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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[4738] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第157回
信徒連合 - 2016年08月24日 (水) 08時12分




<再掲示> 


インターネット道場―― 


「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)


 第157回




マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。

「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。

また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。

インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。

そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。



******************



< 迷いは何処から?>



「今の教え」における「迷いとは?」・「迷いは何処から?」


平成19年7月15日・埼玉県講習会において当時の谷口雅宣副総裁先生は、信徒からの「迷い」に関する質問に次のように答えておられるのであります。また、平成19年9月の「小閑雑感」の中で5回にわたってこの事を採り上げて説明されています。要点は

(1)「迷い」とは、選択・判断を決め兼ねることを言う。

(2)「迷い」は、自由から来る。さらに詳しく言うと「迷い」は、欲望追求のために自由を行使せんとする所から来る。


<「迷いは、自由から来る」ことの説明>

・食堂へ入って沢山のメニューの中から自由にひとつの好きなメニューを選ぶときには、どれにしようかしら?と「迷う」。従って「迷い」は選択の自由から来る。

・「真理」第10巻・実相篇において、谷口雅春先生は「道徳的善であるためには、常に墜落したり脱線したりする自由が一方にあるのに、自ら好んで墜落したり脱線したりしない所に善としての価値があるのである。」と説かれている所からも十分に説明できる事柄である。




「本来の正しい生長の家の御教え」

開祖・谷口雅春先生は、「迷い」に関しては「生命の実相」第21巻・経典篇第3章<知恵と無明と罪>、「生命の実相」第24巻・質疑篇<人間・神の子の完全さについて>の中で極めて端的に説かれています。即ち、

(1)無明(まよい)は、あらざるものをありと想像するが故に無明なり。

(2)真相を知らざるを迷いという。

(3)転倒妄想を迷いという。

(4)われとわが生命の完全円満なる実相を悟ることを得ざるを迷いという。


<「迷い」は、どこから?>

・「迷いは本来無い」わけでありますから、「無いところの迷い」は何処から?――というその「何処から」も無いわけであります。

・「迷い」が非実在だと言うことが判ったら、その「迷い」が何処から来るかというような疑問も無くなるわけです。


 
        
<注釈コメント>

・開祖・谷口雅春先生の「迷いとは無の別名である」従って「本来無きものの出所を求めることは出来ない」。この教えは谷口雅春先生の唯神実相・実相独在の深遠なお悟り(大悟徹底・絶対実在の絶対認識)から来ているのであります。信徒としては「只、ハイ!」とそのまま受ける事によって迷い無き世界へ出れるのであります。これは、第三代目・谷口雅宣先生の主張される「原理主義」では決してありません。

・宗教の世界においては、実際の現実生活に迷い悩んでいる人々の迷いや悩み自体を現実に救ってあげなければなりません。学者や評論家の世界の解説は、宗教の世界の解説ではありません。

・いきなり「迷いは無い」と一喝しても理解できる人は少ないから、食堂のメニューの選択の自由を、迷いの例として説明するほうが分りやすいと考えられるかもしれませんが、開祖・谷口雅春先生の時代には「迷いは本来無い、無の別名である」と実相直視の説法で救われた人は実に沢山おられるのです。無数の体験談があります。この説法で生長の家の教えは広く広がっていった事実を無視することはできません。また、「生命の実相」第1巻・第2巻実相篇をしっかり読むと、迷いの無い世界へ脱出できるのです。

・生長の家へ入信してくる人々は、「宗教的機縁」の熟した人々であります。「霊的機縁」の熟した人々には、霊的感動あるコトバが魂に響いてゆくのです。従って「迷いは自由から来る。」といった説明は、「霊的機縁」の熟した人々には、霊的感動あるコトバとなっては何も響かないのです。逆に本当に迷ってしまう事になります。従って「生命の実相」その他の谷口雅春先生の霊的感動を与えられるコトバあふれる御著書(特に「生命の実相」第1巻・第2巻実相篇が大切です。)を繰り返し繰り返し自分を無にして読むことによって「迷い」は消えて行くのであります。

・「迷い」に関する新しい解釈を作り出す必要など無いのであります。却って新しい「迷い」を作り出し、その人の霊的進化を遅らせる事になるのであります。なお、「真理」第10巻実相篇の「道徳的善の価値と自由」に関する谷口雅春先生の御文章を<迷いは自由から来る>という解釈の根拠として引用することは適切さを欠いていると言えます。また、食堂のメニューの選択を人生問題の深刻な病・悩・苦の迷いと同じレベルで考えることは、如何にわかりやすい方便とは言え軽率であります。食堂のメニューの選択は単なる<思案>であります。            







(「生長の家 今昔物語」の比較篇を転載)


(注)この比較篇が作られたのは、6年前の平成21年でした。当初の頃は「谷口雅宣先生」と敬称で書かれていました。しかし、平成28年の現在に於いては、“敬称”で呼ぶ値打ちのない人物と成り果てました。しかし、この転載文に於いては、原文どおりの「谷口雅宣先生」として転載いたします。



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