いの老夫婦が「奥様、私達二人はもう、御給料も何も要りません、ただ今まで通りにおそばで仕えさせていただきたいのです」と申し出る。奥さんは「あんた達は、長い間よく仕えてくれたのに何の御礼も出来なくてつらいけれど、あとは私達は私達で何とかやって行くから、あんたたちは、あんたたちの道を切り開いて下さい」という。「だって私達がいないと、奥さんは御飯も炊けないじゃありませんか。お掃除も洗濯も出来ないじゃありませんか」といえば、「大丈夫よ、大丈夫よ。何とかなるのだから」と老夫婦の申し出をことわる。
6人兄弟の一番上が、20歳を越したらしい男の子であるが、こうした中に、何一つ協力の色もなく、「お母さん、なんにもない生活をどうするんです。僕は知りませんよ」などという。それでも、母は「大丈夫よ、大丈夫よ」をくり返すのみ。しかも、終戦後の物資不足の時である。お金があっても、お米が手にはいらない。彼女は親しい知りあいの知恵によって、自分の着物一枚を手ばなすことによって、彼女から見ると、相当たくさんのお米がはいった。
おどろいた彼女は、箪笥をもう一度あけて見た。亡くなった御主人の洋服ダンスを開いて見ると、素晴らしい英国製の洋服がズラリと並んでいる。彼女は、うれしくなって、「これだけあったら……」と、子供達に「あんた達、家にはたくさんのお米があるからお腹一杯召しあがれ……」と、いった具合。ところが一日分のつもりで炊いたものが、一食でなくなって、また新しい人生勉強がはじまるわけである。
そのうちに、世話する人があって、薩摩揚でも売ったらということになった。それで取りあえず門の脇の物置を修理して、商売を始めたのである。そのうちに顔見知りになった近所のおかみさんが、「今日は子供の遠足だけれど、何も弁当のオカズがないので、薩摩揚を3個どうぞかしてほしい」と言ってくる。「ない時はお互いさま」と気持よく出してやれば「ついでにお米も」と厚かましい。「では5合ほど」と答えると、「でも、主人が3日分、3升ほどかりて来いというので……」と、何のことはない商売しているとは名のみ。月末になって勘定して見ると、生活費を引けば、仕入れの勘定が払えず、仕入れの勘定を差し引くと生活費が出ないという有様であった。
「それではいけない、今少し売る品物をふやし、店の設備も大きくしなさい」とすすめられた。それもそうだと思い直して、箪笥をと開けて見ると驚いた。一物も残さず、きれいに盗られているのであった。手を震わして主人の洋服ダンスをあけて見ると、これまたきれいさっぱり何にもなくなっていたのである。家族一同が、腰をぬかさんばかりにびっくりしていると、一人が「そういえば、ゆうべ夜半に何かゴソゴソする音をきいた」と言い出した。すると奥さんは「まあ、泥棒さんは夜も働くのね……」と感嘆の声を発し、書物の置いてある室にかけ込み、かんたんな英語の本を取り出して一所懸命に勉強に取りかかった。
びっくりした家族は、さては生活を支える一物もなくなったので、気がふれたのではないか……と、うろうろするばかり。家族のそうした心配を外に、英書と頸っ引きの毎日が始まった。「お母さん、どうするの」と聞かれても、相変わらずの「大丈夫よ、大丈夫よ」をくりかえしながら……。
それが、たどたどしい英語でも一所懸命勉強して、当時大勢入国していたアメリカ人の深切なガイドになるためであると解ったとき、家族は感激した。まず、怠け者で、すべてに非協力だった息子が、「お母さん、僕は何をしたらいいのでしょう」といってくれた。「あんたは建築をやりなさい。今、日本には家を失った人がたくさんあります。少しでもその人達の足しになるように建築をやりなさい」と言うと「ハイ、そのようにいたします」と立ち上がってくれた。
つぎには、今迄の生活態度から一歩も出ることの出来なかった長女も「お母さん、私は何をすればよいのでしょう」と、相談をもちかけてくれた。「あんたは簿記をやりなさい、私もあんたもソロバンが下手だったから商売が出来なかった」といえば、長女も「わかりました。簿記をやります」と素直にきいてくれた。
次女は、それまでも母とともに一つ心で働いてくれたが、自分からタイプの稽古を志願して一所懸命になり出した。4番目、5番目は男の子で、2人は新聞配達を始めた。こうして盗難をきっかけに家族揃って新体制にはいり、一切が立ち直ったのである。
その20年間の記録を書いて応募したのが、2番目の娘さんで、お母さんとともにテレビにも出演して、「私の家は、何が来ても、何がおこってもお母さんの『大丈夫よ、大丈夫よ』に支えられてきたのです。だから私は、お母さんの大丈夫経と名づけているのです」と、話を結ばれたのであった。
私は、この話から言葉の神秘ということをしみじみ考えさせられたのであった。これが若しも「大丈夫」でなくて「もう駄目だ、もう駄目だ」であったら、どうでしょうか。決して、こううまくはいかなかったと思うのである。
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