| [442] インターネット道場 ―――感激的体験記 ・ 大山昌平先生 「光の行くところ闇はなし」 <その五> 「道は開ける」より |
- 信徒連合 - 2015年09月05日 (土) 09時04分
インターネット道場 ―――
感激的体験記
大山昌平先生
「光の行くところ闇はなし」
<その五>
「道は開ける」より
5. ルンペンも取り越し苦労をする
昭和二十六年ごろ、私が神戸の教化部道場にいたときに、一人のルンペンがやって来て、この道場に今晩泊めてくれという。
私は、「ここは旅館ではないんだ。人を泊めるなんていうことはどこにも書いてないはずだ」と言うと、「いや、その入り口のところに、ちゃんと書いてある」「いや、そんなことはない。誰かがいたずらに書いていなければ、この道場には、そんなことを書くわけはない。君、それを全部しっかり読んで来たか。もういっぺん出て、よく読んで来なさい」と私は言った。
というのは、その教化部道場の入口に、“真理を求める者はご自由にお入り下さい”とは書いてあるが、泊めてやるなどとは書いてないはずだと思ったので、もう一度読んで来いと言ったのである。
ルンペンは入口へ戻って見て来てから、頭をかきながらはいって来た。私は、「それ、泊めますなどということは、どこにも書いてないでしょう。何と書いてある?」「“自由にお入りください”と書いてある」「“自由にお入り”だけじゃなく、その上にちゃんとわけが書いてある」「“真理を求める者は”と書いてあった」「そうだろう。だから君は、真理を求めなければ、入って来る必要はないから、帰りなさい。どうだ」というと、「真理を求める」と言うので、「求めるなら、はいって来なさい。そして道場へ行きなさい」神戸の教化部道場は二階であったが、二階へあがるようにいうと、
「そんなら、おっさん、これをあずかってくれ」と言って出したのは、空の炭俵(すみだわら)である。
これにルンペンはいろいろのものを拾って入れるわけなのだが、それを私に預かれという。私は、「そんなものは誰も持って行く人はないだろうから、そこへ置いて行け」と言ったところ、「いや、預かってくれ」と言う。「そうか、そんなら仕方がない。よし、あずかった」と言ってポンと隅へ置いた。ルンペンは上へあがって行った。
私はその時、預かった炭俵は、私から見たら無用の炭俵だけれども、ルンペンから見たら、それは命のつぎに大切なものかもしれないと思った。
すると自分の大切なものを預かってくれと言うのは当然のことなのだ。そしてまた、私どもより以上の人間が私どものことを見たら、私どもはまた、たいして大事でもない物を、大事だ、大事だと言っているかもしれない――とおもった。
それはそれとして、炭俵をそこへ置いて上へあがったルンペンに、私は、「君の名は何という」と聞くと、「ぼくは、本山(もとやま)という」と答える。
「終戦後、復員して来て、もとは九州の人間なんだけれども、流れ流れて結局神戸へ来た。ここではルンペンなら何とか生活して行かれる」と言う。彼は“生活”というけれども、われわれから見ると、ただ“死なないで生きて行かれる”というだけのことを“生活”と言っているようである。
ともかく、“生活”して、もう神戸へ来てから六年になる、という。「君、こういうルンペンの生活が好きだと思ってやっているのか」と聞くと、「いや、別に好きというわけではないが、もう、これをやめたら、やることがなんにもないんだから、それでやっているんだ」という。
「ほう。君、ルンペンというのは、人間生活の何かの一つの仕事とおもってやっているのかも知れないが、これは、本当は人間の仕事ではないんだ。・仕事というものはね、それをしたことによって何か世の中のためになるので、報酬が与えられるものなんだ。ところが君のやっているルンペンというのは、たいして世の中のためになりはしないし、報酬というようなものは、なにもないんだ。そんなものは仕事じゃないんだよ。君は仕事を、ルンペンをやめたら何ができるかというけれども、
ルンペンというには、この湯呑みでいえば、底のようなものだ。底より下はもうないんだ。何かの仕事というものはみんなそのルンペンの上にあるんだから、何かやれれば、ルンペンよりはいいことができるんだ。ルンペンをやめて、それ以上の何かの仕事をやるという気持になりなさい」と私は言った。
すると本人は不承不承であったが、「ルンペンよりいいことがあるなら、やっていい」「そんな生半可(なまはんか)な、いいかげんな気持で“やってもいい”じゃなく、“やるんだ”という、しっかりした覚悟をしなければだめだ。
君は、復員して来たというから、もとは軍人だったんだろうが、軍人になって戦地へ行くときに、君らはどういうふうにして行ったか。故郷で家族や知人などに送られて、日本軍人として戦地へいくについての宣誓をして、君は行っただろう。“私は帝国軍人として恥かしからぬ行動をいたします。日本の国のために、天皇陛下のために、日本国民のために、立派に働いてまいります”という誓いを、たいていは神社などの送別の席で、一言挨拶して出発したろう。
そしてその通りの行動を戦地に行ってして来たはずではなか。そのように、“これから、自分の人生の再出発だ”という宣誓をしなさい。ここで今しなさい。“もう私は今からルンペンはいたしません。何かの仕事を真剣にやります”と言いなさい。ここに生長の家の大神様がいらっしゃるから、ぼくに言うのではない、神様にそれを誓いなさい」そう言うと、本山君は、それでは宣誓をします、という。
そして、「私はこれからルンペンをやめて、何か立派な仕事をします。誓います」と、少したよりない声ではあったが、言った。
「それでは、もうここにいる必要はないから、出て行きなさい」「出て行けって、どこへ行くんですか」「どこへ行くか、そんなことは知らない。君の行きたい方へ行ったらいいだろう。君が行くんだよ。ぼくが行くんじゃない。表へ出れば、どちらへでも道は開けている。右でも左でも、好きな方へ行きなさい」そういうと、彼は二階から降りて行った。そして下に置いてあった、あの炭俵を指差して、「わしはもう、きょうからこれをやめたから、これをあんたに記念にあげる」と言う。
そんなものはもらってもしようのない物だが、しかし彼にとっては、今までの大切な財産であった。その大切な物を、お礼のつもりで私にくれるといったのかも知れない。
本山君は道場から出て行った。ガラス越しに見ていると、それからしばらく右を見たり左を見たりして立っていた。右の方へ行けば街が続いており、左の方へ行くと役所などがあって、商店などはない。どちらへ行くだろうかと見ていると、やがて、右の方へ、とっとと歩き出した。右の方には会社や商店などがあり、その先は海岸に至っている。私はしばらくその男を見送っていた。
それからあとのことはわからず、そのままになっていた。それから二週間以上たったであろうか。ある日のこと、大勢の人が道場に出入りしていたが、私がちょうど玄関のそばで用事をしていると、一人の男が戸をあけてはいって来た。
それは、姿かたちは変わったが、二週間ほど前に見たルンペンの本山君で、今度は背広を着てやって来たのであった。前は破れた地下足袋をはいて炭俵をかついで来た彼が、今日は、靴をはき、背広を着てはいって来たのである。
私がいるのを見ると、そばにやって来て、前には私のことを「おっさん」と言った彼が、私の前にみえた頭をペコペコと下げ、「先生、先生」という。前のルンペンのときからあまり日もたっていないその間に、私は前と変わりはないつもりだが、その本山君から見たら、前には“おっさん”の程度にしか見えなかった私が、今度来てみると、“先生”に見えた――ということは、結局、自分の何ものかが自覚できてくると、その程度にしたがって、相手に対する見方も変わってくる。
自分が高まって、自分がすばらしくなると、相手も高まってすばらしく見える――ということを、この本山君はそのとき如実に表現してくれたのであった。そうして話してくれた本山君の話は、こういうことであった。
あの日、右の方へまっすぐに行ったら、今までルンペンであった時とは、見るものがちがっていた。ルンペンが見るものは、人の捨てたものとか、ごみ、廃品であって、それ以上のものは何を見ても、自分の世界とは縁のないものだとして、心にとまらなかった。
そうして六年間もごみ箱などばかりを見ていた本山君が、ルンペンをやめたので、顔を上げて街を歩いた。すると、行った先には、沢山の回漕店がある。そしてどの回漕店にも、入口のところに“沖仲士募集”の看板が出ている。沖仲士というのは、沖に出て、本線とはしけの間に荷物の積み下ろしをする人夫のことである。これをやる人がなかなかいない。それは危険でもあるし、仕事のうちではあまりいい仕事ではないからであろうが、しかしともかくそれは仕事の一つである。
その沖仲士を、看板に書いて募集していたのだが、本山君は今まで長い間、その前を通りながらも、目に映らなかった。ところが今、ルンペンをやめて、上を見て歩いたので、その看板が目についたのである。そこで本山君は、俺もひとつその沖仲士に使ってもらえるかどうか、聞いてみようと思い、一見の回漕店にはいって話してみると、それなら今すぐからでも働いてくれ、とたちどころに沖仲士に採用してもらった。
本山君は、すぐに船に乗せられて、沖の仕事に行った。それはただ荷物を上げたり下したりする仕事であるから、誰でも体が健康でありさえすれば、やれる仕事である。本山君は、その日そうして仕事をして、帰るとき、「また明日も来ます。今日はこれで」というと、それでは日当をやるといって、今まで六年間ルンペンをしているときには一度ももらったことのない日当を五百円もらった。
それまでは、ルンペンを一日朝から晩までやっても、拾い物を金にして、百五十円くらいが関の山であった。それは、その日一日の食い賃にみんな使ってしまうので、家の中に泊まるような余裕はなかった。五十円か百円で泊めてくれる簡易宿泊所などもあったが、そういう所にすら泊まれない。
ところが今、沖仲士をやったら日当を五百円もらった。そこで五百円のうち百五十円を食費にあて、あと三百五十円をふところに貯金した。寝るのは今まで通り、神社の軒下などに無賃宿泊をする。そうして毎日、沖仲士に行って働くと、大体五百円は日当にもらう。それを貯めて、古い背広の洋服や靴を買った。
それは、屋台車でそういう人たちを相手にいろいろな古物を売って歩いている商売人があるので、そこで買った。その背広を着て、私のところへお礼を言いに来た――というのであった。
その後も、本山君は真剣に沖仲士をやっていたところが、そこの回漕店で非常に重宝がられて、だんだん出世をし、仲仕頭(なかしがしら)というのになった。次は会社の事務の仕事をさせられるようになった。その頃、私は神戸の教化部道場からほかへ転任になったので、その後のことはよくわからないけれども、あの気持で続けて行けば、本山君もすばらしい人生を送っているものと信じている。
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