| [4207] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第67回 |
- 信徒連合 - 2016年07月19日 (火) 08時09分
谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――
@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』
A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』
★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。
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平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より M
<受けとり上手きき上手>
昨年の1月18日、私は富山市白鳩会の新年宴会で、この不渡手形の話をしたのであった。 「どんな問題にぶつかっても、その受けとめ方如何が、結果の方向をきめるのです。1千万円の不渡手形に『もう駄目だ』と言えば、もう駄目になるのです。『素晴らしい。これで焦げつきの借金が払えたのだ。これからよくなる外ない』と受けとれば、そして、そのように言葉にあらわせば、事件はその方向をとって行く。これが言葉の神秘です」
ところが、それから10日ほど経ったある日、富山市音川町に住んでいられる城川夫人がやって来られた。 「平岡先生、ありがとうございます。あの新年宴会の時の、焦げつきの借金を払って、光のさし込む窓がひらくというお話は、全く私のためにして下さったお話でありました。あくる19日の午後、息子がしょんぼりと青い顔をして会社から帰ってきました。そして『お母さん、お腹の具合が悪いので医者に見てもらったら〃どうも十二指腸潰瘍らしい。ともかく今日はレントゲンをとってみるが、その結果によっては手術の必要がある” と言われたのです』と、言いました。
その時、私は思わず手をたたいて、『よかった、よかった。素晴らしい光のさしこむ窓をあけてもらった。何が起こっても悪いことは一つもない。起こるべくして起こったことは、それでよい。何が起ころうと、禍なら転じて福にすれば、それでよいのだ。手術しなければならないのなら、手術をしてもらうのです。お医者を拝み看護婦さんを拝み、すべての周りの人達はみんな、あんたを健康にするために現われてくださった天の使いとして拝むのです。
それにしても、そうしたことの起こるには、何か周りと不調和なことがなかったか、よく考えて、まず心の世界で調和することです』と言いましたら『思いあたることがある』と申すのです。
『あんた“甘露の法雨”のお守りを持っているの』と聞くと『おや、どこへやったろう』と探しまわっている。そして、私が御仏前で“甘露の法雨”を誦げ始めると、息子も後で合掌しているのです。『もう、息子の心に光がさし込んだ』と、私の心に喜びがわいて来ました。
それまでだったら、そんな時には嘲けるように、また、『お母さんの生長の家気狂いが始まった』などと言った子が真面目に真剣に聖経をあげているのです。翌日、レントゲン写真の結果をきいて来た息子が、『やっぱり手術の必要があると思うが、ともかく一週間ほど経過を見ることにしよう、と医師は言っていられた』と申しました。
『ああ、いいよ、いいよ。素晴らしい光のさし込む窓だ。悪いことは何にもないのだから』と、勢いをつけてやっていましたが、その一週間目が昨日なのです。
昨日は、とても元気に帰って来ました。そして『お母さん、もう大丈夫。“手術の必要はない、太鼓判だ”と言われて来たよ』というわけだったのです。そして、昨晩も御先祖の霊前で“甘一露の法雨”を誦げておりました。お蔭さまで、大きな光の窓をあけていただいたのです」
私は、すっかり嬉しくなった。 「素晴らしい、素晴らしい。私の話してあげたのは、経済問題だったのです。しかし、あなたは息子さんの病気に、そのまま応用してくれました。とかく聞き方の下手な人、まだ真理がしっかり身についていない人は、これは経済の問題、これは病気の問題、これは勉強の問題、これは結婚の問題と、それぞれ別々に考えるものですが、真理はみんな同じことです。
何が起こっても、明るい解釈をして喜ぶことだ、と教えられているのです。徹底的に明るい解釈をして心勇めば、それにふさわしい結果を生み出すことができる。それは、我の力ではない、宇宙の法則が働き出すからですよ」
<光の窓のひらき方>
さて、この第一話、第二話は、さらに第三話を呼び出したのである。
ある日、素晴らしくデラックスな自家用車を運転してきた若夫婦の来訪をうけたのである。奥さんとは、誌友会の席で顔見知りであったが、その日はどうしたのか、まるっきりしょげてしまって、顔だけでなく身体中支えようもないという状態であった。ご主人の話は、こうであった。
「家内が、大きなコリーを可愛がっていたのです。40キロ以上もある大きな犬です。それが、病気をしたので 先日かかりつけの医者につれて行ったのです。ところが、その医者が不在だったので仕方なしに初めてのところへ連れて行きました。
そうすると、注射の間違いとかで、犬はキリキリ舞いをして苦しんで苦しんで その場で死んでしまったのです。それ以来、妻は悩んで悩んで 自分が殺したような気がするらしく、頭もろくろく挙げ得ないのです。それで、私の家は真っ暗になった感じで、このままだったら妻は病気にもなりかねない状態なので、日頃尊敬している平岡先生に……と言って来たところです」
それで私は、愛犬の死は、焦げつきの借金を支払わせてもらった不幸中の幸いであったことを前の2例によって説明したのである。
そして、犬の死はどんな形であったにせよ、寿命であって、飼い主にそれほど愛されたのであるから幸せものであったことを話してあげた。2人の顔に喜びの笑いが浮かぶのを見て、次のように結んだのであった。
「さあ、ところで犬が死んだのは一度ですよ。この話も一度で終わらせる。これが光の窓を開く第一の秘訣ですよ。私がかつて大阪にいた頃、斎藤というおじいさんがありました。終戦当時の物のない時このおじいさんは、大好物のお酒を1升、田舎の親戚でもらって来たのです。それを大阪の駅で赤帽にもたせたが、赤帽が過って瓶を何かに打ちあてて、こぼしてしまったのです。
斎藤さんは、この時のことを思い出してはボヤいたものでした。『あの時は残念だった』と、私だけでも3、4度は聞かされたように覚えています。それで、寺田繁三先生が斎藤さんに忠告されたのです。『斎藤さん、その残念物語はもう止めておきなさいや。あんた、酒瓶をこわしたのは1本でしょう。流れた酒は1升でしょう。その1升をあんたは何石何斗にして、悔んでいる。10遍言えば、1斗ですよ。百遍言えば1石ですよ。言葉の力で、あんたの運命を粗末にしているのですよ』と言われたのです。
あなた達も、犬の死んだのは一度なんだから、もう二度と口にしないことです。愛する犬は、光の窓を開けた功労者として、その栄誉を称えてやるのです。そして、注射を間違えたらしい医者も看護婦も、みんな光のさし込む窓をあけるための援護者であった。悪い役割を通じて、あんた達を一層幸福にするための天の使いだったのだ、と感謝するんですね」
夫妻は顔を見合わせてうなずきあい、 「ありがとうございました。これで、胸がすっきりと晴れました。新しく元気を出して働きます」と、いそいそと帰って行かれたのであった。
それから、一週間後の月曜会の晩、その奥さんが誌友会に来られだ。そして、嬉しい話をしてくださったのである。
「平岡先生、先日は、犬の死は焦げつきの借金を払うて、光のさし込む窓を開けたのだ、素晴らしい、素晴らしいと祝福していただきましたが、本当に先生のお言葉通りになったのであります。
実は、私の主人は優しくて善い人ですが、もう一つもの足りない気持が私にはあったのでございます。それは外でもない、信仰上のことなのです。私はお蔭さまで生長の家の教えにふれさせていただいて、これこそ人間最高の道であると信じていますが、主人はどんなにすすめてもご本を読んでくれなければ、お話を聞いてもくれなかったのです。これ一つが、主人に対する私の不平であり、不満だったのです。
ところが、あの日の帰りの車の中で、主人は平岡先生のお話にしみじみと感嘆して、『生長の家の話って実に素晴らしいなあ。おれも本を読んでみよう』と言ってくれました。今日は『生命の實相』全巻を注文してくるように言われてきたのです。先生のお蔭です。ありがとうございます」
そこで、私は言いました。 「私の話もよかったのかも知れませんが、それよりもっと素晴らしいことがあったのです。
それは、あなたの言葉の中に発見したことです。あなたは、こうおっしゃいました。『先生、私は犬に死なれてからの4、5日は、眼の前が真暗闇になりました。食事の用意も、お掃除も、何ひとつ手につかないのです。生長の家も、神さまも、みんな忘れてしまいました。私は苦しくて、苦しくてたまらないので、主人にしがみつきました。“お父さん、苦しいのです。助けてください。お父さん、私は、お父さんの外に、どこに頼るものがありましょう”と、主人にしがみつきました」と、おっしゃったですね。
あなたの神さまは、ご主人であることを発見し、それを実践なさったのです。そこに、完全な夫婦の道が完成し、天国浄土が現成したのです。すばらしいね。夫にとって、妻から受ける信頼感ほど素晴らしい幸福はないのです。その妻のためなら生命をかけても惜しくないのです。
この世は神のつくり給える世界であって、不完全もなければ不幸もない。みんな焦げつきの借金を払って、光のさしこむ窓を開けるための道行きだったにすぎないのです」
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