| [5012] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第120回 |
- 信徒連合 - 2016年09月11日 (日) 08時11分
谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――
@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』
A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』
★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。
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平岡初枝先生「子供を見つめて」より(31)
秀才ものがたり
<ある大学教授のお母さん>
今日本で一流の大学教授として活躍していられるIさんのお母さんは、長男の教育法について次のような苦心談をして下さったのです。
「私は、男の子を四人も持たせてもらいました。それぞれの特長はありましたが、中でも長男の美貴男(仮名)はちょっと手のかかる難しい子どもでした。主人はながらく市長をつとめて、厳格一方の性格ですし、私は旅館を経営して忙しい日をおくっているし、息子は言い出したら、なかなか折れるということのない性格で、子供を育てるというよりは、私が引きずり回されてきたという方が当たっているのではないかと思います」
<机の下の講談本>
「あの子が小学校六年生で、中学の受験準備でみんなが血眼になっている頃のことでした。ちょいと子供の室に入ってみたら、重ねてあった十数冊の本をとたんに机の下にかくすように押しこむのです。
『坊やどうしたの?』と尋ねると、頭をかかえて机の下から引きずり出したのは、何と、冒険物語、奇術物語などの講談本で、買ったのから、貸本屋に借りたものまで、うずたかく積まれてあるではありませんか。
私も驚いて、『まあ、あんたは今何月だと思っているの、入学試験までに、もう2ヵ月もないじゃないの、それなのに、そんな本ばかり読んでいたの』とちょっととがめてみたものの、『まあ仕方がない、それを早く読んでしまいなさい』というと、ニコニコ笑って、『母ちゃん、読んでもよいか』と言うのです。
『よいか悪いかといってみたところで、読みたいものを読まなきゃ気がおちつかないのでしょう』というと、急に張り切って『母ちゃん、ありがとう、僕、一週間でこれだけ読むよ。そしたら勉強する』と言って、さあそれからは夜も昼も読む、読む。とうとう一週間で読み終えました。強情な性格で、ちょっとひと筋縄ではいかない子なのです。
中学は東京の四中に入れました。私の町にも中学があったのですが、すこし前に生徒のストライキ事件があったので、一徹な主人が『俺の子供はストライキを起こすような学校へはやらない』といって、東京の四中には素晴らしい漢学の先生がいられるときいて、それをたよりに入学させたわけです」
<一高にはいるまで>
「中学時代は、あまり問題もなくて過ぎました。ただ四年生の時に一高の受験に失敗したということがありました。当人としては相当自信をもっていたのに落ちたので すっかりしょげて国へ帰ってきました。それで、私は一所懸命はげましてやりました。『入学試験に一度や二度おちたとて、なにほどのことがあるか、長い人生じゃ、特にこの町の人たちが、遠い東京で入学試験におちたことは誰も知らないはず、町をあるく時でも伸びのびと、意気揚々と歩くことだ』と一所懸命はげましてやりました」
「しかしこんな体験があったせいか、翌年の正月元旦の朝早く東京から帰省した息子が『僕は一高をやめて、水戸の高校を受けようと思う』と言ったものです。さあ一徹な私の主人がこれをきいて怒りました。
『貴様のような奴、おれの子でもなければ親でもない。そんな根性の奴は、とっとと俺の目の前から消えてくれ。俺は何も−高がよくて水戸の高校がわるいなどと、そんなケチなことをいっているのではない。男一匹、一高にはいると志を立てていたものが、いよいよというところで気を弱くして、他を受けるなどといい出すその根性がたまらんのだ。さあ、さっさと俺の目の前から消えて失せろ』と物凄い剣幕なのです。
何分にも正月の元旦です。しかも寒い寒い朝なのです、とそもお雑煮も、まだ祝っていない時間なのです。私も、全くうろうろいたしました。主人は私の心も読み取ったものか、今度は私に向かって、『貴様も同じ根性なら、今のうちに一緒に消えうせろ……』というのです」
「私は腹をきめました。息子は可愛いけれど、ここは男の教育だ。私は、だまってお父さんに従いましょう、と心をきめました。息子は、お父さんに一言半句も言葉を返さないで、すごすごと家を出て行きました。
私は涙をこらえて仏前に合掌し、『御先祖様、ありがとうございます。お父さん、ありがとうございます。美貴男よ、ありがとうございます。必ず、すべてがよくなります。ありがとうございます』と、三、四十分間涙とともに祈りました。そして『そうだ、この問題は、仏様にすがって、御先祖様にすがって、信仰の力で解決させていただきましょう』と、心をきめました。
それからは、毎朝3時に起きて心身を清め、21日間を期して『甘露の法雨』の写経をおもい立ったのです。(『甘露の法雨』というのは、生長の家の聖経であります。ただ読むだけでも三十分は優にかかる長いお経であります)一日一巻ずつ筆で写経をいたしました。写経をはじめて一週間目のちょうど七巻を書きおえた時です。
ひょっこり台所口から息子が帰って来たのです。 『お母さん、僕一高へはいるよ。その決意を今町の氏神様とお寺の仏さまに報告に行ってきたんだ。僕、きっとはいるから、お母さんは安心しておくれ。僕、今朝はまだ朝飯をたべていないのだ、梅干でいいから、お茶漬をたべさせてくれませんか』というのです。全く生命は一つです。私は、とめどない涙のなかで朝食を整えました。息子は食事をすますと、そのまま東京へ帰って行きました」
「ところが、息子が帰って間もなく、主人が台所へ出てきて『美貴男の声がしていたのではないか』というのです。『はい、ただ今こんなことを言って帰りました……』と、説明すると、主人はまた大声を出して怒りました、『なんで、あの子の好きな果物を持たせてやらなかった、なんであの菓子も……」と。そして、めったに物など買いに出たことのない主人が、大きな風呂敷を持って飛び出し、息子のすきなものをしこたま買い集めてきたのです。そして『さあ、今すぐに、これを東京へ持って行ってやれ』と大騒ぎなのです。私はひと汽車おくれて息子の後を追いました。東京へは2時間と40分かかるのです」
「宿へついて見ると、おどろきました。私は観音様を信仰して、その小さな御像を仏壇にまつっていたのです。その御像をいつの間にとり出したものか、ちゃんと机の上にかざり、お燈明まであげて合掌しているのです。親子の念は全く一つです。それまでの美貴男は、神仏の前に合掌したということのない子供でした。私も、一度として『合掌しなさい』とすすめたこともないのです。
ところが、私がこの問題は『仏にすがって御先祖にすがって』と写経を始めたとき、息子にも同じ気持が出てきたのですから、子供の問題も夫の問題も、吾が心一つできまるのだ、とよく分からせてもらいました。私はお父さんの心づくしの品々をとりだし、写経七巻を観音様にお供えしました。美貴男は『ありがとう、ありがとう』といってくれました。
こんな一幕があって、いよいよ、3月の入学試験を迎えました」 「試験のすんだ翌日、美貴男は東京から意気揚々と帰ってまいりました。当時流行の大きな将校マントを着て、白線のはいった一高の正帽をかぶって帰ってきたではありませんか。私は驚いて、『まあ、もう発表になったの?』と尋ねると、『お母さん、何を言ってるの、昨夜試験がすんだばかりじゃないか』という。『だって、あんた正帽をかぶって』といえば『僕は合格だよ、きっと合格だよ』といって、ちょっと小首を傾げて、『でも一番じゃないな、二番だよ』といいました。全くその通り、二番で合格したのでした」
<これが一高生か>
「こんなわけで一高に入学しました。寮に入れておいたので、私は忙しいためだけでなく、全く安心していたのです。一度ひまをみつけて、どんなところに寝起きしているのか、見てきたいとは思っていたのですけど……。
一学期も終りに近くなりました。『今日こそ行って来よう、早く出て、お店のいそがしくならない先に帰りましょう』と家を出たのであります。寮についたら、だれもいないのです。さがし歩いて、美貴男の室をみつけました。入ってみると、どうでしょう。いつ掃いたのか、ふいたことなどあるのか、ないのか、ゴミだらけなのです。『せめて美貴男が帰るまでに少しはきれいにしておきましょう』と思って掃除をしていました。しばらくして同室らしい子が一人はいって来て、『おばさん、何とる』というから『あんまり汚ないから掃除をしている』というと『おばさんいいよ、いいよ。どうせ、また汚なくなるのだから……』というのです。『全くそれには違いないが』とおもいながら吹き出しそうになりました。
『私は美貴男の母ですが、美貴男は今どこにいるでしょう』と尋ねると、その子は目を丸くして、『おばさん、美貴男は今映画だよ。今日はなかなか……日のうちにゃ帰らんよ。おばさん、帰れ、帰れ』というのです。
おどろいて、『あとの皆さんは』ときくと、『みんな映画だよ。おばさん、悪いことは言わんよ。帰れ、帰れ』と吐き出すように言うのです。日のうちには帰らないというのでは、そこにいても、しようのないことです。すごすごと、全くすごすごと引上げたのでした。
寮を出ると、わけのわからない涙がこみあげてくるのです。私は息子を一高に入れた。だから、息子は学校で勉強をしているもの、勉強とは机によりかかって本を読んだり字を書いたりしているも、ときめていた頃であります。今のように新教育者連盟の先生たちがおっしゃって下さる、『子供のすること何でも勉強』なんてことは、ゆめにも思わない頃であります。まして、映画を朝から見に行って、日のうちには帰らないなどときかされたのでは、全く助からないおもいでした。息子は、もう不良の入口に立っているような気がしてきて、涙がこみあげたものであります」
<どの道通っても>
「しかし、こうした愚かな私にも、真理は心の底深くに入れてもらってありました。『そうだ、人間は神の子だと教えられたではないか。どう現われていようとも人間は神の子だ。美貴男は素晴らしい神の子、と観つめる私になりきることだ』と気づかせてもらいました。それから家につくまでの2時間40分、私は心の中に思い続け、叫びつづけました。
『美貴男は素晴らしい神の子です。どの道通ってもよくなるほかない神の子です。ありがとうございます。ありがとうございます……』
言葉の力って、えらいものです。2時間余りも言い続けていたら、先の不安はどこへやら、何かしら安心感が出てきて『あの子は、きっと素晴らしくなる。どの道通っても心配は要らない……』と、うれしい気持さえ出てくるのです。それで家へついた時、主人に『美貴男は、たっしゃであったか』と問われた時、『ハイ、たっしゃでありました』とこたえ『勉強していたか』と尋ねられた時、『ハイよく勉強していました』とこたえることができました」
<映画勉強>
「それから2、3日して、息子がかえって来ました。 『お母さん、来てくれたってね』 『そうよ、あんた、どこへ行っていたの?』 『映画だよ、お母さん、映画はいいよ!』 『そうね、映画はいいね』 『そうだろう、お母さん、僕は一生涯かかって自分の人生一つしか体験することができない。ところが映画を見ていると、ほんの2時間か3時間の間に、何人もの人生を体験することができる』 『そうだね。悪いことをすれば?わるい人生が、よいことをすれば、善い人生がね』 『だから、僕は断然映画の勉強をする』 『なるほど』 『でもお母さん、映画勉強には、お金が要るんだよ。で今日は、そのお金を貰いにきた』 私はおどろきましたが、子供のいうことにも筋が立っているので、一がいに映画はいけないとも言えません。
『では映画の授業料をあげましょう。でも下手にあの時あの金くれなかったら、こんなことにはならなかったのに、などという悔いを残さないようにね』 『わかっとるよ』 息子は、私から金をとると、さっさと出て行きました」
<小説の勉強>
「それから、また、4、5ヵ月は顔を見せなかったでしょう。私は、もう腹をすえて安心していました。『どの道通ってもよくなるほかない神の子さん』と結論だけはしっかりきめさせてもらったのと、当時の一高魂というか、校長新渡部稲造さんの教育方針もいささか、解ってきたので、安心したわけです。
新渡部先生は、絶対の自由主義者でした。同じく勉強しても、『単に成績順位のためや点数のためにするような勉強であったり、親や先生からおしつけられてする勉強に何の価値があるか、よろしく天下国家の柱となる意気込みのもとに、自由にのびのびと自己の自由の尊厳において勉強すべきだ』という、あの先生の教育主張もいささかわかって来ましたし、自由にのびのびとやらせておくと、めったに脱線するものでないことも、生命の教育法を読んでいる間によくわかってまいりましたので、私ものんびりと楽になってしまったのです。
こんなわけで二回目に帰ってきた時には私の方からニコニコ顔で、『坊や、やっぱり映画の勉強かい』と尋ねると、美貴男は右の手を強く前へつき出して『お母さん、映画は卒業』というのです。そして『これからは主として小説の勉強だ。お母さん、小説の勉強も、お金が要るよ。外国の小説だから、値段もなかなか高いんだ。しかし、僕は原語で読む稽古をするために、翻訳ものは読まないのだ。そうだろう、お母さん。一高の英語の教科書なんて、これっぱかり (一センチ位の厚さを指で示して)の薄っぺらなものなんだよ。それぐらいのものを一年がかりでやっていて、英語の力がつくものじゃない。だから、僕は西洋の小説を原語で読んで力をつけるのだ』
「なるほど、それもいいことね」 『でも、お母さん、小説の勉強も、お金がかかるんだよ。今日は小説の授業料をもらいにきたんだ』 『よろしい、授業料はあげましょう。でも、あの時お母さんが、あの金くれなかったら、こんなにはならなかったろうに……というような馬鹿な使い方はするんじやありませんよ』 この時も、私はもう一度前と同じ注意を与えただけでした。
息子は、この前と同じように、 『お母さん、わかっているよ』 とお金をもって出て行きました」
<自殺か>
「しかし三度目に来た時には、さすがの私も、まいってしまいました。たしか高校二年のはじめ頃だったかとおもいます。息子は、青い顔をして帰ってまいりました。そして私の前に坐って、『お母さん、僕はいくら考えても、人間って何のために、この世に生まれてきたのか、どうしても分からなくなった。お母さんが、何のために僕を生んだのか、どうしてもわからない。お母さん、僕は大方、三原山へ行くだろう』と、思いつめた気持を顔にあらわして言うのです。
小説を読んでいるうちに、人生の意義なんてことを深く思いつめて、神経衰弱にでもなったのだとおもいます。こんなふうにいわれると、私も困るだけで、どう答えてやったらよいのか、わからないのです。
『どうしよう、どうしよう』と、胸がドキドキして、何といってやったら良いのか、見当さえつかないのです。でも、日頃の息子の気性を知っている私です。「フーム、そうか。あんたが、どうしても死なねばならないというなら、お母さんはとめない』といいました。そして『ただせめて、あんたが三原山』へ行く時は、お母さんに知らせてちょうだい。お母さんは絶対にとめはしないが、あんたと一緒に三原山について行って、あんたの飛び込むところを見届けて帰りたいのだから』といいました。これには子供も同意して、『では、お母さん、三原山へ行くときは、お母さんに知らせることを約束する』といってくれました。
こんな会話の間にも、私の胸は千々に乱れていました。『神様、仏様、この子が、この世に生をいただいたについては、必ずこの子にも使命というものがあるはずだとおもいます。どうぞ、この子がその使命に目覚めて、今のこの気持をおもい返してくれますように』と祈り続けました。そして、日頃息子のすきな果物などをたくさん前に並べて、『これもおあがり、あれもおあがり』とすすめました。子供はかたっぱしから食べてくれました。それで私は『美貴男、おいしいかい』と尋ねると『おいしい』と答えるのです。『こんなに、おいしいものがあっても、やっぱり死なねばならないの』というと、『お母さん、僕がせっかく人生に疑問をいだいて、一所懸命求めているのに、こんなおいしいもので誘惑され、堕落するようなことにでもなったら、つまらないから僕はもう帰る……』といって、東京へひきあげてしまったのです」
<再び神様にすがって>
「それからの私の朝夕は、再び神にすがり、仏にすがって、『あの子の上に祝福をたれたまえ』と祈りました。どんなにあせっても、私の力では息子の心をどうすることもできないのです。しかし神仏のお力にすがった時、その祝福をいただけることは、もう何度も何度も体験ずみです。あらためて、信仰の世界を知らせていただいた幸福に泣けました。しかし東京へ引きあげた子供からは、何のたよりもありません。まさか、だまって三原山へ行くようなことはあるまい、たとい黙って行こうとしたとて、旅費も要ることだから、などと考えておりました。
そのうちに、暑中休暇が来ましたが、それでも帰ってきません。ようやく、夏の休みも、もう数日で終わるという頃、信州のある町で投函したらしい一枚の葉書が配達されてきたのです。それには、あれからある禅宗のお寺にはいって坐禅を組んだこと、ただ今は信州のある田舎を托鉢して巡っていることなどが書かれてあったのです。やっぱり、仏のお慈悲に救われていたのです。
うれしき有難さに、涙がとめどもなく流れました。主人も涙をながして、『そうか、坐禅か。俺もよく坐禅を組んだものだ。しかし托鉢の行は、なかなかやれなかった。よくやっているな』と感歎してくれました。まあこんなことで死ぬわ生きるわの問題も、どうやら卒業させてもらったのでした」
<酒の修業>
「さて、次は何の修業であろうかと眺めていましたら、お酒の修業でした。それは一高の三年の時であったか、それとも四年になってからであったか……もうだいぶ月日がたつので忘れましたが、ともかく、ある休暇に帰って来た時のこと、台所でコップ酒をあおっているのですが、なかなか飲みっぷりが良いのです。(私は旅館をしていますから、台所には常にお酒があるわけです)それで、私は息子に言いました。
『坊や、そんなところで立ち飲みのようなけちな飲み方はやめて、同じ飲むなら座敷の真中で、お父さんと一緒に堂々と飲んだらどうや?』『そうか』といって、座敷の真中で飲むようになりました。休暇もすんで、東京へ帰りましたが、帰って20日ほどすると、一通の葉書が届きました。それには『母さん、学校へ行く途中の酒屋に20円ほどの借りができた。それが返せないので、この頃は学校へ行くこともできずに、宿で主として蒲団をかぶってねている』といったようなことが書いてあったのです。それを私は強く叱ってやりました。『何だ、男一匹、20円そこそこの借りで、青空を見ることもできずに、蒲団をかぶって寝ているとは何事です。今は、お母さんが払ってあげるから良いようなものの、だれも払ってくれるものがいなかったら、一体どうする気か。以後そんな馬鹿な借金はするものでない』といってやりました。
その次に来たとき、私が例によって、『やっぱり、お酒の修業かい』といったら『お母さん、お酒は卒業』といったのには、早いのでおどろきました。きいてみると、こうなんです。
『お母さん、僕はお酒は飲むけれども、お酒には飲まれまいと思っていた。しかしある時、えいっ、同じ飲むなら一度や二度、飲まれるほどのんで見ようと思ったのです。そして飲みました。のんで、のんで、ぐでん、ぐでんになり、前後不覚になって、ねてしまったのです。ところが目をさましてから、おどろいた。お母さん、酒は、みだれるね。僕は酔っぱらって暴れまわったらしいのです。竹箒をもち出して、それで糞壺をかき回し、それをもって室々でふり回したというのだから、たまったものでない。みんな怒って僕を袋だたきにし、糞壺へおしこんで半殺しの目にあわせたんです。もう、こりこりだ。酒は卒業だ』ということになったのです。こんなことで、お酒の卒業と同時に一高も卒業させてもらいました」
<東大時代>
「東大にはいってから間もなく『すきな女性ができたから、結婚をさせてくれ』というのです。『それでは、お母さんも一度会って見なくちゃ』といって、一度あって見ました。あってみると、良い娘だっだので、後に結婚させました。しかし、その嫁に早く死なれたりしたので、またダンスホールの方へも授業料を相当払わされたりしましたが、その後出身大学の教授として真面目に働いていてくれるので、やれやれと思っています。何分にも難しい息子でした」
<パチンコ>
「おもい出すと、いろいろのことがありますが、はじめて月給をもらった時、たしか二晩か三晩帰宅しないのです。私たちも、はじめてのことでしたから、月給をもらったとは知らないのです。その留守中に、新聞記者が来ました。それで嫁が『主人は、きっと何か学校で研究をしているので忙しいのでしょう』と答えていました。
ところが、実際はどういたしまして……たしか70円だったかと思いますが、その月給のある間、その頃はやり出したパチンコ屋へ入りびたっていたのです。スッカラカンのフラフラになって帰って来て、言うことがふるっているではありませんか。
『お母さん、パチンコ屋は、20円以上もって行くところでは絶対ないね』ですって。ほんとに、とんでもない話をさせていただいてありがとうございました」 痛快な秀才さんではありませんか。
Tさんの場合は、個性のはっきりした優秀児の育て方と考えてよいと思います。Iさんは、子供に引き回されてきたといっていられます。この子供に引き回されてきたという言葉のなかに、実に尊いものがあります。大体、教育の型としては、禁止型、放任型、協力型の三つがあるようです。
禁止型というのは、何でも親のおもうように育てたいというもので、「こうしちゃいけない、ああしてはいけない、こうしなさい、ああしなさい」と、たえず説教するタイプです。
反対に、何でも子供のいいなり放題に甘やかして育てるのが、放任型です。不良児といわれるのは、この二つの型から出るようです。
Iさんのようなのは、協力型です。引きずり回されるといっても、放ってあるのではない。子供を信じて、子供を見つめて、子供にふりまわされているようでいて、実はそうでない。太公望が大きな鯉をつりあてた時の姿にも似ている。魚ににげられないように、つり竿を折られないように、魚の元気な間は、どこまでも引きまわされているようで、しかもだんだん手元に引きよせ、遂に思う壷に入れるのです。それと同じように、Iさんの態度は、実にすばらしい知恵と愛とに導かれた態度です。
しかも、その知恵と愛が正しい信仰に支えられているのですから、まさに鬼に金棒です。だから、私は家庭に正しい信仰をもたれるようにと祈らずにはいられないのです。
協力型とは、その時その時に子供が興味をもってやっていることを、その問題に対する勉強の時間として協力してやることです。子供だけでなく、広い意味では人間は一生涯、勉強がたのしいのです。子供が野球に興味をもっている時には、親も一緒にバットを振らなくとも、せめて一緒に野球の放送に耳をかたむけたり、食後のひとときに野球の話に花をさかせたりしてやることです。
Iさんは忙しい仕事をもっていられるので、そうした時間はなかったようです。それでいて、協力の実は十分あげていられます。 「子供のいうことにひとまず賛成」 という態度です。どんなことに対してもひとまず賛成する。美貴男さんが三原山へ行くかもしれない、というような時さえも、「あんたが、どうしても行かねばならないというなら、お母さんはとめない」といっていられる。これなどは、まねのできない姿です。この態度にグイと引きつけられて、子供は自分の内なる真実の声に耳かたむけるほかなくなるのです。
こんな時、下手にお母さんが、「お前は、どうしてそんな馬鹿なことをいうか、親が丹精して育ててきたものを」と自己中心の愚痴をいったりするものですが、そんなことでは、子供からつっぱなされてしまうのです。何事もひとまず「そうか」ときいてやる。これが一切の問題解決の秘訣です。
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