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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[4600] 開祖・谷口雅春先生の『御教え』は“未完成”と洗脳した7・29〜7・31「国際教修会」、――― 余りにも高慢ちきな狂乱マサ爺&ジュン婆、――― 大悟徹底なき思い上がりが何を言うか! 一体どこが「法燈継承」なりや?、「法燈破壊者」なり!
塚原卜伝 - 2016年08月15日 (月) 12時26分

「恵味な日々」に7月末の「国際教修会」に関するジュンコ君の話が掲載されている。いつものように「生長の家・教修会」と云うのはウソであって「マサノブ教教修会」と言うべきものであり、マサノブ君と同じくジュンコ君までもが『宗教は時代の制約下にあるし、そうでなければ人々の要求に応えられず、時代から取り残されていく』と結論づけているのである。全体として、霊的真理の求道者、人類救済の導師としての視点からの話ではなく、相変らずの学者マサノブの象牙の塔からの発信である。こんなことを百万遍聞いたって、自己の悟りが開けるわけでもなく、実際の人類救済が出来る訳でもない。宗教家を廃業して宗教学者に職業替をしてもらわねばなるまい。と同時に、ジュンコ君の話は開祖・谷口雅春先生の『御教え』から完全に訣別を宣言したものである。まず、「恵味な日々」の要約を掲げる。



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平成28年(2016年)8月13日 (土) 「恵味な日々」 =国際教修会1= (要約)


 7月29日から31日に、生長の家森の中のオフィスで行われた「世界平和のための生長の家国際教修会」の私の話を、数回に分けて掲載いたします。・・・今回の教修会のテーマは、「宗教の自然破壊への態度と行動」・・・これは科学技術の発達により、人間が自然を統御できると錯覚したことと、人類の多くが自然から離れて、人工物に囲まれた都会生活をするようになったこととも大いに関係しています。宗教は自然と人間との関係から発生したものですが、私は原理主義との関係で、宗教はどのようにして成立するものなのかということと、生長の家の事例、また国際平和信仰運動について、お話をさせていただきます。・・・新約聖書の冒頭にある四つの書、福音書・・・イエスを信奉する信仰集団の構成員が、イエスの教えを後世に伝えるとともに、自分たちの信仰運動を拡大するための典拠、つまり、教祖の先生がこうおっしゃっているという拠り所として書いたと思われるということです。・・・現在信じられており、重要な教えと思われるものの多くが、キリストの死後作られたものだということが分かります。 次に仏教・・・大乗の教えでは、釈迦(ブッダ)は、一個の歴史的人物に限定されず、肉体人間を超えた理想的、超人的存在として捉えられました。そうでなければ、無学で煩悩具足した一般民衆を掬い取る力が不足すると、考えられたからだろうとのことです。日本に伝えられたのも、ほとんどが大乗の教えです。生長の家の場合を考えてみますと、もしかしたら多くの方は生長の家の教えはすでに完成している、「生命の実相40巻」の中に、全てがあると思っている方があるかもしれません。けれども、「日々の祈り」が書かれ「大自然讃歌」「観世音菩薩讃歌」が出されたのは、どういうことでしょう。総裁がよく言われるように「生命の実相」や「聖経」に、自然と人間について書かれていないわけではありません。けれども、それらが書かれた時代は現在のように環境問題が人間の生存を脅かすほど深刻ではありませんでした。それよりは病苦や生活苦が人々にとって大きな問題であったため、自然と人間の関係について強調されなかったということです。ですから「生命の実相」や「聖経」をよく読んでいた私たちは、自然と人間との関係についてあまり意識することがありませんでした。それを補うために新しい祈りや讃歌が出されたのです。いつも言われるように、宗教は時代の制約下にあるし、そうでなければ人々の要求に応えられず、時代から取り残されていくと云う事です。
 
コメント
谷口純子先生・・・・・・最後の段落での御文章は、強烈な悦びであります。ありがとうございます。再拝 ネイブ美枝子



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<講評>


@ ジュンコ君、曰く、――
『自然破壊・・・これは科学技術の発達により、人間が自然を統御できると錯覚したことと、人類の多くが自然から離れて、人工物に囲まれた都会生活をするようになったこととも大いに関係しています』と。これだけでは踏み込みが足りない。科学技術の発達は、利便性と効率性と物的方面に於ける豊かな生活の追及から出発しているのである。そこには、人間の精神的発達や霊的向上面のことは次第に考えられなくなり、行き着いたところが自然環境の破壊であった。唯物現象中心の価値観が根因となって今日見るような自然破壊現象が結果して来たのである。この唯物現象中心の価値観の誤りを教え、霊的価値観の観点から今後の科学の発達を導くのが宗教教育である。その根底は、不変にして普遍なる宇宙の悠久の霊的真理の教育でなければならないのであるが、現象中心の唯物論者マサ&ジュンにはこのことがわからないのである。


A 次に、ジュンコ君、曰く――
『宗教は自然と人間との関係から発生したもの』と。これも未熟な考察――極端な自然礼拝主義から出た言葉である。小生は、行き詰まった人生の悩みから宗教の門(『生命の實相』の御本)を自ら進んで開いたのである。そしてその行きつまりを打開したのである。宗教の門を叩く人は100%と言っていいほど、自己人生の病悩苦の解決のため、父母未生以前本来の面目探求のため、宇宙の霊的真理を求めて宗教の門を叩くのである。求道するこれ等の人々のための拠り所として宗教と云うものが発生し存在して来たのである。故に、「宗教は自然と人間との関係から発生したもの」と云う考え方は小生からすれば間違っている。天地自然も神の生命の現れとする自然に対する畏敬心は大切であるが、そこから宗教が発生したとする考え方は未熟な一面観の考え方で、個生命の霊的進化までの説明は出来ないのである。ジュンコ君は、嘗ては『生命の實相』を読んだであろうが、今日では全く忘れ去ってしまっているのだ。こんなことでは、『マサノブ教』の白鳩総裁であっても、開祖・谷口雅春先生御創始の『正統・生長の家』白鳩総裁ではない。脚下照顧すべし!


B ジュンコ君は、言った。『都会では自然がわからない・都会では人間中心主義から脱け出すのがむずかしい・都会では、浪費と消費過多をやめられない。よって地球環境問題は解決しない・ 都会での生活は宗教の目的と矛盾する・都会では新しい生き方は生まれない』だから、都会から田舎へ移住して自然の中での共生生活をすべき、と提唱した。しかし、この考え方は原始生活へ逆戻りする事ではないか、との質問に答えてジュンコ君は『都会にいたときの生活水準を落さずに田舎で自然との共生生活をする事』であると云う。つまり、文化的生活を送るための近代科学文明と近代工業生産物は依然としてそのまま使って、住む場所だけを田舎に移そうと云う事である。日本人全体が都会を捨て田舎に移住し、しかも都会生活当時と同じ所得を得ることが果して可能か?答えは否である。一部の金持ちだけが出来るだけ。また、自然保護のためにはCO2の排出を行う工場をどうするのか?そのような工場を全部潰して温暖化防止が出来るというのか?答えは否である。近代工場を破壊し、自衛隊も解散し、日本国民全体が田舎暮らしをはじめて国防を丸裸にしたら、直ちに共産中国は日本の国土占領に動き出すことは明らか。日本国民は共産中国の奴隷状態となる。かといって、マサノブが全世界へ出かけて、軍隊解散・近代工場閉鎖・都会から田舎へ移住するよう説得できるというのか?答えは否である。このように考えてくるとマサ&ジュンの地球環境保護、自然との共生生活というものが机上の空論である事が分かる。信徒の皆さんは、「温暖化防止」とか「地球環境保護」と云う時代の流行語に上手に誘導洗脳されているだけである。宗教界のなすべきことは、肉体中心の人間観から霊的人間観への転換という全人類的価値観教育の普及であり、これは政治の世界では中々出来ないことである。宗教界が担うべき第一の使命なのである。とにかく、「小聖は山に隠れ、大聖は街で衆生済度する」と云う昔から言われている言葉の逆をマサ&ジュンは生きており、信徒を時代流行語のヒビキで巧みに洗脳して、自分たちは、信徒の浄財で超豪華なログハウス別荘を近代建築技術と近代工業生産物に多額の費用を投資して作り上げ、優雅な宗教貴族生活を満喫しているのである。マサ&ジュンの誘導洗脳に騙されてはならない。少なくとも、マサ&ジュンの環境理論は、全人類を対象とした場合には、実行不可能な理論であり、金持ちボンボンとオジョウの机上のゲーム感覚の幼稚きわまる“お遊び”環境理論である。


C 続いて、ジュンコ君は曰く、――
『多くの方は生長の家の教えはすでに完成している、「生命の実相40巻」の中に、全てがあると思っている方があるかもしれません。けれども、「日々の祈り」が書かれ「大自然讃歌」「観世音菩薩讃歌」が出されたのは、どういうことでしょう』と。かくのごとく、ジュンコ君は「生長の家」の『御教え』は完成されてはいない。未だ不完全なところがある。それを指摘し、時代の変化に即して補って行くのが法燈継承者の役割だという。『生命の實相』を開祖・谷口雅春先生が書かれた当時は、まだ地球環境問題が今ほど深刻になっていなかったので、そこのところを補うためにマサノブが 「日々の祈り」を書き、「大自然讃歌」「観世音菩薩讃歌」を出版したのだと云う。しかし、これは間違っている。開祖・谷口雅春先生の御存命のときには既に日本は高度成長による弊害、即ち“公害”が大規模に発生し、国を挙げてその克服に取り組んでいたのである。雅春先生は「明窓浄机」で何回もこの公害問題を取り上げておられたことをジュンコ君は知らないのか?『御教え』の不完全な処を補うと言って「日々の祈り」を書き、「大自然讃歌」「観世音菩薩讃歌」が出たのだと云うが、事実はそうではなくなった。今日では『甘露の法雨』をはじめ『聖経』といわれるものが姿を消して、「日々の祈り」、「大自然讃歌」「観世音菩薩讃歌」が『聖経』化して『甘露の法雨』に取って代わっている。マサ&ジュンの狙いは、雅春先生の手のついたもの全てを消し去っていこうとしているのである。不遜にも、マサ&ジュンは、『生命の實相』や『甘露の法雨』が神界からの啓示によって、開祖・谷口雅春先生の筆先によって書かれたものである事、だから「神示」であると云う事、この「神示」は『無』の関門を超え大悟徹底された開祖・谷口雅春先生にのみ天降ったものである事、に思い至っていないのである。これに比し、マサノブ君の「日々の祈り」・「大自然讃歌」・「観世音菩薩讃歌」は『無』の関門を未だ超えることができず、實相独在の霊的直接体験なき肉体人間の知頭脳に頼ってひねくり回して唯物現象の観点から書いたのであるから、「破壊と蕩尽」の人生哲学を持つ波長が同じ波長の自然惨禍を引き寄せているのである。だから「大自然惨禍経」・「観世音菩薩惨禍教」と称せられているのだ。


D ジュンコ君の言う『生長の家の教えはすでに完成している、「生命の実相40巻」の中に、全てがある、というのは間違っている。生長の家の教えは完成しているものではない』と。この『生長の家の教えはすでに完成している』は、開祖・谷口雅春先生が直接講習会で言われた言葉である。小生の耳にも残っているのである。『生命の實相』を中心に、その他沢山の御著書を通して、開祖・谷口雅春先生は縦横無尽に真理を説かれ説き終わられて帰幽されたのである。後は、読み手のわれわれが如何に深くその中の真理を読み取り応用展開して行けるか、その我々一人一人の真理把握の力量に掛ってくるのである。『生命の實相』は未完成とマサ&ジュンが言うということは、マサ&ジュンの真理把握の力量不足以外のなにものでもないのだ。己自らの真理把握の力量不足を棚に上げ、「未完成だからオレが補足するのだ」と云うマサ&ジュンのなんと傲岸不遜な態度か!何よりもマサ&ジュンこそ『生命の實相』が完全であると分かるまで何度でも読み返すべし!


E ジュンコ君は更に曰く、―――
『 宗教は時代の制約下にあるし、そうでなければ人々の要求に応えられず、時代から取り残されていく』と。ジュンコ君がこのように主張する根拠は、『生命の實相』第33巻に書かれている『自ら変化しない宗教は形骸化して他の宗教にとって代わられる。自ら宗教改革しながら進んで行く宗教であってこそ永遠に生きる』と云う文章に基づいている。しかし、ジュンコ君は肝心な点を見落としているのだ。それは、同じところに書かれている『表現形式の奥にある悟り、――生々流動のいのち ―― は形式化できない』と云う部分であり、これは言い換えれば、真理(生々流動のいのち)そのものは絶対の実在であり久遠悠久なもので不変にして普遍なるものであるということなのである。自らなす宗教改革も、時代を超越して存在を続ける不変・普遍なる悠久の真理に立脚した改革でなければならない。マサノブ教の教義は、時代を超越して存在を続ける不変・普遍なる悠久の真理に立脚した教義ではない。開祖・谷口雅春先生の説かれた真理を無視し否定して、サヨク唯物現象論による教義に換骨奪胎したものなのである。マサ&ジュンの『宗教は時代の制約下にある』と云う考え方は全くの的はずれな考え方である。第一、マサ&ジュンは真剣な求道者ではない。悟り(絶対実在の絶対認識)の境地には至っていない。にもかかわらず、自分達のサヨク唯物現象観から、『無』の関門を越えられて絶対的悟りを得られた開祖・谷口雅春先生を偉そうに批判する。思い上がりも甚だしいのである。『宗教は時代の制約下』などには於かれていない。敢えて言えば『宗教は時代を超越した宇宙の絶対的久遠悠久の真理を説くことを使命とする。そして、その真理によって衆生済度を行う。更に「生長の家」では国家の済度も行うのである。真理にはそれだけの力があるのである。

ジュンコ君は『そうでなければ人々の要求に応えられず』というが、それでは質問する。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して時代の変化を十分に取りいれた「マサノブ教」が人々の要求に応えているのか?応えていると云うならば、大量の信徒脱退現象を如何に説明するのか?教勢の衰退や教団赤字転落現象こそ人々の要求に応えられていない証拠ではないのか?ジュンコ君、この点について納得できる説明が出来るのか?さあ、汝如何に応えるや?


F ジュンコ君の「国際教修会」での話には、開祖・谷口雅春先生の説かれた『御教え』の真理は一言も出てこない。全くの黙殺である。キリスト教や仏教について話したというが、聖書や仏典の成り立ちについての歴史的考証について触れてはいるが、肝心の「キリスト教の真理」・「仏教の真理」――― つまり、『聖書・仏典という表現形式の奥にある悟り、――生々流動のいのち ―― 形式化できない真理そのもの』についてジュンコ君は一切触れずじまいである。否むしろ、それを話せ!といってもサヨク唯物現象論者マサ&ジュンはその話をする力はないのだ。悟りの話についてはマサ&ジュンは常に避けてとおるのが常道なのだ。だから、要求したってダメである。然らば、マサ&ジュンは『生長の家』と名乗ることをやめよ、といくら言い聞かせても馬耳東風、そしらぬ顔で、内容は似ても似つかぬ『マサノブ教』であるのに“看板泥棒”をし続けて恬として恥じないのである。
最後に言っておくが、『生長の家』を名乗るならば、必ず引用して解説すべきなのは、『生命の實相』第27巻・久遠仏性篇・第7章“久遠を流るるいのち”である。その抜粋要約は別途の子記事に掲載するが、その重要点は下記の如くである。

1、イエスはもちろん、マタイも、マルコも、ルカも、ヨハネも『久遠を流るるいのち』に触れていた。

2、本当の釈迦(肉体の釈迦ではない)は『久遠を流るるいのち』そのものなのである。

3、聖書・仏典の本当の著者は『久遠を流るるいのち』そのものである。

4、<仏典を論ずる>と<仏教を悟る>とは異う。

5、聖書や仏典の真理は、語学や考証を超えて身につけなければならない。

6、『久遠を流るるいのち』に触れたものは、その喇叭口として真理を語らねばならない。

7、『久遠を流るるいのち』に触れたものは、常在久遠の釈迦・常住久遠のイエスキリストの正しい教えを正しく把握できるのである。

8、萬教は、ただ一つの<久遠のいのち>の流れである。



<総括>


今や、マサ&ジュンは開祖・谷口雅春先生の唯神實相の『御教え』を捨て、サヨク唯物現象論の『マサノブ教』と云う完全な別の宗派を作り上げたのである。しかしマサ&ジュンは言葉巧みに時代迎合のことばで信徒を洗脳して来た。ジュンコ君の『宗教は時代の制約下にあるし、そうでなければ人々の要求に応えられず、時代から取り残されていく』と云うコトバに感激して『この御文章は、強烈な悦びであります。ありがとうございます。』と完全に洗脳された「ネイブ美枝子」さんの如き、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の真髄を少しも理解していない本部講師や本部講師補が今後続々と輩出され、誌友会場で信徒からの質問に立ち往生し、赤面を晒し、信徒は愛想をつかして『マサノブ教団』から今後続いて退去していくのである。

今夏の「国際教修会」で洗脳された本部講師・本部講師補諸君は、ジュンコ君の「恵味な日々」を読むだけでなく、別途の子記事『久遠を流るるいのち』の開祖・谷口雅春先生の御講義を何回も熟読せられよ! 熟読しても『久遠を流るるいのち』が摑めなければ「生長の家本部講師・講師補」の肩書きを返上したまえ!今や開祖・谷口雅春先生の『生長の家』の『御教え』は狂乱のサヨク唯物現象論者であるマサ&ジュン夫婦によって完全に解体抹殺されてしまっているのである。





(32)
Pass

[4601] ジュンコ君へ、「久遠を流るるいのち」を語らねば、白鳩総裁失格だ!
塚原卜伝 - 2016年08月15日 (月) 13時21分




<久遠を流るるいのち>

=『生命の實相』の重要なる神髄=


  
「生命の実相」第27巻・久遠仏性篇上巻・第7章より抜粋・引用させて頂きます。

<<・・・生長の家は実に『久遠を流るるいのち』の所有(もの)である。私はそれを本当に信じているのであるし、そうであってこそ生長の家には、ただ書を読むだけによって病気が治るというが如き奇蹟すらも生じて来るのである。なぜなら、斯くてこ
そ生長の家の発行書を読むことによって、『谷口』と言う私の<いのち>に触れるのではなく『久遠を流るるいのち』に触れることになるからである。・・・

・・・『生命の実相』の著者は本当は『久遠を流るるいのち』なのである。釈迦も『久遠を流るるいのち』を把握したし、キリストも『久遠を流るるいのち』を把握したのである。そのほか空海、最澄、親鸞、日蓮もすべて『久遠を流るるいのち』を把握したのであろう。

・・・マタイにしても、ルカにしても、ヨハネにしても、キリストの言った言葉を、あんなに力づよく聖書の中に表現し得たのは、キリストの言った言葉をただ頭で覚えていただけでは出来なかったに違いない。それを完全になし得たのは、マタイも、マルコも、ルカも、ヨハネも『久遠を流るるいのち』に触れていたからである。大乗経典は後世の偽作であり、聖書は仏典の焼き直しだとの説もあるが、偽作であろうが、焼き直しであろうが一遍の架空な作り物語であろうが、そんなことで大乗経典の価値が減ったり、聖書の価値が減ったりするものではない。聖書の日本語訳だって『久遠を流るるいのち』が<あれ>に働きかけねば、あれだけの名文が出来る訳がない。聖書は新しい訳よりも旧約が一層よい。

・・・大乗経典は釈迦が説いたのではないとの学説もある。木村泰賢博士などは此の説を採用していたのである。併しこれは釈迦と言うものを、法華経にあるように『久遠を流るるいのち』と見ないで、『釈氏の宮を出でて、迦耶城を去ること遠からず道場に座して悟道(さとり)を得てから僅か四十余年を経た』と言う観方である。――しかし本当の釈迦(肉体の釈迦ではない)は『久遠を流るるいのち』そのものなのである。――釈迦は『久遠を流るるいのち』<そのもの>なのである。

斯く釈迦が『久遠を流るるいのち』<そのもの>なることが判明するならば、大乗仏教経典が、肉体釈迦の滅後百年に出ようとも、乃至は二百年、三百年後に編纂されようともそんなことは問題ではないのである。若しその大乗経典に本当の『真理』が—―換言すれば本当に『久遠に流るるいのち』が—―表現されていて、それが我等に呼び掛けるならば、その大乗経典の本当の著者は『久遠を流るるいのち』そのものであらねばならぬ。そして釈迦が『久遠を流るるいのち』そのものであるならば、肉体釈迦滅後、何百年後に書かれた大乗経典であっても、それは釈迦の著した大乗経典であると言っても差し支えはないのである。



<仏典を論ずる>と<仏教を悟る>とは異う―――

・・・仏教経典を研究する学者は、著作の年代とか、本当の著者の名前とかを問題にしたがって肝心の問題であるべきその書に、本当に『久遠を流るるいのち』が生きているかどうかを忘れてしまう傾向がある・・・まことにも木村博士の言わるる通り『仏典を論ずる』ためには、サンスクリット語や・・・古代の方言やチベット語などさえも必要であろう。しかし、それは『仏典を論ずる』ためであって『仏教を悟るため』ではないのである。幾千巻の大蔵経の第何頁に如何なる語が書いてあるかと言うようなことは、仏典を論ずるためには、必要であるかも知れない。けれども吾々の<さとり>のためには何の効果もないのである。・・・

・・・結局、語学や経典によって釈迦の教えを研究しようなどと言う企ては、暗中模索の靴を隔てて痒きを掻くに類する努力であって、それはいつまでも語学の世界と考証の世界に堂々巡りしていて、その教えの堂奥に飛び込むことは出来ないのである。本当に<さとり>の世界へ飛び込もうと思うものは、語学や考証の世界を一躍して『久遠を流るる<いのち>としての釈迦』そのものの中に飛び込まなければならないのである。



<< 語学や考証を超えて―――

  私はここに、本当の釈迦は二千五百年前、地上に生まれて王宮を出家して迦耶城を去ること遠からぬ道場に座りて阿耨多羅三藐三菩提を成じた如き『肉体』でないことを宣言する。それは私が宣言するだけではなく法華経の『如来壽量品』にちゃんと宣言してあるのだけれども、法華経は大乗経典であり、大乗経典は釈迦是を説かずと言うような、<さとり>には何の関係もない考証的仏教学者があるから私が茲に改めてそれを宣言する必要があるのである。斯く法華経に従って、本当の釈迦牟尼如来は浄飯王の太子ゴータマの如き肉体人間ではないのであって『久遠を流るるいのち』であることを知るとき、吾等は到るところに『仏教』即ち『<ほとけ>の説教』を見出すことが出来るのである。・・・何処にでも身を現じて法を説き給うのが釈迦なのである。だから法を説くとき阿難も釈迦であり、達磨も釈迦であり、賢首も、空海も、道元も、最澄も、親鸞も悉くみな釈迦なのである。親鸞などに到っては・・・彼の<さとり>は語学を超えて却って『久遠を流るる<いのち>』を把んだのである。・・・言葉や語学にこだわり過ぎて、この文字は梵語では本来何を意味するのだなどと言う事を考証するほど、凡そさとりに遠いものはないのである。



  ほとけは何処—―――

現代仏教が揮はないのは碩学は図書館に籠もってシミとなり、凡僧は寺院に籠もって死骸にお経を誦げるのを商売として、直接『久遠を流るるいのち』そのものなる釈迦に触れ、釈迦の<さとり>を直接生きようとする人が少ないからである。・・・『久遠を流るるいのち』なる釈迦は・・・ユダヤに於いても、日本に於いても、アメリカに於いても、イギリスに於いても常住久遠に説法してい給うのである。『久遠を流るるいのち』なる釈迦は、或いはイエスと現れて法を説き、或いはマホメットと現れて法を説き、或いはエマースンと現れて法を説き、さらに黒住教、今光教、天理教、扶桑教、ニュー・ソート、クリスチャン・サイエンスと現れて法を説いても一向差し支えがないのである。釈迦がその『肉口』を以って法を説かなければ、それは仏教でないというならば、地上いづこにか仏教あらんや・・・

では吾等は何処に本当の仏教を探し求めたら好いであろうか。仏教とは『釈迦の肉口の教え』であると考えている限りに於いては、そんなものは地上の何処にもないのである。しかし仏教とは『久遠を流るるいのち』と一つなるところの釈迦、『常に此処に在りて滅せず・・・余国に衆生の恭敬信楽する者あらば、我復た彼の中に於いて、為に無上の法を説く』ところの釈迦――斯くの如く変貌自在、どこの国にでも恭敬以って真理を知らんと志す衆生のために出現して来て法を説く釈迦――この釈迦の教えが『仏教』であると言うならば、仏教は到るところにあるのである。

 

わたしは喇叭(らっぱ)――――

 伊藤道海禅師が『生命の実相』を読んで見て、『言々すべて仏の教えである』と雑誌『宇宙』で評したのは当然のことなのである。『仏とは久遠を流るるいのち』の表現なのである。私は始めから『私は生長の家の教組ではない。私は諸君と共に「生長の家」の教えを聴聞してひたすら、其の如くい生きんと努力せる一人の求道者に過ぎない・・』・・・・

 私は釈迦・キリストがそうであったろうところの『久遠を流るるいのち』に触れん事をつとめ、斯くつとめつつ、『久遠を流るるいにち』の啓示を『生命の実相』に書き止めたのであるだから『生命の実相』の本当の著者は谷口と言う、何時にか生まれて何時かは死滅し了まうような儚い人間が書いたのではない。その著者は『久遠を流るるいのち』である。私はただ『久遠を流るるいのち』の流出口となったに過ぎないのである。

 私と同じく、『久遠を流るるいのち』の喇叭口となったものは、いづれも仏の教えを語るものである。仏の教える真理は『生長の家』が独占するものでもなければ既成仏教が独占するものでもないのである。キリストの聖書は既に『久遠常在の釈迦』の言葉なのである。またかのカーライルが『汝の運命を征服する武器は念(こころ)である。・・・念ずればその結果は必然に現れる』と言った時に、カーライルは既に仏の教えを語ったのである。何故なら、それは『三界は唯心の所現』であることを説き、この世界は因縁所生の世界であることを説破しているからである。

彼はこれを説いたとき『久遠を流るるいのち』に触れてその喇叭口となったのである。換言すれば、カーライルが斯く真理を説いた時、常住久遠の釈迦牟尼仏が『余国に衆生のために無上の法を説いた』のである。また見よ、エマースンが『聖者と天才とが世界に投げた思想は世界を変化する』と説いたとき、彼もまた三界唯心の真理を説いて、常在久遠の釈迦の歌口となったのである。・・・

 斯くの如く観じ来るときには、ユダヤにも英国にも米国にも『久遠常在の釈迦』は既に仏教を説き給うたのである。仏教とは、茲に見よ、彼処に見よ、と言うが如く堂塔迦藍や書庫の中には存在しないのである。また釈迦と言う名前の肉体が喋ったことならば何でも仏教だと思うことも間違いである肉体の釈迦の言でも、悟らないで喋っていた時の言葉は仏教ではない。竜樹菩薩の作でも、曇鸞大師の作でも、カーライルでも、エマースンでも『久遠を流るるいのち』に触れて真理が語られる時には、それが仏の教えなのである・・・

 しかし、それが仮令、仏の教えであっても、ラジオの受信機が異なる毎に、その音声に一種の癖をもっているように、その真髄は仏の教えであっても、その悉くが、(その雑音までもが)仏の教えである訳はない。ニュー・ソートの著者に於いても、物質無を説いているのもあれば、物質有として汎神論を説いているのもある。仏教に於いても、真言宗も、天台宗も、禅宗も、浄土宗も、真宗も、日蓮宗も、その何れもが仏の教えであるには相違ないが、その悉くが(その雑音までもが)仏の教えである訳はない。吾々は唯その中から『久遠を流るるいのち』を見出し、それに触れ、それに合流すれば好いのである。



萬教ただ一つの<いのち>の流れ

・・・生長の家のように全ての経典の真髄を示して万教の全一すべき真髄を明らかにするには、ニューソートを篩にかけると共に、他の宗教をも篩にかけて、そこに『久遠を生きるいのち』の純金を冶金し出さねばならないのである。 今でも『生命の実相』を読んで病気が治る事実を、『神が癒し給うのだ』と、考えている人があるかも知れぬが、神が治すのではなく、読めば心の眼が開けて、既に最初から健康であった自分の『実相』を見出すのである。病気だと見えたのは人間の仮相でしかなかったからである。若し病気が実際にあって神が病気を治し給うのであったならば、何らかの事情で、神が治し給はない場合は、全能の神ならば治せば治し得るものを治さないのであるから、その治さないことに真意があるので、これは嘗ての『ひとのみち』の教えのように『神の<みしらせ>』と見なければならないのである。併しそれは『生長の家』の思想ではない『神の<みしらせ>』の思想の中には『現象宇宙の実在』を肯定する思想と『神そのものの中に聖暗とでも言うべき何らかの暗黒を内包している』と言う思想を含んでいるのである。

倉田百三氏は、宇宙の太源にまかせ切りになると言う心境にいながら、なほ、宇宙の太の中にはなほこの聖暗を内包していると言う思想以上について行けないと、言はれたのは、ホームズ又は『ひとのみち』と同じ思想的位置にいられるのである。倉田氏が天理教に共鳴せられるのも『宇宙の太源の中には聖暗をふくんでいる』と言う真如縁起的な思想的立場にいられるからであろう。しかし、・・・私は『真如縁起』も『みしらせ』も、神の『病治し』も、『病拵え』も、聖暗も、寂光も飛び越えて了ったのである。そして病ひ本来なし、不幸本来無し、聖暗本来なし、寂光本来なしの世界へ入って了ったのである。・・・

『私はついに神を見出し、本当の自分を見出したのであった。三界は唯心の所現である、その心をも、また現ずるところの現象をも、一切空無と截ち切って、その空無を縦に貫く久遠不滅の大生命が自分であった。・・・』と。私はついに『久遠を流るるいのち』にふれたのであった。それはもう病気の無い世界であった。

真如縁起か阿頼耶縁起か――どちらが本当であるかは佛教界では教界上の大問題である。一心の中に十界を互具しており、一念の中に三千の世界があると言う、その『一心』とは、その『一念』とは真如心性であるか、阿頼耶識であるかは問題であるのである。 これは(1)仏でも迷う要素を持っているか、(2)迷った凡夫でも仏になるか、(3)仏は未だ嘗て一度も迷わないか、の重大問題であるのである。私は(1)を完全に否定して了ひ、(2)は現象仏としてその仮存在をみとめ、(3)を完全に肯定して、『衆生本来仏にして、仏は未だ嘗て迷はず』と断定して了ったのである。かくて『一切の人間は仏にして未だ嘗て迷ひしことなし!迷へると見える五官の我は本来無いのだ!』まことにも、釈迦が悟りを開いたとき『有情非情同時成仏、草木山川国土一切成道』と知ったのもそう言う心境ではなかったかと、類推出来るのである。

この悟りの目で古事記を読んだとき、悉く別の力で照らし出された万教帰一の真理がおのづから見出された。諸教は私にとってはその夾雑物を除いたとき、いづれもただ一つ、『久遠を流るる<いのち>』の表現であった。すべての宗教はこの『久遠を流るる<いのち>』によって互いに手を繋ぎ合はすべきものではないだろうか。救はれるのは宗教の儀礼によってではない、ただこの『久遠を流るる<いのち>』によってである。<いのち!>・<いのち!>わたしは<いのち>の衝動を感じて『生長の家』を、『生命の実相』を書きはじめたのであった。これの本当の著者は『久遠を流るる<いのち>』である。そして『生長の家』を創めたのは『久遠を流るる<いのち>』であったのだ。 >>(引用おわり)



<注釈・コメント>

この『生命の実相』第27巻・第7章の中で、<久遠を流るるいのち>と言う言葉を実に50回も使はれて<久遠を流るるいのち>を説かれているのであります。

宗教とは、生老病死を取り扱うものと一般的には考えられておりますが、生長の家の教えを受けますと、宗教とは“永遠の生そのもの”を取り扱う事であることが判るのであります。“永遠の生”とは“いのちそのもの”、端的に言えばこれこそが「久遠を流るるいのち」そのものであると理解させて頂けるのであります。

「久遠を流るるいのち」は、静かなる奥深いいのちの流れであると同時に、生き生きと滔々として限りなき光輝くところの躍動感をもって、更に、底知れぬ神秘性を秘め、永遠の過去から悠久の未来に亘って時間を超越し空間を超越し、大宇宙生命として無限大から無限小の大宇宙全体に流れ渡り満ち亘っている感がするのであります。

私たち一人ひとりの神の子としての個生命は、この“久遠を流るるいのち”の個別的・主体的顕現でありますから、地上に生きている一人一人が“久遠を流るるいのち”をその体内の奥底に秘めて毎日の生活を送っている事が実感として感じ取れるわけなんであります。また、感じ取らなければならないと思うのであります。

この様に“いのちの実感”として感じ取らせて頂きますと、私たち一人ひとりは肉眼で見れば一個の小さい肉体を持って地球上で生きながらも、その心は肉体を超越して常に大宇宙全体に広がり、繋がり、その“生”は久遠悠久であり無限向上・進化の階梯を昇り続けてゆく個生命としての霊魂であり、無限に深き“悟りの深化”を求め行く“大宇宙を舞台とした大ロマン人生そのもの”だと言えるのではないでしょうか!!

生きとし生けるもの、有りとしあらゆるものを貫き流れるひとつの共通的生命<久遠を流るるいのち>が実感でき、「山川草木国土悉皆成仏」とは是なり!と感得できるのではないでしょうか!!

その為には、この「久遠を流るるいのち」の章を<あたま(理性)で読もうとせず、全身全霊で読む、黙読する、朗読する、目で読み、声で読み、声のリズムの中に自分を溶かし込んで読む、そして静かに端座して『神想観』を行じ、行じ終わって動き出すとき神(愛)の生活を生きる(「生命の実相」第4巻P.2)>ことであります。



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[4616] 何とか反論してください、ジュンコ先生!
ジュンコ婆の側近 - 2016年08月16日 (火) 09時22分



ジュンコ先生!

この小生意気な信徒に何とか反論して下さいよ!

出来ないのであれば、私はあなたを見限りますよ!


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