| [434] インターネット道場 ―――感激的体験記 ・ 大山昌平先生 「光の行くところ闇はなし」 <その四> 「道は開ける」より |
- 信徒連合 - 2015年09月04日 (金) 08時54分
インターネット道場 ―――
感激的体験記
大山昌平先生
「光の行くところ闇はなし」
<その四>
「道は開ける」より
4. “大山観音”縁起
昭和三十年、栃木県を巡行したときのことである。日程によって、二宮町というところにわたしはバスに乗って行った。私の行く先の誌友会をしている家は、T家という、道具屋であると聞いていた。私は言われていた停留所でバスを降り、そこからブラブラとその家を見つけるために歩いて行くと、一軒の道具屋がある。しかしその道具屋があまりにもひどい道具屋で、私は、まさかこの家が生長の家の誌友会をしている家ではないと思った。
というのは、その道具屋には、道具といえるようなものはほとんど置いていない。まるで、今なら屑屋(くずや)さんにただでやっても持って行ってくれないような、自転車のリムのひん曲がってしまったものだとか、鼠(ねずみ)が大きな穴をあけた戸棚のようなものなどが、その店先に積み上げてある。
間口は相当広いのだが、実にきたない。私は、この家ではないだろうと思ったが、一応そこにはいって、「ちょっとお尋ねしますが、この辺にTさんという道具屋さんがあることを聞いてきたんですが、御同業と思いますが、御存知ないでしょうか」と聞くと、「そのTというのは私の家です」と言って御婦人が出て来られた。
私は意外に思って、「お宅で誌友会をやるというので来ましたが--------」と言うと、「ええ、うちで今晩、していただきます」「それでは、上げていただきましょう」と上げてもらって奥座敷にはいる。私は内心、こんな家で誌友会をやっても、ろくな人が集まらないだろう。人数もせいぜい十人も集まれば関の山だろう。生長の家をやればすばらしく幸福になると言って人々を勧誘するはずなのに、Tさんがいくらそう言っても、現在のこんな状態では人が信用しないだろう。こんなところで誌友会をやったところが、たいしたことはないだろう、と思っていた。
そこに一人、年輩の男の人がいたが、その人は私に一口も言葉をかけない。ただ奥さんだけが私を「先生」と言ってもてなしてくれる。と言っても、たいした待遇をしてくれるわけではない。ただ渋茶(しぶちゃ)をだしてくれる程度で、夜の来るのを待った。
そうして夜になって誌友会の時間になると、「今晩わ」「今晩わ」といろいろな人が集まってくる。だんだんたくさんの人々がやって来て、開会時刻まぎわになると、その家いっぱいの人々が集まった。七、八十人は来たであろう。
これには私は驚いた。どうしてそんなに集まったのかということをあとで聞くと、その家には男の子が四人あって、小学校に通っているのだが、誌友会をやる日がきまると、その一月ぐらい前から、自分たちで謄写版で誌友会の要旨を刷って、学校の行き帰りに方々の家にそれを入れて勧誘する。それを一月のうち少なくとも三回はやる。一軒の家に三回も四回も、謄写版で刷ったチラシを配って宣伝していたと聞いて、私は感心した。その結果がこうして、七、八十人もの人が集まってくれたのであった。そこで私も熱を入れて講演をして、その晩は終った。
さて、その夜はそこに泊めてもらって、次の朝、ちょっと寒い朝であったが、私は早く起きて、火鉢に火を入れてくれたのであたっていた。そこへ前の日から口をきかないでいた年輩の男の人がつかつかとはいって来て、私のあたっている火鉢を片手でずう−っと自分の方へひっぱり、たばこを吸いだした。
私に一言の挨拶もされない。私は<この人はどこかよその人だろうが、しかし、こうして私が来ているのに、先にいる私に、「お早うございます」という挨拶の一口ぐらい言いそうなものだが、知らん顔してたばこを吸っている。
これはこっちから声をかけなくてはいけない>と思い、その火鉢の方へ自分で近寄って行って、「お早うございます」と声をかけると、「うん」と言ってあごでしゃくるような挨拶である。
「ちょっと旦那さん、あなたはきのうからここにいらしゃったようですが、どこか御しんせきか、お近くのお方ですか」と声をかけると、「いや、私はこの家の主人です」という。「ああ、あなたは御主人ですか、それは失礼いたしました。ゆうべからたいへんお世話になってありがとうございました。
御主人とは知らないで御挨拶もせず、失礼いたしました」ところで、前夜私が講演をしているとき、向こう側に、破れ障子をへだててもう一つ部屋があって、そこで五、六人の人たちが酒盛りをしていて、私の講演中おおきな声で歌を歌ったり、さけを飲みながら話したりしていた。これはどこか別の人がその部屋を借りてやっているものと思って、あまり気にしないようにして講演をすませたのであった。
私は、「昨夜私の講演中、お隣の部屋でお酒盛りをしていたようでしたが、あれはあなたがたがなさっていたのですか」とその主人にきくと、「ええ、あれは私の飲み友達が四、五人集まって来たから、いっしょに酒を飲んどったんです」「そうですか」といって私は、これはずいぶん変わったひとだなあ、と思った。
「失礼ですが、あなたは生長の家は御承知ですか」「ええ、生長の家は、家内はやりますが、私はああいうものはやりませんよ」「ああそうですか。なぜなさらないんですか」「ああいう神だのみは私はやる気はありません。実は私の家は、終戦までこの土地でも相当大きな土地をもって、地主として立派にやっておったんです。ところが終戦後は不在地主というので土地はみんな取り上げられてしまって、ヤケクソに思って酒ばかり飲んで、もう十年以上になるんですが、その間に自分の家の財産は全部酒に変えてしまったんです。今ここに見えますが、あそこに二つ蔵があるでしょう」
「ああ、なるほど」――そこには白壁の立派な土蔵が二本あった。「あの中にいっぱい、私は物を持っておったんです。それをみんな出しては売り、出しては売りして、全部酒にしてしまったんですよ。そうして今はもう売るものもないんで、この家を抵当にして金を借りて、飲んでいるんです。その金はむろん返すあてはありませんから、いよいよその金を使い切ってしまったら全部おしまいで、子供らも、家内も、みんな別れ別れになって、自分らのしたいことをすればいい、という覚悟をしているんです。今さらそんな、神様や仏様にお願いするなんて気持はありませんよ」という話である。
これは大変な家だったなあ、黙ってはおれないと思い、その人を相手にしていろいろ話を聞いた。「そんならあなたは今まで売ったのは、よそから仕入れて来たものを売ったのではなくて、自分の家の蔵にあったものを全部売ったんですか」「ええ、私はよそから仕入れたものなんか売ったことはありませんよ。みんな家の物を店先へ出して売ったんです。ところが最近、もう売る物が何もなくなってしまったんです。今あるものはみんな、うちで使っていた、もう売れないような物ばかりが残っているんですよ」
「なるほど、それでねずみの食ったようなものや、ぶち欠けた自転車なんかばかりなんですね。ところでちょっとお聞きしますが、ゆうべ私が講演する前にちょっとお店の方へいったとき、棚の上に観世音菩薩と書いた箱がのっておりましたが、あれは、中はからっぽですか」
「いや、あれは中にちゃんとありますよ」「えっ、中にあるんですか。それをお売りになるんですか」「ええ、売るつもりでね、あそこにもう一年以上出してあるんだが、見る人はあっても、買って行く人はないんで、あれだけ一つ残っているんですよ」「それをちょっと見せてください。よかったらぼくが買いますから」
「ああ、そうですか」と主人が行ってその箱を持つと、ほこりがいっぱい積もっている。それで、はたきを持って表へ出て、ほこりを払ってから持って来た。私は、「拝見します」と言って蓋をあけると、木彫りの荒彫りの一尺二、三寸の観世音菩薩が現われた。それをじっと私が見たとき、彫り方は雑駁な彫り方だが、そのお顔の感じは実にすばらしい感じであった。
これは名作というよりは、これを信仰した沢山の人の信仰の心が、この観世音菩薩のお心としてここに輝いているというように感じた。それで私は、「これをあなたはお売りになるのですか」と聞くと、「ああ、売ります。もう、金になるものはこれよりほかないんですよ」
これは高いことをいうので売れないんだろうなあと思った。私は、「これはどこかよそからお預かりになったか、あるいはお買いになったものですか」と聞くと、「いや、これは実は私の三代くらい前の先祖がお祀りした観世音菩薩なんです。ところが、実は売りたいと思ってこれも出したんですが、見る人は見て行っても、誰も買おうという人は今までないんです。こんなものは使用もないから、買いたい人には、いくらでもいい、売ろうとおもっているんです。あなたが買いたいのなら売りますよ」
「ああ、そうですか。いくらでお売りになる?」と聞くと、その時千円とか千百円とか言ったと記憶している。「えっ?あなた、その上に一万とか、二万とかいうのがつくんじゃないんですか」
「いやいや、はじめからその値段で、聞く人にはそういうんですが、誰も買って行かないんです」「よし、私が買いました。私がおっしゃる通りの値段で買います」「それはありがとうございます」むこうは私をお客さんにしてしまったので、今度はペコペコあたまを下げる。これは一杯飲める、と思ったのであろう。
「そうですか、それでは私が買いましたよ。しかしね、あなたにお話ししたい。Tさん、あなたはね、この観音様を誰が見ても買わないというわけがわからんでしょうが、これは、あなたの家の守りの観世音菩薩ですよ。あなたの家が最後になるまで踏みとどまって、あなたの家を守ってくださる、そういうお慈悲の観世音菩薩であればこそ、今まで誰が見ても買って行かないようになって、今まで残っていらっしゃったんですよ。ぼくがこんなことを言わなくてもいいのに、こんなことを言う気持になるのも、これ、観世音菩薩のお慈悲の心なんだ。あんたの家は全財産をみんな、あんたが酒にしてしまって、その結果、一家が離散しなければならないようになったというが、そのわけはね、この観世音菩薩をお祀りしないから、家が栄えなくなってしまったんだ。
いよいよ、これをぼくの手に売ったら、もうあなたの家を守るその観世音菩薩のお力がなくなるから、ただ、離散するだけじゃない、あなた自身が今後生きて行かれるかどうかわからぬ運命になるんだよ。それでもあんた、やる気かね。それとも、あるいは、苦しいかもわからんが、この観世音菩薩をお祀りして、観世音菩薩のお慈悲にすがって、家を再興することをあんたは誓うか、どうだ」と言って私は覚えずその主人を叱咤していた。
するとその主人は居ずまいを直し、「はあ、そうですか。どうぞこの観世音菩薩を私に返して下さい。観音さまを返して下さい」「おや、返してくれというならね、ぼくは今あんたから買ったと言ったけれども、あんたにまた売り戻す。買った値段で売り戻す。これを祀りなさい。祀っても、なんとしてもあなたの家がどうにもならないという時が来て、この観音さまを、そんならもう売ってしまえという気になったときには、あんたのいう値で、ぼくが買ってあげるから、他人にうってはいかん、ぼくに売りなさい。たといどんな値段であんたが売ると言っても、ぼくが買ってあげるから、それまでは、真剣にこの観世音菩薩を祀りなさい。今からすぐ祀りなさい」「ありがとうございます。ありがとうございます」
そう言って、主人は、床の間にきたないものが山のように積み上げてあったものを全部表へ出し、そのあとを奥さんも来て拭き清め、そこに観世音菩薩を安置した。
私はそこで聖経『甘露の法雨』を真剣に読誦した。そうして奥さんに、「今後は、ご主人もこの観世音菩薩を祀るといわれるが、あなたも一所懸命、観世音菩薩の慈悲におすがりなさい」と言って帰って来たのであった。
そうして帰りに小山(おやま)というところに寄ると、そこの相愛会長で鉄道へ勤めている人があったが、その人が、「先生は、二宮へ行ってTさんの家で誌友会をなさったなら、お気付きであったか知りませんが、あそこに観音さまが一つあるのをごらんになりましたか」「ああ、見ました」
「あの観音様はとてもすばらしい観音さまです。きょうは先生がおいでになるんだから遠慮して、明日になったら、それを私は買いに行くつもりでいるんです。私はある人から、何万円までの観音さまで、あなたが見て“これは”と思うものが見つかったら買ってくれと、たのまれているんです。あれは、あのTさんの家に行ったら安く買える。まあ、高くてもせいぜい一万円ぐらいだろうと思う。それを、何万円でも、ある人が買ってくれるんだから、あれを買いに行くつもりです」
「とんでもない。あれはぼくが見て、今朝話して来たばかりなんだ。売るなら、ぼくにしか売らないという約束をして来たんだ。あの観音さまは、Tさんの家の再興をしてくださる、慈悲の観世音菩薩だ。もう絶対に売らないという約束をして来た。あなたは、もう行ってもだめです」「いや、それはどうも惜しいことをしました。それでは一日早く行っておけばよかった」といった観音さまである。
それからもう六、七年になるであろうか。その後一度も私はその家に行かないが、お手紙をときどきいただく。T家はそれからどんどんよくまって――というのは、子供さんも立派に成長し、また御主人は酒は少々嗜(たしな)む程度にしか飲まないようになった。そのきたない道具屋はやめ、子供さんはそれぞれ独立して、一人はそこでテレビの修理・販売などをやるようになり、また官庁へ勤める子供もでき、四人の子供がみんな親孝行で家を思う子供になって、家はどんどんよくなった。そして、ビニールの袋をつくる工場を裏の方に建て、その仕事がどんどん栄えて、もう以前とまるで打って変わった活気あるようすになった。
ご主人も生長の家を真剣にやるようになって、誌友会を毎月ひらいているということである。あの観音さまは、私が言ったためにお祀りするようになったのだから、“大山観音”などといっているそうで、今も大切におまつりしているにはもちろんのことである。
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