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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[402]  インターネット道場 ―――感激的体験記 ・ 大山昌平先生 「光の行くところ闇はなし」 <その一> 「道は開ける」より
信徒連合 - 2015年09月01日 (火) 08時12分



 インターネット道場 ―――


感激的体験記 


 大山昌平先生 


「光の行くところ闇はなし」


 <その一> 


「道は開ける」より



<はしがき>

生長の家の生活に入って三十余年。(昭和42年当時)
 人生五十年という言葉もありますが、私はもう七十三歳という年齢(とし)になって、人生のあわれさも、また喜びも、私なりに、ゆたかに経験してきました。

 もしも生長の家の御教えにふれなかったら、どんな人生を送ったでありましょうか。

 意図の切れた凧(たこ)のように舞い落ちて破れ朽ちるような生涯を送ったのではなかったか、あるいは港から出帆する船のあと路にのこる白波のように、はかなくも消える一生であったかともおもわれます。

 人生何の意義あるかも知らず、ただ不平不満の何の価値もないような一生で終るのではなかったろうか。

 妻あったればこそ生長の家を知り、御教えにふれたればこそ今日皇恩に感謝し、師に感謝でき、親に感謝でき、妻に、子に、一切の人に物に感謝できる「神の子」の自覚を悟らしていただきました。このありがたさはたとえようもありません。

 「一源三流」という言葉を聞きました。人によっていろいろに解釈されますが、私は次のように思っております。
 一、皇恩に感謝して涙し、
 二、父母――親に感謝して涙し、
 三、師に感謝して涙を流す。
 この三流の源は誠であり、「そのままの心」であり、その和敬静寂の「寂」の心こそ源である、と思っております。

 日本人が「そのままの心」に徹したら、限りなく日本を愛し天皇陛下を仰慕(ぎょうぼ)し奉る、中心帰一の精神になり、身近に結べば親に孝をつくし師恩に報いる、ひたむきの真実一路の感謝の心が表われなくてはならないと思います。

 生長の家の谷口雅春先生の尊い御恩と、同信の友愛に恵まれた三十有余年。私の生活は全くこれらの恩人の恵みの賜ものであります。数えきれないたくさんの人々の限りない御恩に心から感謝しております。第三者から見ればいろいろの批判もある生きかたでありましょうが、私自身は感謝と悦びに、やすやすと今日まで歩んで来ることができました。私が実際に歩んで来た生活のひと筋の道が、現在社会に生きる人々の中の一人にでも、何かの参考の足しになり、力になることができましたならばありがたいと思います。

 谷口雅春先生の御愛念によって、この記録を出版させていただけるとは、思いもよらなかったありがたさで、感謝で一杯でございます。

 本書刊行に御尽力下さいました、日本教文社社長・辻村彦次郎先生、編集局の中島省治氏ならびに岡正章氏の一方ならぬお骨折りに深く御礼申し上げます。

昭和42年五月一日     著者しるす





光のゆくところ闇はなし
――各地巡講中の体験――





1、神に導かれた満州巡講

 私は昭和十五年、谷口先生の御任命によって、生長の家の本部講師となり、地方へ巡講などにもでかけるようになったわけだが、昭和十六年、満州巡講を命ぜられて、八月・九月・十月と三ヶ月間、満州をまわった。

 満州には、新京(長春)に満州綜轄教化部というのがあって、ある会社の一室をその教化部としての事務をとる部屋にしていた。(独立の建物としての教化部道場というのはまだできていなかった)私はまず新京に行き、それから満州各地のいろいろな方面へ行くという日程で、奉天(藩陽)に一週間、あるいは鞍山(あんざん)・慶州から、もっと北の方ではハルピンからチチハルの方まで巡った。

 その各地巡講にはたくさんの思い出があるが、そのなかでも特に思い出になるのは、新京から朝鮮との国境近くにある延吉(えんきち)というところへ講演にいったときのことである。新京の教化部のせわをしてくれていたのは田中君という青年であったが、その青年が延吉行きの満鉄の切符を買ってくれて、停車場まで送ってくれた。ところが汽車に乗るまで、延吉に行くということを聞いただけで、延吉の何というところで、何という人が世話をしてくれているということは聞いていなかった。私はまもなく発車というときになって――それは午前十時近い時間であったが――延吉には何時ごろ着いて、そのあとどこの誰をたずねて行ったらいいのかを、田中君にたずねた。すると、延吉に着くのは夜九時過ぎになる。そして延吉に着いたら、生長の家の小旗を持って出れば、迎えに来ている人が声をかけてくれるから、心配はいらないという。汽車はそのまま発車した。

 延吉には、言われたように夜九時すぎに着いた。そこはもう朝鮮との国境のそばであって、相当大勢の人が降りた。私もその中にまじって汽車を降り、小旗を高く掲げて、今にも声がかかるかと待ちながら改札口を出たが、誰も声をかける者がいない。降りたほかのお客たちは、駅の前に馬車や人力車がたくさん出迎えていて、――これをむこうの人はマーチョ、ヤンチョと呼んでいたが――めいめいその馬車(マーチョ)や人力車(ヤンチョ)に乗って出て行く。私は、今に誰かが私を呼んでくれるかと思って待っていたが、気がついてみたときには、駅の前には誰もいなくなっていた。そしてその汽車は終列車であって、あとは、駅は鉄の扉を閉めてしまうのであった。私は一人残されて、時間はどんどんたってゆく。時候は特に寒いときではなかったが、夜遅くなると相当ひえびえとした満州の寒さであった。当時、満州の駅は、たいてい街からずっと離れたところにポツンと駅だけがあるのが多かった。新京、奉天など、駅の周囲が繁華街であったようなところは少なかった。延吉も、駅だけがポツンとあって、人家はどこにあるのか、夜の闇の中には何も見えなかった。私は駅にはいって行って、駅員に、「延吉の街はいったいどこにあるんですか。見たところどこにも明かりがないようですが」と聞くと、「延吉の街はこの道をまっすぐ向こうへ、約一里ほど行った先にあります。あなたはどうしたのですか」「私は迎えに来てくれる人があるというので、今朝新京から来たんですが、迎えの人が来ていないもんですから、延吉の街へぼくが行こうと思うんです」「延吉の何という町の何という人を訪ねるんですか」「いや、それが実は、何もそれを聞いて来なかったんで-------」「あんた。満州は内地とちがいますよ。満州に来てそんなことを言っていたら、たいへんなことになりますよ。もう一ぺんその新京の方に聞いたらどうですか」「聞くったって、新京のどこへ聞いたらいいか、厄介になったところの街の名も、電話があるかどうかも聞いてないんです」

「そんならあんた、つかみどころがないでしょう。いっぺん新京へ帰るんですね」というようなことを言って・相手にしてくれない。私はしかたがないから、長居は無用と思って、教えられた道を延吉の街の方へ向かってテクテクと歩き出した。すると駅員が呼びとめて、「もしもし、あんたは歩いて行くんですか」という。「はい、乗るものも何もないんだから、歩いて行きますよ」と言うと、「それはあんた、たいへんですよ。この一里ほどの間は、家一軒ないんですよ。そして、どうかすると、満州狼が出ますよ」という。「いや、それはたいへんだ。それでは行くこともできんし、迎えに来ないとなれば、明日はなんとか来るかもしれないから、ひとつ今晩はこの駅舎の、待合室にでもいいから泊めてくれませんか」「いや、そういうわけにはゆきません。もう全部消灯して、扉をしめてしまうんですから、どうか外へ出てください」そういうその駅員は、実はもっと言葉もたどたどしい日本語で、どうやら満人らしかった。

私は駅の前でどうするわけにも行かなくて、しばしたたずんでいた。<ああ、自分は何のために満州まで来たのか。何のためにこの延吉まで来たのか>と私は考えた。その当時、“一旗組”(ひとはたぐみ)といわれた人たちがワンサと満州に出かけて来て、何かひとつうまいことをしよう、金もうけをしようとしていた。しかし自分は、そういう気持ちは微塵もないんだ。ただ、自分は、この生長の家のみ教えを、神の声を満州の人に伝えるため、人類光明化というすばらしい目的のためにここまで来たのに、その自分が宿るいえもないなどということがあるか。自分の私利私欲のために出て来た人間にすら、神様は、みんな今晩一晩をあたたかくやすむ寝み場をお与え下さっているのに、人々の幸福のために神様の御使命をいただいてきた私にやすむ場所も与えられないなどという、無慈悲な神様ははいらっしゃるはずはない。<神様、私はここに行けという神様のみ心があればこそ、新京からきょう出てきたんです。神様のみ心によってきた私が、今晩ここで野宿をしなければならないなどというはずはない>と思った。
 その時ヒョイと私が思い起こしたのは、
行き暮れて 樹(こ)下蔭(したかげ)を宿とせば 花や今宵の 主(あるじ)なるまし
 という歌であった。作者の名は忘れたが、旅に出て宿がなくなってしまったときの歌で、宿はなかったけれども、その人を休ませてくれる何か花の樹があった。その花の下蔭で、その人は一夜の宿をとったという歌である。ところが満州へ来てこの様子を見れば、ただ枯れっ葉のような草ぼうぼうとした満州の広野がひろがっているだけで、自分を休ませてくれる一株の、一枝の花すらない。こんなことはあるはずがない、と私はその時強く思った。私は神想観をすることを忘れていた――と気がついた。私は、いつも肌身離さず持っているお守り『甘露の法雨』を出して両手の間にはさみ、合掌して、誰もいないその満州・延吉の駅頭で、高らかに招神歌(かみよびうた)を歌った。それは人に聞かせるのではない。生長の家の大神が聞きたもうのだ。わが業(わざ)はわが為すにあらず天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)だ。自分は生長の家の使者として、谷口先生の代理としてここに来させていただいたのだ。「天地(あめつち)の祖神(みおや)の道を伝えんと顕(あ)れましし生長の家の大神守りませ」私はそれを大きな声で何回くりかえしたか、そうしてそこに立って神想観をしたのであった。しばらくそうして立っていると、右の肩をポンポンと叩く人のあるのに気がついた。ひょいと見ると、一人の人が私の横にいて、顔をしげしげとのぞき込んでいる。そして、「もしもし、あなたは何をしていらっしゃるんですか」と話しかけて来た。「はい、ぼくは今ここでお祈りをしているんです」


「そうですか。お祈りをしてあなたはどうするんですか」「実はぼくはきょう新京から来たんですが、迎えに出るという人が来ないものですから、行く先がわからないので、今ここで一所懸命お祈りをしているんです」「ほう。あなたは延吉へ来たんでしょう。延吉の何という人を訪ねるんですか」「それが実は、訪ねる人の名前も聞かずに着たんです」「そうですか。あなたは何をなさる方ですか」「ぼくは生長の家という宗教の教えの講師としてここへ講演に来たんです」「ああ、生長の家って、ぼくは聞いたことがあります。ぼくも実は新京から来ているんですが、今、用事があって駅長のところにいたんです。もうじき街の方から、ぼくを迎えに馬車が来ることになっているんです。もう来る頃だと思ってここへ来たら、あなたが立っておられるので、おたずねしたようなわけだったんです。生長の家っていうのは-------この延吉にやはり生長の家があるんですか」「はあ、それでぼくは何か講演しろというのでやって来たようなわけだったんですが、今いうようなわけで、人も知らず、所も知らずにやって来たんです」「ああ、そうですか。ようございます。今、馬車が来ましたら、ぼくの馬車にいっしょに乗って延吉までいらっしゃい。そして明日の朝、ぼくが生長の家というのを聞いてあげますから、じきにわかりますよ。まあ、ぼくにまかせてください」「そうですか。お願いします」というような話をしている間に、暗闇の方から、カラン、カランと鈴の音が聞こえてきた。その時分の満州の馬車(マーチョ)の馬の首には鈴がつけてあった――これは、その鈴の音によって狼が近づかないという、狼よけの意味もあると聞いたが――その馬車の鈴の音である。やがて、一頭の馬車が来た。その人は私を馬車に乗せてくれて、なるほど一利ほどあると思われる暗い満州の広野を突っ切って、延吉の街にたどりついたのは、もう十二時近かった。

 着いたところの旅館は、日本旅館とか、日の丸旅館とかいったと記憶しているが、その私をつれて行ってくれた人は、新京の満州庁の役人で、延吉へ何か用事のために来ていた。年齢は三十ぐらいと見える、まだ若い人であった。満州のその頃の旅館は、予約しておかないで、急に行って泊めて欲しいと言っても、なかなか部屋がなかった時分であるが、幸いにしてその人が先約していたから、女中が出て来て、「さ、お部屋も用意してあります」という。すると、「この方もいっしょにたのみますよ」「ああ、そうですか」というと、女中たちも、私の方が年輩なので、「さあ、さあ」と深切に案内してくれて、なかなかよい部屋に通してくれた。そしてその人は、私が商売や自分の事業のために来たのではない、宗教家であり、布教のために来た人だというので、非常に尊敬的な態度をとってくれて、「先生、先生」と呼んでくれる。そうして、「実は私は新京にいるときに、生長の家という名前は聞きましたが、まだ生長の家がどういうものかということは知りません。しかしたいへんよい教えを説くところだということは聞いております」と言って、非常に好意をもってくれて、今晩はゆっくり私といっしょに休みましょう、という。それからそういう遅い時間であったが湯に入り、食事もいただいてから、一晩ゆっくり休むことができた。神様はやはり、ちゃんといい人を私にさし向けてくれて、「お前は生長の家のためにきたのだから、まあゆっくりしろ」という思(おぼ)し召しだと、私は感謝した。

 次の日の朝、私は少し寝坊をしたらしく、前にその青年の人は起きて、私のために生長の家を方々たずねてくれたらしい。私が起きてくると、「先生、生長の家はわかりましたよ」という。「そうですか、それはすみませんでした」「この街はずれに、護国神社として、加藤清正公をお祀りしている神社がありますが、そこの神主(かんぬし)さんが、生長の家のたいへん熱心な人だそうですから、そこへ行ったらわかるでしょう。私が馬車(マーチョ)もちゃんと約束して、迎えにくることになっていますから、まあ御飯を食べてゆっくりしてお出かけください」という。ああ、ありがたい――やっぱり神様のおはからいはすばらしいものだ、と深く感謝した。そうしてその時間になると、一頭の馬車が旅館の前に来た。「さあ先生、馬車が来ました。御者は満人で、日本語がわかりませんが、ぼくが行き先をちゃんと言ってありますから、黙って乗って行けば大丈夫です」「ああ、そうですか」と、あまり嬉しいものだから、ついそういう世話になったお礼も言わず、その世話をしてくれた人の名前も聞かないで、そそっかしい私は馬車に乗り込んでしまった。そうして御者がいよいよ馬車を動かそうという時になって、「ちょ、ちょっと。あなたにこんなに御厄介になって、宿賃もまださしあげていなかった。お名前も聞かなかった。実は私どもは、宿屋などへはあまり泊まらないことにして、信徒の人のお宅へ御厄介になるので、十分な宿賃も容易してきてはいませんが、いくらかありますので、わずかですが、宿賃にお取り願いたい。それからあなたのお所とお名前を聞かせていただければ、また不足の分はお送りさせていただきますから。お名前は何とおっしゃるのですか」というと、

その青年は「いや、いいですよ。私は満州に来て今までに、あなたのような方に会ったのは初めてです。自分の利益のために満州に来ている人が殆んどすべてだが、あなたはそういう人ではない。すばらしいい宗教の布教のために来られた人だから、せめてあなたのような人に、私はお礼の気持ちで尽くさせていただきたいと思いまして、宿屋の支払いは私がさせていただきます。私はあなたに名前を申し上げるような人間ではありませんから、そんなことは聞かずに、もう行って下さい」と言ったかと思うと、御者に何か満語でペラペラとしゃべって、出発を命令したらしい。御者は、馬の尻をピシリと打ったので、馬はパカパカと走り出した。私は宿賃も払わず、世話になった人の名も聞かずに出発してしまった。そうしてかなり行ったところで、護国神社という加藤清正公を祀った神社に着いた。私は馬車から降り聞くと、そこが、私の訪ねて行くべき所であった。

神主さんが出て来て、「あなた、いついらっしゃった?」「昨晩来ました」「どうしてまちがったんでしょう。私の方には、今日いらっしゃることになっておりますので、今日はお迎えに行くつもりでいたんですが」というわけで、日のまちがいだったので出迎えがなかったのであった。それにしても、私は、名前も知らず、人も知らぬ、場所も知らぬ目的地にこうして導かれて、立派にお役を果たすことができたのであった。

こういう体験は、このほかにもずいぶんある。何かのゆきちがいで連絡不十分ということがあっても、驚かずに布教活動ができるのが生長の家である、ということを私は自分の体験から声を大にして申しあげたい。








(7)
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[435]
木鶏 - 2015年09月04日 (金) 11時40分

>>その時ヒョイと私が思い起こしたのは

>>行き暮れて 樹(こ)下蔭(したかげ)を宿とせば 花や今宵の 主(あるじ)なるまし

藤原公任のうたか? 簡単に「ヒョイと私が思い起こした」

大山先生はよく知っておられたんですね。

マサノブ教本部講師はどんなんかな。

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