| [4600] 開祖・谷口雅春先生の『御教え』は“未完成”と洗脳した7・29〜7・31「国際教修会」、――― 余りにも高慢ちきな狂乱マサ爺&ジュン婆、――― 大悟徹底なき思い上がりが何を言うか! 一体どこが「法燈継承」なりや?、「法燈破壊者」なり! |
- 塚原卜伝 - 2016年08月15日 (月) 12時26分
「恵味な日々」に7月末の「国際教修会」に関するジュンコ君の話が掲載されている。いつものように「生長の家・教修会」と云うのはウソであって「マサノブ教教修会」と言うべきものであり、マサノブ君と同じくジュンコ君までもが『宗教は時代の制約下にあるし、そうでなければ人々の要求に応えられず、時代から取り残されていく』と結論づけているのである。全体として、霊的真理の求道者、人類救済の導師としての視点からの話ではなく、相変らずの学者マサノブの象牙の塔からの発信である。こんなことを百万遍聞いたって、自己の悟りが開けるわけでもなく、実際の人類救済が出来る訳でもない。宗教家を廃業して宗教学者に職業替をしてもらわねばなるまい。と同時に、ジュンコ君の話は開祖・谷口雅春先生の『御教え』から完全に訣別を宣言したものである。まず、「恵味な日々」の要約を掲げる。
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平成28年(2016年)8月13日 (土) 「恵味な日々」 =国際教修会1= (要約)
7月29日から31日に、生長の家森の中のオフィスで行われた「世界平和のための生長の家国際教修会」の私の話を、数回に分けて掲載いたします。・・・今回の教修会のテーマは、「宗教の自然破壊への態度と行動」・・・これは科学技術の発達により、人間が自然を統御できると錯覚したことと、人類の多くが自然から離れて、人工物に囲まれた都会生活をするようになったこととも大いに関係しています。宗教は自然と人間との関係から発生したものですが、私は原理主義との関係で、宗教はどのようにして成立するものなのかということと、生長の家の事例、また国際平和信仰運動について、お話をさせていただきます。・・・新約聖書の冒頭にある四つの書、福音書・・・イエスを信奉する信仰集団の構成員が、イエスの教えを後世に伝えるとともに、自分たちの信仰運動を拡大するための典拠、つまり、教祖の先生がこうおっしゃっているという拠り所として書いたと思われるということです。・・・現在信じられており、重要な教えと思われるものの多くが、キリストの死後作られたものだということが分かります。 次に仏教・・・大乗の教えでは、釈迦(ブッダ)は、一個の歴史的人物に限定されず、肉体人間を超えた理想的、超人的存在として捉えられました。そうでなければ、無学で煩悩具足した一般民衆を掬い取る力が不足すると、考えられたからだろうとのことです。日本に伝えられたのも、ほとんどが大乗の教えです。生長の家の場合を考えてみますと、もしかしたら多くの方は生長の家の教えはすでに完成している、「生命の実相40巻」の中に、全てがあると思っている方があるかもしれません。けれども、「日々の祈り」が書かれ「大自然讃歌」「観世音菩薩讃歌」が出されたのは、どういうことでしょう。総裁がよく言われるように「生命の実相」や「聖経」に、自然と人間について書かれていないわけではありません。けれども、それらが書かれた時代は現在のように環境問題が人間の生存を脅かすほど深刻ではありませんでした。それよりは病苦や生活苦が人々にとって大きな問題であったため、自然と人間の関係について強調されなかったということです。ですから「生命の実相」や「聖経」をよく読んでいた私たちは、自然と人間との関係についてあまり意識することがありませんでした。それを補うために新しい祈りや讃歌が出されたのです。いつも言われるように、宗教は時代の制約下にあるし、そうでなければ人々の要求に応えられず、時代から取り残されていくと云う事です。 コメント 谷口純子先生・・・・・・最後の段落での御文章は、強烈な悦びであります。ありがとうございます。再拝 ネイブ美枝子
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<講評>
@ ジュンコ君、曰く、―― 『自然破壊・・・これは科学技術の発達により、人間が自然を統御できると錯覚したことと、人類の多くが自然から離れて、人工物に囲まれた都会生活をするようになったこととも大いに関係しています』と。これだけでは踏み込みが足りない。科学技術の発達は、利便性と効率性と物的方面に於ける豊かな生活の追及から出発しているのである。そこには、人間の精神的発達や霊的向上面のことは次第に考えられなくなり、行き着いたところが自然環境の破壊であった。唯物現象中心の価値観が根因となって今日見るような自然破壊現象が結果して来たのである。この唯物現象中心の価値観の誤りを教え、霊的価値観の観点から今後の科学の発達を導くのが宗教教育である。その根底は、不変にして普遍なる宇宙の悠久の霊的真理の教育でなければならないのであるが、現象中心の唯物論者マサ&ジュンにはこのことがわからないのである。
A 次に、ジュンコ君、曰く―― 『宗教は自然と人間との関係から発生したもの』と。これも未熟な考察――極端な自然礼拝主義から出た言葉である。小生は、行き詰まった人生の悩みから宗教の門(『生命の實相』の御本)を自ら進んで開いたのである。そしてその行きつまりを打開したのである。宗教の門を叩く人は100%と言っていいほど、自己人生の病悩苦の解決のため、父母未生以前本来の面目探求のため、宇宙の霊的真理を求めて宗教の門を叩くのである。求道するこれ等の人々のための拠り所として宗教と云うものが発生し存在して来たのである。故に、「宗教は自然と人間との関係から発生したもの」と云う考え方は小生からすれば間違っている。天地自然も神の生命の現れとする自然に対する畏敬心は大切であるが、そこから宗教が発生したとする考え方は未熟な一面観の考え方で、個生命の霊的進化までの説明は出来ないのである。ジュンコ君は、嘗ては『生命の實相』を読んだであろうが、今日では全く忘れ去ってしまっているのだ。こんなことでは、『マサノブ教』の白鳩総裁であっても、開祖・谷口雅春先生御創始の『正統・生長の家』白鳩総裁ではない。脚下照顧すべし!
B ジュンコ君は、言った。『都会では自然がわからない・都会では人間中心主義から脱け出すのがむずかしい・都会では、浪費と消費過多をやめられない。よって地球環境問題は解決しない・ 都会での生活は宗教の目的と矛盾する・都会では新しい生き方は生まれない』だから、都会から田舎へ移住して自然の中での共生生活をすべき、と提唱した。しかし、この考え方は原始生活へ逆戻りする事ではないか、との質問に答えてジュンコ君は『都会にいたときの生活水準を落さずに田舎で自然との共生生活をする事』であると云う。つまり、文化的生活を送るための近代科学文明と近代工業生産物は依然としてそのまま使って、住む場所だけを田舎に移そうと云う事である。日本人全体が都会を捨て田舎に移住し、しかも都会生活当時と同じ所得を得ることが果して可能か?答えは否である。一部の金持ちだけが出来るだけ。また、自然保護のためにはCO2の排出を行う工場をどうするのか?そのような工場を全部潰して温暖化防止が出来るというのか?答えは否である。近代工場を破壊し、自衛隊も解散し、日本国民全体が田舎暮らしをはじめて国防を丸裸にしたら、直ちに共産中国は日本の国土占領に動き出すことは明らか。日本国民は共産中国の奴隷状態となる。かといって、マサノブが全世界へ出かけて、軍隊解散・近代工場閉鎖・都会から田舎へ移住するよう説得できるというのか?答えは否である。このように考えてくるとマサ&ジュンの地球環境保護、自然との共生生活というものが机上の空論である事が分かる。信徒の皆さんは、「温暖化防止」とか「地球環境保護」と云う時代の流行語に上手に誘導洗脳されているだけである。宗教界のなすべきことは、肉体中心の人間観から霊的人間観への転換という全人類的価値観教育の普及であり、これは政治の世界では中々出来ないことである。宗教界が担うべき第一の使命なのである。とにかく、「小聖は山に隠れ、大聖は街で衆生済度する」と云う昔から言われている言葉の逆をマサ&ジュンは生きており、信徒を時代流行語のヒビキで巧みに洗脳して、自分たちは、信徒の浄財で超豪華なログハウス別荘を近代建築技術と近代工業生産物に多額の費用を投資して作り上げ、優雅な宗教貴族生活を満喫しているのである。マサ&ジュンの誘導洗脳に騙されてはならない。少なくとも、マサ&ジュンの環境理論は、全人類を対象とした場合には、実行不可能な理論であり、金持ちボンボンとオジョウの机上のゲーム感覚の幼稚きわまる“お遊び”環境理論である。
C 続いて、ジュンコ君は曰く、―― 『多くの方は生長の家の教えはすでに完成している、「生命の実相40巻」の中に、全てがあると思っている方があるかもしれません。けれども、「日々の祈り」が書かれ「大自然讃歌」「観世音菩薩讃歌」が出されたのは、どういうことでしょう』と。かくのごとく、ジュンコ君は「生長の家」の『御教え』は完成されてはいない。未だ不完全なところがある。それを指摘し、時代の変化に即して補って行くのが法燈継承者の役割だという。『生命の實相』を開祖・谷口雅春先生が書かれた当時は、まだ地球環境問題が今ほど深刻になっていなかったので、そこのところを補うためにマサノブが 「日々の祈り」を書き、「大自然讃歌」「観世音菩薩讃歌」を出版したのだと云う。しかし、これは間違っている。開祖・谷口雅春先生の御存命のときには既に日本は高度成長による弊害、即ち“公害”が大規模に発生し、国を挙げてその克服に取り組んでいたのである。雅春先生は「明窓浄机」で何回もこの公害問題を取り上げておられたことをジュンコ君は知らないのか?『御教え』の不完全な処を補うと言って「日々の祈り」を書き、「大自然讃歌」「観世音菩薩讃歌」が出たのだと云うが、事実はそうではなくなった。今日では『甘露の法雨』をはじめ『聖経』といわれるものが姿を消して、「日々の祈り」、「大自然讃歌」「観世音菩薩讃歌」が『聖経』化して『甘露の法雨』に取って代わっている。マサ&ジュンの狙いは、雅春先生の手のついたもの全てを消し去っていこうとしているのである。不遜にも、マサ&ジュンは、『生命の實相』や『甘露の法雨』が神界からの啓示によって、開祖・谷口雅春先生の筆先によって書かれたものである事、だから「神示」であると云う事、この「神示」は『無』の関門を超え大悟徹底された開祖・谷口雅春先生にのみ天降ったものである事、に思い至っていないのである。これに比し、マサノブ君の「日々の祈り」・「大自然讃歌」・「観世音菩薩讃歌」は『無』の関門を未だ超えることができず、實相独在の霊的直接体験なき肉体人間の知頭脳に頼ってひねくり回して唯物現象の観点から書いたのであるから、「破壊と蕩尽」の人生哲学を持つ波長が同じ波長の自然惨禍を引き寄せているのである。だから「大自然惨禍経」・「観世音菩薩惨禍教」と称せられているのだ。
D ジュンコ君の言う『生長の家の教えはすでに完成している、「生命の実相40巻」の中に、全てがある、というのは間違っている。生長の家の教えは完成しているものではない』と。この『生長の家の教えはすでに完成している』は、開祖・谷口雅春先生が直接講習会で言われた言葉である。小生の耳にも残っているのである。『生命の實相』を中心に、その他沢山の御著書を通して、開祖・谷口雅春先生は縦横無尽に真理を説かれ説き終わられて帰幽されたのである。後は、読み手のわれわれが如何に深くその中の真理を読み取り応用展開して行けるか、その我々一人一人の真理把握の力量に掛ってくるのである。『生命の實相』は未完成とマサ&ジュンが言うということは、マサ&ジュンの真理把握の力量不足以外のなにものでもないのだ。己自らの真理把握の力量不足を棚に上げ、「未完成だからオレが補足するのだ」と云うマサ&ジュンのなんと傲岸不遜な態度か!何よりもマサ&ジュンこそ『生命の實相』が完全であると分かるまで何度でも読み返すべし!
E ジュンコ君は更に曰く、――― 『 宗教は時代の制約下にあるし、そうでなければ人々の要求に応えられず、時代から取り残されていく』と。ジュンコ君がこのように主張する根拠は、『生命の實相』第33巻に書かれている『自ら変化しない宗教は形骸化して他の宗教にとって代わられる。自ら宗教改革しながら進んで行く宗教であってこそ永遠に生きる』と云う文章に基づいている。しかし、ジュンコ君は肝心な点を見落としているのだ。それは、同じところに書かれている『表現形式の奥にある悟り、――生々流動のいのち ―― は形式化できない』と云う部分であり、これは言い換えれば、真理(生々流動のいのち)そのものは絶対の実在であり久遠悠久なもので不変にして普遍なるものであるということなのである。自らなす宗教改革も、時代を超越して存在を続ける不変・普遍なる悠久の真理に立脚した改革でなければならない。マサノブ教の教義は、時代を超越して存在を続ける不変・普遍なる悠久の真理に立脚した教義ではない。開祖・谷口雅春先生の説かれた真理を無視し否定して、サヨク唯物現象論による教義に換骨奪胎したものなのである。マサ&ジュンの『宗教は時代の制約下にある』と云う考え方は全くの的はずれな考え方である。第一、マサ&ジュンは真剣な求道者ではない。悟り(絶対実在の絶対認識)の境地には至っていない。にもかかわらず、自分達のサヨク唯物現象観から、『無』の関門を越えられて絶対的悟りを得られた開祖・谷口雅春先生を偉そうに批判する。思い上がりも甚だしいのである。『宗教は時代の制約下』などには於かれていない。敢えて言えば『宗教は時代を超越した宇宙の絶対的久遠悠久の真理を説くことを使命とする。そして、その真理によって衆生済度を行う。更に「生長の家」では国家の済度も行うのである。真理にはそれだけの力があるのである。
ジュンコ君は『そうでなければ人々の要求に応えられず』というが、それでは質問する。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して時代の変化を十分に取りいれた「マサノブ教」が人々の要求に応えているのか?応えていると云うならば、大量の信徒脱退現象を如何に説明するのか?教勢の衰退や教団赤字転落現象こそ人々の要求に応えられていない証拠ではないのか?ジュンコ君、この点について納得できる説明が出来るのか?さあ、汝如何に応えるや?
F ジュンコ君の「国際教修会」での話には、開祖・谷口雅春先生の説かれた『御教え』の真理は一言も出てこない。全くの黙殺である。キリスト教や仏教について話したというが、聖書や仏典の成り立ちについての歴史的考証について触れてはいるが、肝心の「キリスト教の真理」・「仏教の真理」――― つまり、『聖書・仏典という表現形式の奥にある悟り、――生々流動のいのち ―― 形式化できない真理そのもの』についてジュンコ君は一切触れずじまいである。否むしろ、それを話せ!といってもサヨク唯物現象論者マサ&ジュンはその話をする力はないのだ。悟りの話についてはマサ&ジュンは常に避けてとおるのが常道なのだ。だから、要求したってダメである。然らば、マサ&ジュンは『生長の家』と名乗ることをやめよ、といくら言い聞かせても馬耳東風、そしらぬ顔で、内容は似ても似つかぬ『マサノブ教』であるのに“看板泥棒”をし続けて恬として恥じないのである。 最後に言っておくが、『生長の家』を名乗るならば、必ず引用して解説すべきなのは、『生命の實相』第27巻・久遠仏性篇・第7章“久遠を流るるいのち”である。その抜粋要約は別途の子記事に掲載するが、その重要点は下記の如くである。
1、イエスはもちろん、マタイも、マルコも、ルカも、ヨハネも『久遠を流るるいのち』に触れていた。
2、本当の釈迦(肉体の釈迦ではない)は『久遠を流るるいのち』そのものなのである。
3、聖書・仏典の本当の著者は『久遠を流るるいのち』そのものである。
4、<仏典を論ずる>と<仏教を悟る>とは異う。
5、聖書や仏典の真理は、語学や考証を超えて身につけなければならない。
6、『久遠を流るるいのち』に触れたものは、その喇叭口として真理を語らねばならない。
7、『久遠を流るるいのち』に触れたものは、常在久遠の釈迦・常住久遠のイエスキリストの正しい教えを正しく把握できるのである。
8、萬教は、ただ一つの<久遠のいのち>の流れである。
<総括>
今や、マサ&ジュンは開祖・谷口雅春先生の唯神實相の『御教え』を捨て、サヨク唯物現象論の『マサノブ教』と云う完全な別の宗派を作り上げたのである。しかしマサ&ジュンは言葉巧みに時代迎合のことばで信徒を洗脳して来た。ジュンコ君の『宗教は時代の制約下にあるし、そうでなければ人々の要求に応えられず、時代から取り残されていく』と云うコトバに感激して『この御文章は、強烈な悦びであります。ありがとうございます。』と完全に洗脳された「ネイブ美枝子」さんの如き、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の真髄を少しも理解していない本部講師や本部講師補が今後続々と輩出され、誌友会場で信徒からの質問に立ち往生し、赤面を晒し、信徒は愛想をつかして『マサノブ教団』から今後続いて退去していくのである。
今夏の「国際教修会」で洗脳された本部講師・本部講師補諸君は、ジュンコ君の「恵味な日々」を読むだけでなく、別途の子記事『久遠を流るるいのち』の開祖・谷口雅春先生の御講義を何回も熟読せられよ! 熟読しても『久遠を流るるいのち』が摑めなければ「生長の家本部講師・講師補」の肩書きを返上したまえ!今や開祖・谷口雅春先生の『生長の家』の『御教え』は狂乱のサヨク唯物現象論者であるマサ&ジュン夫婦によって完全に解体抹殺されてしまっているのである。
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