| [352] インターネット道場 ――― 感激的体験記 ・ 菊地藤吉先生 「サヨク共産主義からの廻心」 <その四> 「ここに道あり」より |
- 信徒連合 - 2015年08月27日 (木) 08時58分
インターネット道場 ―――
感激的体験記
菊地藤吉先生
「サヨク共産主義からの廻心」
<その四>
「ここに道あり」より
4 危険、説教する動物
昭和二十五年の秋、谷口雅春先生が、北海道へご巡(じゅん)錫(しゃく)下さることが発表されると、当時、北海道の“生長の家”の教化責任者であった小山内(おさない)章(しょう)容(よう)本部講師から、「この機会に、地方講師の受験をするように」と懇切にすすめられた。
「まだ昨年正式に“会員”になったばかりなので、自信がありません」と返事をしたが、「君一人のために、特に試験を実施して下さる尊師のご愛念だから……」と再度すすめられた。
根室の山奥から、谷口先生の講習会場である帯広市へ、六時間以上もかかって、汽車にゆれて行ったときは、車窓から見る停車駅の町々が、かつての労働組合の闘争を指導した懐かしい町々であり、今の心境と比べてみて、まことに感慨無量であった。
憎めば憎むほど、闘えば闘うほど、すべての状態を困窮に陥れ、私自身も、<自殺するよりほかに道はない>と信じていたころを思い出すと、今、神の温かい愛の懐に抱かれ、心ゆたかに感謝できる悦びの生活をさせていただいているということに、表現できない感謝の心が、またしても湧いてくるのであった。
<いよいよ本腰を入れ、命がけで光明化運動に邁進するのだ。本当に生命をかけて……>帯広市が近づくに従って、決意もますます固まってくるのであった。
二日間の講習会は、一言も聞き洩らすまい、と最前列で拝聴した。
谷口雅春先生は、全く私一人にお話し下さるように「心の法則」から「万教帰一」そして、「人間は神の生命であり、本来罪なきもの」との実相を、愛深く諄々と続けられた。私は、あの飛田給道場での、ことごとを思い出しながら、なんだか夢中で、頬を伝わる涙を拭いもせずに、生命の奥底の悦びにうち震えながら、ただただ、「ありがとうございます。ありがとうございます」と、自然に小声に出るのを、そのままに受講した。
やがて、本当に、私一人のために講師試験が行なわれた。まことにもったいないことであった。そして、その結果は予期もしなかった“準教務”を拝命したのであった。
それからも、いろいろなことがあった。光明化運動上の成功も、失敗も。(ある時の誌友会では、神想観最後の大調和(みすまる)の歌を度忘れしたり……)しかし、どうやら、先輩、会員の激励援助によって、相愛会、青年会等の数も増していった。当時、釧路の“生長の家”連合会長であった石黒市郎夫妻も、自分の子供のように陰になり日向になって力づけてくれた。釧路、根室管内の相愛会へ出席することが大変多くなって、日々の明け暮れが、ますます張り合いのある連続であった。
そして、昭和二十五年十二月十八日、突然に“生長の家”北海道連合会長、前野(まえの)与(よ)三吉(そきち)氏から、「北海道全体の教化のため、北海道教化部の専属講師を委嘱したい」との相談を受けた。
職場のこともあり、今、釧路、根室の光明化の途上でもあるので、「よく相談の上で……」と申し上げて引き下がった。 <どうするのが本当だろうか。>真剣に祈ると、どうしても内部のささやきとして、大いなる念願成就として光明化運動が本来の使命であるという心が強かった。妻や、妻の親に相談すると、 「妻の弟が、もう中学校を卒業して、立派な青年になり、郵便局員として、業務も熱心にやっており、将来局長業務もできるので光明化運動一本に挺身してもよい」 ということで、自然に、職場の方は、心配がないようになっていた。
釧路の石黒連合会長に相談すると、 「釧路管内の光明化も発展の最中であるが、より大きな北海道全体のためなら……」 と快く推薦してくれて、いよいよ年の瀬も押し迫ってから、根室の奥地から、旭川(あさひかわ)市(当時生長の家北海道綜轄教化部は旭川市にあった)へ、あわただしく転居した。
後になって、釧路の石黒連合会長から、北海道綜轄教化部へ宛てた手紙(推薦状)を、前野連合会長が見せて下さったが、それを見て石黒氏の深い愛念を全身に感じて、思わず涙が出た。それには、 「釧路の私の家の垣根に咲いた、小さな菊の花が、広く皆様に観賞していただいて、少しでも多くの方々のために喜ばれるようでしたら、私どももまた惜しいという気持を、さらりと捨てて、心から喜んで皆様に差し上げましょう。必ず必ず大切に育成して下さることを信じまして……」 と書かれてあった。
「釧路の“私の家の垣根”とは、“生長の家の釧路管内”ということで、“小さな菊の花”とは“菊池”という意味ですね」 と、前野氏も感激して話して下さった。
このように職を辞すときも、教化上の転居も、どこにも支障なく、周囲の人々から祝福されて次の段階へ進める世界は、昔の闘争ばかり繰り返していたときには、全く考えも及ばぬことであったであろうに。
そのころ、しみじみ感じたことは<真理への精進は、一日一日が真剣勝負である>ということであった。少しでも愛行が足りないで、精進を怠ったときには、無限伸展なる神は、無限にいろいろの形をとって、深く深く私に反省を与え、私を導いて下さるのであった。
それは昭和二十六年の冬であった。網走(あばしり)市の寒い夜、“生長の家”の講習会は地元の会員が熱心に宣伝して、とても盛会であった。講演が終り、幹部の人々は、盛会であったことを喜び語りながら、人の少なくなった会場を掃除していた。
そのとき、 「初めて講演を聞きにこられた方が『ぜひ面会したい』と言っていますが、どういたしましょう」 と青年の幹部が言ってきた。会ってみると、六十歳前後の立派な老紳士であった。紳士はさっそく、 「私は青年時代から、古今東西のあらゆる哲学や、宗教を研究してきたものです」 と切り出してきた。私も尊敬の念をもって、 「それは、それは……それでご用件は何でしょうか。」 「いや、今夜のあなたのお話を伺っていると、万教は帰一であるという“生長の家”の教えは、全くそのとおりで、よく理解ができますが、神一元、善一元の世界であって、悪はないのだという話をされたが、それは私の考えと違うのです。」
私は、できるだけ、聖典『生命の實相』で読んだ個所を思い出しながら、知っているかぎり、“神一元”の世界について話をしたのであったが、 「いや、釈迦にも提(だい)姿(ば)がいたし、キリストのような方にも、弟子の中で師を売ったユダがいた。天(あま)照(てらす)大神(おおみかみ)にも須佐之(すさの)男(おの)命(みこと)がおられて対立したのである。したがって善と悪との対立しているのが、本当の世であり、宗教とは、その中で少しでも善なる日常を多く積み重ねるように説くのが本来の使命である」 と言う。
そこで私は、いよいよ『生命の實相』から外れたことを言わないようにと気を遣いながら、実相と現象の区別を話した。
「あくまでも、神の世界、本当の世界は善一元であるが、現象は心の影であって、善と悪との対立のニセモノであるから、最後には提姿も、須佐之男命も、本来の正しい姿に帰したのです。」
私も一所懸命であった。けれども、いっこうに相手は承服しないばかりか、次第に威(い)猛(たけ)高(だか)になって、ああ言えばこうと、大声で反駁(はんばく)してくるのであった。そうなると情けないことには、こちらも、いつの間にか、「いっさいを観世音菩薩として拝む」ことを忘れてしまって、“生長の家”の幹部たちが固唾(かたず)をのんで二人を見ている手前もあり、次第に興奮しながら、熱烈に議論を交わしたのであった。ついに老人は、 「そんなら“生長の家”も大したことを説いてはいないわい」 と言ったのである。
「ハッ」として周囲(あたり)を見廻すと、先刻から“生長の家”の幹部たちが、心配そうに私たち二人の論争を見つめているのであった。 <私の言うことに納得ができなくて、私を攻撃するならともかくとして……“生長の家”の悪口を>と思うとくやしくて<これは赦してはおけぬ>と心の奥はにえくりかえるようなのだが、口ではできるだけ優しく、 「谷口先生もね、昔はあなたのようなお考えもあって、『神を審く』という小説を書かれたこともあります。が本当の真理をお悟りになられて、“神の創り給うた世界には、本来悪はないのだ”という光明一元の信仰を説かれたのです。」
それなのに、またしても、 「生長の家もそんな程度か」 と全くバカにしたように、立ち去ろうとするのであった。私は、思わず大声で<どなりつけてやろうか>と思ったとき、急に左膝(ひざ)関節が,キューと痛んできた。これは“生長の家”の教えを受ける前に、憎しみと闘争の時代、冬期間、国鉄の駅に寝たりしてストを指導していたころ、病んでいたのであったが、“生長の家”の教えを受けてから、自然にしばらく全治していたのであったのに……。その痛さで、心の中に突如として反省の心が湧き上がってきた。
<左は目上を現わす、と“生長の家”では心の法則で教えている。年齢も相当上の人に対して、私は相手を見下して、最初から心の中に、教えてやるぞという高慢な心があった。それだから、どんなに口では正しいことを言っても、こちらの高慢な心が雰囲気となって感じられて、それで相手はこのすばらしい“生長の家”の教えを受け入れようとしないで悪口を言うのだ。>
それが解った。<これは大変なことだ>と気づいた私は“生長の家”の幹部の見ている中でつらかったが、老紳士に向かって、合掌して、 「申しわけありませんでした」 と心から詫びたのであった。相手も、「ギョッ」としたように振り返って、 「何ですかッ」 と言うので、 「実は、谷口雅春先生は、“人間は神の子であって、誰一人悪い人はいない”と教えて下さっているにもかかわらず、私は今まであなたを“わからず屋”だと思って、『教えてやろう』などと高慢な気持でおりました。そこであなたもきっと私の心を感じられて、そのために、“生長の家”の教えさえも疑うようになったのだと存じます。誠に申しわけございません。“生長の家”の教えは、絶対にすばらしいのですが、信者である私が至らなかったのです。どうかお許しください。
真剣にあやまることができた。そのときの心は<谷口先生、お許し下さい。“生長の家”の信徒の皆様、お許し下さい>と、もう一つの心でお詫びしていたのであった。
「万教帰一についての書籍はありますか」 と言うので、玄関付近の聖典頒布所で『生命の實相』の万教帰一篇を、 「どうぞごらん下さい」 と差し出すと、それを求められ、ほかに“生長の家”の聖典を二冊買い求められたのであった。私はホッとしたが、さらに冷汗三斗というような思いでもあった。“生長の家”の教えが、いかに正しくても、一人の信者である私の態度が間違っていたばっかりに、教え全体にまで累を及ぼすところであったのだ。
<それで今夜は、その私の間違いを気づかせるために、この老紳士が、私に観世音菩薩として、現われて下さったのだ。>なんという、いつまでも悟れない神の子であろうか。忘れないはずなのに、いつも大切なことを忘れていて……。しかし、それでも神は、私を見捨て給うことなく、こんなにまでして、魂の向上を導いて下さるのだ。
私は感謝一杯で、老紳士の靴を揃え、外套を後から着せかけてあげて、もう一度心からの合掌で感謝を捧げた。すると老紳士は、黙って私を見ていたが、 「明朝早くあなたの宿を訪ねてもよいですか」
と言われるので、承知した。翌朝、七時に私の宿を訪ねてきた例の老紳士は、部屋へ入るとすぐ、 「昨夜は、まことに相すみませんでした。多勢の中で、あなたに恥をかかせるようなことを申し上げて……」 と意外にも詫びるのであった。
「私こそ誠に申しわけありません。谷口雅春先生は、指導者になればなるほどいっさいの人の実相を拝むことができる、と教えて下さっておりますのに、あのような態度をとりまして……。それであれから、この部屋に帰ってあなたを観世音菩薩と拝んでおりました。」
「いや、帰宅して『生命の實相』を拝読しました。なんともはや、実にすばらしい本で、感激いたしました」 と言い、またひとしきり宗教論に花を咲かせたのであった。
そのうちに気づいたことは、私は昨夜と同じことを話しているのに、今朝は、相手が全く変わっていて、 「そうでしょうね。いや、そうでなければならない」 と、すっかり“生長の家”に共鳴してくれるのであった。 やはり相手は、神の生命において一体なのだから、口先だけでどんなに上手なことを言っても駄目で、こちらの心が本当に感謝の心になり、謙虚に、愛の心で相対したときにこそ、真意のみが通ずるのであった。
地方講師と言う、形の上での指導者になって、いつの間にか、自分で自分に酔ってしまって、拍手をされたり、「よいお話でした」などとほめられたりして、うっかり自分を「偉いものだ」などと慢心すると、それこそ天地がひっくりかえる。こうなると、相手は、そのまま従わねばならない言葉にさえ、善だ、悪だ、と言ってみたくなる。神へのへりくだりがなくなって、現象的なほめ言葉に、ついついあがっているときが、地獄へ墜落しているときであったのだ。
<あぶなかった。“説教する動物”になり下がっていたのであった。> いっさいは神様のおかげであったと、何事も神に還すことが本当なのだ。老紳士と話しているうちに、自分の心の渦巻きが聞こえてくる。老紳士は最後にこう言った。
「昨夜、あなたが、急に『ありがとうございます』と、私に合掌されたとき、実はドキンといたしました。家へ帰って『生命の實相』を読みながら“生長の家”は本物だ。拝み合う心こそ、真の信仰だと悟りましたよ。」 老人の顔は明るかった。
私こそ、このとき、ドキンとして、神の愛と、谷口先生のみ教えに限りなく感謝を捧げ、“説教する動物”に堕ちる危険を救い上げて下さった。恵みの光である“老紳士”を拝して、ただ、ありがたいと思うばかりであった。
|
|