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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[5001] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第119回
信徒連合 - 2016年09月10日 (土) 10時49分




谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――


@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』

A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』

★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。

******************




平岡初枝先生「子供を見つめて」より(30)




日本一のお母さん


<生さぬ仲の母子でも>

 もうかなり前のことになりますが、新しく富山市に編入された新庄町の飯田さんの家で話したことがあります。市営住宅の三畳と六畳の小さな家でしたが、それでも30人近く集まりました。テーブルなど置く場所がないので、私は室の隅に身体一つを入れるすき間を作って、そこに立って話したものです。私の話が一わたり終わると、まず飯田さんが次のように話されました。

「先生、私の息子は今年24歳になります。ただ今千葉県の方へ売薬行商に行っておりますが、私に手紙やハガキをくれる度に『日本一のお母さん、ありがとうございます』と書いてないことがないのです」そしたら、飯田さんの隣にいられた一婦人が、目に涙を浮かべて……

「先生、こちらの息子さんのように、よくできた方はありません……」と前置きして話しだされたことは、……この息子さんと飯田さんとは生みの親子ではないこと、この息子さんが五歳の時、生みのお母さんは離縁されて、そのあとへこられたのが飯田さんだということ、そして、この息子さんの15歳のときに、お父さんも亡くなって、今は70歳近いおばあさんと、三人暮しだということでした。それが、近所の人たちも目を見張るぐらいの孝行者だというのです。

私は、飯田さんに、どんな育て方をしたら、そんな善い子に育つのか、皆さんに話してあげてほしいと頼みました。




<子供の言うこと何でもハイ>

飯田さんの話は、まことに謙虚でした。
「私には教育はありません。ですから、どうして育てたら善い子になるのやら、悪い子になるのやら分からないのです。それで、せめて子供の言うことをきいてやろうと思って育ててまいりました。

実は昨年の10月まで、その先の旭織物という会社で働いていたのです。ところが、10月に心臓をわるくして休んだことがあります。そしたら、息子が枕元にきて
『お母さん、何と言っても生命が第一、どうしても会社をやめて身体を楽にしてほしい』
と言うのです。私は、今やめたのでは息子の負担が重すぎる、もう少し勤めたいと思って、しばらくためらっていると、息子は懐中から百円札を一枚とり出して、
『お母さん、僕が百円札一枚かせげば、その三分の一はお母さん、三分の一はおばあさん、そしてもう一つの三分の一は僕の分だと思っている。だから、お母さんが遠慮したり心配したりすることは絶対に要らない。それよりは、お母さん、僕はお母さんにたっしゃで長生きしてほしいだけだ』
と言ってくれたのです。

この時、私は……ああ、こんなにいってくれるものを、私が強情を張って、この上からだを悪くして息子に心配をかけてはすまない……と思ってやめたのです」




<陰膳供えて息子を拝む>

飯田さんは、こんな話もされました。
「それから今一つ、先生方が生長の家の教育法をといて下さって、『子供は鏡である。よいことも悪いことも、親の心が映っているのである。本来は神の子である。おがんだら拝まれるような子供になる』と、おしえて下さいましたので、そんなことなら私にもできるでしょうと思いまして、息子の写真の前に毎日三度の食事を供える際、必ず合掌して、『日本一の素晴らしい子供を授けていただきまして、ありがとうございます、ありがとうございます』と拝んでいると、うれしさに涙さえ催すことがあります。

そして、子供だけでなく、子供を生んで下さったお父さん、お母さん、さては御先祖の皆さんにも深い深い感謝の思いが湧くのです」

まことにも、まいた種は生えるというか、拝む者は拝まれるの真理が、そのまま現成しているわけです。




<母と息子のランデブー>

そんな話のあとで、飯田さんはいかにもうれしそうに笑みをたたえて、おっしゃったのです。
「先生、あとふた月ほどしたら、息子は千葉から帰ってまいります。帰ると必ず『お母さん、一日富山へ行って遊んでこよう』と誘ってくれます。私はうれしくて、ようまあ、若い者が、私のように風も恰好もない者を連れあるいてくれると思って、その日は私の一番良い着物を着て、一番のおめかしをして出かけるのです。

富山へつくと『お母さん、寿司たべますか、丼にしますか』と、食べさせてくれるのです。それから『草履買ってあげようか、半襟買ってあげようか』と買ってくれます。それから『お母さん、映画見ましょう』と、映画を見せてくれます。私はふだんは映画などめったに見たことはありません。息子に誘われた時ぐらいのものです。こんなにして一日引きずり回してくれます。

そして夕方になると『お母さん、つかれたでしょう。ハイヤーで帰りましょう』と言ってくれます。私は心の中で『ハイヤーで帰れば二百円近くはかかる、電車で帰れば十円ですむのに』と思うのです。しかし同時に『いやいや、そうでない。息子が、せっかくハイヤーに乗せてやろうという心は、ニ百円や三百円の金で買えるものでない』と思って『ああそうか、そうか。ありがと、ありがと』と乗せてもらうと、この市営住宅の前まで乗りつけてくれるのです」

飯田さんは、子供の言うことをきいてやること、子供の気持になることに心をくばっていられるのです。特に子供と一緒に富山市へ出かける時には、その時こそ一番よい着物を着て、一番のおめかしをするといっていられる。これは素晴らしいと思います。子供は、みんな言うと言わないにかかわらず、親を善くみられたいのです。あんまり惨めな姿をしたり、あんまり不景気な顔をしてもらいたくないのです。それが子供の愛情です。

同じことは、夫婦の間でも言えるのです。女房のあんまり吝みったれた姿は、他人に見られたくないのです。それが夫の愛情なのです。ところが、心ない奥さんになると、家族のものと一緒にあるくのに何のおめかしが要るか、子供と一緒にあるくのに……といった気持の方も多いのです。こんなところから、子供に好かれない母になったり、夫から映画一つも誘って、もらえない妻になったりするのです。

飯田さんは、いつも子供の心になって、その愛情を受けていられる。寿司でも丼でも、映画でもハイヤーでも、その受け方が素晴らしいから「日本一のお母さん、もっと、もっと喜ばしてあげたい」という息子さんの気持も出てくるのであります。


あるところで私が飯田さんの話をした時でした。70歳に近いかと思われる老婦人が言われました。

「先生、わかりました。私は若い者たちに、す**とをしておりました。この夏の初めに、息子が軽いフェルトの草履を買ってきて『おばあさん、年取るとからだが重くなるというから軽い草履を買って来たからはきなされ』といってくれたのであります。今の話をもっと早くきいていたならよかったのに、その時私はろくに『ありがとう』とも言わず『なにをまあ、この年寄りが、こんな良いものはかなくとも』と、未だに箱に入れたままで押入れにしまっておりました。本当にすまないことでした。帰ったら喜んではかせてもらいます」

こんな例はどこにもよくあることです。遠慮が一番いいと思ったり、お金をかけないことだけが良いことのように考えて、人の好意をおろそかにする。一足の草履でも、喜んで受けてあげれば、息子も与える喜びで嬉しくなって、冬になったら暖かい毛布の一枚も買って喜ばしてあげたいと、一層はげむ心も出るものです。
よく親のことも考えない親不孝者といいますが、親不孝の前に子不孝をしていやしないか、時には考えて見るべきだと思います。




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