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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[362] インターネット道場 ――― 感激的体験記 ・ 菊地藤吉先生 「サヨク共産主義からの廻心」 <その五> 「ここに道あり」より
信徒連合 - 2015年08月28日 (金) 08時46分




インターネット道場 ――― 


感激的体験記 


 菊地藤吉先生 


「サヨク共産主義からの廻心」


 <その五> 


「ここに道あり」より




5 母よ、永遠に

 “生長の家”の教えに救われて、地方講師として活躍させていただき、悦びと感謝の生活の私にも、心の奥で、たった一つだけ、数年前からの悩みが解決されないでいたものがあった。それは、生母と私との問題であった。

 前述してきたように、私は婿のような状態で結婚して、妻の父と、長い間ものすごい不和であったのが、“生長の家”の教えによって、みごとに調和と感謝の生活に新生し、仲の悪かった妻の弟妹とも、喜び合いの日常に一変したとき……<ああ、私の生みの母は元気だろうか>と、久しぶりに実母を思い出したのであった。

 それまでは、家出をしたような形で、赤旗を振り、闘争の明け暮れで、父が昇天したときからは、家にも寄りつかず、まして生みの母親のことなどは、考えたこともなかった。それが、結婚先の舅や家族一同と、調和ができて、みんなが喜び合ったとき、不思議にも(いや、これが本当の姿ではあるが)急に実母が、たまらなく懐かしく思い出されたのであった。

 四十六歳で、七人目の末っ子の私を生んだ母は、そのとき七十九歳になっていた。私は三十四歳であった。さっそく、北見津別(つべつ)町に住んでいた兄の宅にいる母のところへ夜行列車で馳せつけて、
「お母さん、長い間の不孝を許して下さい。こんど、“生長の家”の教えに救われて、婚家先でも、みんなと調和しました。お母さんにも、これからは心配をかけません」
 と、真心を込めて詫びたのであった。

あの、ガンコだ、と思っていた舅でさえ、私が謝ったとき、涙を流して喜んでくれたのだから、実母なら、きっと大声をあげて泣いて喜んでくれるのでは……と期待していたのであったが、母は意外にも、
「そうかね」
 と、まるで他人ごととして受けとったような、まことにたよりない返事であった。

<どうしたのだろう? 耄碌(もうろく)したのだろうか>と思って、もう一度同じことを、
「本当に長い間、すみませんでした……」
 とやったのであるが、同じように、いっこうに反応がなく、全く「糠(ぬか)に釘(くぎ)」というような感じであった。私はがっかりした。せっかく詫びに来たのに……。

 しかし、よく考えてみると、それは母が悪いのではなく、私に原因のあることに気づいた。
過去においては、親に安心させるようなことを言うと、そのあとでは、すぐまた心配かけるようなことばかりをやってきたのだから……。そして、この前に帰宅したときには、昇天した父の仏前にあがっていた、香典を失敬して家を出たのだから、母はきっと「また“生長の家”などとうまいことを言って今度は何をたくらもうとしているのか」と思ったにちがいなかったのだ。

 親に信じられないということは、何にも代えられない悲しいことであり、淋しいことであった。以前の私なら、
「これほど、真剣に言っているのが解らないかっ」
 と腹を立てたことであろうが、幸いに“生長の家”の教えを受けていたから、
「ようし、この母に信頼されるまで、教えを行じよう」
 と決意を固めることができたのであった。

そして、今、振り返ってみると、確かにあのころは、真剣に精進したと思う。『生命の實相』を、徹夜で繰り返し読んだり、神想観も一日数回、暇があれば真剣に行じた。相愛会、青年会をどんどん新規開拓、新設して、集会に出かけ、夜遅く帰宅。それでも元気いっぱいであったし、家庭も、職場も、調和に導かれた。そして北海道綜轄教化部の専任講師として、道内各地をさらに巡講開拓していった。

 最初は、各地ともに「元共産党員の話を“生長の家”の私たちがなにも聞く必要がない」とのことで、どこの集会も集まりが少なかったが、私は教えに救われた感激を、一所懸命に伝えさせていただいた。そんなことで、どの地方でも、つぎの集会には三十名、またそのつぎは五十名、八十名とだんだん多く集まってくださるようになった。

 北見津別町も、新規開拓ということで、小さな集会を開くことになったが、私はその集会のたびに<今度こそ、母は喜んで下さるだろう>と思って、
「今日はね、三十名も集まって僕の話を聞いて下さったのですよ」
「今日は八十名集まって……」
 と母に報告するのであった。

けれども母は、やっぱり信じてくれなかった。母の顔には、明らかに<そんなだいそれたことが、おまえにできるはずがないではないか>という思いが表れていた。今度こそ信じて下さると思って、北見市での講演会の様子を報告してもなお、半信半疑のようであった。

 それから一年、そして二年が信じられぬままに過ぎていった。<なんという情けないことであろう>と兄の家の裏畑で、母に信じられない自分の業の深さと、行(ぎょう)の足りなさに涙を流したこともあった。そんなときは、夜半の大きな月が、そして星までが、<もう一奮発だよ>と慰め、励ましてくれるようであった。

 また、心を明るく、精進を重ねるのであったが、ときどき私の心は、不安と、焦燥に乱されることもあった。なぜかというと、母は、八十一歳、八十二歳と、だんだん年老いてゆくのであったから。

 そして、母が八十三歳になった年の六月。北海道全体の光明化も、活発になってきたが、北見でも連合会をつくり、市長が“生長の家”を熱心に信じられ、その奥さんが白鳩会(生長の家婦人会)長になり、東陵(とうりょう)中学校の菅原(すがわら)教頭先生も、北見駅長の渡辺氏も、地方講師となって活躍されるようになった。

 そこで、北見津別町でも、一大講演会を開催しようということになり、大いに宣伝をして、北見管内でも珍しいほどの、大会場で講演会が催され、会場は、満員の聴衆にうずまった。

わたしは、そこで話しながら、<この会場に、もし母が来てくれたら、今までの疑念も解けて、かならず信じてもらえるに違いない>と考えた。

 三時間の講演時間の中間で、十分間の休憩があったから、私は、受付へ行って、二人の青年に頼んだ。
「私の母は、兄の家にいるのですが、大型のハイヤーで、母を迎えに行って下さいませんか。そして、母に『私の一生のお願いだから、ちょっとでもこの会場にきて下さい』と私に代わってたのんで下さい。」
 本当に祈るような真剣さであった。

「承知しました。すぐ行ってきます。」
 二人の青年は、勢いよく会場から駆け出して行った。十分間の休憩が終って、私はすぐまた演壇に立った。

 話しているうちにも<どうだろうか? 今まで信じてくれなかったのだから、今度も、果たしてきてくれるだろうか>と一抹の不安な思いが心をかすめる。時間はどんどん過ぎたが、母はなかなか姿を現わさなかった。もう終了時間までに三十分!<ああ、やっぱり駄目か。>期待していただけに、演壇に立っていることさえ苦痛なほど疲れが、全身を襲って、頭がクラクラしそうであった。

 そのとき、会場の外で、キーッと自動車の急停車する音が聞こえた。<アッ、母がきたのだろうか!>と胸をときめかせていると、私の目に、会場の正面入り口から、二人の青年に抱えられるようにして、入ってくる母の姿がとびこんできた。その瞬間、老いた母の姿を見たとき、私はもう何も話せなくなった。

<ああ、きてくれた!母がきてくれた!>
 そう思っただけで叫びたくなるのだが、喉がつまり、声が出なくなって涙がボロボロとこぼれた。聴衆も、なにか緊張した雰囲気に、みんな後を振り返った。私は、ようやく頭を上げて、「皆さん、私の母が、いまこの会場に来てくれました。長い間、苦労をかけてきた母です。“生長の家”に入ってからも私は信用されませんでしたが、今夜は皆様のおかげで……」

 こみあげてくる嗚咽(おえつ)の中で、それだけ言うのが、やっとであった。

 母はたくさんの聴衆と、壇上の私をジッと見ていたが、「ああ!」という小さな嘆声をあげて、側の椅子にくずれるように坐った。

 やがて、ハイヤーで兄の家に向かう途中、母は、
「おまえが生まれたときには、お父さんも体が弱いし、兄たちは食べ盛りなので、わたしはずいぶん苦労しておまえを育てたのに……お前がお腹に入った時には、近所の人からも、今度生まれてくる子は、男でも女でもどこかへくれなさいよ、と言われたりしたが、生まれてくるとやはり可愛いくて手放せなかった。それで、重たいおまえを背中におんぶして、人様の仕事を手伝ったり、人に笑われながら、餅を売って歩いたこともあるんだよ……。それなのにおまえは、途中から共産党なんかに入って……」
とくどくのであった。

そのとおりなので、
「すいません。本当に苦労ばかりをかけて……」
「いやいや、今までは、どうしてこんなに長生きをして、末っ子の悪い姿を見なければならないのかと思ったり、死んでも死にきれないと思ってきたが、今夜のおまえの壇上の姿をみて、
最初は夢かと思ったが、ああ、長生きしてよかった!これでなんにも心残りがない。わたしはもう、いつ死んでもよいと本当に嬉しかったのだよ。よくこんなになってくれたねえ。」

「これも、みんな谷口雅春先生のおかげなんです。もし、谷口先生が、この地上においでにならなくて“生長の家”の教えがなかったら、いまごろ僕はどうなっていたかわからないのです。」
 私は心から感謝をこめて話した。

「そうかね、警察でも困っていたおまえが……谷口先生って、本当にありがたいんだねえ。」

 母は、まだ一度もお目にかかったことのない谷口先生の信奉者になったようであった。その後、兄からの便りでは、
「母が、おまえのことを、とても喜んでいる。また北見の方に講演にくることがあったら、ぜひよってもらいたい」
 とのことであった。

実は、母は、あのとき以来、安心したのか、あまり表へは出たがらないで、
「もう何も思い残すことはない。いつ死んでもよい。藤吉(とうきち)が、あのように立派になってくれたのだから……」
 と言いつづけながら、寝床についていることが多くなったという。

 私は、あの講演の夜の盛会さを写した写真を青年幹部からもらったので、さらのそれを頼んで、キャビネ判に引き伸して、母に送った。母は、その写真が気に入って、毎日、あきずに見ていたそうで、疲れると、蒲団の下において、また取りだして見るという調子であったとか。

近所の奥さんたちが、
「菊池さんのおばあちゃんが、このごろ、体が弱って寝ているそうで……」
 と見舞いにくると、かならずその写真を見せて、嬉しそうに説明したという。

「ほら、たくさん人が集まっているでしょう。その一番奥で、壇上から話をしているのが、私の末っ子ですよ。」
 隣の奥さんなどは、たびたび見舞いにくるものだから、
「あら、この写真は、昨日も見せてもらいましたよ」
 と言うのだそうだが、
「そうであったかいなあ、それでも、もう一ぺん見てくださいよ。」
 よほど嬉しかったに相違なかった、と兄が私に聞かせてくれた。

 八月末には、相当に弱ったとの便りが兄からきたので、北見方面へ講演途中に、母を見舞った。
「もう嬉しくて、何も思い残すことはないんだよ。」
 母の第一の言葉は、毎日言いなれているというこの言葉であった。

「谷口先生はね、人間は、生きとおしの生命で、永遠に死ぬことがないのだと教えてくださっておりますよ。」
 私は、果たして、このようなことは、この母には解るだろうかと思いながら枕元で話した。ところが、信仰深い母は、まるで私をさとすように、
「ありがたいね。谷口先生のおっしゃることなんだから、絶対に間違いはないのだよ」 
 と、信じきって言うのであった。信仰とは、理屈でないのだ。ただ素直に信ずることなのであった。

 その年(昭和二十七年)の九月十五日、私は滝川というところの講演を終えて帰ると、玄関で、「ハハ、ゴゴ 一ジ シス、一七ヒソウギ 」との電報を受けた。

 感慨無量で、北海道連合会長の許可を得て北見津別に向かった。車中で繰り返し読んだ電報には「十七日葬儀」とあるだけで、「ゼヒコイ」とは書いていなかった。これはあとで兄から聞いたことであるが、母は生前中から「あの子は谷口先生によって救われ、谷口先生の大事なお仕事をしているのだから、わたしに万一のことがあっても、呼ばなくてもよいのだよ、大切なお仕事の邪魔になるから」と、たびたび言っていたとのことであった。

 津別駅には、兄の子供たちが迎えに出ていて、そのうちの一人が、
「おばあちゃんはね、とっても楽に死んだよ」
 と言ってくれた。<楽に往生してくれたか。>急いで着いた兄の家で、厳粛に母の死体に合掌して、
「お母さん、長い間ご苦労をかけました。ありがとうございます」
 と言うと、頭の中には、幼いころからの懐かしい母との思い出が、つぎからつぎへとよみがえってきた。

 私は、母の顔に掛けてある白布を、静かに除いた。一番先に私の目に入ったのは、あまりにも白い母の白髪と、深く一本一本刻みこまれた顔の皺であった。この白髪、この一本一本の皺……。
<どんなにか長い間、私のことを心配してきたことであろう。特に家を出てからは、雨の日は雨の日で、風の日は風の日で心配していたに違いない。その心配が、この白髪、この皺になって……。>申しわけなさが、ドッと堰(せき)を切ったように胸にあふれ、しめつけられる思いに、私はしのび泣くのを、じっと我慢した。

 しかし、母の顔は、生前中には見ることのできなかったほどの安らかさで、今にも微笑み、話しかけるかのような表情であった。<母は、私が“生長の家”に救われたことを、本当に悦んで往かれたのだ。谷口先生、ありがとうございます。>思わず合掌した。

 それにしても、よく世間では、
「親を喜ばせようと思ったときには、親は既になし」
 と言うが、私は“生長の家”のおかげで、母の昇天のまさに寸前で、本当に喜んでもらうことのできた幸福者であった。これも、教えによって心が変わったおかげであった。

<昔の闘争時代のままであったらどうなっていたことか>と、ときどき思いだすと、ゾッとするのである。前に父が昇天するとき、
「おまえにもっとお経の話を聞かせておけばよかった」
 という言葉も、その時はわからなかったが、今、朝夕に仏壇で聖経『甘露の法雨』を読誦すると、父の私に対する愛念が、霊界からも目に見えぬ糸で私を導いて下さって、あんな乱暴者の私を、この最高の真理の教えへと、導いて下さったのであることを、つくづく思う。それだからこそ、聖経読誦のたびごとに、今でも、かならず父の声が、そして母の声が、
<救われたおまえは、人類光明化のために命を捧げよ。それが霊界で、父母の何よりの悦びなのだ>と聞こえてくるのである。





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